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祈りの背中 ― 沖田静 回顧録集 第一巻  作者: 妙原奇天


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第三部:番外編(前世回想編Ⅱ)

【前世回想編】第一話(兄弟子の視点)

『花が咲く前の音』

 俺があいつに初めて出会ったのは、春のはじめだった。

 あの年は、雪解けが遅れていて、道場の床板まで湿気がしみていた。

 師範の「もうすぐ、ちいせぇのが来るぞ」という言葉に、正直、期待なんてしていなかった。新入りの子どもなど、長くて三日で泣いて逃げる。そんなのばかりだったからだ。

 でも、その子は違った。

 もらった名前は──「しずか

 男の子にしては、風変わりな名前だと思ったが、本人の姿を見て妙に納得してしまった。

 静かだった。というより、弟子が連れてきたということだったから、言葉を知らないのかもしれない。最初の頃に限っては無口、一言も声を発しなかった。息をひそめるようにして空気の隅に立っている。

 小さな体に、はにかみも怯えもない。ただ、いる。それだけなのに、何か、重さがあった。

 最初に竹刀を持たせたとき、軽く握ったその手が、まるで前に何度もそれを扱ってきたような、そんな錯覚を覚えた。

 打ち方の基本を教える前に、すでに“構え”ができていた。

 でもその構えは、どこか歪で危なっかしかった。誰かの真似でもなく、自然に体に染み込んだような……野生のような剣だった。

「その構え、誰に教わった?」

 俺がそう訊いたとき、静は小さく首を傾げた。

「……夢の中で、誰かが教えてくれた」

「はあ?」

「でも、たぶん本当は……自分で思いついたんだと思います」

 子どもってのは、ときに妙なことを言う。

 けれど、あの子は嘘をついているようには見えなかった。

 冗談も、媚びも、見栄もなかった。あまりに真っすぐで、だからかえって怖かった。

 静はとにかく、よく見ていた。

 誰の稽古でも目を離さず、疲れた様子も見せずに、黙って見て、覚えて、真似した。

 数ヶ月もしないうちに、俺の背中を追い越してきた。

 負けたわけじゃない。

 でも、稽古で打ち合うたびに、俺の打ち込みが“斬られる”予感と一緒に跳ね返される。

 恐怖ではない。けれど、足元がすくむような感覚だった。

「静、お前、剣を振るとき、何を考えてる?」

 そう訊いたら、彼はほんの少しだけ微笑んだ。

「何も考えていません。……ただ、手が勝手に動くだけで」

「それって……いいことなのか?」

「さあ。いいことか悪いことか、まだわかりません」

 おそらく五つにも満たない子どものくせに、達観しすぎていた。

 それでいて、ひどく繊細だった。

 ある日、道場の裏庭で、誰にも見られていないと思っていたのだろう。

 静が、ぼんやりと空を見上げていた。

 剣の型でもなく、稽古でもない、不器用な手の動きで、風の流れを追うように掌を動かしていた。

 まるで、何かを確かめるように。

 何か、大切なものを思い出そうとしているように。

 ……あの頃の静は、まだ“剣士”じゃなかった。

 斬るための剣ではなく、“手に入れてしまっただけの剣”を持つ子どもだった。

 優しかった。静かだった。

 でも、どこか遠くを見ていた。

 俺はあのときから、ずっとわかってたのかもしれない。

 あいつは、きっと普通には生きられない。

 誰よりも早く強くなって、誰よりも早く戦場に出て、

 そして、俺の知らない場所で──“何か”を失う。

 だからこそ。

 いまでも時々夢に見る。

 竹刀を構えるあの小さな背中。

 名を呼んでも振り返らない、ひとりきりの“静”の姿を。

(──あの子の、咲く前の音を。俺は、聞いていた気がする)

【つづく】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第二話(道場の師範の視点)

『剣を知らずに剣を持つ子』

 あの子が道場に来たとき、私はもう若くなかった。

 戦の記憶も、血の臭いも、忘れたとは言わないが、なるべく思い出さないようにしていた。

 年をとって、ようやく穏やかな日々が手に入り、教えることで人を育てる日々に救われていた。

 そんなある日だった。

 春の風に乗って、小さな男の子が道場の戸をくぐった。

 名前は──しずか。名も言葉も持たない彼に、私がそう名付けた。

 誰もが最初にその名を聞いたとき、女の子と間違える。

 けれど、実物を見た瞬間に訂正するのだ。

 あの子は、まるで音のしない刀のようだった。

 目立たない。

 声も小さい。

 笑わない。

 けれど、空気の中に“線”が引かれる。

 彼が通ったあとは、誰もふざけた声を出さなくなる。

 そんな子だった。

 私が教えるまでもなかった。

 型も、足運びも、視線の使い方も、まるで“知っている”ようにこなしていく。

 けれど、それが正しくないことも多かった。

 ――型には理由がある。

 ――美しい所作には、理と理が通っている。

 私は何度も正した。

「静、それは力任せすぎる」「その構えでは左が甘い」「それではお前が斬られる」

 そのたびに、静は頷いて修正した。

 だが……ふとしたときに、彼は“元の剣”に戻るのだ。

 それは、教本にも、流派にもない“誰かの剣”だった。

 ある晩、静が一人で型の練習をしていたとき、私はふと物陰からそれを見た。

 彼の動きは、まるで夢遊病者のようだった。

 意識があるのかどうかさえわからない。

 なのに、その剣は──怖いほど速く、正確だった。

 斬るべき相手がそこに“視えている”かのように、迷いがなかった。

 私は道場の者には言わなかったが、ある夜、ひとり酒をあおりながら、筆を取って覚え書きを残した。

「静は、誰にも教わらずに、誰かの記憶を剣にしている」

「それは、神の才ではなく──何か、もっと重いものではないか」

 ある日、静に訊いたことがある。

「お前は、何のために剣を学ぶ?」

 静は、首を傾げた。

「僕は、守るために剣を持つと思っていました。でも……ときどき、わからなくなります」

「わからなくなる?」

「剣を振るうと、……何か、心が空っぽになっていくんです。怖くなくなる。考えなくなる。気づいたら、全部“消えて”いる気がする」

 それを聞いて、私は思った。

 この子はもう、“戻れない場所”を知っている。

 たとえどれだけ稽古を積んでも、どれだけ人の情を知っても、

 この子の剣の底にあるのは、私たちのような「学び」ではない。

 静はたしかに強くなった。

 けれど、それ以上に──“遠くなった”。

 私の教えは、あの子の中の“何か”に届いていたのだろうか。

 あるいは……あの子が、“何か”から目を背けるための手段として剣を持ったのだとしたら。

 今でも、たまに思い出す。

 幼い静が、縁側の陽だまりで小鳥を眺めていた光景を。

 剣のことを忘れて、ただ風に目を細めていたその顔だけは──

 ……まだ、“子ども”だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第三話(年配の門弟の妻)

『声なき子の、声にならない日々』

 あの子が道場に来たのは、まだ春の寒さが抜けきらない頃だった。

 主人が「また新しい子が入門するらしい」と言ったとき、私は内心、少しだけ気が重かった。

 この道場は、稽古こそ厳しいが、食と寝床だけは丁寧に整えている。

 そのぶん、門下生が増えれば、私たちの手も足りなくなる。

 けれど、その日初めて見た“静”という子の姿は、そんな算段をすべて忘れさせた。

 ひどく、寂しそうな子だった。

 泣きもせず、騒ぎもせず。

 言葉は丁寧だけれど、妙に大人びていて──

「何か、足りていない子だね」

 それが、初日の彼を見た私の感想だった。

 彼はよく食べた。出されたものは全部、静かに箸をつけた。

 でも、どんなに温かい味噌汁を出しても、どんなに香ばしいご飯を炊いても、

 彼の表情に浮かれた感情は浮かばなかった。

 無口な子だったが、口に出す礼は丁寧だった。

「ありがとうございます」

「いただきます」

「ごちそうさまでした」

 それは決して機械的ではなかった。けれど──心の奥のほうで、どこか欠けていた。

 私はある日、ふと聞いてみた。

「静ちゃん、好きな食べ物はあるの?」

 彼は少しだけ考えて、答えた。

「……わからない。でも、やわらかいものが好きかもしれない」

 そのとき、私はようやく気づいた。

 この子は、おそらく……“選ぶ”という経験をしてこなかったのだと。

 ある夜、雨がひどく降っていた日。

 皆が稽古を終え、晩ご飯のあとの雑談に花を咲かせていたころ、

 静の姿が見えないことに気づいた。

 裏庭を見に行くと、あの子は縁の下にうずくまって、雨音に耳をすませていた。

「どうしたの?」

 そう訊くと、静はぽつりと言った。

「昔、こういう音を、誰かと聞いた気がして」

「……誰と?」

「わからない。顔も、名前も……でも、あたたかかった気がする」

 私はその日、台所からふかしたさつまいもを持って行って、ふたりで縁側に座った。

 静は、少し驚いたように私を見てから、受け取って小さくかじった。

「……あまい」

「そうでしょ。焼いたのも好きだけど、蒸したのは優しい味がするから」

 そのあと、あの子は小さな声で言った。

「……好き、これ」

「じゃあ明日も蒸してあげようか」

 そのときの彼の顔は、ほんのすこしだけ“子ども”に戻った。

 静ちゃんはね、誰にも迷惑をかけなかった。

 でも、誰にも寄りかからなかった。

 だから、私はあの子に「何も頼まれないまま」心配していた。

 今、あの子がどうしているかは知らない。

 でも、ときどき道場の片隅にひとりで黙って干していた小さな稽古着のことを思い出す。

 風が通ると、あの稽古着がふわりと揺れた。

 まるで、生きているように。

 あれは、あの子そのものだったのかもしれない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第四話(幼なじみの少年(非剣士))

『はじめての友達は、風のにおいがした』

 俺が静に初めて会ったのは、村の外れにある小さな井戸のそばだった。

 その日も風が強くて、洗濯物がバタバタとはためいていた。

 ふと見ると、道場の袴姿の子どもが、井戸の前にしゃがみ込んでいた。

 手を水に浸して、じっと何かを見ている。

「……冷たいか?」

 声をかけたら、こっちをふり返った。

 目が、大人みたいだった。

 でも、返ってきた声は、思ったより普通だった。

「うん。……でも、気持ちいい」

 その言い方が、ちょっと面白かった。

 俺は剣道なんてやったことない。

 竹刀の音はよく聞いていたけど、道場のやつらとは話したこともなかった。

 でも静は、なんというか、誰とも違ってた。

 静かすぎるとか、偉そうとか、そういうんじゃない。

“ひとり”でいることに慣れすぎてて、それが当たり前みたいになってるような雰囲気だった。

 だからだろうな。

 気づいたら、一緒に井戸の水をすくって遊んでた。

「お前、道場の子?」

「はい」

「名前は?」

しずかです」

「へえ……女みたいな名前」

「よく言われます」

 怒るかと思ったけど、ぜんぜん気にしてなかった。

 それから、よく会うようになった。

 俺が畑仕事を手伝ってるとき、道の向こうからとことこと歩いてきたりする。

 何してるってわけでもないけど、ちょっとだけ話して、また帰ってく。

「あした、ここ来る?」

「わかりません。でも、来られたら来ます」

「来たら、あの木のところで待っててな」

「はい」

 そんな感じで、だんだん距離が近くなっていった。

 ある日、ちょっとした事件があった。

 祭りの日、俺たちは人ごみに紛れて遊んでた。

 でも俺が、足をくじいて転んだ。

 周りの大人たちは気づかなかった。

 でも、静だけが戻ってきた。

「……歩けますか?」

「ちょっと……痛い」

 すると静は、無言で背中を向けて、しゃがんだ。

「乗ってください」

「は? いや、いいよ、恥ずかしいし」

「大丈夫です。僕は、こういうときのために体を鍛えています」

「……なんだそれ」

「それっぽく聞こえるでしょう?」

 そのときは、笑った。

 あいつがそんな冗談みたいなことを言うなんて思ってなかったから。

 でも、背中はあったかかった。

 風が通る道を、二人で歩いて帰った。

 それが、最後だった。

 しばらくして、静は戦に行った。

 道場でも特に強かったらしく、上の命令で部隊に加わったと聞いた。

 俺は泣きそうになった。

 でも誰にも言わなかった。

 あいつがどこかで、もう誰にも背中を見せずに、ずっと前を向いて走ってる気がして──

 それが、すごく遠いところに行ってしまったようで、悔しかった。

 今でも井戸のそばを通ると、ふと思い出す。

「静、お前、ほんとは水の精霊とかだったんじゃないか?」

 あいつはたぶん、笑わずにこう返してくる。

「それっぽく見えますか?」

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【回想編】第五話(古参の門弟(若き頃の兄弟子たちの世代)の視点)

『剣を持たされる日』

 あの報せが届いたのは、曇天の午後だった。

 道場の柱が湿気を吸って、竹刀の音もいつもより鈍く響いていた。

 使者は軍の者だった。

 簡潔で、冷たくて、当たり前の顔で言い放った。

「沖田静。軍への召集が下った」

 一瞬、稽古が止まった。

 みな一様に、息を呑む音だけが響いていた。

 誰もが、予感していた。

 だが、口にはしなかった未来だった。

 静は黙って、目を伏せた。

 少しの間のあと、ただ「承知しました」とだけ言った。

 それが何より、怖かった。

 俺は古参の門弟として、静の世話をしたことはなかったが、剣を交えた回数なら誰よりも多かった。

 そのたびに思ったのは──「この子は、もう“こちら側”じゃない」という事実だった。

 力の差じゃない。

 剣の芯が違うのだ。

 俺たちが“こう斬る”と考えて構えるその前に、彼はすでに“結果”に手を伸ばしている。

“剣の速さ”というより、“決断の速さ”だった。

 ただ、そんな彼が唯一「時間をかける」ことがあった。

 それは、剣を収めるときだった。

 召集の翌日。

 夕方の稽古のあと、静がひとり、道場の板の上で座っていた。

 俺は黙って、隣に腰を下ろした。

 しばらく何も言わなかった。

 すると静が、不意にこんなことを言った。

「僕、ひとつだけ不安なことがあるんです」

「不安?」

「……これまでに斬ったことのないものを、斬ってしまうかもしれないことです」

「人を、ってことか」

「はい」

 静は膝の上で指を組んだまま、空気のどこにも目を向けなかった。

「だけど、剣は持ちます。選べませんから。選ばせてもらえないのが、命令なんですね」

 俺は、何も言えなかった。

 その横顔は、もうとっくに大人だった。

 でも、背中は細かった。

 まるで“斬られる側”のように、儚かった。

 翌朝、静は道場を出た。

 袴も、帯も、すべて丁寧に畳んであった。

 部屋には、彼の気配が一切残っていなかった。

 ただ、蒔置き場に置かれた一本の木片にだけ、うっすらと何かを彫った跡があった。

「お世話になりました。僕はきっと、大丈夫です」

 それが誰にも宛てられていないことが、何より彼らしかった。

 後に、人は彼を“鬼神”と呼んだ。

 敵を恐れさせ、味方からも畏れられた。

 だが、俺たちは知っている。

 あの子は、ただ“選ばなかった”。

 斬ることも、生き残ることも、望んで選んだのではない。

 ただ、進んだ。静かに。

 あの朝の背中を、俺は今でも思い出す。

 きっとあれが、“誰にも見送られずに旅立つ者”の背中だったんだ。

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【回想編】第六話(軍医の視点)

『名簿にない命』

 戦場にいて、もっとも無力なのは、医者だ。

 人は斬られる。

 血を流す。

 喚き、のたうち、骨が砕け、肺が潰れる。

 私はそれを、縫うこともなく、ただ麻を噛ませて数を数える。

 兵士たちの名簿はある。

 年齢も、出身も、傷歴もある。

 だが、沖田静の名だけは、どこにもなかった。

 初めて彼を見たのは、前線から送られてきた小隊の交代日に、隊列の一番後ろに立っていたときだった。

 白装束に身を包んでいた。

 何かの儀式かと思った。

 だがその足取りは、生臭い現場にまったく濁されることなく、静かに、淡々と進んできた。

「彼は……」

 誰かがつぶやいた。

「“鬼神”です」

 彼が剣を抜く瞬間は、何度も目撃した。

 けれど、あまりに速くて、記録できたことはない。

 切っ先が動いたと思った瞬間、敵はもう膝を落とし、血を噴いていた。

 それは美しさなどという言葉で語れるものではなかった。

 それは……沈黙だった。

 負傷兵を運ぶとき、私はたびたび静の隣を通った。

 彼は傷ついた仲間に目を向けない。

 では冷たいのかといえば、そうでもなかった。

 一度だけ、重傷の兵の担架を持ち上げる私を手伝ったことがあった。

「……僕が持ちます」

 と、言ったその声は、戦場の音の中でもよく通った。

 妙に綺麗な発音で、ひとつひとつが丁寧だった。

 私は「君は敵を斬っていたのでは」と問いたかったが、言えなかった。

 その手のひらには、血の跡がついていて──それでも、指先は震えていたから。

 ある夜、彼が野営の外で座っているのを見かけた。

 目を閉じていた。

 まるで、風の音を聞くように。

 眠っているのかとも思ったが、近づいた私に彼は言った。

「先生、僕は……記録に残りますか?」

「記録?」

「死んだら、名前が残るのだろうかって、思ったんです。今さらですが」

 私は答えに詰まった。

 何百人の兵士が死んでいく。

 書類に残らない死が山ほどある。

 そして、沖田静。

 そもそも“存在していない”、戸籍のない彼は──名前さえ、書かれない可能性がある。

「私の覚えには、残るよ」

 そう答えたとき、彼は、ふっと微笑んだ。

「ありがとうございます」

 彼がいなくなったのは、ある激戦の翌朝だった。

 誰も死体を見ていない。

 誰も血痕をたどれなかった。

 消息を絶ったまま不明らしいという噂だけが、軍医室の隅に置かれていた。

 私は、医療名簿にそっと書いた。

【名前不詳(沖田静?)/所在不明】

 診断書も、治療記録もない。

 でも、私はその名を記した。

 あの静けさを、誰かが証言しなければいけないと思ったから。

 その名がどこにも残らなかったとしても、

 風が吹くたびに私は思い出す。

 白装束の剣士が、沈黙のまま、傷を引き受けていたことを。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第七話(敵軍の斥候)

『目を合わせてはいけないもの』

 俺は、斥候だった。

 敵陣に忍び込み、配置と数を見て戻る──それが仕事だ。

 斥候の鉄則は三つある。

「戦わない」「目立たない」「殺されない」

 とくに“目立たない”ことは生死に直結する。

 それでも、あの日だけは──見つかってしまった。

 あれは霧の深い夜だった。

 俺は敵の中隊の動きを見に来ていたが、なぜか誰もいなかった。

「おかしい」と思った瞬間、背中が凍った。

 草が、揺れていた。

 足音はなかった。

 音も、気配も、息すらも──なのに、そこに“何か”が立っていた。

 俺は、反射的にその場に伏せた。

 剣を抜こうとも思わなかった。無理だった。

“それ”は、もう斬る構えに入っていた。

 見えたのは、白い装束。

 布が風でわずかに揺れていたが、その中心はまるで動かない。

 そして、目が合った。

 ……いや、“目が合った”と思った瞬間、もう切っ先が俺の首元にあった。

 動けなかった。

 斬られる、そう思った。

 でも──斬られなかった。

「……敵では、ないですね」

 声が、降ってきた。

 夜の中に、誰のものとも思えない静けさで。

「剣を、持っていない」

 違う。俺は腰に刀を下げていた。

 だけど、たしかにそのとき、俺は“剣を持っていない人間”として扱われていた。

 命を、見逃されたのだ。

“それ”──あの剣士は、背を向けた。

 草を分けて、まっすぐ進んでいった。

 振り向かない。斥候である俺に背を向けるということは、死角を晒すということ。

 なのに、恐ろしく隙がなかった。

 背中さえ、抜け目がなかった。

 俺は、その夜、一睡もできなかった。

 自分が生きて帰れたことも、あの剣士が“なぜか斬らなかった”ことも、理解できなかった。

 仲間に話しても誰も信じなかった。

「見逃された? ありえん」

「そんなやつ、斬られてるに決まってる」

 俺だけが、知っている。

 あの剣士は──あの“鬼神”は、ただ敵を斬るだけの化け物じゃない。

 斬るべきものと、そうでないものを、“瞬きの間”に見極める。

 ……あれは、人じゃない。

 人の形をした、“戦場そのもの”だ。

 名を聞いたのは、ずっとあとだ。

 沖田静。

 噂では、名簿にも残らず姿も見つからなかったという。

 でも俺は、知ってる。

 たしかにあの夜、そこにいた。

 剣よりも静かに、死よりも深く。

 だから、もし戦場でまたあれを見たら──俺は絶対に、目を合わせない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第八話(友軍の新兵)

『剣は前に、声は背に』

 沖田さんと、初めて一緒に戦場に立った日を、俺は一生忘れない。

 軍に入って半年の新兵だった俺は、とにかく毎日が死と隣り合わせで、足の震えが止まらなかった。

 あの日、俺の所属する小隊は、森の奥の前哨拠点に向かっていた。

 地図には道があったはずなのに、気づけば完全に包囲されていた。

 矢が飛んできた。仲間が一人、また一人と倒れた。

 俺は腰を抜かし、その場で這いつくばった。

 立てない。剣も持てない。

 でも死にたくない──それだけだった。

「……下がってろ」

 低い声が、耳のすぐ後ろから聞こえた。

 立っていた。

 誰かが、俺の前に。

 白い衣が揺れた。

 手には、鞘に入ったままの刀。

 そして──それが抜かれた瞬間、風が変わった。

 剣のことなんか、詳しくは知らない。

 でも、あの時の一太刀は、何かが“断ち切られる”音がした。

 敵の隊列が一瞬で崩れた。

 動いているのは、沖田さんだけだった。

 誰かが言った。

「……“鬼神”だ」

 でも俺は、違うと思った。

 あれは“生きる側の剣”だった。

 俺たちの死を止めるために、前へ出てくれる人の背中だった。

 夜、傷を手当てしてもらいながら、俺は震えながら礼を言った。

「ありがとうございました……俺、死んでいたかもしれません」

 沖田さんは、いつものように静かに微笑んで、こう言った。

「あなたが無事で良かったです。それが一番、意味のあることですから」

 その声は、穏やかだった。

 血の匂いがまだ消えない戦場の夜にあって、なぜか涙が出そうになった。

 ――そして数か月後。

 最前線での大規模戦闘が終わったあと、沖田さんの姿は消えた。

 戦後、いろいろな噂が流れた。

「敵の大将を斬って、返り血で自分を見失った」

「自ら山に入って、そのまま還らなかった」

「死体は見つかっていない」

 ある日、補給部隊が山の中腹で見つけたという。

 岩陰に、白装束の切れ端と、少量の血痕。

 それから、泥に混じった足跡が一対──そこから先、ぱたりと消えていた。

 誰もそれ以上は言わなかった。

 上層部は記録を伏せ、戦死者の名簿に彼の名前は載らなかった。

 俺はその夜、こっそり崩れかけた詰所の裏で泣いた。

 仲間も、先輩も、誰も来なかったけど──それでよかった。

 あんなにも多くを背負いながら、最後まで“前に立ち続けた”人だった。

 誰にも弱さを見せず、背中で俺たちを守った人だった。

 死んだなんて思いたくなかった。

 でも、生きてるとも言えなかった。

 風が吹いた。

 あの白い衣が、もう一度どこかで揺れている気がして、俺はただ、空を見上げていた。

「……沖田さん」

 声に出した名は、風の音に溶けて消えた。

 でもきっと、どこかで、あの静かな声が返ってきた気がした。

「大丈夫ですよ。あなたが生きているなら、それが意味になる」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第九話(敵将)

『名もなき者の、名もなき死』

 戦の気配が薄れかけた頃、私たちの部隊は“丘の上”の敵を追い詰めていた。

 敵兵は五名足らず。

 すでに満足に動けぬ者ばかりだった。

 なかでも槍を握った少年兵は、かろうじて息をしているものの、血の海に倒れ込んでいた。

 我々は、勝ったのだ──そう確信しかけた。

 だが、そのときだった。

 小高い丘の陰から、一人の男が、静かに降りてきた。

 白装束。

 その身は既に紅く染まっていた。

 剣を手に、歩を進めるたび、地に落ちた滴が土を打つ。

 それでも、彼の動きに淀みはなかった。

 姿勢はまっすぐで、足元もぶれず、ただ静かに、我々の元へと進んできた。

「……沖田静か」

 誰かが名を呟いた。

 私は気づいていた。

 その瞬間、部隊の空気が一変したことに。

 恐怖だった。

 七十八名の兵を擁する我が部隊が、一人の男の出現によって、怯えていた。

 命じる間もなく、戦は始まった。

 それは「始まる」というより、「起きていた」と言う方が正確だ。

 彼の剣は、見えなかった。

 一閃ごとに、一人ずつが崩れていく。

 怒号も、悲鳴も、刀のぶつかる音さえもなかった。

 あったのは、風が吹くような斬撃と、血の雨だけだった。

 斬って、抜けて、振り返らず、斬り裂く。

 血脂でささらのようになった剣を捨て、死体から素早く抜き取った剣を振るう。

 七十八人のうち、六十が一瞬で沈んだ。

 残る者たちも、すでに心が折れていた。

 かろうじて息をしているような状態だった。

 当然、前に出る者などいなかった。

 私が、出た。

 彼と私の視線が交わった。

 その瞳に宿っていたものは、怒りでも、激情でもない。

 ただひとつ──「決意」だった。

 私たちは斬り合った。

 何度も剣が交差し、血が飛び、肉が裂けた。

 私の刃が、彼の左脇腹を裂いた瞬間、

 彼の刀は、私の胸を貫いていた。

 それが、同時だった。

 相打ち。

 私は、膝をついた。

 血の塊を吐きながら、なお立とうとする意識を手放せずにいた。

 そんな私に、彼は目を伏せるように視線を落とし、静かに言った。

「……充分です。もう、立たなくていい」

 私は、その目に見た。

 彼自身もまた、深手を負っていたことを。

 いや、彼は既に死を見ていた。

 己の血が止まらぬことを、とうに理解していたはずだ。

 それでも、剣を置かなかった。

 友軍を守り、この戦の先に“何も渡さない”ために。

 彼は、ふらりと背を向けた。

 私が最期の力で問うた。

「どこへ、行くつもりだ……!」

 その問いに、彼はただ一言だけ残した。

「……の、……残らない場所へ」

 その背は、やがて山の深部へと吸い込まれるように消えていった。

 赤黒く染まった白装束の背中が、木々の間に飲まれていく。

 私が目を閉じる寸前、確かに見た。

 彼が、微かに笑った瞬間を。


(視点変わって・敵軍の唯一の生き残り)


 その後──我が軍は壊滅した。

 丘の上で倒れていた敵軍の兵士たちの一人、槍の少年が目を覚ましたという。

「沖田が俺たちを守ったんだ」と、泣きながら語ったという。

 彼らの話によれば──沖田は、自分が死ぬとわかっていながら、丘を下りていった。

 たった一人で。

 のちに、猟師が山の中腹でこう言ったという。

「白い布と、鞘が落ちていた。

 だが足跡は途中で消えていた。まるで、風になったみてぇに──」

 名簿にも、報告書にも、沖田静の名は残らなかった。

 だが私は、あの夜の戦場で確かに見た。

 名を持たぬ剣士が、命の代償として、戦そのものを消し去った光景を。

 彼は、勝ったのではない。

“すべてを斬り終えた”のだ。

 それが、名もなき死だったとしても──

 その背には、言葉にできぬ覚悟が宿っていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編】第十話(友軍何某)

『祈りの集 ― 名を呼べぬ者たちの座』

 静が消えたあの夜から、ひと月が過ぎた。

 戦は終わり、地図の線が少しだけ動いた。

 だが、私たちにとってその勝敗などどうでもよかった。

 彼がいない。

 それだけが、確かな現実だった。

 あの日、丘の上で目覚めた俺たちは皆、立ち上がることすらできなかった。

 槍を握っていた矢野さんも、まだ意識が朦朧としていた。

 ただ、誰もが覚えていた。

 白い背中が、敵の中へと歩いて行った、その瞬間を。

「……行くなよ、静……」

 誰かが、絞り出すように言った。

 でも彼は、振り返らなかった。

 部隊の者が何人かで、山の斜面を降り、血の跡を追った。

 そこには、敵将を含む屍と、真っ赤に濡れた地面、

 そして──その先に続く、一対の足跡。

 その足跡は、山の奥深くへ向かっていた。

 誰もが、それを追った。

 だが、途中で、消えていた。

「見つかるなよ」

「名前なんて、刻まれるなよ」

「……俺らだけで、覚えていよう」

 誰かがそう言った。

 俺たちはその場で輪になり、静かに目を閉じた。

 それが、最初の“祈りの集”だった。

 月日は過ぎ、軍の帳簿には“行方不明”とだけ記され、

 上層部は戦果として処理を進めた。

“沖田静”という名は、記録には残らなかった。

 それでも、俺たちは覚えている。

 あの夜、すべての剣を受け止め、俺たちを生かした男の背中を。

 猟師の噂が流れたのは、さらに数週間後だった。

「山の岩陰に、白い布の切れ端と鞘があった。おびただしい血も。

でも、人の姿はなかった。足跡も、風に消されたようだった」

 隊の中で、静と親しかった者が言った。

「……あいつ、消えたんだよ。あれは、そういう終わり方を選ぶ奴だった」

 その夜、俺たちは再び集まった。

 あの丘の上に、小さな石をひとつずつ積み上げていく。

 何も刻まれていない石だった。

 名を刻めば、記録になる。

 墓を建てれば、死になる。

 そうじゃない。

 彼は、終わらなかった。

 消えただけだ。

「……また、剣を握れって言われたら、きっと断ると思う」

「でも、“沖田が背負った重さ”は、俺らが語らなきゃ意味がない」

「伝説じゃなくて、現実だったんだ。俺らは、生かされたんだよ」

 そして、それぞれが思い思いの場所へ戻っていった。

 一人は田舎に戻り、

 一人は寺で修行を始めた。

 一人は刀を捨て、医者になった。

 でも、あの石の山は、今も変わらずそこにある。

 名もない。

 色もない。

 ただ、静かな丘の上に、風が吹くたび音もなく崩れては、また積まれていく。

 それでいいんだ。

 誰も名前を呼ばない。

 でも、誰も忘れていない。

 ――君の死が、名もなきものであればあるほど、

 俺たちの生は、君の名を宿している。

 だから、今夜も。

 俺は静かに目を閉じて、彼の名を胸の中で呼ぶ。

 聞こえるか、沖田静。

 俺は、生きている。

 お前に生かされた俺は、今、生きている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【回想編 完】


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