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第三部  沈黙の呼吸、風のなかで(高校二年生)

第一話『この春の風が、すこし冷たく感じるのは』


「静、隣、空いてるよ」

 矢野が席をぽん、と叩いて笑う。

 始業式のあと、二年生の新クラス――静の席は、今年も窓際だった。

 それだけで、少しほっとする。風の通り道。逃げ道のある席だ。

「よろしくお願いします、矢野くん。あ、これで“また同じクラス”って、三年連続ですっけ?」

「……いや、お前とはまだ二年目だろ?」

「……ああ、そっか。なんか、もう少し一緒にいた気がして」

 静は自分の言葉に、ほんの一瞬だけ沈黙する。

“もっと昔から知っていたような感覚”――そう思うことが、最近増えていた。

 教室には新しい顔ぶれ。

 隣の席の女子が「よろしくね」と笑う。

 すぐに名前を覚えてくれて、普通に話しかけてくれる。ありがたいことだ。


 春の午後。

 教室の窓を風がかすめる。

 ふと、視界が揺れた。

 白い砂。赤く染まる地面。

 遠くに倒れた旗。鳴り響く軍靴。

 そして、倒れ伏す味方の兵士たち。

「……っ」

 瞬間、胸が締めつけられた。

 黒板の前で話す担任の声が遠ざかる。

 まるで自分だけ別の時の流れに落ちたようだった。

 視界が滲む。息が詰まる。手が震える。

 でも、叫びも涙も出てこない。

 ──まただ。

 最近、こういう“揺れ”が増えてきていた。

 夢じゃない。

 意識が飛んだわけでもない。

 ただ、記憶の端に触れた瞬間、全身がその“戦場の皮膚感覚”を思い出してしまう。

 授業が終わったあと、矢野が心配そうに覗き込んだ。

「静、なんか今日ちょっと……顔色悪い」

「そうですか? もともと色白なので、そう見えるだけかもしれません」

「そういう冗談、言えるうちはまだ大丈夫だな」

「……うん、まだ」

 矢野には嘘がつけなかった。

“まだ”という言葉が、どれだけ頼りないものか、自分でも分かっていた。

 放課後の剣道場。

 竹刀を握ると、身体は勝手に動く。

 構え、間合い、気配、すべてがしっくりくる。

 けれど最近は、ふと“斬っている”感覚が混ざることがある。

 目の前の相手が“敵”に見えるのではなく──

“斬ってしまった誰か”と重なることがあるのだ。

「……沖田とは試合したくないなあ」

 そう言って笑った同級生の顔が、

 前世で命を奪った敵兵の表情と一瞬重なって、静は思わず竹刀を落とした。

 ──どうして、今になってこんなにも“近く”に迫ってくるんだろう。

 心の奥で、何かが目覚めようとしている。

 もう一度、過去を全部思い出せと叫んでいる。

 夜、自室でひとりになると、風の音がやけに響く。

 ページをめくる手が止まり、

 ふと、机に伏せた目を閉じる。

 そして、風の向こう側へ、耳を澄ます。

“あの頃”の、血と砂の匂いがする方へ。

 ──まだ、僕は誰にも話していない。

 矢野にも。

 母にも。

 誰にも。

「僕がもう一度、“鬼”に戻ってしまうかもしれないことを」

________________________________________

第二話『黙って笑うその子が、何かを隠している気がして』(保健室の先生・母 視点)


1. 保健室の先生・佐野視点

 春になると、保健室は少しだけ忙しくなる。

 新学期の緊張、部活の再始動、そして気温差。

 生徒たちは、身体より先に心が悲鳴をあげる。

 けれど──沖田静は、そういう子ではない。

 少なくとも、見た目には。

 彼は決して愚痴らない。

 倒れても、我慢して我慢して、限界になってからようやくやってくる。

 それが、この春、彼が保健室を訪れた二度目の午後だった。

「……ちょっとだけ、休んでいいですか」

 声はいつもの調子だった。

 柔らかく、丁寧で、少しだけ曖昧な口調。

 でも、その背中はほんの少しだけ丸まっていた。

 ベッドに腰掛けると、制服のボタンを指でなぞりながら、静はぽつりと笑った。

「なんだか、時々……夢と現実の境目が曖昧になるんです」

 それは、冗談とも取れる言い方だった。

 でも私は、そう受け取らなかった。

 目の奥が、眠る前のように霞んでいた。

 誰かの名を、叫びたいけれど飲み込んだような顔。

「沖田くん。夢っていうのはね、心の奥が声をあげてるってこと。何かを忘れたくないか、何かに謝りたいか、何かから逃げたいか。どれかよ」

 彼は一瞬、目を伏せた。

 そして小さく呟く。

「……忘れていたものに、呼ばれているのかもしれませんね」

 その日、ベッドでまどろむ彼の眉間が、一瞬だけ険しくなった。

 名前を呼びそうになる唇。

 震えるまつげ。

 私は、その額にそっと手を置いた。

 少し冷たい。けど、少し熱がある。

「……思い出すと、痛くなるものもあるのよ」

 その言葉が届いたかどうかはわからない。

 でも、彼の呼吸がすこしだけ楽になった気がした。

 帰り際、彼は丁寧に頭を下げたあと、扉の前でふと足を止めた。

「先生は、もし、ある日突然自分が“ろくでもない人間”だったってわかったら……どうしますか?」

 その問いに、私はしばらく沈黙してから、答えた。

「……ろくでもなかったとしても、今の君がちゃんと痛みを知ってるなら、それはもう、“やり直そうとしてる人間”なのよ」

 静は、微笑んだ。

 その笑顔が、泣き出しそうなほど、寂しかった。

________________________________________

2. 沖田 静の母視点

 息子が変わったのは──たぶん、中学二年の夏の終わり頃からだった。

 ほんの些細なこと。

 食事のとき、ふと手を止めて窓の外を見る時間が増えた。

 テレビを見て笑っていても、ふと無表情に戻ることがあった。

 寝言を言うようになったのも、その頃だった。

 最初ははっきりしなかった。

 けれどある夜、私は確かに聞いた。

「……やめろ……俺が止める……」

 その声に、私はキッチンで洗い物をする手を止めた。

 あの子は、昔からよく夢を見ていた。

 戦う夢。誰かを守ろうとする夢。

 誰かに剣を向け、そしてその誰かを背負おうとする夢。

 私はずっと、それが“ただの空想”だと思っていた。

 けれど、あの日から、何かが違った。

“思い出している”ような夢。

 高校生になっても、その傾向は消えなかった。

 ある朝、お弁当を渡そうとしたら、彼は手を止めてこう言った。

「お母さん、僕って……今、ちゃんとした人間になれてる?」

 私は思わず手を握った。

「静。あなたは、ちゃんと“今”を生きてるわよ」

 そう言ったときの、彼の表情が忘れられない。

 ほっとしていた。

 でも、それは“安心”ではなく、“赦された”ような顔だった。

 私は知っている。

 静が、何か“重いもの”をひとりで抱えていることを。

 だけどそれが、遠い過去の何であれ。

 あの子は、あの子だ。

 生まれた日、泣きながらこの腕にしがみついた、あのときのまま。

 だから私は、あの子がどれだけ遠い過去に怯えても、こう言い続けるつもりだ。

「あなたが、あなたでいてくれるなら、それだけでいいのよ」

________________________________________

第三話 『夜風、まだ肌寒く』


 部屋の灯りを落としたあとは、

 時計の針の音がやけに響く。

 日付をまたいでしばらく、

 沖田静はベッドの上で目を閉じていた。

 もう、何日もこんな感じだった。

 眠ってしまえば、嫌でも“向こう側”に引っ張られる。

 見覚えのある風景。

 見覚えのない叫び声。

 斬る感触。血のにおい。焼ける木の音。

 覚えてしまったら、終わりだとわかっている。

 それでも、夢はやってくる。

「──……ッ」

 その夜も、静は急に身体を起こした。

 背中に冷たい汗。

 息が詰まるような感覚。

 布団の中、上を向いても苦しいままだったから、

 思わずベッドから抜け出し、窓を開けて外の風を吸った。

 夜風が、ひやりと首筋を撫でる。

 けれど熱は引かない。

 何が見えたのかは覚えていない。

 ただ、目が覚めたとき、自分が誰かの名前を喉の奥で呼んでいたような気がした。

 喉が渇いていた。

 胃のあたりが重くて、吐き気とまではいかない鈍さが残っていた。

 何より――

 気づけば、目尻に、涙がひとすじ伝っていた。

(……またか)

 自分で拭おうとした指が、ほんの少し震えている。

 この涙は、身体が勝手に反応しているだけ。生理的な涙だ。

 もう慣れてきた。

 息が苦しくなるのも、視界がかすむのも、

 全部“あの頃”の身体の記憶だ。

 ただ、それだけだ。

(……明日、どうしよう)

 そう考えると自然に、矢野の顔が浮かんだ。

 きっと、あいつは気づくだろう。

 でも、言わないだろう。

 気づいたうえで、静かに隣に立っている。

 そういう奴だった。

 ベッドに戻り、目を閉じる。

 何もかもを忘れたような呼吸が、だんだん落ち着いてくる。

「……眠れなくても、別に、いいか」

 小さく呟いて、目を閉じた。

 しばらくして、静かな眠気が訪れた。

 部屋の中には、もう音がない。

 ただ、どこか遠くから吹いてきた夜風が、

 カーテンをやさしく揺らしていた。

________________________________________

第四話『静かすぎるその横顔に、声をかけそびれた日』(矢野視点)


 クラスの窓際、二列目の席。

 今日も沖田は、何気ない顔でノートを取っていた。

 前から思ってたけど、あいつのノートって字がやたら綺麗だ。

 無駄がなくて、整理されてて、でもどこか余白が多い。

 空白の部分に“思考”を置いてるみたいな、不思議な間がある。

 春の授業が本格的に始まって数日。

 二年になってクラスが変わったぶん、周りの生徒が“沖田静”を再び新鮮な目で見ているのがわかる。

「背が高くてスタイルいいよね」

「剣道部だよね? 全国出たんだっけ?」

「顔だけじゃなくて、声も落ち着いてる……“古風な王子様”って感じ?」

 声をかけられれば、静は誰にでも丁寧に笑って答える。

 でも、矢野は知っていた。

 ──それが“仮面”であることを。

 ある日の昼休み。

「……なあ、静」

「はい?」

「最近、夜ちゃんと寝れてるか?」

 唐突に聞いた俺の言葉に、静は一瞬だけペンを止めた。

 でもすぐに、いつもの調子で返してきた。

「やだなぁ。僕は健康ですよ」

「じゃあ、なんでお前……この間、屋上で立ったまま少し揺れてた?」

 静は何かを考えるように、軽く目を伏せた。

「……風が強かったから、ですかね」

「無理してんだろ」

「……矢野くん。僕はまだ“倒れるほどじゃない”ですから、……多分」

 言いながら、彼はいつものように薄く笑った。

 倒れそうだけど、倒れない。

 痛そうだけど、痛みを言わない。

 それが“沖田静”だった。

 ある日、授業中に突然静が目を伏せた。

 教室の空気が少しこもっていて、暑かったのもあるかもしれない。

 でも、俺は気づいた。

 彼の手が、机の下で微かに震えていたことに。

「……だいじょうぶか?」

「ええ。少し、目がチカチカしただけです」

 それ以上は聞けなかった。

 聞けば、また“いつもの笑顔”でかわされるとわかっていたから。

 放課後、帰り道のコンビニの前で、静が小さく頭を振った。

「大丈夫か?」

「……すぐ治ります」

 俺は黙って、ペットボトルの麦茶を2本買った。

「一本やる」

「ありがとうございます」

「……あのさ」

「?」

「ほんとになんでもなかったら、それでいい。でも、なんかあったら……黙ってんじゃねぇよ」

 そう言った俺の声に、静は少しだけ間を置いた。

「……矢野くん」

「ん」

「僕が“黙ってる”って思う時点で、たぶん僕、下手なんでしょうね」

「何がだよ」

「隠し事。……じゃなくて、“弱音の隠し方”です」

 そう言って笑った静の笑顔は、

 いつもよりほんの少しだけ、疲れて見えた。

 ──あいつは、過去の罪の意識を抱えてる。

 間違いない。

 でもそれを、今すぐ聞き出すことはできない。

 きっと、自分で“まだ大丈夫”と思っているうちは。

 だったら、俺にできることは一つしかない。

 そばにいること。

 言葉にしなくても、“お前の味方”って顔でそばに立ってること。

 それが、今できる唯一の“戦い方”だと思った。

________________________________________

第五話『たしかに此処にいた、その魂が遠くへ行った午後』(矢野視点)


 その日は、午後の体育のあとだった。

 静が少し遅れて教室に戻ってきたとき、いつもより動きがぎこちなかったのを覚えている。

 汗をかいた髪が額に張りついていたし、喉元のシャツのボタンもひとつ外れていた。

 隣の席に座ると、静は少しだけ笑って言った。

「……まだ春なのに、この暑さは参りますね」

 それだけ。

 ほんの些細な会話。

 でも俺にはわかった。

 その笑顔が、“息が上がっているのを悟らせないためのもの”だってことくらい。

 次の授業。英語の時間。

 先生の声が遠くで響くなか、俺はちらちらと静の横顔を見ていた。

 ノートを取る手。

 筆記体の綺麗な走り。

 でも、何かがおかしい。

 ──ページが途中で止まっている。

 手は止まっているのに、視線は黒板に向けたまま、まばたきもせず。

「……おい、静?」

 呼びかけたときには、もう彼の瞳の焦点は合っていなかった。

 ゆっくりと体が前のめりになって、机に突っ伏すように崩れた。

 音を立てずに。

 まるで重力を思い出したみたいに。

 俺は慌てて手を伸ばした。

「静──!」

 教師がこちらを向く。周囲がざわつき出す。

 でも、そんなのどうでもよかった。

 そのまま、彼の身体を支えて廊下に出た。

 腕を肩に回し、何も言わない彼を運ぶ。

 力が抜けていた。完全に意識を失っている。

 だけど──俺にはわかった。

 ただ“眠ってる”んじゃない。

 あれは、“どこか別の場所”に意識が引っ張られている。

 保健室に着いたとき、養護教諭の佐野先生がすぐベッドを指示してくれた。

 静を寝かせると、俺の手のひらに、ほんの少しの冷や汗が残った。

「倒れた?」

「……意識、飛んでます。けど……なんというか……」

 俺は言葉を選びあぐねた。

“記憶の中に引きずり込まれてる”なんて、簡単には言えなかった。

 でも佐野先生は、それ以上深く聞かなかった。

 額に冷却シートを当てながら、静かな声で言った。

「この子、最近……眠れてないみたいね。夢、見てる顔をしてる」

 ベッドの上。

 静の眉間が、一瞬だけわずかに歪んだ。

 手が布を握る。

 誰かの名前を呼びかけるように、唇が震えた。

 けれど、声は出なかった。

(今、こいつは……あっちにいる)

 そう思った瞬間、胸がざわついた。

 静がどんな光景を見ているのか。

 何を感じているのか。

 何に追われて、何を許せずにいるのか。

 知りたいと思った。

 でも、口に出すには重すぎた。

 しばらくして、静がゆっくり目を開けた。

「……矢野くん……?」

「おう。戻ってきたか」

「……すみません……また、少しだけ、遠くへ……」

 彼はそう言って、小さく息を吐いた。

 苦しそうではない。

 でも明らかに、遠い場所を見てきた人間の顔だった。

「……お前、さ」

「はい?」

「どこ行ってたんだよ」

 静は少し笑った。

「……秘密、です」

 その笑みが、俺のなかにひとつの“確信”を落とした。

 ──沖田静は、“戻ってきてる”。

 着実に、取り戻しかけている。

 俺の知らない、けど知っている。その誰かだった頃の自分を

 少しずつ、確かに。

________________________________________

第六話『本能の刃は、まだ鞘に収まっていなかった』


 矢野蓮は、偶然だったと、あとから何度も思い返すことになる。

 その日、たまたま教室にスマホを忘れて校舎に戻った。

 ちょうど中庭の脇を通ったとき、声が聞こえた。

「やめろって言ってんだろ、離せよ!」

 振り向くと、制服のスカートの裾をつかまれている女子生徒と、

 明らかに他校のヤンキー数人。

 ──七、八人か。明らかに多い。

 ナメられてんのかこの学校。

 とにかく侵入者たちは気が大きくなっている様子だった。

 矢野は躊躇しなかった。

「おい」

 声をかけた瞬間、全員の目がこちらに向いた。

「離してやれ。他校の生徒だろ? ここにいる正当な理由もなさそうだ」

 その言葉に、ひとりが笑った。

「なんだてめぇ、正義の味方かよ」

「いや、通報役だよ。警察と先生どっちがいい?」

 相手がぐっと唇を噛んだその一瞬で、女子生徒の手首を引き、矢野は素早く背中に庇った。

 それが“火に油”だったらしい。

 次の瞬間、ヤンキーのひとりが矢野の肩を掴んだ。

 肘で払おうとした瞬間、もう一人が横から突っ込んできた。

 ──鈍い音がして、視界が傾いた。

「──あんたたち、そこで何してる?」

 その声が届いたのは、地面に片膝をついた矢野の耳だった。

 見覚えのある声。

 柔らかくて、でも冷たい。

“何か”を割るような音をはらんだ声だった。

 ヤンキーたちが、一斉に振り向く。

 そこに立っていたのは、沖田静だった。

「……やめといた方がいいですよ」

 その目は笑っていなかった。

 普段の穏やかさなどどこにもなく、

 ただまっすぐに、冷えた闘気だけが燃えていた。

「……うるせぇ! てめぇもぶっ飛ばされて──」

 言葉が終わる前に、沖田の体が動いた。

 踏み込み一歩、掌底が誰かの肩口に入る。

 地面に転がる音。

 残りの数人が身構えた。

 だが沖田はまったく構えず、ただ前に出た。

「僕は、剣を持ってない。

 でも、手足で間に合いますよ。何なら、口でも」

 そう言って、右手をかざす。

「どうします?」

 笑っていない笑顔。

“それ”を見て、数人が一瞬たじろいだ。

(──ああ、これが)

 矢野は思った。

(戦場の沖田静だ)

 現代という仮面の下に隠れていた“それ”が、

 今ここで、音を立てて目覚めたのを感じた。

「帰るなら今ですよ。今なら、僕はまだ“手加減”ができます」

 その言葉が、刃よりも鋭く響いた。

 数秒の沈黙。

 そして、ヤンキーたちは一人、また一人と後退りし、逃げ出した。

 矢野のところへ戻ってきた静は、しゃがみ込んで言った。

「大丈夫ですか」

「……ああ。ちょっと蹴られただけ。骨は平気」

「念のため、病院行きましょう」

「おい、静──」

「職員室、寄ってきます。そのあと、救急車呼びます。いいですね?」

 声に、いつもの柔らかさが少しだけ戻っていた。

 でも、どこか怒っているようにも見えた。

 自分に、か。

 相手に、か。

 それとも、こうなる運命そのものにか。

 矢野がもう一度だけ彼を見たとき、

 静の右手は微かに震えていた。

 それを見て、矢野は確信した。

 ──あいつは、自分で自分に“怒っている”。

 守るしかなかったことを。

 過去に、守れなかったことがあるから。

________________________________________

第七話『正しさに名は要らない』


 沖田静は、職員室の扉を静かに叩いた。

 礼儀正しく。

 まるで、教室に入り損ねた生徒のように。

 けれど、その背中には一切の迷いがなかった。

「──すみません、今よろしいでしょうか」

 担任の石田先生が、顔を上げる。

「ああ……沖田。用務員さんから今話を聞いたんだが……お前は大丈夫だったのか?」

「はい。僕は無傷です。ですが、矢野くんが少し怪我をしていて……今、駆け付けた生徒たちに頼んで保健室に連れて行ってもらっています。これから、念のために病院にも付き添います」

「……そうか。詳細を聞かせてくれるか?」

 静は、わずかな躊躇もなく答えた。

 すべてを。

 自分が何を見て、どう介入し、何をしたのか。

 誰を傷つけて、誰を助けたのか。

 声のトーンは落ち着いていた。

 だが、その語り口の中に、にじむものがあった。

“判断の重さ”を知っている者の、静かな語り。

 報告を終えると、石田先生はしばらく沈黙した。

 そしてふと、笑みのようなものを浮かべた。

「……冷静だな。普通の高校生なら動転してもおかしくない場面だが」

 静は小さく頭を下げた。

「失礼します。あとで顛末書、書かせてください」

 職員室を出ると、廊下にはすでに噂が飛び交っていた。

 ──“沖田先輩がヤンキー八人を睨みだけで退けた”

 ──“拳で語ったらしい”

 ──“沖田先輩ってやばい人だったの?”

 ──“いや、あれは正義だろ”

 ──“静先輩、惚れた”

 彼の名が、風のように広がっていた。

 翌朝、教室に入った瞬間、静は一斉に視線を集めた。

 目立つことを嫌う彼にとって、それはあまりに不快な視線だったはずなのに、

 彼はただ、いつもの調子で微笑んだ。

「おはようございます」

 誰に向けても、等しく柔らかい声。

 けれど、席に着くまでのわずかな歩きの間。

 足音を消すように静かだった。

「処分とか、ないんだってさ」

 そう教えてくれたのは、生徒会に近い女子の一人だった。

「顧問の先生たちも、“正当防衛”って。

しかも、あんなに冷静に行動してくれたからって、逆に評価されてるって噂」

 静は、苦笑した。

 その日の昼休み。

 矢野が松葉づえで現れると、教室は一気にざわついた。

「マジであれ、ヒーローじゃん……」

「矢野くん、沖田先輩と仲いいんでしょ?」

「ガチで惚れた」

「写真撮ってたやついないの?」

 静はすこしだけうつむいた。

 ──自分が恐れられると思っていた。

 前世のように、近寄られず、畏怖の目を向けられ、距離を置かれると思っていた。

 でも、今回はそうじゃなかった。

“暴力”ではなく、“正しさ”として認識されること。

 それが、ただ少しだけ、怖かった。

 昼下がり。屋上。

 静はひとり、風を受けながら空を見上げていた。

「……これが、“正義”ってやつなら」

 ぼそりと呟いた言葉が、風に消えた。

「本当に、“正義”って名乗っていいんですかね、矢野くん」

 気づけば隣にいた矢野が、肩をすくめた。

「正義に名乗りは要らねぇよ」

 静は、ほんの一瞬だけ笑った。

________________________________________

第八話『言葉にしない誠実』


 放課後の図書室にて、沖田静は一枚の便箋に向かっていた。

 担任から言われたわけではない。

 処分は不問になった。

 それでも彼は、自ら進んで顛末書を書くと申し出た。

 それが、彼の中にある「けじめ」の形だった。

 便箋には罫線があったが、静の字はその枠からわずかに外れることがあった。

“きっちり”よりも“丁寧”を優先したような書き方だった。

「二〇二×年四月十八日、午後三時過ぎ。中庭付近にて、他校の生徒八名による暴力行為に遭遇──」

 文章は簡潔だった。

 だが、その一文一文に“責任”の感触がにじんでいた。

「──本来であれば、教員の介入を仰ぐべき場面でしたが、現場の緊急性と判断し、即時対応に至りました」

(言い訳ではなく、経緯の説明)

(正当防衛ではなく、抑制の誓い)

(名誉でも後悔でもなく、“在り方”の報告)

 そんな、彼なりの答え。

 顛末書を書き終えたあと、静は図書室を出て、まっすぐ保健室へ向かった。

 ノックのあと、ドアを開けると、いつもの佐野先生が、カルテにペンを走らせていた。

「来たわね。今日は何かあったの?」

「いえ。ただ、お礼と報告に。……遅くなりましたが」

「あの件の?」

「はい」

 静は短く息をついたあと、カーテン越しに並ぶ空のベッドを見つめた。

「矢野くん、今日も“あのとき”の話をしませんでした。……それが、ありがたかったです」

「あなたが言ってくれるまで、彼は待ってるのね」

「……僕は、まだうまく話せないんです。全部、うまく言葉にするには、“今”の僕じゃ足りない気がして」

 佐野先生は笑わなかった。

 ただ、彼の言葉に一つだけ答えた。

「じゃあ、その分、ちゃんと眠りなさい。言葉は夢の底で育つものよ」

 静は、目を伏せて小さく笑った。

「努力します」

 その夜、自宅に戻ると、リビングには母親がいた。

 食卓の上には、好きな煮物と、豆腐入りの味噌汁。

 そして、何も聞かずに出された白湯。

「……ありがとう」

「大丈夫だったの?」

 問いではなく、確認のような声。

 静は、少しの間を置いてから頷いた。

「うん。僕は、僕なりに」

 母はそれ以上何も聞かなかった。

 けれど、その手元の湯飲みが、少しだけ震えていたことに、静は気づいた。

 夜。自室のベッド。

 電気を落とす前、静は机の引き出しにそっと顛末書の写しを仕舞った。

 それは、提出するためではなく、

 いつか“本当に話せる日”までの、証のようなものだった。

 眠りにつくまでのわずかな時間、彼は目を閉じて思った。

 誰かを守ることと、過去に縛られることは、きっと違う。

 それでも、誰かの痛みに手を伸ばすとき、

 自分の“刃”が疼くのは、たぶんもう運命のようなものなんだ。

 布団のなかで息を吐いたとき、ようやく胸の奥が少しだけ軽くなった。

________________________________________

第九話『夢の底で名前を呼んだ』


 その夜、風はなかった。

 カーテンは揺れず、時計の針が刻む音がやけに静かだった。

 沖田静は布団のなかで目を閉じ、呼吸を整えようとしていた。

 眠くもないのに、眠ろうとしている。

 理由はない。ただ、疲れていた。

 心ではなく、体の芯が、じんわりと冷えているような感覚だった。

 眠りに落ちたのがいつだったかもわからなかった。

 ただ、気づいたときには、見覚えのない場所に立っていた。

 焼けた匂いがした。

 土が焦げる匂い、風が巻き上げる灰の味。

 誰かの呻き声と、遠くから聞こえる叫び。

 足元に、折れた槍。

 踏みしめた草は、赤く、柔らかく、温かかった。

(……また、ここか)

 心のどこかが呟いた。

 初めて見るはずの風景なのに、懐かしい痛みがあった。

 手には何も握っていない。

 だが、自分が何をしていたのかはわかる。

 斬っていた。

 守るために、誰かのために、命を懸けて。

 ──それが正しかったかどうかなんて、

 あのときは、考える暇すらなかった。

 風の向こうに、倒れている兵士が見えた。

 誰かに似ていた。

 ……矢野、かもしれない。

 でも、顔はよく見えなかった。

 静は一歩、足を踏み出そうとする。

 そのとき、背中に声が響いた。

「……もう、いい」

 聞き覚えのある声だった。

 けれど、名は思い出せない。

 振り返ると、誰もいなかった。

 ただ、風の中に言葉だけが残っていた。

「お前は、生きていい」

 その瞬間、胸が締めつけられるような感覚が走った。

 何かが壊れそうで、

 何かが戻りそうで、

 けれど何一つ掴めない。

 手を伸ばしても、風に溶けていくばかり。

──パリン。

 何かが割れる音がして、静は目を覚ました。

 部屋は暗い。

 額にはうっすらと汗。

 呼吸が浅く、肩がかすかに上下していた。

 喉の奥が詰まるように痛かった。

 息を吸っても、胸が膨らまない気がした。

 ……それでも、涙は出ていなかった。

 代わりに、手がわずかに震えていた。

 そしてその手が、無意識に胸元を握っていた。

(……何を……夢に、見ていた)

 覚えていない。

 でも、確かにあった。

 名前を呼んだ。

 そんな気がする。

 でも誰の名だったかは、もう思い出せなかった。

「……矢野くん」

 小さく呟いた名が、夜のなかに沈んだ。

 やがて、落ち着きを取り戻した呼吸のなかで、

 静は目を閉じた。

(……まだだ。まだ全部は、戻ってない)

 けれど、“戻ってきている”。

 確実に、記憶の底から。

 風のない夜。

 眠るには静かすぎる夜。

 それでも彼は、もう一度目を閉じた。

“あの夢の続きを見なくてもいい”と願いながら。

________________________________________

第十話『並んでいる、それだけで』


 日曜日の午後、校舎は静かだった。

 剣道部の自主練に顔を出したあと、静はひとり武道場の隅に座っていた。

 竹刀袋に背を預け、膝を抱えるようにしてうつむいていた。

 風が、引き戸の隙間からすこしだけ入ってきて、

 床に差した光のなかで、埃が舞っている。

「……来てると思った」

 そう言ってやってきたのは、矢野だった。

 ジャージ姿のまま、額にタオルを巻いたまま、

 なんとなく、歩き慣れた道を選ぶように。

「部活、来てたんだな」

「いや、顔だけ出してた。……矢野くんは? もう足はいいんですか?」

「俺は……別に。来たかっただけだよ。足は大丈夫だ。けど、ただ、お前がここにいる気がして」

 静は小さく笑った。

「わかります?」

「……なんとなく」

 二人は、しばらく言葉を交わさず、並んで床に座った。

 竹刀立ての影が、二人のあいだに淡く揺れていた。

「なあ」

 矢野がぽつりと切り出す。

「最近……よく夢を見るんだ。

でも、夢なのか記憶なのか、わかんねぇ。

土の匂いとか、血の色とか、誰かの声とか……そういうのが、一気にぶわって来る」

 静は、目を閉じたまま、ゆっくりと頷いた。

「僕も、です」

「やっぱり」

 矢野は、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。

「なあ、静……お前、前のこと、覚えてる?」

 静はしばらく何も言わなかった。

 床に置いた手が、ほんの少しだけ拳を作る。

 だが、すぐにほどけた。

「……僕は、まだ言葉にできないんです」

「そっか」

「でも、たぶん……」

「たぶん?」

「呼ばれてました。戦場で。誰かに。ずっと、呼ばれていました」

 矢野はそれを聞いて、小さく息を吐いた。

「それ、俺かもな」

 静はふっと笑った。

「かもしれません。あなたの声は、よく響きますから」

「お前、たまに嫌味なほど冷静だよな」

「お互い様です」

 ふたりの間に、また静けさが戻った。

 けれど、その静けさは重くなかった。

 言葉にできない過去も、まだ完全じゃない記憶も、

 こうして“並んでいる”ということだけで、少し救われる気がした。

「矢野くん」

「ん?」

「……僕ね、今のこの時間が、たぶん一番怖いんです」

「どうして?」

「だって、幸せだから。

こんなふうに何も起きない日を、“失う”記憶ばかり見てきた気がして……

それでも、今を守りたいと思うのが、一番……苦しいんです」

 矢野は、ゆっくりと立ち上がって、隣の静に手を差し出した。

「じゃあ守ろう。ふたりで。

今が幸せって思えるうちは、ちゃんとさ」

 静はその手を見つめ、ためらいがちに、けれど確かに握った。

「……はい」

 手を離したあとも、手のひらの温度は残っていた。

 その温度を覚えておこうと、静は小さく胸の中で唱えた。

(今は、大丈夫)

(まだ、僕は大丈夫)

 外では夕陽が差していた。

 二人の影は長く、武道場の床を静かに這っていった。

________________________________________

(第三部・完)

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