第五部 暁のあと、君と生きる(あれからと、それから)
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第一話「夢に堕ちる」
──矢野蓮の視点
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焼けるような赤が、空を染めていた。
風がないのに、煙が渦を巻いていた。
遠くから聞こえるのは、馬の嘶きか、人の断末魔か、判別がつかない。
すぐ横で、仲間が膝をついている。腹を抑え、血をこぼしていた。
その傍で、自分自身もまた、肋骨複数本の骨折と足に深い裂傷を負い、まともに立てていなかった。
──そして、目の前にいた。
「下がっててください。あとは、俺がやる」
白い布をまとった男が、こちらに背を向けていた。
肩に結んだ布は戦場の土埃にまみれ、裾にはすでに何人分もの血がしみこんでいる。
……それでも、その姿は背筋が伸び、まるでひとり舞うように、静かだった。
「静……」
名を呼んだつもりだった。けれど、声にならなかった。
彼が歩き出す。
その背に、追いつけない。
彼の周囲だけ、音が消える。
そして、斬撃の音だけが、世界を支配する。
無数の敵兵が、四方から押し寄せてくる。
──それでも彼は、止まらなかった。
まるで、“生き残る気がない”者のように。
いや──違う。
“自分だけが生き残る気がない”者だった。
刀が一本、真横を駆ける。
視界の外で、何人かの敵が叫びを上げる。
もはや、それが人の動きとは思えなかった。
彼の剣は、まるで感情をもっていた。
怒りでも、憐れみでもなく、ただひたすらに「通さない」という意志だけがあるようだった。
矢野は、地に伏したまま、見ていた。
目をそらすこともできず、声もかけられず、ただその“背中の理由”を知ろうとしていた。
敵兵の叫びが次第に遠のいていく。
地面が真っ赤に染まっていく。
風が吹く。
──そして、彼は、姿を消した。
いつの間にか、そこにいたはずの沖田静の影が、跡形もなくなっていた。
誰かが、「沖田は? 沖田はどこだ!?」と問い、
誰かが、「……見失った」と答えた。
山のほうから吹く風に、白い布の切れ端が舞っていた。
その一端には、乾いた血が付いていた。
声にならない叫びが、胸の奥で膨らんだ。
なぜだ──なぜ戻ってこなかった。
どうして、生きていたのに。
どうして……
──目が覚めた。
息が荒く、Tシャツが汗で濡れていた。
矢野蓮は、寝起きのまま、しばらく天井を見ていた。
外はまだ夜だった。
カーテンの隙間から、淡く該当の光が漏れている。
喉が渇いていた。
水を取りに立ち上がろうとして、左足に違和感が走った。
──夢の中で、射られた場所だ。
矢野は思わず左足を押さえた。
もちろん、傷はない。皮膚は冷たく、なめらかで、何の痕も残っていない。
だけど、“感覚”が残っていた。
そこに矢が刺さったこと。血が流れたこと。倒れた仲間の叫び。
そして、立ち上がった彼の背中。
「……全部、覚えてる」
呟いた自分の声が、やけに遠くに響いた。
夢にしては、あまりに詳細すぎた。
名前を知らない敵兵の顔も、誰がどこで倒れたかも、手触りのように思い出せる。
──いや、違う。
これは、夢なんかじゃない。
「……記憶、なんだよ」
ふっと息を吐いた。
額を押さえ、背中に残る汗の冷たさに身震いする。
静は、あの夜……
戦場に残された俺たちを護るために、ひとりで敵の群れに向かっていった。
そして、致命傷を負い、戻ってこなかった。
「死体を、見てない」
それはずっと、仲間内で語られていた事実だった。
「沖田さんは、どこかで、まだ……」
「いや、死んだに決まってるだろ」
「じゃあ、どうして遺体がなかったんだよ」
静の“死”は、口々に語られたけれど、誰も見ていなかった。
その理由を、矢野はようやく知った気がした。
──静は、“英雄”になるのが、いやだったのだ。
あれだけ戦い、守り、血を流し、何十人という敵を斬り伏せたあの夜。
もしそのまま死体が見つかっていたら、彼の名は「英雄」として後世に残っていたかもしれない。
語り継がれ、称えられ、伝説となったかもしれない。
でも、彼はそれを拒んだ。
自らの最期を、歴史の中に“残さない”ことを選んだ。
彼の贖罪は、生き延びることでも、堂々と死ぬことでもなかった。
ただ──“忘れられる”ことだったのだ。
静かに、無名のまま消えること。
それが彼の「けじめ」だったのだと、ようやく理解できた。
「……バカ野郎」
思わず、声に出た。
喉の奥が焼けるように熱く、目の端がにじんでいた。
矢野は拳を握ったまま、じっと天井を見ていた。
そのとき、外の空が、ほんのわずかに青みを帯びていた。
夜が、明けようとしていた。
「……だったら今度は」
今度は俺が、お前を“連れ戻す”番だ。
どんなに過去に罪があったって、今生きてるお前は、“それだけじゃない”。
──お前は、俺たちの静だ。
そう言えるようになるまで、
ちゃんと、向き合うから。
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第二話「語る勇気」
──矢野蓮の視点
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眠った気がしなかった。
まぶたを閉じても、あの背中が浮かんでくる。
刃を振るい、ただ一人で、何十という敵に向かっていった静の背中。
呼び止めても振り返らず、返事をしないまま、闇の中へ消えていった姿。
──目覚めた今でも、指先が震えている。
制服の袖を通しながら、何度か深呼吸をしてみたが、震えは止まらなかった。
自分があの戦場にいた、という感覚が、まだ皮膚に残っている。
夢じゃない。あれは、俺の記憶だ。
そしてあの戦場の結末を、俺は“知らなかった”。
いや、見ないようにしていた。
「……行ってくる」
自宅のドアを出る直前、矢野は小さく呟いて足を踏み出す。
今日、話さなきゃいけないことがある。
あれは俺に見せられた“責任”だ。
朝の通学路、風は乾いている。秋のにおいがする。
坂を上っていくと、いつものように校門の前で立っている人影があった。
──沖田静。
制服の上に羽織ったセーターの裾をなびかせ、校門の外に寄りかかるようにして立っている。
彼の姿は、どこか“別の時間”に属しているように見えた。
「……おはようございます」
静が、ゆるやかに頭を下げる。
矢野は「おはよう」とだけ返した。
「早いな、今日は」
「昨日ちょっと眠れなくて。……いや、よく眠れたのかもしれませんが」
「そっか……俺も、似たようなもんだよ」
──沈黙が流れる。
今までは、この沈黙が心地よかった。
だが今日は、違う。
「……静、少し話せるか?」
「はい」
校舎の裏手、人気のないベンチ。
掃除用具入れの裏側に、朝の光が差している。
ふたりで並んで腰を下ろしたあとも、言葉は出てこなかった。
矢野は、指を組んだまま何度も爪を押し、ようやく切り出した。
「──昨日、夢を見た」
静の指がぴくりと動いたのを、矢野は見た。
「お前が……俺たちを守るために、一人で敵の中に突っ込んで、戦ってた。
誰よりも冷静に、誰よりも速く、誰よりも静かに。……あのとき、俺は怪我して動けなかった。お前の背中しか、見てなかった」
沈黙。静は何も言わない。
「……お前は最後、戻ってこなかった」
風が吹いた。
静の髪が揺れる。
まるで、なにかを振り払うように、彼は目を細めた。
「夢の話、ですからね」
「……記憶だ」
「そう、ですね」
それだけ言って、また口を閉じようとする静に、矢野は続けた。
「でもさ。わかった気がしたんだ。
お前が戻ってこなかったのは……きっと、もう立てなかったんじゃなくて、“戻らない”ことを選んだんじゃないかって」
静が、ゆっくりと矢野の方を見る。
「英雄として死ぬのが、いやだったんだろ?」
矢野の声は、静かだった。
「たしかに、お前は何十人も、何百人も、もしかしたら千人以上、斬った。けど、その全部が、俺たちを守るためだった。
もしお前の遺体が見つかってたら、あの夜は伝説になってた。
“鬼神”とか、“白装束の剣聖”とか、そんなふうに──でも、お前はそれを選ばなかった。自分の手で“無名”を選んだ。……そうなんだろ?」
沈黙。
だが今度は、静が口を開いた。
「……それでも、やっぱり僕は“殺した”んです。
守るためとはいえ、人の命を奪った。
あれを“誇り”にしてしまったら、きっと、僕は僕でいられなくなると思ったんです」
矢野は、ぐっと唇をかんだ。
「それでも、俺たちはお前に命を助けられた。
俺は、お前の背中に“祈った”んだ。……生きててくれ、って」
静は、黙っていた。
けれど、その目の奥には、言葉にできない葛藤が渦巻いていた。
「なあ、静。お前、今も苦しいか?」
「……ええ。過去がある限り、きっとこの苦しさは消えません。
でも、苦しさは“自分で選んだ道”に必要なものだと思っています。
だから、逃げたくないんです」
矢野は、それを聞いて、ようやく頷いた。
「そっか。じゃあ──俺は何も言わねえ。尊重する」
「はい」
「でも、たまには……逃げ道くらい、作っとけよ。俺が、そこにいてやるから」
ふっと、静の肩が揺れた。
「……それ、助かります」
秋の光が、ふたりの足元に差し込む。
空が高く、風は涼しい。
静かに、“語られることのなかった戦場の記憶”が、今、少しだけ誰かと共有された。
「ありがとう、矢野くん」
その声は、戦場にはなかったものだった。
血に濡れた夜にはなかった、救いのような声だった。
──ふたりは、ゆっくり立ち上がった。
これからも、過去は背中にある。
けれどそれでも、今は、隣を歩ける。
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第三話「沈黙の返答」
──沖田静の視点
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柔道場の隣にある小さな剣道場。
放課後になると、誰かしらが板張りの床に音を落とす。
今日の音は、自分ひとりだけだった。
部活は休み。道場は無人。
鍵を借りたのは朝のうち。矢野には何も言っていない。
体育館裏から入るとき、夕陽が西の空に差しかけていた。
秋の光は、斜めに入り、床に長い影を落とす。
静は、道着を着るでもなく、制服のまま竹刀を握った。
構えはとらない。面をつけることもしない。
ただ、握る。
指にかかる圧。掌に沿う丸い柄の感触。
それを確かめるように、静かに立っていた。
「……あの頃と同じだ」
呟いた言葉は、誰にも届かない。
竹刀の重みが、あの頃の“刀”と重なってくる。
音が消えていく感覚。自分の呼吸だけが際立つ感覚。
一太刀、一歩、踏み出すたびに、あの夜の風景がよみがえる。
──守るための剣。
それは確かに、そうだった。
誰よりも速く、誰よりも深く、誰よりも多くの命を奪った。
けれど、全部、自分の意志だった。
「矢野くんが……夢を見たって、言ってたな」
まさか彼が“そこまで”思い出しているとは、思っていなかった。
同じ夢――沖田にとっての最期の夢を見たことがある者に、初めて出会った。
それだけで、少しだけ、息がしやすくなった気がした。
──けれど、語ることはない。
自分から語るつもりは、ない。
過去は、見せるものではないと思っている。
見えてしまったなら、それをどう受け止めるかは、相手の自由だ。
それでも、矢野は言った。
「逃げんな。でも、逃げ道は作っとけよ。俺がそこにいてやるから」
あの言葉が、剣のように胸に刺さっていた。
戦場では、誰もそんなふうには言ってくれなかった。
“生き延びてくれ”と祈られることはあっても、“逃げ道”を与えてくれる者はいなかった。
──いや、違う。
自分自身が、そういう声を拒んできた。
本当の意味で、誰かに背中を預けることを、しなかった。
「全部、自分でやらなきゃって思ってた。……ずっと、ずっと」
竹刀を静かに床に立てた。
掌に残る、うっすらとした震え。
あれは、敵への恐怖ではなく、自分への“不信”だった。
「……僕は、自分の剣を信用していなかったんだ」
何のために斬るのか。
誰を、何を、守るためなのか。
それが最後まで、確信に変わらなかった。
だから、英雄として祀られることが、どうしても耐えられなかった。
そうなれば、自分の剣が“誇らしいもの”に変わってしまう。
それが、怖かった。
「僕は、“誇れるような人間”じゃないんです」
そう、何度も思った。
だからこそ、自ら記録に残らない死を選んだ。
“生き延びた者の記憶”にしか残らない存在でいいと、思っていた。
だけど──
「今の僕は、どうなんだろうな」
問いかける相手はいない。
矢野も、母も、先生も、誰もこの道場にはいない。
けれど、彼らの“声”が、記憶のどこかで残っている。
──「お前の剣は、優しくなったな」
あのとき、道場で矢野が言ってくれた言葉。
それがずっと、胸の中にあった。
“剣は、優しくなった”
それは、今の自分がようやく掴みかけている、もう一つの「意味」なのかもしれない。
「守る剣に、誇りはなくていい。
でも、意味は持たせたい。……それだけは、失くしたくない」
竹刀を静かに握り直し、構えを取る。
ゆっくりと、踏み出す。
気合いは張らない。ただ、確かめるように。
──面。
木霊するように、自分の声が響く。
竹刀が宙を切る音が、夕暮れの道場に流れる。
その一撃は、もう“あの頃”のものではなかった。
斬るためでも、奪うためでもない。
そこにはただ、命と向き合う人間の重みがあった。
──過去は、赦されない。
でも、それを背負って立つことは、できるのかもしれない。
「矢野、君に“ありがとう”なんて、言える資格はないかもしれませんが……」
ふっと微笑んだ。
「……でも、今は少しだけ、“生きていていい”と思えています」
沈黙の返答は、風の音とともに、道場の隅に消えていった。
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第四話「火の見坂にて」
──矢野蓮 → 沖田静 視点交錯
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日が傾くのが早くなった。
午後五時を過ぎたころには、街灯が灯り始める。
夏には真っ青だった空が、今は淡い朱に滲んで、紫がじわじわと広がっていく。
火の見坂と呼ばれるこの高台は、町の全景が見渡せる場所だった。
昔はここに、火の見櫓があったらしい。今はもうない。
けれど名前だけは残って、今では放課後の高校生や子どもたちの“夕焼けの場所”になっている。
その坂のてっぺんで、ふたりは並んでいた。
自販機の脇に座れるような古びたベンチがあり、矢野がそこに先に座った。
沖田は立ったまま、ゆっくりと街の方を眺めていた。
「……昔さ、ここに登ったの、覚えてる?」
矢野の問いに、静が目を細める。
「中学の頃でしょうか。剣道部の試合が終わったあと、僕が一人で坂に登って、矢野くんが後から来た」
「そう。それ。お前、当時から変わらないよな。“夕焼けの色は、血のにおいがする”って言ってた」
「そんな物騒なこと、言いましたか」
「言ったんだよ。中坊のくせに」
静が小さく笑った。
それは照れでも、諦めでもなく──懐かしさに近いものだった。
矢野は、そっと鞄の中から紙を一枚取り出す。
進路希望調査票。
二学期末が近づき、提出の時期だった。
「お前、これ……出してないよな」
静の目線が、紙に吸い寄せられる。
自分の分も、鞄の底に入れっぱなしになっているのを思い出した。
「……まだ、書けてないんです。どう書けばいいのか、よくわからなくて」
静は真意を隠すように、少し冗談めかして言った。
「何がわからないんだ?」
矢野が真剣に問い返すと、静も微笑みを引っ込めて正面を向いた。
横顔に、その目に夕焼けが映る
「……未来を、“選んでいい”のか、どうか」
その言葉は、とても静かで、でも深く胸に沈んでいく重さを持っていた。
「……僕は、たくさんの命を奪いました。
理由があったとしても、守るためだったとしても、“それでも”です。
そんな人間が、こうして何気ない日々を過ごしていていいのか。
“誰かの未来”を奪った僕が、“自分の未来”を語っていいのか──それが、どうしても」
「……静」
矢野が、言葉を挟む。
「それでも、“今生きてる”お前が、未来を語れないなら……何のために生きてんだよ」
静が、ゆっくりと視線を向けた。
「罪が消えるわけじゃない」
「消さなくていい」
矢野は、まっすぐに言った。
「過去を消すんじゃなくて、未来を上書きしてくしかねえんだよ。
“それでも”生きるってことは、過去を否定するんじゃなくて、過去に“意味を足していく”ことだと思うから」
沈黙が降る。
火の見坂に、やや冷たい風が通り抜ける。
静は、小さく目を閉じた。
「……今の僕が、“誰かを守りたい”と願うなら、それは過去の僕を否定することになると思っていました。
でも、もしかしたら……その逆なんですね。
“守りたい”と思えるようになったからこそ、僕は今を生きているのかもしれない」
矢野は、ベンチに浅く腰かけたまま空を見た。
「なあ静。……未来、選んでみろよ。お前がどんな答え出しても、俺は横にいるからさ」
その言葉に、静は少しだけ迷ってから、ふっと微笑んだ。
「ありがとうございます」
夕陽が沈んでいく。
空の端が、濃い茜から群青へと変わりつつある。
「矢野くんは、進路……もう決めたんですか?」
「一応な。心理系の学部、行こうと思ってる」
「予想外です」
「ま、人間の内側に興味があんのは、お前に感化されたせいかもな。
先生になるっていうのも、悪くないと思ってる。
……例えばさ、お前みたいな奴がいたら、見つけてやれるような、そんな大人に」
静は、ゆっくりと矢野の方を見た。
その目には、驚きとも感動とも違う、淡い尊敬のようなものが滲んでいた。
「……なら、僕も。
誰かの“剣”になれなかったとしても、そばに立てる人間になりたいです。
そういう進路、あるかもしれませんね」
「あるさ。探そうぜ、一緒に」
ふたりは並んで、坂の上に立った。
町の灯が、ぽつぽつと点り始めていた。
この夕暮れの先には、確かに“まだ続き”がある。
そして、その続きは、“過去”ではなく、“未来”という名前だった。
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第五話「紙の重み」
──沖田静の視点
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夜更け、机の明かりだけが部屋を照らしていた。
蛍光灯の白が、紙の上にくっきりと影を落としている。
進路希望調査票。
その紙は、ただの一枚にすぎないはずなのに、静には、鉛よりも重く感じられた。
志望校欄は空白。志望理由欄も手つかず。
枠に囲まれた「将来の目標」という欄だけ、なぜか余白が広く感じる。
書こうとするたびに手が止まり、言葉を選ぶたびに筆が震えた。
「未来を、書く」
それは、“かつて奪った命の重さを超えていく”ということだった。
自分が誰かの未来を断ち切っておきながら、
今ここで“自分の未来”について語ることは、贖罪に反している気がしていた。
──だが、あの坂の上で矢野が言った言葉が、まだ胸に残っている。
「過去を否定するんじゃなくて、過去に“意味を足していく”ことだと思う」
意味を、足す。
重さを増やすのではなく、深さをつくるということ。
そう思えたとき、静は初めて、ペンを握った指に力を込めた。
——志望理由——
人の痛みに、真正面から向き合えるような大人になりたいと思いました。
それは、誰かの叫びを、誰かの沈黙を、聞き逃さないこと。
剣道を通して学んだ“相手の重心を読む”という感覚は、
きっと人と人の間でも、応用できる気がしています。
将来は、教育・心理・文化の分野のどこかで、人の「立ち直る力」を支えられるような仕事ができればと考えています。
明確な職業像はまだありませんが、
今は“目の前にいる誰かに、言葉を投げかけられる自分”でありたいと思っています。
——将来の目標——
負い目や傷を持っていてもいい。持ちながら、生きていける世界を知りたい。
そのために、僕はもう少し、人を知りたいと思いました。
書き終えたあと、手のひらにはじっとりと汗が滲んでいた。
それでも、妙に心は静かだった。
朝が来る。
制服の上着に紙を入れると、風の音が微かに鳴った。
十月の終わりにしては暖かい朝だった。
提出箱は、昇降口前の机に置かれていた。
赤いプラスチック製の投函口。
無造作に入れられた紙の山の中に、ちらちらと書き込みのある面が見える。
何人かの生徒が、すでに投函を終えていた。
誰もそこに意識を向ける者はいない。
ただ、用事を済ませるように通り過ぎる。
──静は、一歩、机の前で止まった。
その瞬間、気配に気づく。
「ああ、やっと来た」
振り返ると、矢野がいた。
制服のジャケットのボタンを外したまま、柱にもたれて立っていた。
「……見張ってたんですか?」
「お前、提出しないんじゃねえかって思ってな」
「……するつもりでしたよ」
「じゃあさっさと、入れてみろよ」
矢野は笑っていた。
静は小さく息を吐くと、手元の紙をもう一度確認した。
誰のためでもない。
ただ、自分が今、書けたことを確かめるように。
そして、進路希望調査票を投函口に差し入れた。
紙が落ちていく音はしなかった。
けれど、心のどこかで“確かにひとつの段階を超えた”音が、静かに響いた気がした。
「……終わりました」
「お疲れ」
矢野が歩み寄って、肩を軽く叩いた。
「やっぱ、お前がちゃんと生きようとしてくれてるって、俺にとっては、それだけで十分だよ」
静は、矢野の言葉に何かを返す代わりに、
ふと、こんなことを呟いた。
「……何も誇れるものがないからこそ、“人を誇りに思う気持ち”が、残るんでしょうかね」
「さあな。でも、俺はお前を誇りに思ってるぞ。ずっと」
静は、その言葉に黙ったまま、わずかに目を伏せた。
矢野には見せなかったけれど、
そのとき、静の顔に浮かんでいたのは、
過去のどんな戦場にもなかった、穏やかな照れ笑いだった。
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第六話「声なき告白」
──矢野蓮の視点
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道場の板張りに、足音が響く。
それは力任せでも、競り合いでもない、正確な足運びだった。
間合いを測る呼吸、身体の芯を通して響くような、静かな踏み込み。
沖田静の剣だった。
木刀ではなく竹刀。だが、それを握る両手には、かつて握った「刀」の記憶が宿っているように見えた。
静の剣は、美しかった。
けれど、誰よりも“優しかった”。
「……やっぱり、お前の剣は、変わったな」
道場の入口、扉の影に立ったまま、矢野は呟いた。
静は気づいていない。あるいは、気づいていて気づかないふりをしている。
どちらでもいいと思った。
──斬るための剣じゃない。
──威圧するためでも、屈服させるためでもない。
それは、“届かせるための剣”だった。
まるで誰かの心に、真っすぐ手を差し伸べるような、そんな間合いの取り方。
昔の静は違った。
戦場では、殺意すら感じないまま相手を斬っていた。
あれは効率でも、冷酷さでもない。“守る”という一点に集中した者の動きだった。
けれど、それは誰よりも自分を殺す動きでもあった。
今の静には、それがない。
相手も、自分も、きちんと“生かす”ための剣だ。
その事実が、何より嬉しかった。
稽古が終わる頃、矢野は道場の扉をそっと開けた。
「……見てたんですか」
「まあな。サボりつつ、ちょっとな」
静はタオルで首筋をぬぐいながら、穏やかな顔をしていた。
「綺麗な動きだった」
「そうですか?」
「うん。まるで──生きてる剣だった」
その言葉に、静は少しだけ照れたように笑う。
「……昔の僕は、“剣”に命を吸われてた気がします。
今は、ようやく、僕の中に剣が“生きている”って思えるようになりました」
「それなら、ちゃんと進んでるな」
矢野は、黙っていた右手で何かを取り出した。
学校から配られた、大学のオープンキャンパスのパンフレットだった。
「お前に言われてから、ちゃんと考えたよ。……教師になりたい、って。
心理学や教育学、ちゃんと学んでみたいと思ってる」
「……素敵ですね」
「でもさ、ほんとはもっと単純なんだよ」
「単純?」
矢野は笑う。
「“今のお前みたいな奴”を、見つけられる人間でありたい。それだけ」
静は、ふっと目を伏せた。
その目の奥で、何かがほどけるように見えた。
「僕みたいな?」
「そう。“今の”お前みたいな奴。過去があるとかないとか、そんなこと関係なく、
ちゃんと向き合って、苦しんで、もがきながらもちゃんと進もうとしてる奴に、気づいてやれる人間になりたい」
「……それは、きっと、今の僕にとって、一番欲しかった言葉です」
「だから、ちゃんと勉強するよ。将来とか職業とかってより、“ありたい姿”を、ちょっとだけ描けた気がするからさ」
静は、小さく頷いた。
言葉を多くは返さなかったが、それは肯定の証だった。
──沈黙は、ふたりにとって、もう「怖さ」ではなかった。
並んで、道場の縁に腰かける。
秋の夕方の空気が、木造の建物の隙間を通っていく。
ほんの少しだけ、金木犀の香りが残っていた。
「矢野くんは、教師になっても変わらなさそうですね」
「そう?」
「生徒から“よく見てるなぁ”って思われる気がします」
「口うるさい教師って言われてもいいよ。“気づいてくれる大人”って、案外それだけで価値があるんだぜ」
その言葉に、静は笑った。
「……それなら、僕も負けられませんね」
「お。進路、決まった?」
「ええ。なんとなく、ですけど。人に関わる分野で、学びたいことができました。
人の“心の手前”にあるもの──それを、理解できるようになりたいと思って」
矢野は、言葉を返さず頷いた。
誰かを守る剣から、
誰かの声に耳を澄ます言葉へ。
静の未来が、静かに動き出している。
道場の外に、夕焼けが落ちていた。
屋根の先に、茜が溶けてゆく。
ふたりの影が長く伸びて、床に並んでいた。
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第七話「未来の話」
──沖田静の視点
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三学期が始まる数日前の朝、教室の窓からは、透き通った光が差し込んでいた。
冷たい空気の中に春の予感が混じっていた。
まだ冬なのに、朝の光はどこか柔らかくて、まるで季節がこちらに歩み寄ってくるみたいだった。
教室には誰もいなかった。
校内補習のない午前、静はひとり、空の教室の窓際の席に腰を下ろしていた。
黒板には、年末の行事予定がうっすらと残り、カーテンの縁が風に揺れている。
背後で教室の扉が開いた音がしても、静は振り返らなかった。
「いた」
声がして、ようやく目を向けた。
矢野だった。
手には缶コーヒーがふたつ。片方を無言で差し出してくる。
「どうも」
受け取った缶の熱で、指先がじんわりと温まる。
ふたりは窓際の机に並んで腰をかけた。
「静かだな。朝の教室って、こんなに落ち着くっけ?」
「誰もいないって、贅沢ですよね」
しばらくのあいだ、ただ窓の外を眺めていた。
グラウンドは霜で白く光っていて、遠くで部活の掛け声が響いている。
沈黙は心地よく、ふたりにとって“共有できる余白”になっていた。
やがて静は、口を開いた。
「……もう、夢を見ないかもしれません」
「……そっか」
「毎晩うなされていたわけじゃないですけど、どこかでずっと、
自分は“過去の続きを見るため”に生きているんじゃないかと思っていたんです」
缶のふたを開ける音が、やけに大きく聞こえた。
矢野は何も言わず、静の言葉を待っていた。
「でも、最近になって気づいたんです。
“見る夢”じゃなくて、“見せたい景色”を思い浮かべるようになったって」
「見せたい景色?」
「ええ。誰かに、あるいは自分自身に──“これが自分の選んだ未来だ”って言える場所を。
過去がどうであれ、僕は“今の自分”を、ちゃんと選びたいと思えるようになったんです」
矢野は、ゆっくりと頷いた。
「それでいいよ。……やっと、スタート地点に来たな」
「……ですね」
しばらくの沈黙。
それから、静はふと矢野の顔を見て、笑った。
「こうしてると、昔のことが全部、幻だったみたいです」
「なあ静。幻じゃなくて、“通過点”にしようぜ」
矢野の声は、低く、まっすぐだった。
「なかったことにするんじゃなくて、あった上で、今ここにいるってことをさ。
俺たちは、“今”を選べるところに来たんだよ」
静は缶コーヒーを見つめるように、少しだけ目を伏せた。
「じゃあ──僕は、今から、“未来の話”をしてもいいですか」
「もちろん」
「大学、行きます。
人と関わる分野──心理でも教育でも文学でも、まだ決めきれませんが、
“人が自分を生き直す過程”に寄り添えるようなことがしたい」
矢野は笑った。
「お前らしいな」
「矢野くんは?」
「俺? こないだ話した以外に?」
「何かあれば」
そう言って静はふにゃりと笑う。
「……お前の隣に立てる大人になる。
肩並べて、“それでも生きるって悪くないな”って、言える人間に」
それを聞いたとき、静の胸に、ふと小さな熱が灯った。
あの夜、誰もいない山の中で死を選んだ自分は、
こんな未来を想像すらできなかった。
けれど、いまこうして並んで朝を迎えている。
それは確かに“奇跡”なんかじゃなく、自分たちが選んだ“継続”の結果だった。
「……ありがとう、矢野くん」
「礼は卒業してからでいい。そっから先も、まだ一緒にいる気でいるからな」
「ずいぶんと図々しいですね」
「お前の隣は、誰にも渡さねえって思ってるからな」
静はふっと、目を細めて笑った。
もう、過去の剣では守れないものが、ここにはある。
だけど、言葉なら届く気がした。
心でなら、つながっていけると思えた。
外の空が少しずつ明るくなっていく。
朝の始まり。三学期のはじまり。
未来の、はじまりだった。
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『火の見ぬ場所で』
──矢野蓮・独白
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おまえが、最後に立っていた場所を、覚えている。
西の斜面。
砦のすぐ外、見晴らしのいい開けた丘の上だった。
あの夜、霧が降りて、声が聞こえなくなって──
気づいたときには、もうおまえはそこにいなかった。
残されたのは、血の痕と、刀の鞘。
それと、山風にちぎれた、白い布の切れ端だった。
おまえの死を見た者は、誰もいない。
けれど、みんな知っていた。
おまえが、もう戻らないってことだけは、どうしようもなく、わかってしまっていた。
あの背中は、そういうものだった。
一緒に生き延びようなんて思ってなかったろう?
おまえはいつも、死ぬための場所を探していた。
……いや、違うな。
生きてしまった者たちの背中に、死を背負わせないために、
自分の命ごと、記録からも、名からも、降りていったんだ。
あんな戦いをしておいて、英雄になんてなりたくない、なんてさ。
おまえらしい。
それでもな──
俺は、言わずにはいられない。
ありがとう、静。
おまえが俺たちを守ってくれたあの夜、
たとえおまえが“死”を選んだとしても、
俺は、勝手に“生きる”を受け取ったよ。
あれから、いろんなものを背負ってきた。
戦友の名前、失った命、流れた血。
おまえの剣がなかったら、全部、俺の中に沈んだままだった。
けどな──
今、令和のこの時代で、おまえが生きてる。
それを見たとき、
ようやく俺は思えたんだ。
おまえの命は、“まだ終わってない”。
だから俺も、いまこの声を届けに来た。
おまえのいた丘に立って、
草を踏んで、風を受けて、
火の見えぬ場所で、目を閉じて言う。
静。
ありがとう。
そして、ようやく言える。
おかえり。
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『風の通り道にて』
──沖田静・独白/現代
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立ち入り禁止の標識が、傾いている。
木々の間を抜けると、そこには、思っていた以上にひらけた空があった。
ここが、あの夜の終わりだった場所だと、身体の奥が覚えていた。
──僕が――あなたが、最後に立っていた場所を、覚えている。
ふいに、風が吹いた。
聞こえた気がした。声にならない声。
記憶のなかの、あたたかい熱。
名を呼ばれることのないままに、沈んでいった日々の影。
かつて、僕はここで命を使い果たし、
名を残さぬまま消えることを選んだ。
英雄ではなく、名もなき剣士として。
……でも。
今、こうして生きている。
名前を持ち、顔を持ち、友と家族がいる。
時に夢にうなされながらも、こうして陽の下を歩いている。
そして、風が教えてくれた。
あのとき背中を預けた誰かが、今も僕の名を呼んでくれているということを。
──ありがとう、静。
──おかえり。
それだけで、救われる命があるということを、
僕は、ようやく知った。
この地はもう戦場ではない。
けれど、まだ何かが“眠って”いる。
この場所の空気を、音を、土の匂いを、
すべて、もう一度、感じて歩こうと思う。
これは慰霊ではない。
これは、歩いて取り戻す旅だ。
命を使い果たしたその場所に、
“いまの僕”として足を置き直すための。
矢野くん。
僕は今から、過去に踏み入ってきます。
でも、今度は、帰り道が……ちゃんと見えている。
だから、待っていてください。
今度は、僕の番です。
──風がまた、服の裾を揺らした。
「行ってきます」
そう言って、僕は丘の奥へ、ゆっくりと歩き出した。
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『誰もいない丘へ』
──沖田静・戦場跡訪問記
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思い立ったのは、ある晴れた朝だった。
授業のない週末。
矢野くんは用事があると言っていて、道場の稽古もお休み。
誰にも予定を告げず、僕はひとりで電車に乗った。
向かう先は、かつての戦場跡──
名前も地図も、時代とともに変わってしまったその土地の、
“ある丘”の記憶だけが、僕の中に確かに残っていた。
あの夜、僕が最後に立っていた場所。
敵の軍勢を前に、仲間を背に、剣を抜いた場所。
死んだとされ、誰にも見取られず、姿を消した場所。
そして、今この時代で、矢野くんが「おかえり」と声をかけてくれた、
あの風が吹いた地へ──
最寄り駅からは、バスがない。
歩いて一時間以上かかるらしいと地図には書いてあった。
けれど、僕は迷わなかった。
足が、知っていた。
“どこに向かえばいいか”を。
昔、馬が走っていたような草地が、
今は畑や民家に変わっていた。
それでも、ところどころに残る“道のかたち”だけは変わっていない。
昔のままの、斜面。
昔のままの、風の通り道。
ひとつ、坂をのぼるたびに、
体の奥にしまわれていた記憶が、かすかに鳴った。
──ここで、血の匂いを嗅いだ。
──ここで、倒れている兵士を担いだ。
──ここで、風が吹いたとき、誰かの死が確定した。
“記憶”は、映像ではない。
音と、においと、温度と、足の裏の感触で、思い出されていくものだ。
そして、そこに着いた。
草の匂いが強い、ひらけた丘。
いまは柵も看板もなく、ただ広く空がある場所。
地元の人にとっては“公園でもない”雑木林のようなものかもしれない。
けれど、僕にはわかった。
ここが、終わった場所だ。
ここが、始まった場所だ。
ゆっくりとその場に座る。
風が吹く。
音はなく、ただ、草が触れる音だけが耳に届く。
「……静かですね」
思わず、そうつぶやいた。
かつて、僕がこの場所で剣を振るい、
血を流し、命を手放したというのに──
今、こんなにも平穏だ。
こんなにも、誰もいない。
それが、たまらなく嬉しかった。
「……誰も、ここで死ななくていい」
その事実だけで、胸が温かくなった。
僕は目を閉じる。
まぶたの裏に、あの日の戦場が、静かに浮かび上がる。
矢野くんが、傷を抱えて倒れていた。
他の仲間も、動けずにいた。
僕は、その前に立った。
斬るたびに、身体の一部が冷えていった。
斬るたびに、自分が“戻れなくなっていく”のがわかった。
でも──
「……今、僕は生きている」
その声が、風に溶けた。
その風のなかに、矢野くんの言葉があった気がした。
──「お前の隣は、誰にも渡さねえって思ってるからな」
微笑みがこぼれた。
たぶん僕は、この場所に“終わり”を置いたんじゃない。
“名を持たないままに始まった自分”を、
一度、この地に戻してあげるために、来たのだと思う。
そうしてもう一度、“連れて帰る”ために。
「……ただいま」
そう言って、僕は立ち上がった。
空には、白い雲がいくつか浮かんでいた。
秋の風が、ゆっくり吹き抜けていった。
僕はその風に背を押されるように、来た道を引き返す。
手には何もない。
でも、心にはひとつ、確かなものがあった。
かつて命を終えた場所で、
“生きなおす決意”を持って帰る──それが、この旅の意味だった。
だから今度は、迷わず言える。
「帰ろう。ちゃんと、生きていく場所へ」
足音を草に吸われながら、
僕は丘を降りた。
誰もいない戦場から、
“誰かが待っている日常”へ。
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『火の見坂の下で』
──沖田静 × 矢野蓮・対話
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「──行ってきたんです。あの場所へ」
放課後、校門の裏。
火の見坂へと続く道の途中にある小さな階段。
そこにふたりで座って、夕陽を見ていたとき、静はぽつりとそう言った。
「……戦場跡、ってことか?」
矢野の問いに、静はゆっくり頷いた。
「今ではもう、地図にも名前が残っていませんでした。
ただの草地でした。斜面と、風と、少し湿った空気。
けれど、僕にはわかったんです──そこが、終わりの場所だったって」
「……そっか」
矢野はそれ以上何も言わなかった。
目線を、静と同じ方へと向ける。
空は朱に染まり、風が頬を撫でる。
「風が吹いてて、……誰もいなかったんです。
だからこそ、少し、救われました」
「救われた?」
「ええ。僕が、かつて命を終えた場所に、いま誰の命も落ちていない。
それだけで、あの剣に意味があった気がしました。
……たとえ、あの夜に僕が何を選んだとしても」
矢野は、目を閉じたまま、ゆっくり呼吸を整えていた。
彼が言葉を挟まないのは、黙っているからじゃない。
その“静けさ”を、言葉以上に伝えるためだと、静は知っていた。
「……やっと言えました」
「なにを?」
「“帰ろう”って」
矢野が目を開け、こちらを見る。
「誰に、だよ」
「僕に、です」
沈黙が落ちる。
けれど、ふたりにとってその静けさは、不安でも、拒絶でもない。
「……帰ってこい。俺たちの場所に」
「はい」
遠くで部活動の掛け声が聞こえる。
子どもたちの自転車が走る音も、街の暮らしの気配も、全部、この“今”のものだった。
もう、風の音に“血のにおい”は混じっていなかった。
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『光の射す窓辺で』
──沖田静 × 佐野先生・保健室にて
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放課後の保健室。
カーテンの影が静かに揺れていた。
白い壁。白い天井。
遠くで部活動の掛け声がかすかに聞こえている。
ベッドの上には誰もいない。棚に薬箱がきちんと収まっている。
そして、窓際の椅子には、いつも通り、佐野先生がいた。
「来たのね」
「はい。先生、今……お忙しくなかったですか?」
「いいのよ。今日はもう落ち着いてるから。
……静くんが、ここに自分から来るの、久しぶりね」
「ええ、少しだけ、お話をと思って」
佐野先生は頷いて、何も聞かなかった。
ただ、静の言葉を待っていた。
「……この前、少し旅に出ていました」
「ええ、聞いてる。矢野くんから、ちらっとね。いえね、私が聞いたのよ。
“静くんは最近どうしてる?”って」
静は少しだけ笑った。
「その場所で、いろんなことを思い出して。
でも、それを無理に“思い出”として仕舞おうとは思いませんでした。
きっと、そうじゃないんです。そうするものじゃない」
先生はうなずく。
「僕は、ようやく自分に言えたんです。
“帰ろう”って。過去を終わらせるんじゃなくて、今を続けようって」
「……静くん」
「だから……もう、大丈夫です」
先生は、穏やかに目を細めた。
「そう」
「もう、僕の中で──“答え”がまとまりました」
それきり、言葉はなかった。
佐野先生は、「そう」と、もう一度だけ言って、何も聞かなかった。
沈黙は、やさしかった。
花瓶の白いカスミソウが、ほんの少しだけ揺れた。
「……ありがとうございました。その、……ずっと見ていてくれて」
「ええ。こちらこそ、来てくれてありがとう」
静が立ち上がる。
背を向けかけたとき、先生がふと、背中に声をかけた。
「何も語らなくていい日も、あるからね」
静は立ち止まり、振り返らずに、小さく頷いた。
光が、カーテン越しに淡く差し込んでいた。
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『十一月某日 夜 ──手帳の最後のページにて』
──沖田静・私的記録
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【日記】
丘の上は静かだった。
風の音と、足元の草を踏む音だけが、時間の代わりに流れていた。
記憶は、いつも確かとは限らない。
それでも身体は、覚えているものだ。
匂い、温度、肌に触れた空気。
人が言葉になる前に覚えたものの方が、ずっと正確なのかもしれない。
あの場所に立って、ようやくわかった。
僕は“死んだ場所”に戻ったんじゃない。
“生き直すために、終わりに一度手を触れた”だけだった。
誰もいない戦場で、
僕はようやく、“名のある自分”として立っていた。
それが、たまらなく静かで、たまらなく幸福だった。
今の僕は、もう“いなかったこと”にするつもりはない。
過去を抱えたまま、ただ、この先を歩いていく。
誰かに証明しなくていい。
けれど、僕が知っていれば、それで十分だ。
あの丘に眠る自分へ。
ようやく、迎えに来られて、よかった。
──ありがとう。そして、もう大丈夫だ。
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【詩】
──記憶の草原で
誰もいない 丘に立つ
風が 僕の名を知らずに通りすぎる
かつて そこにいた僕は
名前もなく 灯もなく 剣ひとつで夜を断ち切った
そして今
僕は その続きを 選ぼうとしている
もう “斬らない手”で
振り返らないのではなく
振り返っても 沈まないように
言葉で 人と向き合えるように
ただ それだけのために
僕は ここに戻ってきたのだと
ようやく わかる
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(第五部 了)