第二部 風は、まためぐる(高校一年生)
──静かなる剣士が、令和に還る
歴史に名を遺さなかった剣士は
再び、生まれ変わった
現代という平穏のなかで
彼を見つけた者たちは、それでも「何か」に気づく
誰かの視線、記憶の断片、静けさの奥にある祈り──
沖田静という青年が、令和に生きる姿を
さまざまな目線で辿っていく連作抄
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【沖田 静・本人の記憶】
──それは、昼のことだった。
教室の光は、午後の窓から差し込んでいて、誰かが冗談を言っていた気がする。
笑い声。遠くのほうの机の軋む音。黒板のチョークが転がる音。
それらが、ふっと遠のいた。
そして次の瞬間、僕は土の匂いを嗅いでいた。
いや、違う。
目の前にあるのは、湿った地面。
倒れた草がひやりとして、頬に触れた。風がある。風が、血の匂いを運んでくる。
「……っ、ここは……」
言葉が喉の奥で引っかかった。
手の中にある。──柄が、ある。
握っているのは、見覚えのない刀の柄。
握り締めた手に、血が乾いて張り付いている。
僕は、何をしていた?
遠くで、誰かが倒れている。
見覚えのない戦装束。地鳴りのような叫び。火の粉。煙。
でも、一番強く残っているのは──誰かが僕を呼ぶ声だった。
低く、切実な声で、誰かが僕の名を──
•
意識が、浮かんでいく。
•
目を開けたとき、僕は保健室のベッドにいた。
冷たい額の感触と、静かな音。遠くでサイレンの音がかすかにしていた。
胸が痛い。何かを抱えていた感覚だけが、消えてくれなかった。
「……夢、じゃ……ない……」
あれは、夢じゃなかった。
なぜなら──僕の掌には、まだ柄の“感触”が残っていたからだ。
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【クラスメイト・男子の視点】
──「あいつ、急に止まったんだよ」
静と俺は、昼休みに近くの席にいた。机を寄せて、次の授業で使うグラフのまとめをしてた。
ノリで「俺、この前さ、スマブラでさ──」とか話してる途中で、
あいつが、ぴたりと動かなくなった。
ほんとに、止まった。
瞬きすらしてなかった。呼吸も薄くて、まるで時間が“止まった人形”みたいだった。
「おい、静?」
声をかけても反応しなくて、腕を軽く叩いたら──
次の瞬間、あいつ、すごい速さで肩を震わせた。
「……!」
何かから“帰ってきた”みたいだった。呼吸が荒れて、顔が青ざめてて、けど目は異常に冴えてた。あんな静、見たことない。
通りがかった先生が教室に入って来て、そのまま保健室に連れて行かれた。
後ろ姿、足取りはしっかりしてたけど、あれは……普通じゃなかった。
なんか、“見てはいけない何かを見た目”してた。
それ以来、なんとなくクラスの誰もが、静のことをちょっと距離を置くようになった。
でも俺は、ずっと思ってた。
あいつ、たぶんあの時──
“この世界じゃない場所”に行ってた。
たとえそれが夢でも幻でも、俺たちには届かない場所に。
•
後日、静に「なんだったんだよ、あれ」と訊いてみた。
そしたら、静はちょっと間を置いて、
「……たまに、変な夢を見るんです。昼でも。」
って、ふわっと笑ってた。
それが妙に怖くて、でもちょっとだけ──かっこよかった。
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【保健室の先生の視点】
──あの子の目を、私はたぶん一生忘れない。
沖田静が運ばれてきたのは、昼の十三時過ぎ。
付き添いの教諭が「様子がおかしい」と言って連れてきたとき、意識は戻っていた。
でも、あの眼差し──明らかに“何か”を見て帰ってきた人の目をしていた。
「頭、打ったかもしれません」
そう言った彼の声はしっかりしていたけれど、熱もなく、怪我もなく、脈も正常。
ただ、何かが違った。
……この子、体の調子が悪くて来たんじゃない。
“世界とズレてしまった感覚”を抱えて、ここに戻ってきたんだ。
ソファに座らせて、お茶を出しても、手の震えは止まらなかった。
けれど、無理に理由を訊くのはやめた。
本人も、説明できる状態じゃないのは明らかだったから。
•
ベッドで少し眠らせて、目覚めた彼に「少しは落ち着いた?」と訊いた。
静は、少し微笑んでこう答えた。
「……すこし、遠い夢を見ていました。でも、どこかで本当にあった気がします」
その言い方が、とても年齢に似合わなかった。
でも同時に、それが“真実”なんだろうなと思った。
彼の中には、今の年齢だけじゃない時間がある。
それが、いつどんなふうに溢れ出すのか──
私はそれが、ただ怖かった。
そして少しだけ、羨ましくもあった。
•
この出来事以降、私は彼が保健室に来るたび、
黙って見守ることにした。
彼が“夢を見に行く”時間に、誰にも邪魔されないように。
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番外話『母は、音の変化に気づく』(母親視点)
うちの子は、小さいころからあまり手がかからなかった。
熱を出しても静かに布団の中で寝ているし、叱っても声を荒げることがない。
泣き叫ぶようなこともなかった。
静――名前の通り、ほんとうに“静か”な子だった。
•
それでも、わかる。
母親はね、音で気づくのよ。
静が三つ四つの頃までは、夜中に小さく鼻歌を歌っている日が時々あった。
眠れなかったんだろうと思う。
古いアニメの主題歌をぽつぽつ繰り返す声が、寝室の壁越しに聴こえてきた。
でも、ある日を境にぱたりと止んだ。
そしてその代わりに、部屋の中で何かが「きゅっ、ぎぃ」と擦れる音が聴こえるようになった。
最初は何の音かわからなかった。
けれど後になって、それが“足の動き”だとわかった。床を蹴って、立ち位置を移動して、軸を変えるような音。
──あの子、夜中に一人で剣道の型をしていたのね。
•
小学生になってからも、あの子はよく「夕飯の前にちょっと散歩してくる」と言って、竹刀を持って出かけていった。
学校で何があったのか話すことはあまりない。
でも、笑ってはいた。あの子なりに、バランスを取っていたのだと思う。
けれど──中学二年のある日。
あの日から、空気が変わった。
•
学校から帰ってきたあの子は、変わらない顔をしていた。
けれど、リビングに入ってきたときの足音が違った。
今までならふわりと入ってきたのに、その日は“足音がなかった”。
まるで、風が入ってきたみたいだった。
•
「ただいま」
その声は、変わらない。
でも、私は聞き返したの。
「静……どこか行ってた?」って。
すると、少し驚いたように、でもすぐに笑って答えた。
「ううん、帰り道、ちょっと寄り道しただけだよ」
……その笑い方が、少しだけ“昔の笑い方”じゃなかった。
•
その夜、静は早く布団に入ったけれど、私は台所からずっと気にしていた。
すると──午後八時すぎ。
ふと、床板のこすれる音が聴こえた。
……久しぶりに、型をやっている音だった。
でもそれは、何かを「取り戻そうとしている」ような、焦り混じりのリズムだった。
呼吸が速くて、足の運びが乱れていた。
私は、そっと寝室の戸を開けた。
扉の隙間から覗いた先で、あの子は膝をついていた。
両手で顔を覆っていて、肩がかすかに震えていた。
声はなかった。
涙の音も、嗚咽もない。
ただ──見えない何かを、呼んでいるようだった。
•
私は扉を閉めた。
呼ばれるまでは、母はただ“待つ”のが役目だから。
•
あの子は何かを思い出した。
それが夢なのか、過去なのか、私にはわからない。
でも、確かに──「変わった」んじゃない。
“帰ってきた”んだと思う。
あの子の中の何かが。
ずっと遠くから。
•
だから私は、いつでも静が帰ってこられるように、
毎朝、お味噌汁を炊く。
変わらぬ香りを、ただひとつ、目印として。
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■『語られなかった頁の余白で』(歴史教師・視点)
教師という職業を長くやっていると、生徒たちの顔はだいたい「世代の色」で記憶されるようになる。
今年の1年A組は、やけに明るい。目立ちたがり屋が多いが、悪い意味ではない。声がよく出る。よく笑う。担任もたまに手を焼いているが、それに余って教師としてはやりやすい。
そんな中で──一人だけ、輪郭の“調子”が違う子がいた。
沖田静。
その名前を名簿で見たとき、どこか引っかかりはあったが、別に歴史上の誰かと被るわけでもなかった。ただ、何となく、音の奥に余白があるような名だった。
•
最初に気になったのは、春の授業中。
「江戸末期の市民階級と武家の武装意識」について話していたときのことだ。
「たとえば、幕末期になると“武士という身分”より、“剣を持つ覚悟”のほうが個人の信念として強くなるわけで……」と話していた時、教室の後方で誰かが一瞬だけ顔を伏せたのが視界に入った。
それが沖田静だった。
別に居眠りをしているわけではない。
ただ、ほんの一瞬。
何かに触れたように、目を伏せ、息を止めるような仕草をした。
……その所作が、古かった。
説明のつかない“時代の重み”のようなものが、あの子の呼吸の間に混ざっていた。
•
彼のノートは綺麗だった。小さな字で、無駄がない。
でも、一度だけ、本文の横に書き込まれた余白にこう記されていたのを目にした。
「記録とは、遺すためのものではなく、奪われたものを取り返す行為かもしれない」
それは、歴史を学ぶには早すぎる解釈だった。
“体験”として知っていなければ出てこないような言葉だった。
•
補習授業中、ふと彼に訊いた。
「沖田、君は……武士って、どう思う?」
唐突な質問だったが、彼はまっすぐこちらを見て、少し考えてからこう言った。
「名乗りたい人のもの、じゃないと思います。そう呼ばれた人の、代わりに残る名じゃないですか」
……そのとき、私はぞっとした。
•
私は長く歴史を教えてきたが、あのような答えは初めてだった。
事前に教科書で学んだ言葉ではない。誰かから教えられた定義でもない。
まるで……自分が一度“そう呼ばれたことがある”者の口調だった。
•
それからというもの、私は沖田静という生徒を“見る”のではなく、“読む”ようになった。
歴史の資料と同じように。
曖昧な余白と、傷の跡と、語られていない部分の多さに、意味を探しながら。
•
教室では、彼はよく笑うようになった。
友人の冗談に小さく肩を揺らしているのを見ると、「ああ、この子も今を生きているのだ」と安心する。
けれど、その笑い方の“終わり方”がとても静かだと、気づいてしまうと──
私はどうしても、背筋が伸びてしまう。
彼はたぶん、知らない。
自分の中の“何か”が、時折こうして誰かの記憶を揺らしていることを。
でも、私は知っている。
歴史はいつだって、“名のない人間”の繰り返しでできていることを。
そして沖田静という名の、その静けさが──
最も雄弁に、何かを語っていることを。
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■『何も思い出していないのに、懐かしかった』(矢野蓮・視点)
正直に言うと、最初はただの偶然だったんだ。
中学一年の春の全校集会。体育館で学年全員が立ち並んでいて、俺は後ろの方の列であくびをかみ殺してた。
そのとき、前列のちょっと斜め右に立ってたやつが、一瞬だけこっちを振り返った。
目が合ったわけじゃない。
でも、わかった。
──“知ってる”。
脳みそのどこかが、そう断定していた。
名前も、経歴も、何も知らないはずなのに、俺の中のなにかが「知ってる」って言ってた。
•
そのあと、偶然同じ校舎の掃除当番になって、顔と名前を知った。
沖田 静。
“せい”って読むのかと思ったけど、“しずか”だった。
名前を聞いて、また身体の奥の方がぎゅうってなった。
意味もなく、吐き気に似たような感じがして──
けど、すぐに消えた。
たぶん、思い出せるはずの記憶が、まだ鍵のかかった箱の中にある、そんな感じだった。
•
俺と静は、掃除のときもそんなに会話しなかった。
けど、不思議と気まずくはなかった。
静はたいてい、ほうきの手入れから始める。ちゃんと穂を整えて、床を丁寧に払っていく。
その仕草が──すごく、見覚えがあった。
まるで剣を抜く前の“型”みたいに、無駄がなかった。
俺は昔、剣道をやってたことがある。小学校の頃までだけど、どうしても思い出せない“誰か”の姿が、いつも心のどこかに引っかかってて──
その誰かが、こうやってほうきを整えていた気がしてならなかった。
いや、違う。
あれは竹刀だ。
俺の前で、それを抜いて、構えて、俺を守った──
•
「矢野くんって、剣道やってた?」
突然声をかけられて、振り返ると、静がいた。
相変わらず表情は柔らかいのに、どこかこちらの内側まで見透かすような眼だった。
「昔ね。今はやってないけど。……なんで?」
「握り方が、覚えてる人の手だったから」
笑いながらそう言った静の手が、竹ぼうきを握るのと同じように──
“誰か”の刀を持っていた手と、重なった。
思い出していないのに、懐かしかった。
本当にいたのかどうかもわからない、幻のような何かが、いま目の前にいる気がした。
•
そのあとも、何度か顔を合わせた。
俺が中一の秋に剣道部に入部してからはほとんど毎日。
中学の三年間は同じクラスにこそならなかったけれど。
でも、まだ言えない。
「お前を知ってる」なんて、そんな簡単に言葉にできるもんじゃない。
たぶん──まだ、時期じゃない。
でも、俺は知ってる。
こいつの隣で、俺は一度、命を落としかけたことがある。
それを守ってくれたやつが、たぶん、今こうして「ただの中学生」として生きている。
だったら、今度は俺が──
こいつの“隣”にいるんだ。
記憶より先に、そう思った。
•
静の背中は、春の風みたいに軽い。
だけどその中に、冬の夜みたいな寂しさがある。
きっと、何かを忘れてきたんだ。
それでも、この世界に“また”生まれてきたんだ。
なら、次は俺の番だ。
忘れててもいい。思い出せなくてもいい。
今度こそ、静の横にちゃんと立つ。
剣を持たなくても、もう一度“肩を並べる”。
──そう決めたんだ。
•
あの日見た夢の続きを、こいつと一緒に思い出すために。
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■『面の奥、まばたき一つぶんの距離で』(剣道部・中等部後輩視点)
俺が沖田先輩のことを「やばい人だ」って思ったのは、中等部入学後、剣道部に入部して三日目だった。
新入部員の顔合わせが終わって、道場の片隅で面のつけ方を先輩が教えてくれたとき。
手際がきれいとか、声が落ち着いてるとか、そういうレベルじゃない。
何かが違った。
たとえば、手。
紐を結ぶとき、いちいち“形”が整いすぎてて、逆に不自然なくらいだった。
それで「ずっと剣道やってたんですか?」って聞いたら、
「いえ、なんとなく始めてたら、こうなってました」って微笑んだ。
“なんとなく”で、構えがあれなの?って思った。
だって、竹刀を握った瞬間の構え──すでに「勝つ側の人間」だった。
•
それから数週間。
初めて先輩と打ち合う機会があった。
正直ビビった。
構えただけで空気が変わるって、漫画の話だと思ってた。
でも、本当に変わった。
道場の音が、全部遠くなった。
竹刀が、冷たくなった気がした。
試合開始。動いたのは俺のほうだった。
でも、次の瞬間、面の真正面に──“何か”がいた。
斬られたわけじゃない。
竹刀は振られてない。
なのに、身体が「これ以上は無理」って、勝手に止まった。
ほんの一瞬。
それだけで、こっちは完敗だった。
•
「今の、止まったの、わかりました?」
そう訊かれて、頷くしかなかった。
負けたとか勝ったとかじゃなくて、“心がつかまれた”感じだった。
「僕、剣で人を倒すのはあまり好きじゃないんです」
「でも……僕はもう二度と先輩の前で剣を持って立てない気がします」
「そうですね……立たせなくするのは、得意かもしれません」
……いやもう、それって結局一番強いってことじゃん。
•
先輩の剣は、どこか懐かしい。
って言ったら変だけど、なんかこう──「こうあるべきだった」っていう型が、最初から染みついてる感じ。
本人は飄々としてて、練習が終わったら売店でアイス食べてるし、
俺が足を痺れさせて悶絶していたら、
「正座って、しんどいですよね」なんて、普通に言ってくる。
でも、一度だけ聞いた。
「先輩って、なんで剣道やってるんですか?」
そしたら、少し考えて、
「……わかりません。でも、やめようと思ったこともないです」
って。
それを聞いて、なんかわかった気がした。
この人、たぶん「始めたんじゃなくて、思い出してる」んだ。
剣道っていう形を借りて、
ずっと遠くの何かに──何かの感触に、繋がってる。
•
先輩の目は、構えてるときと、笑ってるときで全然違う。
面の奥にいるときは、時間ごとすっ飛ばすような目をしてる。
俺たちのことも、きっと“ここ”だけで見てない。
でも、見てる。ちゃんと。
“どこか遠くから帰ってきた人”みたいに、全部に距離があって、
でも確実に“ここにいる”。
……ずるい人だと思う。
追いつけないけど、追いかけたくなる。
それが、沖田静という人だった。
•
今度の大会、俺は先輩の背中を見ながら、
ちゃんと一太刀ぶつけたいと思ってる。
たとえ“まだ思い出してない剣”だとしても、
今ここで一緒に戦ってるのは、間違いなくこの時代の、俺たちだ。
•
──「先輩、俺、勝てるようになったら、また教えてください」
そう言ったら、静かに笑って、
「うん。じゃあ、そのときは“ちゃんと切る”ね」
って返された。
“切る”なんて言葉、あんな穏やかに使える人、初めて見た。
あの人の剣は、やっぱりどこか“昔”のものだった。
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■『歩き方を覚えている気がした』(街の人・視点)
それは、休日の朝だった。
商店街のすぐ裏にある小さな神社の階段を掃除していたとき、鳥居の向こうから、白いシャツの高校生が歩いてきた。
人通りは少なかった。
でも、見た瞬間に「空気が変わった」と思った。
なにが、ってうまく言えない。
ただ、歩き方が違った。
地面を選んでるような。
いや、そうじゃない。
“ここが敵地じゃないかどうか、確認してる”みたいな足運びだった。
その感覚が妙に馴染んで、俺は目をそらせなくなった。
•
彼は階段の下で立ち止まり、境内の鳥居を見上げた。
両手を合わせるわけでもなく、ただ風を感じるように目を閉じて、数秒の間──
何かを思い出そうとしていた。
そして、階段を上がらなかった。
登らずに、ゆっくり引き返した。
行動としてはそれだけだった。
でも、どうしてか俺は、その背中をずっと見送ってしまった。
なんていうか、“あれ以上神域に踏み込めない人”の背中だった。
•
後日、商店街の花屋の前でまたその子を見かけた。
竹刀袋を背負っていて、制服の袖をまくっていた。
中に入っていくでもなく、花の棚をしばらく見つめていた。
花には触れなかった。
ただ、じっと立って、そこにいるのが当たり前のような顔で、“白椿”の鉢を見つめていた。
白椿。
花言葉は「完全なる美しさ」だったか。
でも、彼が見ていたのは、花じゃなくて、その根元だった気がする。
それも、“確かめるように”じゃなく、“再会するように”。
•
そのあと、俺はこっそり花屋の店主に聞いた。
「あの子、よく来るのか?」って。
そしたら、店主が言った。
「週に一度くらい、静かに立ってる。でも、何も買わないし、何も言わない。ただ、“ああ、この人はここに何か置いてったんだろうな”って顔をしてるよ」
•
高校生なんて、どれも似たり寄ったりだと思っていた。
けど、あの子は──どこにも属してなかった。
誰かの知り合いって感じがしなかった。
まるで「通りすがりにこの世界に立ち寄ってるだけ」みたいだった。
なのに、なぜか懐かしい。
昔、あの階段を登っていった兵隊たちの足音。
境内で剣の型を見せ合っていた若者たちの声。
……いや、それはただの記憶の重ね合わせだ。
たぶん、似た空気を感じただけだ。
でも、こうも思う。
“ああいう人に、見送られた人間がいたんだろうな”って。
•
この世界で、まだ戦ってるわけじゃないのに、
もう“戦い終えた”みたいな雰囲気をまとった高校生が、
風のように町を歩いている。
それだけで、俺はこの町の景色が少し好きになった。
あの白椿が咲くころに、またふらっと来るんじゃないか。
そして何も言わずに、立ち去っていくんじゃないか。
そんなことを、今日も神社の階段を掃きながら考えている。
•
“本当はどこから来たんだ、お前さん。”
そう訊ける日が来たら──
ちょっと、怖いけどな。
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■『あの子は、風を待っていた』(バス運転手・視点)
あれは梅雨入り前の、くもり空の日だった。
午後三時すぎ。高校帰りの生徒たちを乗せたバスが、少し静かな坂道を下りていく途中だった。
何の変哲もない、旧市街の坂の途中。
路肩のベンチに、ひとりの男子高校生が座っていた。
制服の襟をゆるめ、片手に文庫本。
竹刀袋が足元に置かれていたから、剣道部の子だろうと思った。
べつに珍しくもない。毎年、この季節になれば、部活帰りの生徒があちこちに溜まっている。
けど──その子だけは、なんか、違った。
•
視線を前に向けているのに、
心はずっと後ろを見ているような、そんな顔だった。
雨も降っていないのに、傘立てのような姿勢で座っていて、
まるで、何かを待っていた。
バスでも、友達でも、スマホの通知でもない“なにか”を。
そして不思議なことに、その子の周囲だけ風が止まっていた気がした。
車内のエアコンが吹いていたせいか?
いや、それとは違う。
風景の一部にすっと溶けているくせに、
「この子はこの時間の外にいるな」って直感があった。
•
信号で一瞬停車したとき、彼が顔をあげた。
目が合った気がした。
たぶん気のせいだけど、思わずブレーキを踏み直すくらいには、なにかが走った。
あれは目じゃない。
視線の奥に、“音がした”気がしたんだ。
何の音かって?
……例えるなら、刀を鞘に納めるときの音。
きゅ、と刃が静かに戻る、あの微かな気配。
……いやいや。まさか。バスの運転手が何言ってんだって話だよな。
•
バスはまた走り出して、彼の姿はすぐ見えなくなった。
だけど、あの子の背中だけは、今でも覚えてる。
無防備な姿勢なのに、どこにも隙がなかった。
誰かに何かを差し出されたときにだけ、ようやく受け取る用意がある、そんな背中だった。
•
次の日から、その場所で彼を見かけることはなかった。
多分、偶然あの時間、あの坂にいた、それだけのことだったんだろう。
でも思うんだ。
一瞬すれ違っただけでも、“ああ、この人は誰かの時間を終わらせてここにいる”って、わかるときがある。
あの子は風を待ってた。
雨じゃなくて、風を。
たぶん、“帰ってくる何か”を待っていた。
──そんな気がしてならない。
•
名前も知らない。
もう二度と会わないだろう。
でも、ああいう子がひとりだけ街にいるって、
それだけで、今日もバスを走らせる意味があると思えたんだ。
•
たまに、信号で止まるたびに思い出す。
あの目。
風が通らなかった、あの午後。
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■『それは夢ではなく、感触として残った』(矢野蓮・視点)
あれは小学六年生の三月頃のことだ。
きっかけは、夢だった。
最初はぼんやりしていた。
真っ白な風景の中で、自分が誰かと剣を交えている。
相手の顔は見えない。でも、手の中の刀は“慣れている”。
その感触だけは、はっきりしていた。
目が覚めたとき、手がじっとりと汗ばんでいた。
夢にしてはリアルすぎた。
けどまあ、部活で剣道の話でも聞いたか、映画でも見たんだろうと、自分に言い聞かせた。
•
二度目の夢では、風景が少しだけ具体的になった。
瓦屋根。火の気配。濡れた地面。
そして、白い装束の“誰か”が、目の前に立っていた。
それでも、顔は見えなかった。
ただ、“知っている”という感覚があった。
こいつは、何度も俺の前に立っていた。
何度も、俺の前で──誰かを斬った。
それが夢だなんて、もう言い訳できなかった。
目が覚めたあと、無意識に枕元に置いた竹刀袋を見ていた。
俺は、その日を境に剣道をやめた。
•
中学に入学してから、剣を置いた俺を待ち受けていたのは、
夢の中のあの空気だった。
あの空気を纏う男――静との再会を皮切りに、俺は無性に再び剣を握りたくなった。
現実での静との接点は、少しずつ増えていた。
掃除当番、教室の行き帰り、部活見学、そしてなにより──“話してなくてもわかる”ことが多すぎた。
沈黙が会話になるっていうのは、よく言われるけど、あれは“過去を知っている同士”の感覚に近かった。
まるで、一度言葉にしたら全部壊れてしまいそうなものを、そっと包んでるような距離感だった。
•
高校一年になったある朝、静が廊下の隅でふらついた。
誰にも気づかれなかったが、俺は見ていた。
目が、完全に焦点を失っていた。
ほんの数秒。だけどその目は、“この世界を見ていなかった”。
あのとき、確信した。
──こいつ、夢を見てる。
俺と同じように、何かを、思い出しながら。
•
それから、俺は気づかないふりをした。
記憶なんて曖昧でいい。確証なんていらない。
でも、どうしようもなく“心当たりがある”感覚が積み重なっていった。
そして、三度目の夢。
そこで、俺はようやく見た。
──あの白装束の剣士の顔を。
それは、今の“沖田静”と、寸分たがわぬ顔だった。
•
夢から覚めたとき、俺はしばらく動けなかった。
心臓がバクバクと音を立て、手の中にまだ“柄”の感触が残っていた。
目を閉じると、あの風の中で俺を庇った剣士の姿が脳裏に浮かぶ。
斬られる寸前に、前に立ちはだかった、背中の輪郭。
そして、振り返らずに敵陣へ突っ込んでいった姿。
……あれは、沖田静だった。
名前を知らなくても、記憶が曖昧でも、確信だけはある。
俺は──あいつと、過去に一度会っている。
違う場所で、違う時代で、けれど同じように“命を懸けた相手”として。
•
朝の登校中、少し先を歩く静の背中を見ながら、俺は心の中で呼びかけていた。
「なあ、静。お前も気づいてるんだろ?」
その問いに答えはない。
でも、次の瞬間。
静が振り返りもしないまま、ぽつりとつぶやいた。
「……風、強いね」
俺は思わず立ち止まった。
風なんて、まったく吹いていなかった。
けど、理解した。
──こいつも、もう思い出してる。
そして、同じように俺のことを「誰か」と重ねている。
•
次は、ちゃんと伝えなきゃならないのかもしれない。
でも、それはもう少し先の話だ。
•
──俺たちはまだ、“名前を取り戻していない”。
でも、それでも。
あのとき交わした“約束の続きを、生きている”。
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■『誰も届かない場所へ、ひとりで行くなよ』(矢野蓮・視点)
昼休みだった。
弁当を食べ終えて、廊下でぼーっとしてたとき。
ふとした違和感で顔を上げたら、教室の角で静が、壁に手をついていた。
「……おい、静?」
声をかけると、彼の肩がわずかに動いた。
けど──それだけだった。返事がない。
顔は前を向いたまま、視線も、焦点も、どこか“違う場所”を見ていた。
心臓が、ぞわっと嫌な音を立てる。
「おい、聞こえてるか? 静?」
歩み寄って腕を取ったとき、肌が冷たかった。
まるで夢の中の人間に触れてるみたいな感触だった。
•
しばらくして──
静がふっと力を抜いて膝を折りかけた瞬間、俺は慌てて肩を支えた。
「おい、やめろって、なにしてんだよ……!」
まるで“息”がない。
けど、心臓は動いている。呼吸もしている。
だけど──あいつの“心”は、今ここにない。
俺は確信した。
──この状態、知ってる。
それは俺自身が、夢の中で“前の世界”を見たときの感覚とそっくりだった。
地面の感触も、風の匂いも、耳鳴りのような遠ざかる世界も──全部、記憶に刻まれていた。
そして、いま静は──あの場所にいる。
•
俺は、誰にも何も言わずに静を抱えて立ち上がった。
保健室までの廊下は、やけに長く感じた。
体重は軽かったけど、背中に“何か大きなもの”がのしかかっていた気がした。
息をしているのに、生きてる実感がない。
まるで、ひとつの身体に、ふたつの時間が共存してるようだった。
•
保健室に着くと、養護教諭の佐野先生が出迎えてくれた。
「また……なのね」と、小さく呟いたその声を、俺は聞き逃さなかった。
「“また”って……これ、前にも?」
先生は一瞬、ためらったあと、俺をじっと見て言った。
「……あなたが黙ってくれるなら、話します」
•
その話を聞いて、俺は全部つながった。
静は時々、理由もなく意識を手放す。
でも検査では何も出ない。身体は正常。けど“記憶”に、何かが干渉している。
──彼は、時々、過去へ帰っている。
無意識に、“元いた世界”に引き戻されている。
•
静はベッドで、静かに目を閉じていた。
顔色は悪くない。けど、まるで“目覚めていない人間”だった。
ああ──
お前は、また一人で、あの場所に行ってるんだな。
どうして、言わなかった。
•
俺は、静の寝顔を見つめた。
今、このタイミングで話すべきなのか。
「俺も見てる」と言えば、こいつは少しは楽になるのか。
けど、それを口に出す勇気がなかった。
だって俺は、まだ“全部”を思い出せていない。
中途半端な共感は、かえって負担になる気がした。
だから、黙って手を握った。
“昔”と同じように。
あの夜、火の中で、俺が倒れて、お前が剣を構えて前に立って──
そのときと同じように。
•
どれくらい時間が経っただろう。
静が、目を開けた。
ゆっくりと、確かめるように視線を動かして──俺を見た。
「……矢野くん」
声は震えていなかった。
でも、目が何かを探していた。
「今の……どこにいた?」
聞かれて、俺は答えられなかった。
けど、静はそれでわかってくれたらしい。
「ああ……そっか」
と、苦笑して、少しだけ目を伏せた。
•
沈黙のなかで、俺はようやく言葉を絞り出した。
「……なあ、静。お前さ」
言いかけて、また止めた。
言ってしまえば、きっともう戻れない。
けど、言わなければ、何も始まらない。
そんな綱渡りの感情が、俺の喉を詰まらせた。
•
「また、戻ってきたんだな。こっちに」
そう言うと、静はほんの一瞬、驚いたような顔をして、
そして──ふっと、笑った。
その笑顔を見て、俺はやっと確信した。
──こいつも、全部思い出してる。
そして、俺もきっと。
もう少しで、全部たどり着ける。
•
けれど、俺たちはまだ“言わない”。
たぶん、それが今の距離にはちょうどいい。
お互い、まだ準備ができていない。
でも、これでもう──“同じものを見た”って、それだけで十分だった。
あとは、また必要なときに。
──記憶がふたりを追いつかせる。
そのときまで、隣にいようと思った。
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■『言葉にしてしまえば、壊れそうで』(矢野蓮・視点)
あの日のあとから、俺はずっと悩んでいた。
言うべきなのか。
それとも、まだ言わないほうがいいのか。
「俺も見てるよ」って。
「お前と同じ夢を見てるよ」って。
「たぶん、俺たちは前にも会ってた」って。
──そんなこと、どうやって言えばいい?
•
あの日、保健室のベッドで目を覚ました静の目を、俺は忘れられない。
あれは、目覚めた人間の目じゃなかった。
“誰かと別れて帰ってきた”人間の目だった。
たぶん、あいつは何かを思い出したばかりだった。
手放したくなかったもの。
置いてきたはずのもの。
──そして、戻ってきた“こちら側”の世界で、それを言葉にしないと決めているような顔だった。
•
そのあとも、いつもと変わらない顔をして、静は日常に戻っていた。
教室ではノートをとり、部活では真剣に稽古に取り組み、購買では粒あんパンを選び、
まるで“あの日のことはなかった”かのように。
でも、違う。
俺は知ってる。
あいつの目が、ときどき“遠く”を見ていることを。
そして、俺も。
たぶん同じくらい、遠くを見てしまっている。
•
放課後の下駄箱の前で、偶然静と並んだ。
「……今日、風強かったな」
そう俺が言うと、静は小さく笑って、
「そう? 僕は、ちょうどよかったけど」
たったそれだけの会話。
でも、そこには確かに“確認”があった。
“俺たちは覚えている”という、無言の確信。
•
──なのに。
それ以上を口に出すのが、怖かった。
名前を呼び合うたびに、昔の記憶が喉の奥までせり上がってくる。
でも、それを口にした瞬間、なにかが壊れる気がした。
静は、もう“あの頃”とは違う。
俺も、そうだ。
けど、“あの頃”を知らなかったふりも、もうできない。
その狭間で、俺はずっと宙ぶらりんだった。
•
言いたい。でも言えない。
言わなくても伝わってる。でも、伝えたい。
この矛盾が続くなら、いっそ思い出さなければよかったとすら思った。
けど──思い出してしまったものは、もう戻せない。
(第二部 了)