第四部 名もなき戦、風に舞う(高校三年生)
第一話(写真部の男子生徒)
『シャッターの向こうに立つ人』
最初に彼を見たのは、光の中だった。
朝の廊下、教室の窓から斜めに差し込む日差しの中に、白い制服の男の人が立っていた。
ほんの一瞬、カメラのファインダー越しに。
別に撮ろうとしたわけじゃない。
窓から差す光を撮っていたら、偶然そこにいた、というだけだ。
シャッターを切った瞬間、心臓が鳴った。
何を撮ったのか、すぐには分からなかった。
けど、何か“決定的なもの”を見てしまった気がした。
•
その後も、写真部として構内を撮影する中で、彼を何度か見かけた。
図書室の窓際で文庫本を開いている時。
体育館裏で、剣道部の竹刀を手入れしている時。
購買の前で、あんぱんを買っている時。
どれも“絵になる”瞬間だった。
なのに、不思議とシャッターが切れなかった。
いや、正確には「切るのが怖かった」。
あの人は、写したら壊れてしまいそうな気がしたんだ。
フレームの中に収めるには、どこか“現実”から浮いていた。
•
ある日、思いきって友達に聞いてみた。
「沖田先輩って、どんな人?」
返ってきたのは、曖昧な笑いだった。
「いや、いい人だよ? ちゃんと返事してくれるし、怒ったとこ見たことない。…けど、ほら、“静かすぎる”っていうかさ」
「うっかり触っちゃいけない感じあるよね。優しいけど、遠い」
•
俺はもう一度、あの朝撮った写真を引っ張り出してきた。
写真の中の彼は、逆光のなかで半分シルエットになっていた。
顔もはっきり写っていないのに、なぜか“目を合わせた気がする”と思った。
それはたぶん、光のせいじゃない。
カメラ越しに見えたのは、誰もいない場所を見つめる横顔。
遠い記憶を探すような、そんな顔だった。
•
この学校には、「過去」が似合わない。
俺たちはみんな、未来に向かって走ってる。
進学、恋愛、夢、部活、受験。
でも、彼だけは違う。
まるで「過去の亡霊」みたいに、静かに、後ろを見ている気がした。
それが怖くて、でも、どうしようもなく美しかった。
•
いつか、ちゃんと撮ろうと思う。
ちゃんと正面から、光の中の彼を。
でも、それはきっと──
“彼が前を向いた時”だ。
•
今はまだ、シャッターは切れない。
彼の中にある「何か」が、光に透ける日まで。
ーーーーーーーーーーーーー
第二話(部活の後輩)
『副部長は、名前を呼ばない』
俺は一年の春、剣道部に入った。
入部理由は単純で、運動は好きだったし、格好いいって思ったから。
だけど、一番の理由は──
「沖田先輩が、剣を握る姿を見たから」だった。
•
最初に見たのは、入学式の翌週。
見学自由って貼り紙が出ていた剣道場。
窓から覗いたら、静かに竹刀を構える人がいて。
動きは、ただの素振り。
でも、周囲の空気だけ違って見えた。
音が吸い込まれるような、静かさ。
呼吸すら許されないような、緊張感。
動いてない瞬間すら、怖いくらい綺麗だった。
•
入部してから気づいた。
沖田静先輩は、めちゃくちゃ“普通”だった。
昼間はよく窓辺で本読んでて、購買では粒あんのあんぱんを選んでて、
練習中は静かに指導して、怒鳴ったりなんて一度もしない。
でも、面をつけた瞬間、全部が変わる。
剣の音が違う。
打ち込みが違う。
試合が終わったあとも、佇まいが違う。
•
俺がミスをしても、怒られたことは一度もない。
ただ、打ち込めずに止まった時──
静かに、でも真っ直ぐ目を見て言われたことがある。
「剣は、止めるためにあるんじゃない。
斬ることを知って、初めて守るものがあるんです」
意味はよく分からなかったけど、
そのとき、俺はもう“この人の背中を追いたい”って思ってた。
•
部長の矢野先輩は、どっちかっていうと明るい人で、
笑って「副部長~、頼りにしてますよ~」とか言って沖田先輩をいじったりしてた。
それを沖田先輩が「また部長に丸投げされる予感がします~」って、冗談めかして返す。
このやり取りが毎回あって、部員みんなで笑う。
……なのに、時々、急に空気が変わることがある。
•
ある日、練習終わりに沖田先輩が一人、道場の隅に立ってた。
竹刀も持たずに、じっと床を見ていた。
声をかけようとして、踏み出せなかった。
あの背中が、“今”にいないような気がして。
•
翌朝には、何事もなかったようにまた本読んでるし、
午後には普通に俺たちに稽古つけてくれる。
でも、俺は知っている。
たぶん、先輩は“何か”を思い出してる。
過去のこと。
剣のこと。
名前のついていない、傷のこと。
•
それでも俺は、あの人に憧れてる。
沖田先輩は名前を呼ばない。
「お前」っても「君」っても言わない。
でも、視線で伝えてくる。
「見てるよ」って。
だから俺は、振り返らない。
絶対に、目の前の打ち込みだけを見てる。
•
いつか──
名前で呼ばれるようになりたいと思う。
その時はきっと、俺が“何かを守れる剣”を手にした時だと思うから。
ーーーーーーーーーーーーー
第三話(街の人の視点)
『深夜二時のあんぱんと、冷えた視線』
深夜二時、雨上がり。
バイトの暇な時間帯に、レジ裏でおでんの仕込みをしていたら、
「ピンポーン」と自動ドアが鳴った。
振り返ると、制服姿の高校生が一人、傘もささずに入ってきた。
髪が濡れていて、肩も少し震えている。
それが、沖田静という名前の少年との、最初の出会いだった。
•
その頃は名前も知らなかったし、
正直、“こんな時間に何してんだこの子”と思った。
けれど、彼は静かに、「あんぱん」と「ホットココア」を手に取り、
「お願いします」と低く丁寧に頭を下げた。
妙に落ち着いていた。
大人の真似じゃない。
“昔からこうしてる”っていう自然さがあった。
「君、傘は?」と俺が聞くと、
少し間をおいて、ふっと笑って「持っていません。雨宿りになりました」と言った。
その瞬間、こいつ、只者じゃねえなと思った。
•
それからも時々、彼は来た。
遅い時間帯が多くて、たいてい無言で、あんぱんと温かい飲み物を買っていく。
無口だけど、礼儀は正しくて、レシートも受け取らない。
必ずドアの前で一礼してから出ていく。
まるで、神社か何かにお参りしてるみたいだった。
•
ある日、土曜の昼に来た彼を初めて見たとき、俺は二度見した。
制服じゃなかったから、分からなかった。
カーディガンに、髪も少し乱れていて、
何より──笑っていた。
友達と並んで、冗談を言い合って、ちゃんと高校生らしく笑ってた。
なんか、ちょっとホッとした。
「ああ、ちゃんとこっちの世界にいるんだな」って思えた。
•
だけど最近、ふと耳にした噂がある。
地元でちょっと名の知れた不良グループ、
八人組のヤンキーを──
“視線ひとつで黙らせた”らしい。
ケンカしたわけでも、暴れたわけでもない。
ただ、沖田静がその場に現れた瞬間、
全員が顔色変えて、何も言わずに退いたらしい。
「殺されるって思ったんじゃね?」
そんな不気味な冗談まで、まことしやかに語られていた。
あの目を見たことがある俺には、ちょっと分かる気がした。
•
俺は知り合いの教師に聞いたことがある。
「沖田って、どんな子?」
そいつは少し笑って言った。
「模範的な生徒……だけどな。あいつの背中だけは、時々、昭和でも平成でもない“どこか”を背負ってる気がするよ」
•
「しずか」って名前らしい。その時に知ったんだ。
その名にふさわしく、彼は静かに歩く。
でも、その瞳には、戦の音が響いている。
•
いつか、彼が“傘をさして”、
ちゃんと未来に歩いていけるといいと思う。
あのホットココアを飲む唇が、
ちゃんとぬくもりのある今を選び取れるように。
•
俺は、もう、あの子の名前を呼ばない。
でも、この街のどこかで、
“彼のために祈っている誰か”がいるってことだけ、忘れないでほしい。
ーーーーーーーーーーーーー
■完全覚醒編
第一話「目覚めの午後、沈黙の記憶」
昼下がりの教室には、雨の匂いが漂っていた。
窓の外では、風が樹々の葉を揺らし、梅雨の湿った空気が肌にまとわりつく。
沖田静は、窓辺の席で指を額に添えたまま、じっと黒板のほうを見つめていた。
担任の数学教師が何かを板書していたが、その文字は静の目にはもはや映っていなかった。
視界の端が滲み、音が遠ざかっていく。
やがて、静はふっと立ち上がり、何も言わずに教室の扉を開けた。
足元がふらつき、膝が抜ける感覚がする。
これは──まずい、と自覚する前に、彼の意識は黒く沈み落ちた。
•
「静? ……静!」
どこかで呼ばれている。だが、声は遠い。
身体が動かない。目も開かない。だけど、“視えていた”。
──それは、戦場だった。
血と泥に塗れた地面。
倒れた味方の亡骸を跨ぎ、剣を振るう自分。
敵兵の顔も、年齢も、名も知らない。
ただ、斬る。動くものを。迫るものを。
――命を、斬る。
なのに、俺は――。
「……っ!」
その瞬間、静の身体は跳ね起きた。
頬には冷や汗。手は震えている。
視界には天井の蛍光灯と、閉じたカーテン。
ここは──保健室だった。
呼吸が荒い。喉が焼ける。
胃の奥が、何か黒い塊にねじられているような感覚。
彼はベッドから転げ落ちるように立ち上がると、
隣室のトイレに駆け込んだ。
•
一人になりたかった。
静は背を震わせて、蓋の閉まったままの便器を抱くようにして身体を丸めていた。
涙が出ていた。自覚もないまま、こぼれていた。
あれは夢じゃない。
何度も見てきた、“過去”の断片。
けれど、今回は──あまりに鮮明だった。
振り下ろすたびに、感じた。
骨の手応え。肉の裂ける音。
叫び声も、断末魔も、呪詛も、全部、彼の耳に焼きついていた。
「俺が……やったんだ」
誰に強制されたわけでもない。
誰かの命令ではない。
確かに徴兵こそされたが、
間違いなく彼の意志で、彼の手で、命を奪った。
それが戦争であっても──
赦されるものではない。
•
トイレのドアをノックする音がして、
保健室の先生の声が、やさしく届く。
「静くん。……水、置いておくわね」
返事はできなかった。
声を出せば、何かが決壊しそうで。
ただ、深く、浅く、息を繰り返す。
落ち着いたふりをしながら、
心臓の鼓動が壊れる音を、じっと聞いていた。
•
その日の放課後、静はいつものように
「何もなかった顔」で昇降口を出た。
クラスメイトの数人が心配そうに声をかけたが、
静は「大丈夫です。心配かけてごめん」とだけ笑って答えた。
笑う、というより「笑っているように見せた」だけだった。
誰も、彼の目の奥までは覗けない。
覗かせる気も、なかった。
•
帰り道。雨の匂いが、まだ空気に残っていた。
静は、校門を抜けたところで、ふと足を止めた。
視線の先に、通学路の端に咲いた花がひとつ。
雨に濡れたそれは、儚くも色鮮やかだった。
彼はゆっくりとその前にしゃがみ込み、
小さく、呟いた。
「……君は、何人、殺したことがある?」
もちろん、花が答えるはずもない。
静はそのまま立ち上がると、傘も差さずに歩き出した。
まるで、自分を洗い流すように。
•
その夜、夢を見た。
夢の中でも、彼は剣を持っていた。
そして──もう、持ちたくないと願っていた。
なのに、持っている。
握ってしまう。
振り払ってしまう。
それが「自分」であることを、
彼はまだ、否定できずにいた。
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第二話「歪む呼吸、剣の間」
朝の稽古が終わった道場には、まだ竹刀の残響が微かに漂っていた。
矢野蓮はタオルで首筋を拭いながら、道場の片隅に腰を下ろす。
その向かいには、竹刀を脇に置いて正座する沖田静がいた。
「静、お前、なんか──最近、呼吸が浅い」
矢野の言葉に、静は一瞬だけ表情を止めた。
だがすぐに、いつもの穏やかな笑みに戻って言う。
「……夏のせいですよ。気温の変化、苦手でして」
矢野は頷きかけたが、どこか引っかかるものが残った。
(――夏のせい? まだ五月だぞ? 本当に、そうか?)
•
思えば、変化は春先から少しずつ現れていた。
稽古のあと、背を向けて息を整える時間が妙に長くなった。
教室で、ふと意識が飛ぶようにぼんやりしていることが増えた。
それでも静はいつも通りだった。
授業中は成績上位、剣道では後輩に的確な指導。
副部長としての務めをきっちり果たしながら、
どこか“それ以上”の何かを抱えているような、そんな沈黙があった。
矢野は知っている。
静は「弱さ」を決して人前に晒さない。
その癖、背負うのは誰よりも上手い。
笑って受け流すことに慣れすぎて、
誰も「大丈夫か」と訊けないままにしてしまう。
だからこそ──矢野は訊く。
「本当に、夏バテか? 違うんじゃねぇのか、それ」
静は軽く笑った。
「……矢野くんって、意外としつこいですよね」
「お前が意地張るからだよ」
そう言いながらも、矢野の声は柔らかかった。
責めてはいない。
ただ、“そばにいる”という意志を込めていた。
•
その日の放課後。
部室で道着を片づけていた矢野は、静の荷物の中に、
小さなビニール袋を見つけた。
──睡眠導入剤。
おそらく市販ではない、処方箋がなければ出ないような強めのもの。
「……なんで、こんなもん……」
静の姿はまだ戻っていない。
そっと袋を元に戻し、何事もなかったふりをして戸を閉める。
だが、胸の奥に拭えぬ不安が、しっかりと根を下ろした。
•
その後の道場稽古では、静の動きにわずかな乱れが出た。
ほんの一瞬、足がもつれるような動作。
間合いの読みが鋭すぎて、相手との距離を潰しすぎる。
「静、一本打ち、速すぎ」
「そうですか?」
「てか、間合い潰してる。お前が前のめりなんだよ」
静は一瞬考え込み、
「……気をつけます」とだけ言って面を外した。
その額からは、通常の稽古ではあり得ないほどの汗が流れていた。
(呼吸のリズムが、壊れてる)
矢野は確信した。
•
帰り道。
自販機でスポーツドリンクを買って、静に差し出す。
「飲め。脱水起こすぞ」
「ありがとう。……矢野くん、心配性ですね」
「お前が無理してるの見てると、そりゃな」
静は一口飲んでから、ふっと視線を逸らす。
「……僕、そんなに、分かりやすいですか?」
「いや。全然。……でも俺にはバレる」
「矢野くん、ずるいな」
その言葉に矢野は笑い、
「お互いさまだろ」と返す。
•
夜、矢野は自室でノートを開きながら、
教科書も参考書も読まず、ずっと考えていた。
静の異変の理由。
薬の存在。
あの過去の“夢”の話──
きっとまだ言えないことがある。
だが、待っているだけじゃいけない。
自分は、静の“そばにいる”と決めた。
誰よりも近く、誰よりも早く、気づいていたい。
•
翌日の朝稽古。
静の面の奥、目の下に、わずかな青い影を見つけた。
「寝てねぇな?」
「……寝苦しかっただけです」
言い訳にしては、あまりにも控えめだった。
•
その日の帰り道。
校門を出たあと、矢野は一歩、静の前に出て、立ち止まった。
「なあ、静」
「はい?」
「俺さ──お前のこと、気づいてやれなかったら、
一生後悔すると思う」
静は目を見開き、ほんの一瞬、視線を伏せる。
「……僕は、何も背負わせたくないんですよ。誰にも」
「じゃあ、背負うなよ。お前だけで。
一緒に、持とうぜ。それくらい、いいだろ」
その言葉に、静はしばらく何も言わなかった。
けれど、去り際。
小さく、けれど確かに、矢野に背を向けたままこう言った。
「……ありがとう、矢野くん」
•
矢野はその背中を、黙って見送った。
その細くてまっすぐな背中が、
いまにも崩れてしまいそうで、
だけど誰よりも強く見えたから。
──俺が、絶対、見逃さねぇからな。
そう、心の中で誓った。
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第三話「沈黙の呼吸」
保健室の窓際にある観葉植物が、風にそよいでいた。
もう何年もここで、同じように季節を見つめている。
その緑の影をぼんやり眺めながら、白衣を着た女性――佐野麻子は静かに書類に目を通していた。
高校の保健室という場所には、嘘が転がる。
仮病もある。
見栄もある。
思春期特有の“沈黙”もある。
だが、そんな中でも、彼はいつも“ほんの少しだけ違っていた”。
──沖田静くん。
彼の名が記された健康記録のファイルを、佐野はそっと指先でなぞった。
•
最初に気づいたのは、中学三年生の春だった。
健康診断のとき、彼だけが妙に深い呼吸をしていた。
肺活量でも心拍でも異常は出なかったが、
何かを「内側に押し込めている」ような雰囲気があった。
それは、彼の言動にも現れていた。
丁寧すぎる言葉遣い。
距離感の保ち方。
そして、“視線”だ。
彼の目は、よく外を見ていた。
校舎の外、窓の外、世界の“少し先”を見ているような──そんな目。
あれは、何かを思い出す人間の目だ。
あるいは、忘れられない人の目。
•
そして──つい先日のこと。
彼は意識を失い、級友の矢野に抱えられてこの部屋に運び込まれた。
脈は早く、手足は冷たかった。
けれど検査に出すほどの明確な異常はない。
自律神経系の一過性の乱れかもしれない。
けれど佐野には、もっと“別の何か”があるように思えた。
•
数分後、彼は意識を取り戻した。
目を開け、あたりを見回したとき──
一瞬だけ、まるで“誰か別人”が彼の身体に宿っているような気配を感じた。
「沖田くん?」
声をかけると、彼はすぐに小さく微笑み、「すみません」と答えた。
だがそのあと、彼は一言も喋らずにトイレへ駆け込んだ。
佐野は、彼の様子を覗くことはしなかった。
ただ、トイレの前に水の入った紙コップを置き、
そっとドアの外から告げた。
「静くん、水、置いておくね。……しんどいときは、無理しなくていいのよ」
返事はなかった。
•
数分後、沖田が出てきたとき、顔色は悪く、目の奥には疲労の色が滲んでいた。
それでも彼は笑った。
「ご迷惑をおかけしました」
「具合、まだよくないんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。少し寝たら、すっきりしましたから」
佐野はそれ以上追及しなかった。
彼が「話したがらない」ときは、何も聞かないと決めている。
そのかわり──見ている。
彼の呼吸、立ち姿、眼差し、声の温度。
そのすべてが、言葉よりも雄弁だから。
•
沖田が帰ったあと、佐野は保健室の日誌にそっと書き残した。
________________________________________
来室記録:沖田静(3年C組)
・本日午後、教室にて意識消失(短時間)。過去にも似た傾向あり。
・自律神経系の可能性もあるが、精神的要因を併発している印象。
・本人は異常を否定。常に冷静、過剰に謝罪的。
・彼はまだ“話すこと”を選んでいない。
・しかし、“助けを求めていない”わけではない。
・何かを受け止めすぎているような沈黙がある。
──必要であれば、心療内科との連携も視野に入れる。
________________________________________
けれど、彼のような生徒は、誰よりも強くて、誰よりも“脆い”。
そのバランスで保たれた存在を、
どうすれば守れるのか──
佐野にはまだ答えが出なかった。
ただ、願うことはできる。
彼が“守られたい”と思う日が、いつか来ることを。
•
その夜、保健室を閉めるとき、
彼の名を思いながら、電気を落とした。
夜の校舎は静かだった。
だが、誰かの心のなかでは、今もきっと戦が続いている。
それを、誰も気づかぬまま、朝がまたやってくる。
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第四話「母の直感、言葉にならないもの」
朝、玄関の戸を開けると、わずかに涼しい風が吹き込んだ。
夏の気配が色濃くなってきているのに、あの子の足取りはどこか重い。
「静、ごはんちゃんと食べた?」
「うん。……ありがとう」
あの子――静は、昔からあまり手のかからない子だった。
小さな頃から、駄々をこねるでもなく、妙に大人びていて、
何かと「僕がやるよ」と家事を引き受けたがった。
けれど、それが「優しさ」ではなく、
“何かを償うような仕草”に見えることが、時々あった。
•
最近、息子が変わった気がする。
変わったというより、「戻ってきた」ような――
でも、それが“今の子供らしさ”ではなく、
もっと“古い何か”をまとった人のように感じる。
寝ているときに、名前を呼ぶことがある。
「矢野……」と。
その名前を聞いた時、少し驚いた。
同じクラス、同じ部活の子だと知っていたから。
でも、それ以上の何かがあるように思えてならなかった。
•
ある日、静の部屋を通りがかったとき、机の上に開きっぱなしの手帳を見つけた。
ふだん彼はあまり日記のようなものは書かない。
けれど、その手帳には、短い言葉がぽつりぽつりと記されていた。
《夢を見た。懐かしい景色だった》
《どうして、あんなに剣が重く感じたのだろう》
《もし、あの時……》
具体的な内容は書かれていない。
だけど、そこに記された言葉の温度が、母親にははっきりと伝わった。
(この子……なにか、抱えてる)
そんな直感が、胸の奥に鈍く残った。
•
食卓で、静がふと箸を止めることが増えた。
「どうしたの?」と聞くと、「いや、なんでも」と答える。
けれど、目の奥には疲労の色があった。
最近、顔色もよくない。
部活帰り、制服のままソファでうたた寝してしまうこともある。
「静、具合悪い?」
「ううん、大丈夫。ちょっとだけ疲れてるだけだよ」
嘘だ。母親にはわかる。
“ちょっと”じゃない。
この子は、何かを“隠してる”。
•
夜中、トイレに起きたとき、ふと静の部屋のドアが少し開いていた。
中を覗くと、彼はベッドの上で、丸まるようにして眠っていた。
呼吸が浅く、何かに怯えるような寝相だった。
その姿に、心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。
何か――取り返しのつかないことが起きる前に、
この子の“言葉にならない声”を、どうにかして拾わなくては。
•
翌朝、リビングにいた静に、さりげなく声をかける。
「最近、なんだか、眠れてない?」
「……ん。たぶん、ちょっと変な夢を見ているんだと思う」
「夢?」
「うん。昔の夢、みたいな……でも、よく覚えてない」
そう言って笑ったが、笑顔はほんのわずかに震えていた。
母親として、彼に無理やり聞き出すつもりはない。
でも、「いつでも話していい」と伝えることだけは、忘れたくなかった。
「静」
「なに?」
「大丈夫じゃなくなったら、大丈夫じゃないって言ってね。
お母さんは、いつでも聞くよ。黙ってても、いいけどさ。……見てるから」
静は少し目を丸くして、
「あはは……お母さん、こわい」と冗談っぽく笑った。
でも、そのあとに、ぼそっと。
「ありがとう」
とだけ、呟いた。
•
ふと、思い出すのは――
幼い頃、剣道を始めた日のことだ。
まだ幼稚園にも入らない年齢で、道着も着られない小さな体が、
竹刀を握ったときの真剣な目。
(ああ、この子はきっと、何かを思い出している)
その時も、どこかでそんな直感があった。
あれから十数年。
今、また同じような感覚が胸をよぎる。
(静……あなたは、何を思い出しているの?)
どんなに大きくなっても、
子供の変化を感じ取る母親の勘は、なかなか外れない。
彼の中で何かが目覚めている。
それが、過去なのか、痛みなのか、
それとも“誰かとの再会”なのかは、わからない。
ただ、願う。
この子が、その手で“未来”を選べるように。
痛みではなく、誰かと“笑うため”に剣を持てるように。
たとえ、遠い過去に何があっても。
──母として、祈る。それだけだ。
ーーーーーーーーーーーーー
第五話「怒りの剣、咎の手」
――剣道部後輩・中村圭視点
あの日の道場は、いつもと何も変わらない静けさの中にあった。
部活後の自主練が終わって、道場に残ったのは僕ひとり。
他の部員は帰ったり、走り込みに出かけたりしていた。
副部長の沖田先輩も、矢野部長も、それぞれ日誌や鍵を
職員室に届けに行っているらしく不在だった。
床は、いつも通りの板張り。ぴかぴかに磨かれて、どこか神社の境内みたいな、凛とした匂いがした。
でも、その静けさは、唐突に破られた。
「よう、ここが“あの”剣道部の道場か?」
無遠慮な声と、ギィと音を立てて開いた引き戸。
そこから現れたのは――二十人以上のヤンキーだった。
革ジャン、サングラス、タバコの煙。
見た目は平成のヤンキー漫画のまんまだったけど、声と目つきは冗談じゃなかった。
「おいおい、なんだよコレ……ドウジョウって畳じゃねえの? 床かよ。ガチやんけ」
「“あのヒーロー”はどこにいんだ? 副部長の静ってやつだよ。可愛い舎弟たちのお礼参りに来てやったんだ」
ヤツらはそう言って、土足でずかずかと板張りの道場へ上がり込んできた。
濡れた靴の跡が、きれいに磨かれた床に泥の模様を刻んでいく。
「ま、せっかくだし火でもつけとくか?」
ポケットからタバコを取り出し、あろうことか、床の上にポイと落とす音が聞こえた。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
「やめてください……! ここは、そんなことしていい場所じゃないです!」
思わず叫んでいた。
でも次の瞬間、胸倉をつかまれて、床に叩きつけられた。
「うっ……!」
酸っぱいものが込み上げて、喉の奥が焼けた。
顔の横に投げ捨てられたタバコが転がっている。
そこから焦げたような匂いが立ちのぼっていた。
視界がぼやけて、立ち上がれない。
足音と、誰かの笑い声。
ひりついた空気の中で、僕は見た。
道場の入口に、ひとりの男が立っていた。
沖田静――副部長。
僕が、どこかで憧れていた人。
だけどその時の沖田先輩は、いつもの穏やかな雰囲気をまとっていなかった。
顔は静かなのに、何かが燃えているような――冷たい怒りが全身から立ち昇っていた。
「……まず、靴を脱げ」
低い声だった。
ヤンキーたちは最初、気づかなかった。
でも、沖田先輩が一歩踏み出した瞬間、空気が変わった。
「誰? 見学か? ……あ?」
「“副部長”だよ。あんたらが探してた」
沖田先輩の声は穏やかだった。
それなのに、背中がゾッとした。
「――靴を、脱げって言ったんだけどな」
そこからの数十秒は、現実とは思えなかった。
•
沖田先輩が、ひとりのヤンキーの肩に手をかけた。
次の瞬間、軽く身体をひねるようにして、相手の体をひっくり返した。
派手な音も、怒号もなかった。
ただ、音もなく滑るように、男は床を転がった。
他の連中が慌てて詰め寄ろうとしたその瞬間、沖田先輩が半歩前に出た。
その動きだけで、誰も近寄れなくなった。
何が起きたか、僕には理解できなかった。
でも――
“本能”が理解していた。
あれは、ただの高校生じゃなかった。
何か、もっと古くて、もっと恐ろしい“剣の亡霊”みたいなものが、そこに立っていた。
動きに無駄がない。
力も、怒鳴り声も使っていない。
けれど、一挙手一投足が“殺気”を帯びていた。
それでいて、誰も傷つけてはいない。
圧倒するだけ。
自分の体と、ただの“間”だけで。
「ここは、そういう場所じゃない。二度と、来るな」
目が合ったヤンキーたちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
まるで本能に刻まれた“捕食者の視線”を受けた獣のように。
•
僕は、倒れたまま涙を流していた。
悔しく手とか、怖くてじゃなかった。何かわからない、得体の知れない“尊さ”に触れたような気がしていた。
逃げていくヤンキーたちの背中を見送りながら、
沖田先輩は一度だけ小さく息を吐いた。
そして、僕のそばに来て、しゃがみこんだ。
「ごめん。巻き込んじゃったね。……大丈夫?」
声は、いつも通りだった。
でも、心のどこかで分かっていた。
――あれが本当の“沖田静”なんだ。
沖田先輩の見た目はいつもの沖田先輩だ。
だけど、目の前の“この人”は僕の知る沖田先輩じゃない。
――鬼だ。
鬼神だ。
目の奥が笑っていない。
今にも、新たな獲物を探して、どこかへ出ていってしまうそうな――
•
――次に来たのは、矢野先輩だった。
道場の床を見て、目を伏せた。
そして、沖田先輩に、ただ一言だけ。
「静、戻ってこい」
•
その言葉で、沖田先輩は少しだけ微笑んだように見えた。
鬼神の面影は、もうなかった。
ただ、“普通の先輩”に戻ったように見えた。
でも、僕はもう知ってしまったのだ。
その奥に潜んでいる、別の顔を――
ーーーーーーーーーーーーー
第六話「顛末書と静けさ」
放課後の職員室は、夕日が差し込んで妙に温かかった。
静だった。けれど、その“静けさ”が、まるで重さを持っていた。
扉の前に立った沖田静は、一度だけ深く息を吸ってから、ノックした。
返事を待たず、ゆっくりと扉を開ける。何人もの教師の視線が一斉に注がれた。
「お忙しいところ、失礼します。剣道部の副主将、沖田静です。先ほどの件について、報告に参りました」
その声は落ち着いていて、どこまでも理知的だった。けれど、その目には微かな影が宿っていた。
•
道場での一件――
二十名以上の不良が無断で乱入し、部員に暴力を振るい、騒動が起きた。
その場に偶然居合わせた沖田が、後輩を守るために対応。
加害者側に負傷者なし。物的損傷もごく軽微。沖田本人も無傷。
……とはいえ、「副部長が暴れた」という噂だけが、校内を駆け巡った。
•
「それで……顛末は、こうです」
沖田は、手にした紙を差し出した。
そこには、冷静な筆致で事件の経緯と、自らの判断、動機が記されていた。
“剣道場は神聖な場所です。
そこに土足で乱入し、部員に危害を加える行為を看過できませんでした。
また、明らかに僕を標的としたお礼参りであることから、責任を感じております。
制圧にあたっては、最小限の動きにとどめ、相手に傷を負わせないよう注意を払いました。
今後、同様の事態を未然に防ぐべく、部としての防犯意識の徹底を検討いたします。”
•
沈黙が落ちる。
やがて、一人の教員が口を開いた。
「……冷静すぎるくらいだな。本当に、あんな人数相手に、ケガ一つさせずに?」
「事実です」
即答する沖田。その瞳は、まっすぐだった。
「ただ、結果として“大騒ぎ”にはなってしまいました。責任を取るべきだと考えています」
•
その日の会議は、予定よりも短く終わった。
担任の石田が、控えめに笑って言った。
「処分は……形式的な謹慎、一日。だけど静、これは“お咎めなし”とほぼ同じだよ」
「……恐縮です」
「顛末書、よくできてた。教師が書いたみたいだったぞ」
•
翌日、沖田は登校せず、学校はざわついた。
「え、マジで謹慎?」
「でもさ、誰もケガしてないんでしょ? むしろ英雄じゃね?」
「ていうか、アイツがそんなことするなんて想像つかない……」
「いやでも去年もあっただろ?」
「沖田さん、今回はヤンキー二十人も追い払ったん!? しかも相手無傷!?」
「逆に、惚れるわ……」
•
次の日、何事もなかったように登校してきた沖田に、矢野が声をかけた。
「よぉ。おかえり。……なーんもなかったな。俺、校長室でお茶出されたぞ」
「……なんでそんなことに?」
「お茶出されながら“お宅の副部長すごいですね”って言われたわ。静、今もう完全に“校内の都市伝説”だぞ」
「やめてくださいよ。僕は……目立ちたくないんです」
「無理だな。英雄だぞ」
「ただの副部長です」
•
下駄箱の陰で、女子生徒たちがこそこそと囁いていた。
「昨日ね、“沖田くんのファンクラブ”できたらしいよ……」
「無言でガン飛ばしてたら相手が倒れたって噂、あれマジなの!?」
「彼の正体、絶対ただの高校生じゃないよね……」
•
午後。
部室の掃除をしていた沖田の前に、そっとひとりの後輩が現れた。
中村だった。
先日の襲撃で、床に伏したまま沖田の“あの姿”を見た部員。
彼は、深く頭を下げた。
「先輩……あの時、本当に、ありがとうございました」
沖田は少しだけ笑って、言った。
「顔を上げてください……僕が巻き込んだようなものですから」
そして、視線を伏せる。
その背中は、静かに疲れていた。
•
夜。
自宅の机に座った沖田は、一枚の紙を取り出していた。
顛末書の控え。
その端に、小さな文字で自分の名前を記す。
――沖田 静
どこまでも淡々とした筆跡。
けれど、その手は、ほんのわずかに震えていた。
彼は、自分の中に眠るものを知っている。
そして、いつか――それが、もう一度目を覚ますかもしれないことも。
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補間話「英雄なんかじゃない」
昼休み、誰もいない武道場の片隅で、静かに下足を脱ぐ。
板張りの床がまだ冷たく、沖田静はゆっくりと正座した。
目を閉じる。遠くから聞こえる昼のざわめきが、蜃気楼のように遠のいていく。
誰もいない場所でしか、うまく息が吸えない。
最近、そういう時間が増えた。
•
「やっぱ、あれ本当だったらしいよ。沖田先輩、一人で二十人追っ払ったんだって」
「ヤンキーが土下座して謝ったとか、泣きながら逃げたとか……」
「……マジで映画じゃん。リアル鬼神。尊すぎる」
•
廊下を歩くたび、話し声が耳に刺さる。
誰も悪気があるわけじゃない。
ただ、好奇心に満ちた視線の数々が、静をひとつの“物語”に変えていく。
それはもう、本人の意思では止められない。
英雄。ヒーロー。伝説。
違う。違うんだ。
•
武道場の天井を見上げる。
板張りの床には、まだ先日の血痕の名残がある。
誰かが殴られ、倒れ、そして……誰かがそれを見ていた。
自分だ。
俺だ。
剣を持たずとも、あの瞬間、あの心はまぎれもなく“戦場”にあった。
怒りと殺意の淵を、何度も往復した。
あれは、守ったんじゃない。
ただ、感情が暴発しただけだ。
•
道場に押し入った二十余人。
殺そうと思えば、できた。
抑えられたのは、技術でも理性でもない。ただ――“残響”だ。
かつて、自分が“本当に殺していた”記憶。
何十人も、何百人も。
真っ赤な地面。うごめく断末魔。
人の肉を斬る感触。
剣に絡みつくぬるりとした温度。
……忘れてなどいない。
「……俺は、罪人なんだ」
ぽつりと声が出た。
自分の声に、自分が驚く。
ふと、右手が震えていることに気づいた。
•
“かっこいい”
“すごい”
“沖田先輩、マジで惚れる”
“何者なんだろう”
そんな言葉のひとつひとつが、刃のように突き刺さる。
違うんだ。
俺は、誰も惚れさせる資格なんてない。
胸を張ることも、語る過去も、何もない。
記憶に残っているのは、命を奪った数だけだ。
守った誰かの顔は、霞んで思い出せないのに。
•
気づくと、呼吸が乱れていた。
喉がひゅう、と鳴る。
手の平に爪が食い込むほど力が入っていた。
落ち着け。
大丈夫だ。
ここは戦場じゃない。
誰も死なない。
誰も、殺さない。
「……俺は、もう斬らない」
呟いて、拳を開いた。
そのとき、不意に扉の向こうで足音が止まる。
誰かがいる。
息を殺して、沖田はその場に身を伏せた。
見つからないように。話しかけられないように。
•
英雄?
笑わせるな。
俺は、ただの罪人だ。
誰も知らない場所で、ひとりで震えているだけの。
何かを守ったことも、赦されたことも、一度もない。
•
冷たい床に両手をついて、頭を垂れる。
吐くように、祈るように。
「誰か、忘れてくれ……。俺のことなんか――」
その声は、誰にも届かない。
けれど、確かにそこにあった。
•
彼の“静けさ”のなかには、誰にも見せない戦がある。
それは、たったひとりの戦場。
己の罪と、英雄譚の皮を被せられた過去との、終わらない戦い。
•
それでも、彼はまた、廊下に立つ。
背筋を伸ばして、無表情で、誰かの「かっこいい」という視線を背中に浴びながら。
誰にも悟られないように。
誰にも触れられないように。
ただ、静かに。
英雄の仮面を、被ったままで。
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第七話「保健室の先生の記録」
――記録番号 036:沖田 静(高三)
記録担当:保健室 常勤養護教諭・佐野麻子(以下、教諭)
________________________________________
【初回観察日:四月十二日】
春の健診にて面談。
姿勢良好。視線は穏やか、受け答えも明晰。
やや低体温気味(36.1℃)だが、異常なし。
印象:昨年までと変わらず、物静かで落ち着いた生徒。剣道部所属。副部長。
備考:担任曰く、「面倒見もよく、冷静な優等生」
部活顧問曰く、「あいつがいないと部がまわらん」
本人談:「あまり無理はしませんよ。無理してまで何かを守れるほど強くはないので」
――この一言に、少しだけ引っかかり。
•
【五月二日】
昼休み中、保健室のベッドで休憩を申し出。
表情は変わらず。体調不良の訴えなし。
理由を聞くと「ちょっとだけ、昼寝したくて」と笑う。
うたた寝の様子は深く、脈はやや不規則。
目を覚ました瞬間、一瞬瞳孔が大きく開いていた。
咄嗟に名を呼ぶと、「あ、ここ、ですか」とゆっくり答える。
まるで、夢のなかから引き戻されたようだった。
メモ:短時間で深い眠りに落ちる傾向。脳が疲弊している可能性あり。
•
【六月九日】
校内で軽い失神。前後の文脈なく、階段の途中で立ち止まったまま意識を失う。
即時保健室に搬送。脈拍正常、血圧低め。熱なし。異常所見なし。
起床後の第一声:「……また、ここか」
この“また”に反応し、「何か、覚えてる?」と聞くと「なんでもないですよ」と返される。
表情に変化なし。しかし、目元だけが妙に暗い。
そのまま三十分休ませ、帰宅許可。
顧問に連絡し、部活は休止指示。
•
【六月十五日】
担任より非公式相談。「沖田の様子が変だ」とのこと。
教室では以前より静かで、授業中も虚を見ていることがある。
以前は無表情でも気配りが行き届いていたが、最近は少し“遠く”にいるような感覚があるらしい。
部活内でも「道場で一人で素振りを繰り返していることが増えた」との報告。
•
【六月二十四日】
二度目の保健室搬送。放課後、剣道部での稽古中に意識を失う。
十分ほどで意識回復。
目覚めた瞬間、異常なほどの警戒反応を見せた。
ベッドの端に手を突き、周囲を見回す姿は、まるで“敵がどこにいるか”を確かめる兵士のようだった。
私が名を呼ぶと、またすぐに表情は戻る。
「……すみません。昔の夢を見ていたようです」
“夢”という言葉を、あえて強調した口調だった。
•
【六月二十八日】
校内でのヒーロー化が加速。
先日の騒動のあと、彼のことを称える声が増えている。
保健室にも生徒が「副部長ってすごいですよね」「あの目、やばかった」「神」「尊い」と話に来る。
本人はこの反応を避けているようだが、否応なしに広がる“英雄の伝説”。
その翌日、昼前に突然来室。
顔色はいつも通り。けれど、黙って、椅子に座った。
「……自分は、そんなにいい人じゃないですよ」
その一言だけ残して、深く眠る。
四十五分間、無言で、まるで遠くにいるような顔で。
•
【所見】
沖田 静は、明らかに“なにか”を内包している。
それは医学的には“解離性の傾向”といえるかもしれないし、精神的な“記憶の断片化”かもしれない。
ただ、彼が“苦しんでいる”という確信だけはある。
英雄と呼ばれながら、それを拒み、
誰よりも穏やかな顔をしながら、誰よりも深く何かに触れている。
彼の“静けさ”の裏側にあるもの――
それに、私はまだ、手を差し伸べることができない。
けれど、記録は残す。
彼の「沈黙」を、未来の誰かが解けるように。
•
【付記】
本記録は、本人には非公開とする。
要観察。必要に応じて、校内カウンセリングへ案内予定。
•
――保健室記録 佐野麻子
七月四日記
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第八話「母の視線」
春が過ぎ、初夏の空気に変わったある日。
夕暮れの光が、リビングの床に柔らかく差していた。
私は、食卓にひとり座っていた。
カチャリ、と湯飲みを置く音が響く。時計の針は午後六時三十分。
静は、今日も部活だろうか。それとも、どこかで寄り道をしているのか。
昔から、あの子は時間に几帳面で。
遅れるときは必ず連絡をくれていた。
けれど――ここ最近、そうじゃない。
なんというか、“気配”が違うのだ。
•
「ただいま」
玄関の扉が開く。
声はいつも通り、穏やかだった。
けれど、目が合った瞬間、胸の奥がずしりと重くなる。
疲れているように見えた。
顔色は悪くない。笑顔も、ある。
でも――目の奥だけが、暗いのだ。
「おかえり。夕飯、すぐ出すわね」
「ありがとう。あ、僕、お風呂、先に入ってもいい?」
「いいわよ。ゆっくりしておいで」
言葉を交わすたび、私は“壁”を感じる。
息子は昔から、どこか達観したような子だった。
子どもらしい駄々をこねることも少なく、泣き言も言わなかった。
でも、こんなにも“遠い”と感じたのは、初めてだった。
•
お風呂から上がってきた静は、髪をタオルで拭きながらテーブルについた。
「いただきます」
手を合わせる所作も、やっぱり丁寧で。
それなのに、どこか機械的にさえ見える瞬間があった。
「静、最近ちょっと痩せた?」
「そうかな? あんまり気にしてなかったけど」
「なんか、顔が細くなったように見えるわよ」
「部活のせいかもしれない。試合も近いし」
そう答える顔は、微笑んでいる。
けれど、私は知っている。
この子は、“大丈夫”と言うときこそ、本当は大丈夫じゃないときだということを。
「……ちゃんと、眠れてる?」
ふと、口をついて出た。
問いかけた自分の声が少し震えていたのを、自覚している。
静は、箸の動きを止めた。
ほんの一瞬。
でもその一瞬が、とても長く感じられた。
「……うん、まあ。ちょっと……夢を見ることは、あるけど」
「夢? どんな?」
「……昔の景色。見たことがあるような、ないような」
その言い方が、どうにも現実味を帯びていた。
“前世”という言葉が、ふと頭をよぎった。
昔――静が五歳の頃。
一度だけ、眠りながら涙を流していたことがあった。
そのとき、彼は夢の中で何を見ていたのだろう。
•
最近、洗濯物をたたむとき、静の剣道着が重くなった気がした。
重さではなく、“気配”のようなものが、染みついている。
まるで、汗や土や血のような――
そんなものが、布の奥に沈んでいるような。
きっと、気のせいなのだろう。
でも、気のせいには思えなかった。
•
夕食を終え、彼が部屋へ戻ると、私はそっとソファに腰を下ろした。
何かが変わっている。
きっと、本人も気づいている。
けれど、それを口にできないでいる。
私は、母親として、彼に踏み込むべきなのか。
それとも――黙って見守るべきなのか。
•
リビングに彼の筆箱が置きっぱなしになっていた。
手に取ると、下に一枚の紙が挟まっていた。
――それは、学校から配られた“進路希望調査”のプリントだった。
空欄のまま、何も書かれていなかった。
“将来の夢”
“目指す大学”
“志望理由”
全部、空白。
その余白が、まるで心の中を写しているようだった。
•
あの子は、未来に向かって歩こうとしている。
けれど、過去が、何かが、彼の足を引っ張っているように思える。
私は、あの子を救えるのだろうか。
きっと、何かが壊れてしまう前に、何かをしなければならない。
でも――どうしたらいいのか、わからなかった。
•
「おやすみなさい、静」
心の中で、そう呟いた。
隣の部屋から、かすかにうなされるような寝息が聞こえた。
その夜、私は一睡もできなかった。
ーーーーーーーーーーーーー
第九話「鬼の副部長」
――後輩・吉岡視点
“あの日”――あの出来事を、俺はきっと生涯忘れられないだろう。
騒がしかった。
いや、騒がしい、なんて生ぬるい音じゃなかった。
廊下の向こう、道場のある旧館から、怒号と破裂音が響いてきた。
「……何かあった?」
部活後の武道場周辺の掃除を終えた俺は、集めたごみを旧校舎横のごみ集積場に持っていっていた。
慌てて音のする方へ走っていくと、向こうから逃げてくる生徒がひとり――中等部一年生の見学に来ていた子だ。顔を真っ青にしている。
「や、ヤバいっす……道場が、なんか、暴走族みたいなのに襲われて――!」
その言葉を聞いた瞬間、道場に向かって全速力で走った。
半数以上の部員は帰宅したが、まだあそこには、俺の仲間たちがいる。
そして、引き戸を開けた瞬間、俺は“異様”に立ち尽くすことになる。
•
板張りの床に、ぐしゃっと何かが転がっている。人だった。
制服。剣道部の部員――中村だ。
床には煙草の吸い殻が二、三本転がっている。
見たことのない不良どもが、道場の真ん中に集まり、口々に怒鳴っていた。
土足だった。バイクのブーツのままだ。道場の、板の床が濁って見える。
タバコの灰も、靴の跡も、全部が“穢れ”のように思えた。
その真ん中に、たったひとり、制服姿のままで立つ男がいた。
沖田静。
副部長。俺たちの“参謀”であり、“影の主将”。
•
でも――そのときの先輩は、“誰か”じゃなかった。
腕まくりをしたYシャツ。
無表情のまま、タバコの吸い殻を拾い、音もなく握り潰す。
目は、氷みたいだった。
その目を見たヤンキーの一人が、言葉を失ったのを俺は見た。
「君たちが俺に用があるなら、俺のところに来ればよかったでしょうに」
その声は、やさしくすらあった。
だが次の瞬間、
「……愚かだねぇ」
沖田先輩の右足が音もなく踏み出され――世界が変わった。
•
人が――飛んだ。
本当に。
空中に投げ出されたみたいに、ヤンキーの一人が宙を舞い、板の上に背中から叩きつけられた。
「おい、てめぇ――!」
怒鳴りながら向かってきたもう一人の男が、返す手を打つ間もなく手首を取られて壁際に固定される。
間髪入れず、後ろから来たやつの蹴りを、後ろ向きのまま踏み込みで潰す。
その所作、全部が、“剣”だった。
たとえ何も持っていなくても、沖田先輩の動きは、明らかに“武器”のそれだった。
「……一体何者なんですか、この人」
俺の隣にいた、隠れていた新入生がそう呟いた。
その言葉は、俺の心の中でも、ずっと鳴っていた。
•
静先輩は、怒鳴りもしなかった。
挑発もしなかった。
ただ、怒っていた。
俺たちの仲間が傷つけられたことに。
道場が汚されたことに。
なにより――本当は自分が狙われるはずだったのに、その“代償”を誰かが払ったことに。
その怒りが、冷たい炎になって、全身からあふれていた。
俺はその時ようやく知った。
“静かに怒る人間”ほど、怖いものはないのだと。
•
やがて、ヤンキーどもがぐずぐずに退散したころ、道場の戸が激しく開かれた。
「静!!」
矢野部長だった。
彼は駆け寄りながら、倒れている不良を避け、沖田先輩に正面から向き合う。
「静、戻ってこい!」
一瞬――その言葉に、空気が変わった。
沖田先輩の目が、ゆっくりと、ほんの少し、柔らかくなった。
「……すみません」
ぽ つりと、それだけを呟いて、静かにその場に膝をついた。
•
あとで聞いた話では、ヤンキーたちは去年やられた先輩への“仇討ち”だったらしい。
警察沙汰にはなったが、正当防衛と認定され、副部長に処分はなかった。
それどころか、学校内では“正義のヒーロー”として話題になったほどだ。
けれど――俺は知っている。
あのときの副部長は、誰よりも怒っていた。
自分自身にすら、怒っていた。
“鬼神”という言葉が、こんなに近くにあったのかと、俺は震えた。
•
それでも。
あのとき、俺は思った。
沖田静さん――あの人が、俺たちの副部長でよかった、と。
ーーーーーーーーーーーーー
第十一話「春と夏のあいだで」
――矢野 蓮視点
春の風は、まるで何もかもをなかったことにするかのように、優しかった。
桜が咲いて、練習用具を手入れして、また新入部員が入ってきて。
剣道部も、教室も、日常は着実に進んでいった。
けれど、俺にはわかっていた。
春が穏やかになればなるほど、静の中で何かが削れていく音がしていた。
•
「……風邪か?」
そう聞いたのは四月の終わり。道場で一緒に防具を拭いていたときだ。
「喉に埃が入っただけですよ。大丈夫です」
返ってきた言葉はいつも通りの笑顔。
けれどその笑顔は、どこか“作り物”に見えた。
いや、静の笑顔が全部そうなんじゃないかと、ふと思ってしまった。
俺の中に芽生えたその疑念は、そこから少しずつ大きくなっていった。
•
五月。中間テスト前、教室で静が寝ていた。
そんなこと、以前の静にはなかった。
授業中に居眠りなんて、絶対にしないやつだった。
でもその日は、窓際で腕を組んだまま、深く沈むように眠っていた。
呼吸が浅かった。
額に汗が滲んでいた。
――また、か。
「……静?」
声をかけると、ゆっくりと目を開けて、少しだけ焦点の合わない目で俺を見た。
その視線が、“今”にいないような――過去か、どこか知らない場所をさまよっていた ように見えて、言いようのない怖さを覚えた。
「ごめん、ちょっと夢を見てました」
何の夢かは聞けなかった。
静も何も言わなかった。
けれど俺は知っている。あの目は“見てはいけない何か”を見た目だ。
•
六月。
静はたまに、食欲がない素振りを見せるようになった。
「今日、昼はいいのかよ?」と聞くと、
「弁当忘れちゃって」と笑う。
でもリュックの中には、封が開いていないままのゼリー飲料が見えていた。
俺はあえて何も言わず、購買であんぱんを買ってきて机に置いた。
「……いただいていいんです?」
「お前に買ってきたんだ」
「……ありがとう。つぶあんですか。最高ですね」
静はそう言って、ひとつを口に入れたが、あまり噛まずに飲み込んでいた。
空腹を満たすというより、“咀嚼の手順”を辿ってるだけのようだった。
まるで、自分の中の“生きている感覚”を確かめるために。
•
七月。
暑さが増し、部活も本格的になる中で、静はいつにも増して“完璧”だった。
フォームは乱れない。
指導も的確。
後輩のミスも笑って受け流す。
けれど俺は、その“完璧さ”の奥にある、何かを感じ取っていた。
その日は、いつもより静かだった。
いや、音はあったはずなのに――静だけが“無音”の中にいるようだった。
「……なあ、静」
道場の隅、帰り支度をしているときに、声をかけた。
それでも静は、振り返らなかった。
ただ、窓の外を見たまま、ぽつりと答えた。
「僕が誰かを救ったとしても、きっとそれは――ただの償いでしかないんです」
「……何の話だよ」
「さあ、なんの話だったんでしょう」
そう言って、ようやくこちらを向いた静の目は、ちゃんと笑っていた。
でも、その笑顔の奥に、“自分自身に触れていない”ことがはっきりと見えた。
•
麻子先生は、おそらくもう気づいていたのだろう。
静の変化に、もっと前から。
けれど、きっと誰もが同じだった。
静が“笑っている”限り、問い詰めることはできなかった。
だって、静が見せる“何も問題ない”という態度こそが、
俺たちが信じたい“静の姿”だったからだ。
•
だけど、もう限界だと俺は思っている。
あと何回、静が“夢”の中で誰かを斬らねばならないのか。
あとどれだけ、“自分を罰するように”笑い続けるのか。
この夏、俺は決めていた。
静のことを、守る。
前世でできなかったぶん、今度こそ――絶対に。
•
そしてその決意が、本当に試されるのは、もうすぐだった。
ーーーーーーーーーーーーー
第十二話「斜陽の約束」
――静の兄・沖田陽介視点
俺には、二つ年下の弟がいる。名前は、シズカ。
小さい頃は病弱で、よく熱を出しては布団にくるまっていたくせに、なぜか“剣道”なんかを始めた。
「体に差し障るからほどほどにしなさい」って母さんが何度言っても、あいつはニヤリと笑って、
「大丈夫。刀を振るのは、なんとなく……体が覚えてるから」
なんて、意味のわからないことを言ってた。
•
俺が大学に入って一人暮らしを始めたのは、家が嫌だったからじゃない。
家から通えない距離に、進学先があった。それだけだ。
でも、弟のことは気になってた。
あいつは“変わってる”って言われてたけど、実際そうだと思う。
浮いてるとか、怖いとかじゃなくて、“見てる景色が違う”って感じだった。
たとえば、桜の季節に一緒に歩いてると、
「ただいま」
なんていう。
「ただいまって、なんのことだよ」って聞いても、はぐらかす。
でも、あいつの目はそのとき、確かに――“遠くを見ていた”。
•
ある日、母さんから電話があった。
「静ね、最近不眠が酷いみたいで……何か知ってる?」
俺は知らない、と答えた。でも、なんとなくわかっていた。
静の“なにか”が、もう限界に近いって。
だから、久々に実家に帰った。
玄関を開けたとき、あいつはちょうど洗濯物を取り込んでいるところで、俺の顔を見るなり眉を下げて笑った。
「兄ちゃん、元気してた?」
「久しぶり、クソガキ。お前、ちょっと痩せた?」
「んん、体重は変わってないんじゃないかな。背が伸びただけじゃない? そのうち追い越すから」
「意味わかんねーよ」
……本当は、わかってた。
あいつの笑い方が、以前より“遠く”なってること。
口角の上げ方は同じでも、目の奥だけが冷たい。
俺が小さい頃、風邪で寝込んだとき、静が熱いおでん持ってきてくれたことがある。
「なんでおでんだよ」って笑ったら、
「おかゆばっかりだと飽きるでしょ?」って言ってた。
そのくせ、自分は体調を崩しても誰にも言わない。
助けてもらうのが、どこか“悪いこと”だと思ってる節がある。
•
夜、母さんが寝たあと、俺はこっそりリビングに降りた。
すると庭先で静が、灯りもつけずに、ひとり剣道の構えをとっていた。
「……お前、寝ろよ。深夜練習かよ」
驚かせるつもりはなかった。でも、あいつはほんの少しだけ肩を震わせて、
それから、ひどくゆっくりと振り返った。
「……兄ちゃんは、僕がもし、“人を斬った過去”があったら、どうする?」
その質問は突飛すぎて、すぐには答えられなかった。
でも、目を見ればわかる。
あれは“仮定の話”じゃない。あいつの中では、たぶん――“事実”だった。
「過去ってのは、今のお前じゃない。……だから俺は、今のお前を信じる」
そう言うと、静はぽつりと、
「ずるいな、兄ちゃんは。僕がどれだけ自分を嫌っていても、簡単に赦すから」
と言って、またあの“遠い目”に戻った。
•
帰り際、静は駅まで見送ってくれた。
「今度、時間あるとき飯でも行こうぜ」
「兄ちゃんの奢りなら」
「言ったな」
少しの笑いと、少しの沈黙。
その道すがら、俺は一つだけ思った。
この弟は、今、何かと戦ってる。
誰にも見せず、誰にも寄りかからず、自分一人で。
だからこそ――
俺だけは、お前を“普通の弟”として、隣に立ってやる。
過去に何があろうと。
未来に何が起ころうと。
俺の弟であることに、変わりはないんだから。
•
――この世界で、たった一人でも“お前を肯定する存在”がいれば、
きっとそれだけで、命は踏みとどまれる。
•
……あいつの骨ばった背中を見送りながら、そんなことを思っていた。
ーーーーーーーーーーーーー
第十三話「影の中の灯」
――視点:街の喫茶店店主(中年男性)/沖田静の“日常”を静かに見てきた者
________________________________________
あの子が最初にこの店を訪れたのは、たしか高校に入ったばかりの春だった。
制服の胸元に貼られた名札――沖田、静。
その名に違わず、ひどく静かな少年だった。
初めて来た日は、読書をしながらカフェオレを飲んでいた。
一言も話さず、長居もせず、きちんと礼を言って帰る。
その姿が、妙に印象に残った。
それから、ぽつぽつと週に一度は来るようになった。
頼むものは変わらない。カフェオレと、たまにミルフィーユ。
手にしている本は、歴史書や古典文学、剣術指南書――変わった子だと思った。
けれどある日、彼が窓辺の席に座っていたとき、不意に“意識が飛んだ”ような仕草をした。
手にしていた本が床に落ちても、顔を上げることもない。
目は開いていたが、焦点が合っていなかった。
店内にいた客が騒ぐほどのことではなかったが、
私はそっとカウンターから出て、彼の隣に立った。
「……静くん、大丈夫かい?」
少しして、彼はふわりと瞬きをして、「すみません」とだけ言って頭を下げた。
何事もなかったように本を拾い、続きを読み始めた。
だが――その日からだった。彼の様子が変わったのは。
•
目元に、たまに深い影を落とすようになった。
誰も見ていないところで、目を閉じ、呼吸を整えている姿を何度も見た。
ある日、閉店間際の店に一人で来た彼が、私にこんなことを尋ねた。
「……もし、過去に多くの命を奪った人間が、何も知らずに今を生きていたら、その人は――赦されますか?」
一瞬、彼が何を問うているのか、理解できなかった。
だがその目は、“答えを求めている”目だった。
「赦されるかどうかを決めるのは、他人じゃない。まず、自分自身だ。
それに――もし本当に贖いたいと思ってるなら、その想い自体が、すでにひとつの答えだと思うよ」
そう言うと、彼はゆっくりと微笑んだ。
けれどその笑みは、まるで“誰かの仮面”のように儚かった。
•
最近は、来店する頻度が減った。
いや、“来たいのに、来られない体調”なのかもしれない。
近所の高校の生徒たちが彼の話をしているのを耳にする。
「沖田先輩って剣道部の副部長で、めっちゃかっこいい」
「でも、この前の事件、ヤバかったらしいよ。ヤンキー二十人を睨みで止めたとか」
まるで都市伝説のように。
でも私は、知っている。
彼が本当に恐れているのは、自分の“咎”なのだと。
自分が英雄として讃えられれば讃えられるほど、
その裏で彼は、自分の心を刻んでいる。
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あの日――彼が店を去るとき、立ち止まって言った。
「……ここ、安心するんです。たぶん……匂いの記憶でしょうか。遠い昔、似た場所にいた気がする」
私には、彼が語る“遠い昔”の意味はわからなかった。
けれど、それでも言いたかった。
「また、いつでもおいで。君の席は、いつも空けておくから」
彼はふわりと目を細めた。
そのときだけは、“遠い目”ではなく、“今”を見ていた。
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きっと彼は、まだ戦っている。
自分の中の“過去”と。
誰にも赦されなかった“記憶”と。
だが――だからこそ、誰かが静かに待っていることも、また意味があるのだと思う。
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灯りは、たとえ見えなくても、そこにある。
彼が戻ってこられるように。
彼が、“今”を選べるように。
私はただ、小さな灯を守っていようと思う。
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第十四話「遠くて、近いひと」(剣道部後輩女子の視線)
「――副部長、やっぱり、かっこよすぎじゃない?」
誰かのそんな囁きが、稽古終わりの更衣室に残っていた汗の熱気に混じって流れた。
沖田静、三年生。うちの剣道部の副部長で、ちょっと有名な人。
この学校にいるだけで、静かなざわめきが生まれるような、そんな人だ。
最初に名前を聞いたのは、入学してすぐのことだった。
新入生歓迎試合のとき。一本目の試合で静さんは、顧問の先生と模範試合をした。あれは、ただの剣道じゃなかった。武道館の空気が、息を飲んだみたいに静まり返って。彼の一歩が、場のすべてを支配していた。
そのときから、たぶん私は――というより、誰もが、少しずつ、あの人に惹かれていたのだと思う。
*
夏休み前のある日。蝉の声が響く昼休み、私はたまたま渡り廊下で静さんを見かけた。
窓から差す日差しの中で、彼は、ひとりで本を読んでいた。汗のにじむ制服の袖を少しだけまくって、手首の包帯がちらりと見えた。最近は稽古のあとにアイシングしてるって噂だったけど、本当だったんだ――って、変なところに納得してしまった。
誰にも気づかれていないその姿は、どこか浮世離れしていた。でも、決して近づきがたいわけじゃなくて、むしろ静かにそこにいることが当たり前のようで。
なのに――なぜか、こちらからは踏み込めない距離感がある。
先輩は、笑うときだけはほんの少しだけ、ちゃんと人間らしくなる。
普段は淡々としてて、必要なことしか話さないし、部の後輩にも敬語で喋るし、誰かの話に頷く角度まで品がある。
でも、一度だけ、私の竹刀が壊れたとき――。
慌てる私を落ち着かせるように、微笑んでくれた。
「大丈夫。こういうのは、よくあることです。怪我、していませんか?」
そのとき、はじめて顔をまっすぐ見られた。
声のトーンも、目の色も、すごく穏やかだった。
でも奥のほうに、言葉にできないなにかが滲んでいた。
――哀しさ?
違う。もっと深いもの。
静かに、長く、過去のどこかから連れてきたような、そんなもの。
それが何なのか、考えようとするたびに、目が離せなくなる。
*
二学期が始まって、また剣道場に蝉の声は戻ってこなかったけれど。
夕方の練習のあと、彼が道場の隅で黙々と床を雑巾がけしていたのを見た。
「そんなの、下級生がやりますよ」
そう言っても、静さんはふっと笑うだけだった。
「気にしないでください。みんなでやったほうが早いですし」
「そ、そうですか?」
それ以上、何も言えなかった。
道場の板張りの床に伸びた夕焼けが、先輩の背中を淡く染めていた。
たぶん、この人は。
全部、自分で背負っているんだろう。
でも、それを一切、他人に押し付けない。
優しすぎるのか、強すぎるのか。
近くにいるはずなのに、なぜか遠い人。
それでも私は、あの人の背中を見ていたいと思う。
憧れって、届かなくてもいい。
むしろ、届かないからこそ、ずっと見ていられるんだ。
そう、思った。
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第十五話「矢野の見る夏」(矢野視点)
春の終わり、校庭の花壇でパンジーが風に揺れていた頃から、俺は、あいつの様子に違和感を覚え始めていた。
沖田静。副部長。俺の戦友。
誰よりも冷静で、誰よりも寛容で、誰よりも、どこか人間離れしてる男。
けど、そんな静が、最近おかしい。
時折、壁に手をつき、何かを逃がしている
昔は絶対にしなかった。不調を逃すようなしぐさ――そうだ、あれは、体の不調をごまかすためのサインだ。
俺は知ってる。あいつが無理をしてるときの癖を。
あの男は、決して弱音を吐かない。
痛いと言わない。疲れたと言わない。
でも、そういうやつが、ふとした瞬間に「呼吸を整える動作」をしてるなら、それはたぶん、限界を誤魔化してる証拠だ。
だから俺は、気づいてしまったんだ。
どれだけあいつが「平気そうな顔」を演じていたとしても、身体の底に何かがひそんでいることを。
*
六月のある日、部活のあと。
静は防具を外す手が、ほんの少しだけ遅れた。
他の部員は気づかなかっただろう。けど俺にはわかる。
試合形式で一本取った直後――あいつの肩が、ほんの一瞬だけ、かすかに震えていた。
「静、お前……」
「ん?」
「あ、いや。今日も一本、見事だったな」
言えなかった。
――お前、本当に平気なのか? って。
あの背中に背負わせてる何かを、もう少しだけ、俺が肩代わりできたらいいのに。
でも、言えなかった。
あいつは、どこまでも誇り高い。
誰にも迷惑をかけたくない。
きっと、そういうふうに生きてきたやつなんだ。
*
夏が近づくにつれて、気温と同じように、俺の不安もじわじわと上がっていった。
朝の教室。静は、教科書を読むふりをして、目を閉じていることが増えた。
授業中、窓の外を見ながら、焦点が合っていないこともあった。
そしてある日、数学の時間だった。
担任の石田先生が板書をしていたとき、静が突然、机を押さえて立ち上がり、そのまま教室を出た。
俺は、その瞬間、身体が勝手に動いていた。
駆け寄り、顔を覗き込んで、肩を支えながら保健室へ付き添おうとした。
あいつの目はぼんやりと開いていた。
そして、「一人で大丈夫」と言わんばかりに手で制した。
けれど、そのままその背を見送ると、――また、帰ってこないんじゃないか。
その日は、そんな不安に襲われていた。
こいつは、今どこにいるんだ?
どんな過去を、どんな記憶を、どんな罪を――
いま、この瞬間、抱え込んでるんだ?
俺は、無力だった。
*
保健室の白いベッド。静は横になるや否や、すっと眠りについた。
養護の佐野先生が、慣れた手つきで静の額に濡れたタオルを置きながら、俺に声をかけた。
「矢野くん。あなた、彼と仲がいいんでしょう?」
「……まあ、クラスと部活が一緒なんで」
「じゃあ、知ってる?」
「なにをですか」
先生は少し間を置いてから、こう言った。
「沖田くん、最近……夜眠れてないと思うわよ」
俺は、黙った。
先生は、それ以上は言わなかったけれど、その言葉が、胸の奥に突き刺さった。
夜、眠れてない。
それはきっと、“夢を見る”からだ。
――過去の夢を。
*
夏は、もうすぐだった。
蝉の声が、校舎の外で鳴きはじめていた。
沖田静は、今日も“完璧な副部長”を演じている。
けれどその背中に、誰にも見せない痛みを背負っていることを、俺は知っている。
そして俺は、思う。
あいつが、どんな過去を抱えていたとしても。
それでも――今を、生きようとしている限り。
俺は、そばにいる。
たとえ言葉にできなくても。
たとえ、あいつが自分を許せなくても。
俺は、あいつを、友だと呼ぶ。
それだけは、変わらない。
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【特別章】「夢と記憶のあいだで」
眠ることが、怖いと思ったのはいつからだろう。
夜になると、身体の奥から何かが疼く。
眠りに落ちるその瞬間、まぶたの裏には、今の季節とは無関係な雪景色や、焼けた血の臭いが広がる。
俺の夢には、過去の戦場が現れる。
そして、そこには決まって――沖田がいる。
いや、“沖田静”じゃない。
鬼神と呼ばれた、あの剣の化け物。
仲間を背に、ただ一人で敵の大群に突っ込んでいく男。
剣を振るうたび、肉が裂ける音がする。
斬られた敵が声もなく倒れ、血飛沫が空を切る。
何十、何百。
数えきれないほどの命を、その手で奪っていく。
けれどその表情には、何の喜びもない。
叫びも、怒りも、泣き言もない。
ただ黙々と、彼は斬っていた。
鬼でも、神でもない。
――あれは、たぶん、人間だった。
命令だからとか、守るためだとか、そんなことを超えた何か。
もっと冷たくて、もっと深くて、もっと……孤独なもの。
目が覚めるたび、俺は胸の奥に残る痛みと、汗まみれのシャツの感触に息を詰める。
あいつが、どれほどのものを背負っていたのか。
どれほど自分の手を汚していたのか。
少しずつ、でも確実に、俺にもわかってきてしまっている。
*
翌朝、道場の前で俺は静の背中を見つけた。
朝陽がまだ低く、影が長く伸びている時間帯。
静はひとりで竹刀を振っていた。
ゆっくりと、丁寧に、まるで“何か”を払うように。
その姿があまりに静かで、俺は思わず口を開いた。
「また、昨日も……見たのか」
静は振り返らなかった。
けど、竹刀の動きがふと止まった。
「見たよ。矢野くんも?」
「……ああ」
言葉が途切れる。
しばらく、風が吹いた。
「なあ、静」
俺は踏み込むように言った。
「過去の記憶って、どんな形で戻ってきても――罪は罪なんだろうな」
「……そうだね」
「けどさ」
俺は目を細めて、まっすぐ言った。
「今のお前は、その“過去の罪”を知った上で、誰かを傷つけずに済む道を選んでる。斬るより、守る方を選んでる」
「……」
「だからさ。お前はもう、“あの時の沖田”じゃない」
静は黙っていた。
竹刀をゆっくりと、胸の前に戻す。
「罪の意識を感じないわけがない。そんなやつじゃないって、俺は知ってる」
「でも、今のお前を、過去の自分と同一視する必要はない」
「俺は――今のお前を、俺の友達として見てる。あのときの“鬼”じゃなくて」
沈黙の中、静がぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう」
それだけだった。
でも、それで充分だった。
あいつは、苦しんでる。
悔いてる。
たぶん、眠るたびに地獄を歩いてる。
けれど、俺は見てる。
この現代の高校で、後輩に稽古をつけて、昼にパンを選びながら「今日はクリームにしようか迷う」とか言ってる、お前のことを。
だから俺は、あきらめない。
お前がどれほど過去に囚われても。
何度だって、引き戻す。
ここが、お前のいるべき場所なんだって。
過去に喰われるなって。
そう思ってる。
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「三者面談、秋」
──高校三年生・秋。沖田静、担任・石田先生、そして母親による三者面談。
教室に一番近い面談室。
窓の外には、赤と黄のあいだを揺れる欅の葉。風に煽られ、舞い上がる音が、扉越しにかすかに聞こえた。
「今日はお忙しい中ありがとうございます。では、始めましょうか」
石田はゆっくりと名簿を開き、沖田静と、向かいに座るその母親へと視線を移した。
沖田は制服のボタンをきちんと留めたまま、背筋をまっすぐに伸ばしている。
穏やかな眼差しと、微かに笑う口元。けれどその内側に張り詰めた気配があるのを、石田は見逃さない。
「静くんは、夏以降もよく頑張っています。成績も安定していて、提出物の遅れもなし。特に国語の記述問題の深度は、正直、教科担当が何度も読み返してしまうことがあるくらいなようで」
石田は笑った。母親も、「小さい頃から、ことばには……」と微笑みを返す。
だが、そこにはどこか不安がにじんでいた。
「……ただ、一点だけ。体調のことで、少しお聞きしたいことがあります」
沈黙が落ちる。
沖田は、石田の声にうなずくでもなく、ただ黙って視線を落とした。
母親の肩が、かすかに動いた。
「三年生に進級してから、保健室を訪れる頻度が少し増えましたよね。授業中に集中が切れたような様子があったり、目を伏せたまま動かないこともあったと、他の先生方からも報告を受けています。なにか、気になることはありますか?」
沈黙が、もう一段深く沈む。
やがて沖田は、伏せていた目をそっと上げた。
「……少し、夢をよく見るようになりました」
「夢……?」
「昔の夢です。もういない人や、見たことがない景色。……いえ、ただ、それだけのことなんですけど」
少し言葉を選ぶように語るその口調は、あまりにも冷静で、どこか諦めを含んでいた。
母親は、その隣で不意に手を握る。
「先生……静は、小さい頃から夜中に起きたり、ふと記憶が抜け落ちるようなことがありました。それまではまあ、子どもにはよくあることかな? くらいにとらえていたんですけどね。中学二年生頃から特に気になるようになってきて。でも、病院では特に異常はなくて。本人も平気だって言ってたので……」
石田は小さくうなずき、沈思。
生徒指導の記録には「温厚で落ち着いた性格」「責任感が強く、副部長として後輩への配慮もある」と並ぶ一方、
保健室の先生からは「目覚めたとき、涙を流していることがある」「夢の中で謝っていた」とも記されていた。
「……静くん」
名を呼ばれても、彼はまっすぐ目を向けることはなかった。
代わりに、静かに笑った。
「僕は、大丈夫です。先生にも、母さんにも、迷惑はかけませんから」
けれどそれは、「平気だ」という言葉ではなかった。
むしろ、「平気であることにする」意志だった。
罪を背負う者のように、自らの不調さえ抱え込もうとする、それを石田は感じ取った。
「……静。君はとても賢い。でも、全部自分で抱えようとするのは、賢さとは違うよ」
石田の言葉に、静はふっと目を細めた。
「そうですね。でも……」
そこで言葉を止めた。
「もし、誰にも言わずに持ち続けなければならない罪があるとしたら。それを抱えて生きるしかないとしたら」
「それは、誰かが決めたルールかい? それとも、君自身が?」
静は答えない。
代わりに、母親がつぶやくように口を開いた。
「静。お母さんは、何もできないかもしれないけど……でもね、見ていたいの。あなたが、あなたであることを」
それは、母親としての、ささやかな願いだった。
息子が自分の意思で何を選ぶか、それを止めることはできない。
それでも、見ていたい──と。
石田は、書類を閉じ、ゆっくりと手を組んだ。
「進路については、本人の希望通り、推薦でいける可能性は高いです。成績も問題ありません。
でも、僕はそれ以上に、静くん自身が、きちんと『自分の時間』を持って生きていけることのほうが大切だと思っています」
それは、未来の話ではなかった。
過去でも、現在だけでもない。
「……高校生活、あと半年ですね」
そう言った母親に、静はようやく、視線を向けた。
窓の外の欅が、ゆっくりと風に揺れている。
「……あと半年ある。大丈夫です、僕は」
それは、誰にも強いられた言葉ではなかった。
ただ、今ここで、自分の足で立っていたいという、ひとりの若者の決意だった。
石田は、柔らかくうなずいた。
「うん、それが聞けてよかった」
秋の風が、ガラス越しに机の端の書類を揺らした。
どこか遠くで、剣の音がしたような気がして──けれど、それはもう夢の中だけのことだ。
──面談は、静かに終わった。
ーーーーーーーーーーーーー
「帰り道の話」
──高校三年生 秋。三者面談のあと。母と、静と。
西の空が、朱に染まりはじめていた。
欅の梢が風に揺れ、その葉の先に、かすかな夜の気配がぶら下がっている。
「風、冷たくなってきたわね」
母の言葉に、静は「そうだね」と短く返す。
それきり、ふたりの間に会話はなかった。
校門から駅までの道は、十分ほどの坂道。
車通りの少ない裏道には、夕方の影が長く落ちていた。
沈黙がぎこちなくないのは、静がいつもそうだから──というよりも、母がそういう静に慣れていたからだ。
「……先生、あんまり“成績”の話しなかったわね」
「うん」
「それより、“夢のこと”とか、“君自身がどうありたいか”とか……」
静は微笑んだ。それは苦笑ともとれる、ふっと吐かれた風のような笑みだった。
「……たぶん、先生自身も“答え”を探してくれているんだと思う。僕にとって、いい先生だよ」
母は少し黙り、それから思い切ったように切り出した。
「ねえ、静。……苦しい?」
「何が?」
「さっき、“大丈夫です”って言ってたけど……あれ、あなただけの“大丈夫”でしょう?」
問いにすぐ返答はなかった。
けれど、ほんの一瞬、視線が地面のどこにも置けずに宙をさまよったのを、母は見逃さなかった。
「……苦しさっていうより、責任……かな」
静はつぶやくように言った。
「僕がやってきたことに、今も意味があると信じたい。あれだけの人間を……たくさんの命を見送ってきたなら、
それでもなお、記憶を持って生きているっていうのは、きっと何かしら続ける義務があるんだろうって」
「……あの時代の“話”?」
静は軽くうなずく。だが母を見ずに、秋の風に目を細めた。
「剣を持つことが、もう“殺す”ためじゃなくなってよかった。今は“守る”方に使える。
けれど……それでも、時々ふと怖くなる。あの頃と同じ目をしている自分に気づくと」
「……怖いのは、昔の自分?」
「いや、たぶん、“変わっていない”かもしれない自分」
母は返す言葉を探し、見つからず、小さく頷くだけだった。
それが静には、いちばんありがたかった。
「でも、後悔はしていないんだ。全部、必要だったと思ってる。守れなかった命も、守れた命も、
どちらにも、何か意味があったはずだから」
ふいに吹いた風に、母の前髪が揺れた。
いつの間にか日が暮れかけ、電柱の影が重なり合って足元を包んでいる。
「ねえ、静。……もしさ、過去を誰にも言えないままだったらって、思うことはない?」
「あるよ。というより、それが“当然”だと思ってる。……そもそも前世の記憶なんて、好奇の目で見られるだろうことも、自覚してるし」
そう言って、ほんの少し笑った。
「お母さんだって、全部は知りたくないでしょう。僕が何をしてきたか、何を捨てたか、どんな顔で死んだかなんて」
「……そうね。……けどね、それでも今ここにいるあなたのことなら、全部見ていたい。
知っていなくても、見ていたいの。“いま”の静のことを、ちゃんと」
その言葉に、静はふと立ち止まり、母を見た。
「ありがとう。……お母さんがいるから、僕は自分を見失わないで済んでいるんだろうなあ」
母は息をのんだ。静の目は、静かな湖面のように深く、
けれどその底には、確かに“生きる覚悟”があった。
「……卒業したら、どうするの?」
「大学には行かせてもらいたいなって。無理せずに。でも、剣道は続けるつもり。
あの道を歩ききれなかった人間として、今度は、違う形で辿り着いてみたいから」
「……そっか。剣、やっぱり手放さないのね」
「まあね。きっと僕には、それしかないから」
「それ“だけ”じゃなくて、“それが”静の道になったんだよ。
誰かを傷つけない剣を持てたってこと、誇っていいんじゃない?」
その言葉に、静は少し目を伏せたあと──かすかに、首を横に振った。
「……誇らないようにしないと。これは、僕が“贖い”に選んだ道だから。
でも、誇らしいと思ってくれる人がいるなら、悪くないかもしれない」
母は、ただその横顔を見ていた。
かつて抱きかかえた小さな背は、いつの間にか遠くなっていた。
けれど、心は今もどこか、あの日の夕焼けと同じ色をしている気がした。
──帰り道の交差点。
信号が青になって、ふたり並んで歩き出す。
「あと半年で卒業だね」
「うん。……“その先”の話を、ようやく自分の言葉でできるようになった気がする」
夕暮れの匂いが、秋の空を染めていく。
ふたりの影が長く伸びて、それはもうすでに、夜の手前だった。
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「指導記録:沖田静 三者面談後」
──教員個人記録(非公開)/数学教諭・担任:石田公成
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日付:10月25日(金)
対象生徒:沖田 静(高等部三年 普通科)
記録者:担任・石田公成(数学科)
内容:三者面談の所感および今後の指導観察事項
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今日は、沖田静の三者面談。
17時10分、母親が時間通り来校。面談室にて実施。終了は17時42分。
秋晴れの一日だったが、面談室の空気は冷えていた。
彼の話し方は、相変わらず“落ち着いて”いて、“丁寧すぎる”とさえ思わせるものだった。
数学教員として、私は彼の解法の癖をずっと観察してきた。
論理的に正しく、無駄がなく、簡潔。けれど、他の誰とも似ていないアプローチを選ぶ。
典型問題にも、必ず“自分の納得”を挟んでくる。そこに、彼の内面の精密さが垣間見える。
正解を出すためだけの計算ではなく、“意味のある手順”を選び取る感性──それは、数学の教員である私にとって、見逃せない資質だった。
そんな彼が、今日の面談で発した言葉には、いくつもの“含み”があった。
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母親は穏やかで、少し線の細い印象の女性だった。
話し方も柔らかく、だが時折「この子は小さい頃から……」と声が震える場面もあった。
一方で静は、常と変わらぬ態度で着席し、私の言葉に相槌を打ち、要所要所でことばを選ぶように話した。
「体調は、まぁ、日によりますが……大丈夫です」
「夢を見ることが増えたか」と尋ねると、
「昔のことを、少し、よく思い出すようになりました」と返した。
“少し”などというものではないはずだ、と私は内心で思った。
彼はすでに、すべてを思い出している。
その目の深さが、そう物語っていた。
だがそれを言葉にせず、「ほんの少し」としか語らないのは、
──語るべき相手を、彼が慎重に選んでいる証拠だ。
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◆ 現状把握(成績・生活)
成績は文句なし。数学も常に上位。記述問題で“解法の選択理由”を書かせると、実に論理的かつ詩的ですらある構文で記してくる。
教室ではおとなしいが、存在感はある。部活動(剣道部・副部長)では、部長の矢野と共に場を支えている。
後輩からの信頼も厚く、教師間でも「頼れる静くん」という評価が定着している。
提出物の遅延なし、遅刻欠席も極めて少ない。
だが、“問題がない”というのは、“問題が表に出てこない”ということである──と私は思っている。
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◆ 心身状態と“夢”の話
三年生に進級してから保健室への立ち寄りが増えていることは、養護教諭からも共有されている。
「少しめまいがするから」「意識が遠のく感じがあるから」など、本人の申告は軽い。
だが、保健室で休んだ後の彼は、少しだけ、視線が違う。
何かを見てきた人間の目をしている──どこか遠くにいる“誰か”を、心の奥で見つめ続けているような、そんな目だ。
面談中、彼はこんな言葉を残した。
「昔のことを思い出すようになって、考える時間が増えました。……今は、その続きを自分でも考えていく時期かなと」
そして、少し笑って、
「あの頃のように“奪う”ためじゃなく、“守る”ために、生きたいと思えるようになりました」
と口にした。
“あの頃”──明らかに、自分の人生の中に“もう一つの時代”を抱えている。
それを“比喩”として見るには、あまりに切実な言葉だった。
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◆ 教師としての観察と思案
沖田静は、“現在”を一生懸命に歩いている。
それは、未来への希望ではなく、“過去から続く責任”の中で生きようとしているということだ。
彼の人生観は、年齢の枠を越えている。私自身、彼に向かって「将来の夢は?」などと問うのがはばかられるほどだった。
私は数学という「確かな正解のある学問」を教えている。
だが彼が今取り組んでいるものは、“解なし”の問いであり、
それでも解こうとしている“人間としての数式”のようなものだ。
彼は、誇りを語らない。
「贖い」とは言わないが、その歩みの背景にそれがあることは明白である。
それでも、彼が“言葉にしないこと”を、私はむやみに掘り下げるつもりはない。
むしろ、“言葉にしなくていい関係”を、教師としてどう保てるかを問われているような気がする。
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◆ 今後の指導・観察方針
•進路については希望通り、推薦型選抜を中心に動く。
•定期的な声がけ、保健室教諭とも情報共有。
•“彼の中の沈黙”を否定せず、そこに“信頼”で寄り添う姿勢を保つ。
•必要なら、いつでも“話していい”と思える場を用意し続ける。
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彼が背負っているものは、我々教師が簡単に理解できるものではない。
けれど、“今”をともに歩くことはできる。
この短い時間のなかで、彼がほんの少しでも肩の力を抜けるような、そんな関係性を目指したい。
私が数学で伝えたいのは、“すべての答えが唯一でなくていい”ということだ。
彼にも、たくさんの「道」が許されていることを、心から信じている。
──記録、ここまで。
(石田 公成)
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(第四部 了)