第一部:番外編(前世回想編Ⅰ)
番外編Ⅰ
「庭先の木漏れ日のなかで」
― 世話係の年配女性・ツキエの視点より
あの子は朝が得意だった。
武家の子にしては珍しく、誰よりも早く起き、誰よりも静かに庭を掃く。
私はその姿を見るたびに、「この子は何かを待っている」と思っていた。
冬の朝、凍った桶の水に手を入れながらも表情ひとつ変えず、
春の風が吹けば、縁側で椿の花が落ちる音に耳を傾けていた。
ある日、私は尋ねた。
「そんなに早く起きて、何を待っているの?」
静は、ほほえんだ。
「風が来るんです。朝一番の風は、昨日と今日の間にしか吹かない。
それを逃したくないんですよ」
私は返す言葉を失った。
十にも満たぬ少年の口から出るには、あまりにも“透き通りすぎた言葉”だった。
だが、そのあとすぐ、彼は笑ってこう付け加えた。
「あと、朝ごはんの匂いがいちばん強い時間なんです。腹が鳴るんで困ります」
その言葉に私は笑った。
……そして、少しだけ安心したのだった。
ある春の日。
彼が道場の弟子たちと鬼ごっこをしていた。
走りながら笑う顔は、ただの子どもだった。
だが、ふと誰かにぶつかりそうになると、
彼は体を浮かせるようにかわして――まるで“風そのもの”になった。
その所作に、子どもたちも私も、しばし言葉を忘れて見惚れた。
あの頃の彼は、まだ「斬る」ために生きていなかった。
ただ「風と遊ぶ」ようにして、日々を過ごしていた。
それが、どれほど貴重だったか――
戦が始まり、徴兵の話が道場に届いたとき、私は思い知ることになるのだが。
(続)
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番外編Ⅱ
「竹刀の音、あまりに静かで」
― 兄弟子・加納視点より
「お前、どこでそんな手の動かし方を覚えた?」
初めてそう訊いたのは、静が入門して間もない冬だった。
まだ、三つか四つか。
型稽古の最中、彼は教えた覚えのない“捌き”をした。
無駄がない。手の内が割れない。肘の使い方に迷いがない。
――けれど、誰も教えていない。
「書物を見た。あと……たぶん、見た夢の中でやってた」
そのときは笑い飛ばした。
だが、笑いきれなかった。
それくらい、“冗談のような再現精度”だったのだ。
ある日、道場主催の見取り稽古があった。
年長の者から順に演武を披露していき、最後に静が竹刀を持った。
彼は年少で小柄だった。
だが、構えた瞬間、場の空気が止まった。
音がしなかった。
正確に言えば、“竹刀が空を斬る音”しか、耳に入ってこなかった。
打突は一度だけ。
空間がふるえ、畳が鳴いた。
その音に、拍手はなかった。
――皆、怖れていたのだ。
この子は、“見えてはいけないものを見ている”。
彼の剣は、演武ではなかった。
“本物の命を断つ稽古”だった。
誰に教えられたわけでもなく、彼の中にあった。
その夜、師範がぽつりと言った。
「……あの子は、きっと、二度目の人生を歩いているんだろうな」
冗談とも言えなかった。
それでも、静は変わらなかった。
朝になれば誰よりも早く掃除をし、
犬に吠えられて笑いながら逃げ、
焼きたての饅頭には目を輝かせた。
ただ時折、縁側で一人空を見上げるとき、
彼の瞳は、“今この時代にない何か”を見ている気がしてならなかった。
あれはきっと――
“戦を知らない少年のふりをしていた”だけなんだ。
そしてその仮面が、いつか剥がれることを、
僕たちはみんな、どこかで悟っていた。
(続)
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番外編Ⅲ
「春、剣のない日」
― 幼馴染・白石文市の視点より
あいつと初めて言葉を交わしたのは、六つの春だった。
「それ、なに読んでんの?」
そう声をかけたのは、俺のほうからだったはずなのに。
本から顔を上げたあいつ――静は、
「今、ちょうど“最後の一行”だったんです」と笑って、
またすぐ目を戻した。
今でも覚えてる。
春の光のなか、古本の頁が風にめくられた瞬間。
“誰にも属していない”みたいな顔で笑った、その横顔を。
あいつは変なやつだった。
剣の道場にいるくせに、虫を踏むのをいやがって、
落ちた桜の花びらをひとつずつ拾って集めて、
自分で作った小さな紙箱にしまってた。
「なんでそんなことしてんの?」
「“どこにも行けなくなる”から……」
わかるような、わからないような。
でも、あいつの言葉はいつも、
「今ここにいながら、どこか遠くを見てる人の話」だった。
ある日、俺は訊いた。
「おまえ、剣の稽古好きなの?」
あいつは少し逡巡して首を捻った。
「……さあ?」
「好きでもないのに、なんでやってんのさ」
そう問えば、あいつは不思議そうに眼を丸くした。
「好きじゃないと、やっちゃダメですか?」
「いや……なんか、他の人とやってること違く見えてさ。おまえだけ、練習っていうより……」
「ああ、祈ってるだけですよ」
「え?」
「だれかを斬らないで済むようにって。
“斬れる”ってことは、斬らなくて済ませることも、できるってことですから」
そのときの俺は、その意味を全部は理解できなかった。
ただひとつ、強く思ったことがある。
――このひとは、戦場に行っちゃいけない。
けど、世の中はそういう順番で動いてない。
彼が徴兵されるって噂を聞いたのは、春の終わりだった。
どうしても、最後にもう一度だけ話したくて、
俺は彼を町外れの土手に呼び出した。
風が強くて、桜はもう散っていた。
だけど、静は黙って空を見ていた。
「……やっぱ、行くの?」
「うん」
「帰ってこいよな。ちゃんと」
「……うん」
その返事は、どこか遠くの誰かに向けたみたいだった。
言葉よりも、空白が多い会話だった。
でも、俺は知ってた。
あいつがいま、どんな気持ちでそこに立ってるか。
本当は、ずっとここにいたかったんだ。
剣を握らず、花びらを集めて、生きていきたかったんだ。
でも――
誰かが“斬られる未来”を選ばないために、
あいつは自分からその場に立つって決めたんだ。
そんな気がした。
だから今でも祈ってる。
あいつがまた、どこかで本を読んで、
春の風に花びらを拾ってる日々を過ごしてるように。
あいつが“斬らなくていい世界”に生きてるように。
……それだけが、俺の祈りだ。
(了)
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■徴兵後・戦場にて
徴兵編Ⅰ
「背中の空白」
― 道場に残された弟子・秋吉の視点より
出征の朝、道場の床はやけに白くて静かだった。
師範も、兄弟子たちも、誰も何も言わなかった。
それが“別れの合図”だということを、
小さかった俺ですら察してしまうほどに――言葉が消えていた。
奥の間で、静さんが袴を整えているのを、障子越しに見た。
“斬るための剣”を、腰に差していた。
ふだん、あれほど馴染んでいた木刀ではなく、
あのときの剣だけが、まるで彼を拒んでいるように見えた。
「秋吉くん、朝稽古は終わった?」
そう言って静さんが出てきたのは、まるでいつものようだった。
だけど、袴の裾から覗く草履は新しくて、
肩にかけていた布袋は、剣だけしか入らない小さなものだった。
それがすべてだった。
「いってきます」
ただ、それだけ。
握手も、別れの言葉も、涙もなかった。
――なのに、道場が“片翼を失った”ような感覚だけが、
あの朝から、ずっと消えなかった。
翌月から、静さんの話は封じられた。
誰も彼の名前を出さなくなった。
いや、出せなかった。
それでも、誰かが掃除のときにふと、
「ここ、静さんがよく黙って立ってた場所だよな」なんて呟くと、
皆が一斉に黙る。
空気の中に“背中の空白”だけが漂っていた。
ある日、奥の物置を掃除していて、
静さんが残した木刀を見つけた。
手入れされていた。
綺麗なままだった。
けれど、鞘の先にだけ、小さくひびが入っていた。
きっと、行く前に“最後に振った”ときのものだ。
俺は勝手にそう思って、
それから毎朝、その木刀を掃除している。
もう、誰にも見せない。
誰にも言わない。
でも――
いまでも時々、思う。
彼の歩いた道は、
本当に、剣のためだけにあったのか?
それともあのとき、
“戻る場所を残すために”何も言わなかったのか?
その答えは、誰も知らない。
けれど俺は、静さんの木刀にだけは、
「おかえり」と言える準備を、いつもしている。
(了)
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徴兵編Ⅱ
「あのひとは、剣を憎んでいた」
― 同じ小隊の兵士・乾の回想
静、という名の青年が、俺たちの小隊に配属されたのは、夏の終わりだった。
痩せていて、背はそう高くない。
白い肌。飄々とした笑み。
見た目だけなら、どこにでもいる新兵のようだった。
最初に目を疑ったのは、彼が木刀を持って現れたときだった。
ここは戦場だ。木刀で敵が斬れるかと、誰もが失笑した。
だが、三日後、俺たちはその笑いを二度と口にしなくなった。
前線近くの小競り合いで、待機中だった俺たちの陣が急襲された。
不意を突かれ、指揮系統は混乱。
銃も使えない至近距離での混戦。誰もが叫び、倒れ、逃げた。
その混乱のなか――
静が、ひとり、歩くように前に出て行った。
風が止まった。音が消えた。
斬った。
いや、あれは“斬る”ではなかった。
静の一撃は、音もなく、ただ敵の呼吸を断ち、命を断っていた。
血飛沫すらあがらなかった。
それほどに、正確だった。
まるで、“この場所に存在してはいけないものを静かに消す”ように。
敵は、近寄れなかった。
いや、近寄る前に、自分がすでに“死んでいること”を察していた。
戦いのあと、俺は震えながら訊いた。
「……なんなんだ、あんた……」
静は、木刀の柄を持ったまま、地面に座り込んでいた。
「僕はただ……剣が、嫌いなんです。
だから、誰よりも早く、終わらせなければいけないだけで」
そう言って、笑った。
その笑みは優しくて、残酷だった。
それからの戦場で、静は“生き残る者”として知られるようになった。
彼のいる部隊は壊滅しない。
だが、彼と目を合わせて帰ってきた者は、誰もいない。
敵は彼を“鬼神”と呼んだ。
味方は彼を“狂気”と呼んだ。
だが、俺はただ一度だけ、彼の“本当の姿”を見た気がする。
夜の火点しの下。
手を洗う水桶の前で、静がそっと自分の手首を見つめていた。
剣を握る指が、少し震えていた。
けれど彼は、その手をそっと洗い、何も言わずに火に背を向けた。
その背中が、いちばん“人間らしかった”。
あの人は、剣を憎んでいた。
けれど、誰よりも剣を使えた。
だから、誰よりも剣に選ばれてしまった。
そういう人だった。
(了)
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徴兵編Ⅲ
「黒煙のなか、名のない影」
― 敵軍斥候・カンの報告記録より
斥候として“あの戦地”に潜ったとき、俺たちは三人だった。
夜明け前の霧のなか、敵陣の隙を探り、地形を記録し、戻るだけの任務――だったはずだ。
それが、“彼”のいる場所だと知っていたなら、
俺たちは絶対に近づかなかった。
最初に空気が変わったのは、何の音もなく、鳥が飛び立った瞬間だった。
何もいないはずの茂みの奥に、微かに“視線”があった。
気のせいではない。
呼吸が、空気そのものが、そこだけ“凪いでいた”のだ。
俺は、身をかがめ、合図を送った。
が、すでに遅かった。
三人のうちのひとりが、声を上げる間もなく、首筋から崩れた。
刃は見えなかった。
音も、風も、なかった。
ただ、“そこにいたはずの命”が、ひとつだけ、世界から抜け落ちていた。
見えたのは、“影のような人間”だった。
白い装束。剣を下げていない。
だが、間違いなく――“剣の気”だけが、そこにあった。
俺のもうひとりの仲間が、無謀にも飛びかかった。
槍を振るい、先に動いた。
だが、“何もない空間”を斬っていた。
刹那。
光よりも速く、何かが煌めいた。
仲間の体が斜めに崩れた。
「……嘘、だろ」
呟いたのは、俺自身だった。
だがその瞬間、“彼”は動きを止め、俺を見た。
眼があった。
闇の奥に沈んだ光。
哀しみのような、諦めのような――けれど、一片の情けもない“静寂”。
俺は本能で察した。
「斬られる」と思った瞬間には、すでに“終わっている”と。
そして――彼は斬らなかった。
剣を抜かなかった。
ただ、俺に背を向けて、黙って森に消えた。
戻ってきたあと、俺は軍に報告した。
けれど誰も信じなかった。
「そんな剣士が実在するなら、軍全体が止まる」と。
それが、数週間後、事実になった。
あの夜、“名もなき剣士”がたった一人で前線を突破し、部隊を壊滅させた。
それを目撃した者のほとんどは、“斬られる前に頽れた”と言う。
死体の首に傷はなかった。
だが、その瞳は、皆“恐怖と安堵”の色に染まっていたという。
名は、わからなかった。
だが、兵たちは彼をこう呼んだ。
“風を斬る者”。
あるいは――“斬らなかった鬼神”。
その日以来、夜になると耳にあの風の音がよみがえる。
あれは、剣が空を裂く音ではない。
“命が去る音”だった。
(了)
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【戦場断章】
「焔のなかで、呼ばれた名」
― 矢野 蓮の回想より(戦場)
あいつと再会したのは、炎の中だった。
火計が失敗した直後、混乱した陣を抜けて、俺は負傷兵を運ぶ隊にいた。
背に負った仲間の息はすでに薄く、空には矢の影が降っていた。
俺の足も矢傷でひどく、もう一歩も動けないと悟った瞬間だった。
前方から、音もなく誰かが歩いてきた。
敵か? 味方か? わからなかった。
けれど、あの目を見たとき、すべてを思い出した。
――静だ。
いや、“沖田静”と呼ばれる前から、
俺はあいつの名を知っていた。
「立てますか、矢野さん」
「……よく、気づいたな」
「声がしましたから」
彼はそう言って、俺に手を伸ばした。
白装束だった。
血も、泥も、焼け焦げた灰も、すべて吸い込んでしまいそうな白。
それが、戦場のど真ん中で、まるで“死の使者”のように浮いていた。
だけど、彼の手は生きていた。
熱を持って、俺を支えた。
俺は問いたくて、けれど口にできなかった。
どうしてお前が、こんな場所にいる?
どうして剣を抜いて、笑っていられる?
だが、静はただこう言った。
「……剣を抜くのは、最後の最後です。
でも、“抜かないまま死ぬ”わけにも、いきませんから」
彼は、そのまま敵陣に踏み込んでいった。
俺は見ていた。
動けぬまま、誰よりも近くで、彼の戦いを。
斬る、というより、“選んでいた”。
必要な者だけを倒し、それ以外には目を向けない。
怒りも、喜びも、なかった。
ただ、“終わらせに来た”者の剣だった。
やがて味方が押し返し、戦場は動いた。
救助兵が来て、俺は運ばれた。
静は、最後まで戻ってこなかった。
誰も、彼がどこへ消えたか知らなかった。
だが――
俺は見たんだ。
白い衣の背が、朝の光のなかに滲むのを。
“生者”ではなく、“何かの象徴”になってしまったかのように。
あいつは、誰よりも生きた。
そして、誰よりも“死者に近かった”。
それでも。
俺は、あのとき手を取ってくれた“温かさ”を、忘れない。
あれだけで、戦場は救われることがあると、知ったんだ。
(了)
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「白の意味」
― 軍の従軍画師・未渡の記録より
彼を初めて見たのは、朝霧の戦地だった。
周囲が泥と血で染まり、風が腐臭を運んでいたというのに――
彼だけが、まるで“別の物語の人物”のように、そこに立っていた。
白装束。
いや、実際には“白い衣”というだけだったのかもしれない。
だが、その色は、他の何よりも、戦場ではあり得ない“無垢”を纏っていた。
従軍画師という立場柄、私はさまざまな兵士の姿を記録してきた。
泥にまみれ、血に塗れ、恐怖を背負いながらも前進する“人間たち”の顔を、数えきれないほど描いてきた。
だが、沖田静――その名を知ったのは、ずっと後のことだ。
当時はただ、白装束の剣士としか呼ばれていなかった。
彼は、なぜ“白”を選んだのか。
ある噂があった。
「死者の色だ」
「自身がもう“この世に属していない”証なのだ」
だが私は、ある戦の前夜、偶然その答えに触れた。
焚き火の脇で、彼は静かに衣を縫っていた。
すでに幾度かの戦で汚れた白の裾を切り、ほつれた箇所に新しい布を当てている。
私は声をかけた。
「なぜ白なんです?」
しばらく沈黙があって、やがて彼は言った。
「……剣を持つ人間は、どんな色にも染まる資格がありません。
だから僕は、いちばん染まりやすい色を、着ることにしたんです」
「白は、血の色が一番よく映りますから」
返答には、冗談のような軽さがあった。
だが、その指先は真剣で、針に迷いがなかった。
私はさらに訊いた。
「染まったらどうするんです? その白は、白ではなくなりますよ」
すると彼は、小さく笑った。
「そうなったら、そのときは、もう……“僕”ではないんでしょうね」
彼は、自分が“人間でなくなる瞬間”を、どこかでわかっている。
あるいは、それを拒むために白を着るのかもしれない。
自分が“鬼神”ではなく、ただの人間であるための、最後の証として。
後日、ある激戦のさなか、私は再び彼の姿を見た。
遠目にも、その装束は紅に染まっていた。
けれど、ただの血の色ではなかった。
“戦場の罪”そのものを背負ったような、罪業の染みだった。
彼は立っていた。
地に沈む仲間を背にして、敵軍に囲まれながら――
まるで、“まだ斬ってはならぬ者が残っている”とでもいうように、剣を抜かなかった。
その日、彼は三十人以上を斬って生き残り、
味方の退路を切り開いた。
だが、戻ってきた彼の白装束は、ほとんど“黒”だった。
乾いた血と、燃えかけた火薬と、泥と雨。
それらすべてが染み込み、もはや白の片鱗も残っていなかった。
彼は黙って、その装束を火にくべた。
何も言わず、ただ、焚き火の奥を見ていた。
燃えていく白――かつての“自分であろうとしたもの”を、
一度だけ手を伸ばし、灰に変わるのを確かめていた。
その背を見ながら、私は絵を描いた。
初めて、“人間としての彼”を。
それは誰にも見せていない。
今も、私の帳面の奥にある。
たぶん彼は、そのあと新しい白を縫ったのだろう。
何度でも、何度でも、自分が人であり続けるために。
それだけが――
彼の願いだったのかもしれない。
(了)
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「あいつは――あのひとは、名を呼ばなかった」
― 矢野 蓮の記録より:出会いと始まり
最初に見たのは、訓練場だった。
あいつ――沖田静は、軍の上層部から“剣の使い手”として配属されてきたという。
兵士というより、“戦術兵器”とでも呼んだほうが正確な存在だった。
当時の俺は、地方出の新兵で、剣の腕前には多少の自負があった。
だから、戦場に“剣だけで生き残ってきた奴が来る”という噂に、正直なところ興味半分、懐疑半分だった。
だが、見た瞬間に理解した。
訓練用の木刀を持った静が、ゆっくりと構える。
その一歩には、迷いがなかった。
力も、誇示もない。ただ“必要な剣”だけを置くような動き。
「次、交代!」
号令がかかり、俺は無意識に輪に入っていた。
そして、静と向き合った。
ほんの数合。
木刀が鳴り、足場が揺れ、俺の腕が弾かれた。
痛みすら感じないほどの早さだった。
だが、不思議と憎しみも、敗北感もなかった。
ただ――美しいと思った。
この人の剣は、誰かの命を“奪う”のではなく、“断ち切る”ものだと。
訓練のあと、俺は声をかけた。
「……すげえな、おまえ」
静は、汗ひとつかかずに言った。
「僕より、あなたのほうが声が大きい。それだけで、現場では有利ですよ」
「いや、それ褒めてねえだろ?」
「褒めてません。事実です」
冗談か本気か、わからない。
けれど、その飄々とした声に、妙な親近感が湧いた。
それから、俺は何かと理由をつけて彼の近くにいた。
彼の食事は質素だったし、夜営では必ず一番遅く眠り、一番早く目を覚ましていた。
「いつ寝てるんだよ」
「……誰も気づかない間に、目を閉じていますよ」
「それ、ほとんど寝てないってことじゃねえか!」
とにかく、妙な男だった。
だが、戦が始まると、その“妙さ”が命を救うことを、誰もが知ることになる。
ある日のことだ。
前哨地にて、敵の斥候部隊と鉢合わせた。
夜明け前、霧の中。
俺たちは不利な地形に追い込まれていた。
「囲まれてるぞ!」
誰かが叫ぶ。
俺も叫んだ。剣を抜いて、味方をかばった。
そのときだった。
風の音すら止んだような静けさのなか、静が現れた。
本当に、現れたとしか言いようがない。
霧のなかを、白い衣のまま歩いてきて、
まるで“影”を斬るように敵を退けていく。
「っ……なに、あれは……」
一緒にいた兵がそう漏らした。
だが、俺は知っていた。
あれは“鬼神”なんかじゃない。
あいつは、ただ――“誰も死なせたくない”と思っているだけだ。
戦いが終わった後、俺は彼の元へ行った。
肩を貸すふりをして、その背中に尋ねた。
「なんで、おまえ……あんなに戦えるのに、いつも泣きそうな顔してんだ?」
静は、少しだけ肩を震わせた。
「矢野さん。僕が戦っているように見えるなら、それは――
まだ、誰も死なせていない証拠です。
それが、僕にとっては“救い”なんです」
その夜から、俺は静のそばに立つようになった。
指示もないのに、彼の左斜め後ろに立つ位置が、いつの間にか“定位置”になっていた。
誰にも言われなかった。
けれど、あいつの呼吸のリズムが、自然と俺を引っ張っていた。
距離が近づいたわけじゃない。
言葉を交わすようになっただけでもない。
“俺の中で、静がただの同僚じゃなくなった”。
それが、すべての始まりだったのかもしれない。
(了)
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「斬らない剣の隣で」
― 矢野 蓮の記録より:絆と誓い
あいつの剣は、いつも“届く寸前”で止まっていた。
死を与えるための剣ではなく、死を避けるための剣。
あれだけの腕がありながら、あいつは“斬る”ことを拒んでいた。
初めは矛盾に見えた。
だが、それは誇りだった。
そして――罰でもあった。
ある戦で、補給路の奪還に向かった俺たちは、まさかの伏兵に包囲された。
狭い山道。前後を塞がれ、兵は半数が負傷、退路もない。
「このままじゃ全滅する」
そう呟いた俺の肩に、静が手を置いた。
「矢野さん、退路は僕が開きます。合図したら、兵を連れて南斜面を下ってください」
「待て、ひとりで何を……!」
「“ひとりのほうが早い”というだけです。論理的でしょ?」
そのときの静の顔は、笑っていた。
ひどく――寂しい笑顔だった。
俺は咄嗟に腕を掴んだ。
「おまえがいなくなったら、誰が俺を止めるんだよ」
静は目を細めて言った。
「あなたは、止まらなくていい人です。
僕とは違う。あなたは、まっすぐに怒れる。まっすぐに、守れる。
だから……お願いがあります」
「なんだよ」
「……僕が、“もう斬れない”と言ったら、代わりに斬ってください。
でも、もし僕が“まだ行ける”と笑ったら、信じて、見送ってください」
それは――最初で最後の、彼からの“頼み”だった。
その後、静は白装束のまま敵陣に踏み込み、俺たちの退路を切り開いた。
無傷ではなかった。
左腕を負傷し、右足の裾は破けていた。
それでも、彼は戻ってきた。
炎と矢と怒号のなかで、命の境界を超えて戻ってきた。
「……ただいま」
呆然とする俺たちの前で、静はそう呟いた。
血に染まった白の装束で、涼しい顔をして。
その夜、誰もが彼のもとへ感謝を言いに行った。
だが、静はただ、ひとり遠くを見ていた。
俺が傍に座ったときだけ、目を伏せて言った。
「僕は、間違ってませんか?」
「何がだよ」
「こんなやり方で、誰も死なずに済むと、本気で信じてる自分が――
甘いと思われてないかって」
俺は黙っていた。
けれど、すぐに答えた。
「……甘くて何が悪い。
俺は、おまえがそうやって“迷いながらでも生きてる”ことが、
何より誇らしいよ」
それが、絆だった。
言葉じゃなく、剣じゃなく、
“戦場にあって、人を信じる勇気”。
あいつが俺にくれたものは、それだった。
その日から、俺たちは肩を並べて戦った。
背中を預け、命を預け、たった一言で呼吸を合わせた。
「静」
「矢野さん」
名を呼ぶことが、武器だった。
名を呼ばれることが、鎧だった。
だから、わかっていた。
あいつが黙ったとき――
名を呼ばなくなったとき――
“終わり”が近いのだと。
(了)
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「風を裂くものたち」(矢野蓮)
― 戦場に立つ、ふたりの記録
あれは、戦況が泥沼化していた頃だった。
北方の峠、斜面に築かれた敵陣が補給路を封じ、膠着状態が続いていた。
決着をつけなければならなかった。
だが、真正面からぶつかれば、味方に多大な被害が出る。
そのとき、提案したのは静だった。
「夜明け前、奇襲をかけましょう。僕と矢野さん、二人だけで」
本部は当然、却下した。
だが、俺たちは命令を待たなかった。
誰にも気づかれぬよう装備を軽くし、夜の山に入った。
ふたりで風を切りながら、俺たちはただ、前を目指した。
「怖くないのか?」
途中、俺は訊いた。
静は、首を振らなかった。
ただ、視線を夜空に向けて言った。
「怖いですよ。でも、“この恐怖を覚えているうちは、僕は人間です”」
「……らしいな」
「矢野さんは?」
「おまえが前にいる限り、怖くねえよ」
静は少し笑って、小さく「ずるい」と呟いた。
敵陣は予想以上に強固だった。
番兵、狼煙、外郭の柵。
だが、静は迷いなく斬った。
殺さぬように――急所を外し、腕を止める。
必要最低限の剣で、必要な道を切り拓いていく。
俺はその後ろで、静の届かないところを斬った。
ためらいも、迷いもなかった。
「行け」
静の短い号令に、俺たちは中枢へ突入した。
敵将はまだ寝所にあり、完全に油断していた。
俺が斬り伏せたその隣で、静は倒れた兵の脈を確認していた。
「生きてる。助けられる」
「敵だぞ」
「……敵だからこそ、生かして意味を残すんです」
俺は何も言わず、ただ頷いた。
脱出は夜明け直前。
駆けるようにして斜面を滑り降りた。
風が、俺たちの白装束を裂いた。
味方陣に戻ったとき、士官たちは怒号を飛ばした。
勝手な行動、命令違反、処分対象――
だが、すぐに戦況が動いた。
敵の補給線が崩れ、進軍が可能になったのだ。
“ふたりだけの夜襲”は、戦の流れを変えた。
あの夜、静と俺は、誰よりも深く息をした。
戦を終えて焚き火の前、誰もいない草の上で、
俺は静の肩に背を預けて、ぼそっと言った。
「俺たちって……たぶん、相性いいよな」
「まあ……少なくとも戦においては」
「……それ以外では?」
静は少し考えてから、目を細めた。
「“一緒に黙っていられる相手”って、貴重ですよ。
僕はそれで、十分だと思ってます」
共闘とは、剣の話だけじゃなかった。
背を預けられる信頼と、言葉のいらない時間。
それがあったから、俺は戦えた。
「また行こうぜ、ふたりで」
俺がそう言ったとき、静は珍しく“間”を置いて言った。
「ええ。……でも、次が“最後”かもしれません」
「どういう意味だ?」
「勘です。……不吉な、勘」
そのときはまだ、意味を深く考えなかった。
だが、それは――
確かに“最後”を予感していた声だった。
(了)
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「背中にあるもの」
― 戦場での“絆”より:矢野蓮の記憶
静と出会ってから、時間はさほど経っていなかった。
だが、それは“長さ”ではなく“深さ”の問題だった。
共に飯を食い、剣を交え、命を預け合う。
戦場というのは、奇妙なもので、他人との距離を恐ろしく縮めてしまう場所だった。
俺にとって、静は――“剣の相棒”であると同時に、
“絶対に死なせたくない存在”になっていた。
ある夜、野営地の火が小さくなった頃。
周囲の者たちが眠りについたのを確認してから、俺は声をかけた。
「静」
焚き火の向こうで、静は本を読んでいた。
焦げかけた紙片と、なぜか持ち込んでいた筆記具。
「また手記か」
「記憶は曖昧になりますから。残しておかないと、僕が誰だったか、わからなくなる」
「……そんなに、自分を疑ってんのかよ」
「信じてるから、書いているんです」
その返しに、俺は黙った。
反論できるような言葉を、持っていなかった。
「なあ、静。俺たちがこの戦を生き延びたら――」
「生き延びたら?」
「どっかで一緒に暮らすのも、悪くねぇかもな。畑でも耕してさ。
剣なんて握らなくていい場所で、生きていけたら――」
静は目を伏せたまま、ページをめくる手を止めなかった。
「……いいですね。きっと、春は菜の花が咲いて、夏は蝉がうるさくて。
秋は芋掘り、冬はこたつでみかん。想像できます」
「じゃあ、そうしようぜ」
「……ええ、そうしましょう」
けれど、その声に“未来”はなかった。
静は知っていたのだろう。
自分が、その春を見られないことを。
それでも、俺は――
信じることしか、できなかった。
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「白の背中を見送った朝」 矢野 蓮
― 沖田静の最後を見た男の証言
あの夜の霧は、今でも夢に出る。
俺たちは、敗走中だった。
戦況は圧倒的に不利。
退路を確保する部隊が壊滅し、前線は崩れ、味方は全員負傷――
俺も、足を矢で射貫かれていた。加えて、あばらの一本や二本は確実に折れていた。
それ以外にも無数の傷がある。
うつぶせに倒れ、動けなかった。
「矢野!」
誰かが叫んでいる。
遠くで、兵の呻きが交錯していた。
そんななか、足音が、ひとつだけ近づいてくる。
「……大丈夫、まだ生きてますね。矢野さん、聴こえますか?」
静だった。
彼は俺の傷をざっと見て、帯で応急処置を施した。
俺の額に血が滲んでいたのを、手で拭った。
「……まだ、全員動けません。ここで止まれば、全滅します」
「……っ……おまえは……どうする……」
「僕が、囮になります。敵はもう、すぐそこにいます。
僕が行けば、間に合う。あなたたちは、その間に後退を」
「待て……! 静、それじゃ……!」
「矢野さん」
そのときの静の目は、どこまでも静かだった。
「“今度こそ、守らせてください”」
そう言って、彼は剣を抜いた。
敵が現れる方向へ、
誰もいない闇の中へ、
白装束のまま、ひとりで――走った。
俺は動けなかった。
叫びたかったが、声も出なかった。
味方の者たちが、俺を引きずって後退を始めるなか、
俺は最後に見た。
霧を裂いて走る、あの白い背中を。
まるで、風そのものだった。
まるで、祈りのようだった。
そのあと、静は戻らなかった。
敵軍が潰走し、我々が拠点を奪い返した後、
静の姿はどこにもなかった。
からだも、剣も、衣も――すべてが消えていた。
彼は、戦の夜に姿を消した。
“誰にも看取られずに”。
あれは、英雄の死でも、神話の終わりでもない。
ひとりの男が、“大切な誰か”を守るために選んだ終わり方だった。
俺は、今も夢に見る。
何度も、何度も。
叫べなかった名前を――
届かなかった手を――
そして、斬らずに守った、あの人の剣を。
(了)
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「あのひとの背中が、風になった」
― 無名の新兵による記録
名前も呼ばれないような下っ端だった。
徴兵されて数ヶ月、ろくな剣の経験もなかった。
矢野さんにも、沖田さんにも、まともに話しかけたことすらない。
でも俺は――あの夜、確かに見てしまった。
“あのひとの最期の背中”を。
その日、俺たちは最前線から退却していた。
補給は切れ、天候は悪く、斥候の報告によれば敵軍が包囲の動きを始めていた。
既に半数以上が負傷していた。
俺も、左肩に矢が刺さり、両足をひどく負傷していたけれど、痛みよりも怖さのほうが勝っていた。
「……終わりだ」
誰かが呟いたとき、俺は死ぬんだと思った。
でもそのときだった。
白い衣の男が、霧の中から現れた。
静かに、しかしどこまでも確かに歩いてくるその姿に、俺は息を飲んだ。
「……沖田さんだ……」
誰かがそう言った。
その瞬間、空気が変わった。
絶望に満ちた空気が、一転して――張り詰めた静寂へと変わったのだ。
「矢野さん、生きてますか?」
その声は、落ち着いていて、優しかった。
「っ……ああ、生きてる」
矢野さんの答えは、血にまみれていた。
彼も動けないほどの傷を負っていた。
沖田さんは、一度だけ矢野さんの顔を見た。
目が合ったのかどうかはわからない。
でも、何かが交わされたのは確かだった。
「僕が行きます」
そう言って、沖田さんは剣を抜いた。
誰も、止められなかった。
止めようとした兵の手が震えていた。
俺も、声を出せなかった。
だって、あのときの沖田さんは、
もう“人”じゃなかった。
白装束をまとったその背は、まるで――風そのものだった。
敵の姿はまだ見えていなかった。
でも沖田さんは、それを“聴いて”いたのだろう。
「ここから先は、通さない」
誰に向けた言葉でもなかった。
けれど、あの場にいた全員が、それを聞いた。
そして――
あの人は、走った。
霧の中へ。
夜明け前の暗闇へ。
一切の迷いも、躊躇もなく。
その姿を見た瞬間、俺は立ち上がっていた。
「……行っちゃ、だめだ……っ!」
そう叫んだ。
誰かが俺を押し戻した。
「止めるな、これは……これは、あの人にしかできねぇ……!」
俺はそのとき、初めて泣いた。
戦場で、生きることが恥ずかしくなるほど、泣いた。
しばらくして、爆音が響いた。
火の手が上がり、敵軍が混乱しているのがわかった。
指揮が崩れたのだろう。味方の退路が開け、命がつながった。
「今のうちだ、撤退しろ!」
士官の声が響く中、俺たちは必死に動いた。
でも、俺は何度も振り返った。
白い背中を――
もう見えないはずの、あの人を――探して。
けれど、戻ってこなかった。
後日、敵陣を制圧したとき、
沖田静の姿は、どこにもなかった。
遺体も、衣も、剣も、記録も。
まるで最初から“存在していなかった”かのように、すべてが消えていた。
俺は、名もない兵士だ。
誰にも呼ばれないような、ただの一兵卒だ。
でも――
俺はあの夜、見た。
“自分の命よりも誰かを守るために走った男”を、見た。
沖田さん――静さん。
あなたは、風になったんですか。
それともまだ、どこかで、生きているんですか。
(了)
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【資料的描写】
「戦史記録抄・特異戦力《沖田静》に関する報告書」
※以下の記録は、当時の軍属士官による戦時資料の一部と推定される。
一部文章に破損・欠損が見られるため、補筆・整形した形式で転載する。
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記録番号:弐百九十一/軍第三方面軍 特異戦力運用報告
記録年月:不明(推定・■■年 戦時下)
件名:「特異戦力《静》の前線運用および消失に関する報告」
一、対象人物
コードネーム:1103
階級:正式記録上なし(特例任用)
所属:第三方面軍・斥候及び切込み班 隊外協力要員
年齢:不明(推定15~17)
外見的特徴:細身、白装束(制式装備を拒否)、常時刀二振携帯
特筆事項:通常部隊規律外で運用。出撃時、指令を一任する特殊例。
通称:白の鬼神/斬らぬ剣/風使い
二、経歴および初出記録
対象は当初、■■道場の門弟として記録に存在。
軍による徴兵令後、特例として“推薦状”により前線へ配属された。
剣技は伝統的な流派に属さず、独自の間合いと踏込を持ち、
通常の剣術戦において不可解な動きを示す(※補足:映像記録なし)。
初戦においては、八倍の敵軍の包囲網を単独で撹乱し、
一切の殺傷報告がないまま敵軍壊滅に至らしめた。
三、行動特性および戦場評価
・戦場では極めて寡黙。必要最低限の指示のみ。
・剣術の殺傷性よりも、“動きを封じる”点に長けており、
殺さずに制圧する術を多用。
・敵からの恐怖認識が極端に高く、
一部地域では《白装束を見たら逃げろ》との伝令が確認される。
・一部士官は「人間ではない」「気配を持たない」等の表現を用いる。
・直属の上官を持たず、同班の矢野蓮(階級記録不明)のみが同行を許可されていた。
・敵軍複数戦線で「《沖田静》の存在により撤退判断が早まった」との報告あり。
四、消失および記録の終端
最後に確認されたのは、第三戦線・撤退作戦時。
同班所属の矢野蓮ほか、重傷兵の退避にあたる。
敵軍による包囲を受けた当時、
対象は単独で敵軍に突入、以後消息不明。
遺体、武具、衣類、血痕、遺留品いずれも確認されず。
(のちに鞘、衣類、刀身が発見される)
霧の中で“消えた”とする証言多数。
指揮官記録に「彼は人間ではなかったのかもしれない」旨の記述あり。
五、結論および備考
《沖田静》は、戦況において非人道的手段を取らずに複数戦果を挙げた稀有な存在であり、
陸戦における倫理的介入の可能性を示した例といえる。
同時に、彼のような存在が記録上“無”に帰したことは、
戦史における記憶の限界を象徴する。
我々は彼を英雄とは呼ばない。
ただ、誰もその名を知らずとも、
“彼がいた”という事実は、記録されるべきである。
記録末尾署名:第三方面軍記録官補佐 (署名不明瞭)
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(了)