第一話
フィナが《派遣おそうじ クリーニングポニー》に入った理由は、わざわざ語るほどのものではない。
端的に言えば、冒険者をやめた。次の仕事がたまたまこれだった。
より正確に言うと、酒場で途方に暮れていたら、背後から肩を叩かれたからである。
『うち、人手足りない。潜って掃いて帰るだけ』
声の主は、後に直属の上司になる男――主任のホシノ(38歳)。
第一印象は、眠そうな人。
寝癖で跳ねた黒髪、雪みたいに白いマスク。まばたきは遅く、更に半分閉じている。黒いツナギの腰には色とりどりのゴム手袋。
◆
「今日は三件」
「……わたし初日なんですが」
「溜まると面倒」
「わぁ……」
一件目は、街外れの丘の裏に口を開ける小型ダンジョン。
現場までは徒歩と手押し台車。台車にはモップや箒など、掃除道具がきれいに並んでいる。武器の類はない、掃除道具だけ。これがルールらしい。
仮にこの時間通行人がいれば、ただの夜間清掃員に見えるはずだ。
入口脇の《危険・立入禁止》札を横目にダンジョンへ進んでいく。
浅層通路で突如止まり、台車から道具を取り出した。
ホシノが手に持ったのは、ごく普通のモップ——に見えるが、柄のすぐ下に小さな銀色の筒が取り付けられていた。
「それは?」
「先端に《グライドク吸着液》が仕込んである。血や金属粉、油膜を絡めとるやつ」
「へぇー!」
ホシノが袋を放る。
「拾い物係、新人の仕事だ。拡張袋、落とすなよ」
「了解です──わっわ!」
言い終える前に、ぬめった地面に足を取られ、フィナはすってんと転ぶ。膝がぬるい。赤茶色の水たまりが、ゆっくり広がっていた。
「……ワイン?」
「んなわけあるか。《ヘモサラマンダー》の血、完全乾燥前だから滑る。浅層では珍しいな」
ホシノはモップの銀筒部分を一度軽く押し、先端の布に緑がかった液を滲ませる。軽く撫でる動きだけで、厚めの血膜がぺりっと剥がれ、布に吸われていく。
剥がした後には、淡い燐光のようなものが残っていた。
「血は染みると《腐食胞子》が湧く。拭くの手伝え」
フィナが布で地面を擦ると、鉄臭さと共に甘い匂いが混ざってくる。血に長く含まれた魔素が酸化して出る匂いだ。
布を二度三度変え、ようやく石肌本来の灰色が戻る。
「はぁ〜……落ちるもんなんですね!」
「そりゃ落ちなきゃ困るだろ——あれ」
暗がりの奥を見つめたまま、ホシノが通路脇にある壊れた木箱を指差す。近づくと底にはうっすら黒い粉末——乾燥し潰れた魔甲蟲らしい。それと硬貨が何枚か。フィナは拾って律儀に袋に入れる。
「それ終わったら奥の通路。木箱持ってこい」
「壊れたやつですか?」
「木製は燃えるから。腐肉処理用」
冒険者時代には見向きもしなかったものばかり。壁のランプに揺れる自分の影が、木箱を抱えているのが不思議だった。
◆
浅層をハイスピードで掃除した後、廃村にある共同浴場に移動。浴槽の奥にダンジョンが続いている。
台車の車輪がタイルの上で小さく音を立てた。
ダンジョンに入ってすぐ、浴槽の縁は《魔藍苔》が固着し、ところどころ白く結晶化している。
ホシノは腰ポーチから細長いガラス瓶を一本取り出す。中は淡い青の液体。
「《イドク硝酸銀精》、苔と石鹸滓を同時に落とす。金属部には使うな」
苔の帯にそっと垂らすと、シュウ…と泡立ち、苔ごとぴろりと剥がれる。
フィナはそれを刃の丸いスクレーパーで受け取り、《封菌袋》に押し込む。
袋の内側は薬剤で満たされており、入れられた有機物はすぐに分解が始まった。
一つ下層の広い空間には宴会の名残――骨、潰れた木皿、革鎧、割れたタイル、生ゴミ。
「宴会跡は《魔甲蟲》が湧く。早めに片付け」
「はい」
宴会跡は複雑だ。骨は獣のものと、二、三割は人骨で、噛み痕の深さが違う。
タイルに付着した透明の膜は、《涎狼》の唾液に含まれる《カルチル酸》の固化物で、水だけでは落ちない。
ホシノは粉末薬——《シトライドク灰》を少量撒き、数呼吸待ってから布でこそげ取っていく。
しゃがんだ拍子に、革鎧の内側に小さな封筒を見つける。油シミだらけで、宛名は『親愛なるあなたへ』。
「主任、これ……」
「記録係行き。中は開けるな」
「気にならないんですか?」
「気にして止まったら終わらない」
そう言って、《防魔布》で包み、タグには《魔素残滓・鑑定要》と記したホシノは、バケツを持って奥へ消えた。
フィナは黙々と、革鎧、割れた鍋、生ゴミ、誰かの髪飾り。拾って拾って、また拾う。
ときおり遠くから水の音や金属音が響くが、二人は気にしない。
◆
三件目。市場裏の路地。板を一枚はぐと、そこから地下へ続く石段。
ここも浅層なので徒歩。通路が狭いため台車は裏口に置き、道具だけ手に持って降りる。
階段を降りきると広間。床は乾ききった泥の足跡だらけの広間。
「泥には二種類ある。外から持ち込まれた普通の土泥と、魔物由来の《腐泥》」
前者は掃き集めて捨てるだけで済むが、腐泥は薬で中和が必要だと言い、ホシノは腰の小瓶から赤茶色の粉を指先でつまみ、腐泥と思しき濃色部分に振りかける。
「《イドク赤胆塩》。魔素ごと固められる。乾いたら割って捨てろ」
「了解です」
「泥以外は捨てるなよ」
泥に混じって細かな木片や、豆粒のような物。拾い上げると、それは本当に豆だった。ところどころ歯型がある。
「主任、豆出ました」
「ダンジョンに喰わせるもんはねぇ……燃えるゴミ。まとめておけ」
壁の低い位置では擦れた跡が帯状に広がり、《蛍砂胞》が点々と光っていた。
「これは放置すると夜間に飛び散って発光粉を撒く。《イドク硫漬布》で一帯を拭き落とす」
拭くと布がじわりと熱を持ち、胞子が球状の黒い滓に変わった。
その調子で作業を続け、地上に戻ると空が白くなり始めていた。フィナの袋はずっしりと膨らみ、靴底にはまだ薬品の匂いが残っていた。
市場の人々はそんな足音に気づきもせず、一日の仕込みを始めている。
「ふー……けっこう足にきますね」
「慣れる」
「……明日も三件ですか?」
「可能性は高いな」
短いやり取りのあと、二人は台車を押しながら事務所の方へ歩き出した。
拡張袋の中の拾得物、重さを感じないのに重く感じる。フィナはふと、これからどれだけの階層を掃除することになるのか、ぼんやりと想像した。




