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第一部 暁の名を持たぬ者(“白装束の鬼神”の記録より)

目次/各話タイトル一覧:

巻頭資料

第一部 暁の名を持たぬ者(“白装束の鬼神”の記録より)

第二部 風は、まためぐる(高校一年生)

第三部 沈黙の呼吸、風のなかで(高校二年生)

第四部 名もなき戦、風に舞う(高校三年生)

第五部 暁のあと、君と生きる(あれからと、それから)

巻末資料

あとがき

■「あいつが剣を握った日」

 ――ある兄弟子の記録より

 

 最初に道場へ連れてこられた日のことを、今でもはっきり覚えている。

 その子は、まだ三つほどだったと思う。

 華奢で、着物の裾が床を引きずっていた。髪は肩の下まで伸びていて、顔は女の子と見まがうほど整っていた。

 なのに、その目だけが、子どもではなかった。

 まるで、ずっと昔から戦のなかを歩いてきたかのような――よく知った者の目をしていた。

 俺は十五。道場でもそこそこの腕前だったし、後輩の面倒を見るのも板についていた。

 けれど、あの子だけは違った。

 剣を渡す前から、俺は悟った。

“こいつは、俺よりずっと、剣のことを知っている”

 もちろん、そんなはずはない。

 だけど、あるのだ。そういう奴が、まれに。

 呼吸するように、刀を扱い、斬るという行為を“命の隣”として受け入れている者。

 静――そう名付けられたあの子は、初めて竹刀を握ったとき、ふっと微笑んだ。

 怖かったよ。その笑みが、あまりに穏やかで、あまりに正しいから。

“この子に斬られるなら本望だ”と、そう思わせるような、妙な気配を纏っていた。

 

 最初の稽古の日、師匠が冗談混じりに言った。

「お前がこの子の相手をしてやれ。小手打ちの感覚でも教えてやれ」

 俺は竹刀を軽く振りながら、「よし、優しくいくか」と笑った。

 静は「お願いします」と小さく頭を下げ、構えに入った。

 その一瞬で、空気が変わった。

 腕の力、重心の置き方、視線の位置。

 すべてが“初心者ではない”構えだった。

 俺が構え直す間もなく、静は踏み込んできた。

 竹刀が、俺の小手を正確に打ち抜いた。

 音が、道場に響いた。

 誰も言葉を発せなかった。

 俺も、笑えなかった。

 それは偶然でも、ただの運でもない。

“斬る”ことを知っている人間の、刃の入り方だった。

 師匠だけが、静かに頷いていた。

「――こいつは、ずっと前から剣を知ってるんだな」とでも言いたげに。

 

 あの子が泣くところを、俺は一度しか見たことがない。

 それも、自分が打たれたときじゃない。

“自分が、初めて他人を倒した”ときだった。

 あれは道場の内々の試合だった。

 相手は、二つ年上の少年。力量は拮抗していたが、相手が少し気を抜いた隙に、静が面を決めた。

 相手は転び、竹刀を落とした。

 勝負が決まったあと、静は黙って佇んでいた。

 師匠が「よくやった」と声をかけても、返事はなかった。

 夜、道場の裏手で、俺は静が一人で泣いているのを見つけた。

 膝を抱えて、声を殺していた。

 子どもみたいにしゃくり上げながら、誰にも気づかれないように。

 声をかけると、静は慌てて顔を伏せた。

 けれど、俺は無理やり隣に座った。

「……勝ったのに、なんで泣く?」

 しばらく沈黙のあと、静はぽつりと呟いた。

「……僕の剣は、人を斬る。

だから、怖い。僕が、僕じゃなくなってしまいそうで」

 そのとき、俺は初めて、あの子が“誰よりも人を斬ることを怖れている”ことを知った。

 だからこそ、誰よりも正しく斬れる。

 だからこそ、誰よりも真っすぐに剣を振るう。

 ――あいつは、剣に選ばれたんじゃない。

 剣を“諦められなかった”んだ。

 

 時が経つにつれ、道場の者たちは皆、静を“神童”と呼ぶようになった。

 だが俺だけは、あいつの背中を見るたびに胸が痛くなった。

 小さな背中。

 けれど、そこには数多の死が染みついているように見えた。

 きっと、あいつ自身も気づいていたはずだ。

 自分が“生まれながらにして斬る側”であることを。

 なのに――優しかった。

 後輩の竹刀を直してやったり、膝を擦りむいた子に自分の手拭いを差し出したり。

 花を折った雀を、そっと木陰に埋めてやったり。

“人を斬れる者”の手で、そういうことをする。

 矛盾じゃない。

 あれは、あいつが“そうするしかなかった”生き方だった。

 きっと、戦場に出たあいつは、“修羅”だったろう。

 俺は直接は見ていない。

 けれど、風の噂で聞いた。

「ひとりで、百人の敵を斬り伏せた」

「顔に血を浴びても、まばたきひとつしなかった」

「その場にいた者全員が、泣くしかなかった」――と。

 でもな、それを“誇り”として語る者には、俺はこう言いたい。

“それが、どれだけ悲しいことか。

 あの静が、どんな顔で人を斬ったか、あんたらは知らない”

 

 最後に、あいつと会ったのは、出陣の朝だった。

 まだ陽が昇る前。

 道場の縁側で、あいつは竹刀を膝に抱いていた。

「もう、これは使わないんです」と静は言った。

「それは、捨てるってことか?」

「いいえ。――預けるだけです。

いつか戻ってきたら、僕が“剣を教えられる側”になりたいから」

 その言葉が、あいつの“未来への祈り”だったのだと、後になって気づいた。

 けれど、あの出陣から、静は戻らなかった。

 姿を消したまま、遺体も、剣も、何ひとつ見つかっていない。

 だから俺は、今も待っている。

 あの静が、どこかで“もう一度剣を握らない人生”を歩いてくれていると――

 それだけが、俺たち兄弟子の、ささやかな祈りだ。

 

(了)

________________________________________

沖田静の幼少期に関する3つの視点記録


一.師範(剣の教え手)の視点より

『この子には、剣を教えられない』

 初めて会ったときのことは、よく覚えている。

 冬の始まり。霜が道場の板を白く染めた朝だった。

 門弟のひとりが、ひょろりとした子どもの手を引いてやってきた。

「拾ったわけじゃありませんが……」と、困ったような顔をしていたのを憶えている。

 その子――のちの沖田静は、こちらの目をまっすぐに見つめていた。

 年は、数えて三つにも届かないほどだったろう。

 けれどその目だけは、もう何百もの命を見送ってきたような色をしていた。

 私は剣を教える者として、悟ってしまった。

 この子には、教えることはできない――と。

 なぜなら、すでに「殺し方」を知っている目をしていた。

 理ではなく、魂に刻まれた何かが、彼をして“剣の使い手”たらしめていた。

 それでも私は稽古をつけた。技術や型は当然のように飲み込む。だが、彼の構えにはいつも“迷い”があった。

 打つことを恐れるのではなく、“斬らずに済む選択肢”を必死に探しているような、そんな構えだ。

 ある夜、静がひとり、木刀を抱えて泣いていた。

 気づかぬふりをしようと思ったが、声をかけた。

「打たねば、打たれるぞ」

 すると静は言った。

「……打ったとき、僕の中に“誰か”が目を覚ます気がして、怖い」

 教えるべきは、剣ではなく“人でいること”だったのかもしれない。

 あの子に必要だったのは、強さでも栄誉でもなく、“斬らずに済む未来”だった。

 私が教えたことの中で、あの子が最後に口にした感謝の言葉は、こうだった。

「先生が教えてくださった“礼”は、僕が“人”でいるために要るものです」

 それを今も、忘れられずにいる。

________________________________________

二.静の世話をしていた女性(門弟の妻)の視点より

『手が、冷たくて優しい子』

 私の夫は道場の古株で、私も一時期道場の炊事や掃除を任されていた。

 剣に興味はなかったけれど、あの子――静くんのことは、別だった。

 最初に食卓に座らせたとき、ご飯を前に「いただきます」を三度も言ったのよ。

 しかも、ひとつひとつ違う方向に向かってね。

 聞けば、「命をくれたもの、育てた者、食べる自分に向かって」と。

 そんな子、いると思う?

 私はもう、それだけで泣きそうになった。

 ご飯のあとは必ず食器を洗いに来て、「今日もおいしくいただきました」と報告してくるの。

 私は思ったの、「この子は、“誰かに確かめてもらう”ために、生きてきたんじゃないかしら」って。

 ある日、指先を火傷したことがあったのよ。お湯を張っていた桶に手を突っ込んでしまって。

 私が慌てて冷やそうとしたら、静くんが自分の袖を裂いて包んで冷やしてくれたの。

 そして、こう言ったの。

「人の痛みを、忘れないようにしてる。誰かの痛みを覚えている限り、僕は人でいられる気がするから」

 その言葉が、何よりも痛かった。

 優しすぎる手を持った子だったわ。

 いつか、この子が“斬らずに愛される世界”で生きられる日が来るといい。

 そう願って、私はせっせと味噌汁を作っていたの。

 たとえ、どんなに短い生だったとしても――ね。

________________________________________

三.幼馴染の少年(非剣士)視点より

『静は、空を切る音が似合ってた』

 俺は剣なんてやらなかった。

 でも、あの道場の近くに住んでいて、小さいころから静とは遊んでた。

“遊ぶ”っていっても、一緒に虫を追っかけたり、川で石飛ばしたり、そんな程度だ。

 静は、いつも静かで、笑うときだけ年相応になる子だった。

 だけど、一回だけ、本気で怒ったことがある。

 近所のガキが、雀の巣を壊してたときだった。

 あいつは何も言わず、ただ、その子の肩をそっと押さえて、

「羽が生える前に壊したら、飛べないでしょう」と言った。

 その一言が、なんか……怖くて。

 優しいのに、命令されてるみたいな気がした。

 それから、よく“空を斬る音”を聴かせてくれた。

「風が見えるんです」って言って、木刀で空を切るんだ。

 ほんとに、風の音が違うんだよ、あいつが振ると。

 俺は思ってた。

 この子は、どっか違うところから来たんだって。

 でも、たぶん、どこにも帰る場所がないんだなって。

 最後に会ったのは、夏の終わり。

「また空を切ってよ」って言ったら、静はこう言った。

「もうすぐ、“本物の風”を斬らなければならないんです。

……それは、戻れない風かもしれません」

 それきり、会えなかった。

 今も、風が強く吹いた日には思うよ。

 静がどこかでまだ、風を斬ってる気がしてさ。

 

(了)

ーーーーーーーーーーーーー

■戦にまつわる3つの記録

一.軍の上層部が静を見初めた瞬間の記録

『“あの子”が刀を振るった日』

記録担当官・某日記抜粋(非公開記録)

 道場試合を視察。

 目的は年少組の技術水準把握と、来春の徴用可能者の選定。

 会場にて、“沖田静”という少年の名前を耳にする。

 推定年齢十四、とのこと。年齢記録にしては若すぎる。

 構え、姿勢、歩み、すべてにおいて“間”が異質。

 技ではなく、戦に適した呼吸――明らかに剣を“言語化”できる才を持つ。

 一戦目にて、相手の動きが読まれた。

 二合、三合交わさず、一撃にて面を決めた。

 打突音、風圧、周囲の息が止まる。

 主将格が席を立ち、「あの子を、使えるか」と問う。

 私は答えられなかった。

“使える”かどうかではなく、“使ってはいけない”と、本能で思った。

 あれは、剣を振るうたびに何かを削って生きている。

 あれを戦場に出せば、勝つだろう。

 だが――人の心を持って戻ってくるとは思えなかった。

 結果:上申され、二ヶ月後に軍属候補へ昇格。

 

(記録了)

________________________________________

二.敵軍の斥候が見た“幼き鬼神”の目撃談

『あの目を、もう一度見るなら、俺は死んだ方がマシだ』

回想:斥候兵リュウ(戦後、故郷にて口述)

 俺はただの斥候だった。

 潜り込んだ先の村が、ちょうど“制圧訓練”の標的になってて、逃げ遅れた。

 火の手が上がってた。女も子どもも泣いてた。

 仲間が数人、村を囲んでて、俺は“もう終わりだ”って思ってた。

 そこに、風が吹いた。

 本当に、ただの風だった。

 でも、次の瞬間、仲間の首が“ない”ことに気づいた。

 誰も声を上げなかった。

 血が跳ねる音すらしなかった。

 あいつは、風のように通り抜けていった。

 子どもだった。

 着物が揺れてた。束ねた髪が肩にかかってた。

 でも、目だけが……人間の目じゃなかった。

 無感情? いや、もっと静かだった。

“これは正しいことです”って顔で、斬っていた。

 俺は逃げた。情けないけど、それしかできなかった。

 戦が終わった後、仲間に訊いたよ。

「あの子は誰だ?」って。

 みんな口を閉ざしてた。

 一人だけ、こう言った。

「あれは、人じゃない。“幼き鬼神”だ。名は沖田静」

 ……あの目を、俺は死ぬまで忘れられねぇ。

 

(語り終え、本人は数年後に戦災で死亡)

________________________________________

三.戦に出る前夜の「手紙未満の手紙」

『――誰にも出せなかった書きかけの便り』

(墨のにじんだ短冊紙に、乱れた筆致で書かれていた)

 もし、明日、僕が帰らなかったとしても

 それは敗北ではないと、信じていてください

 戦って、生きて、斬って、それでも誰かを傷つけずに済んだのなら

 それが、僕の“勝ち”です

 本当は、誰にも見せるつもりはなかったのです

 でも、もし君が読んでいるなら

 それは――僕がこの手紙を

 どこかに残してしまったということですね

 情けないな。僕は、臆病なんでしょう

 それでも、最後まで、“斬らずに済む道”を探してみます

 沖田 静

 

(この手紙は、彼の出陣後、道場の箪笥の裏から見つかった。未封。宛名なし。今も保管されている)

ーーーーーーーーーーー

■回想~静の存在に触れた印象的な一幕


一話目:

「帰り道の鬼神」

――とある農村の娘・“ミヅキ”の手記より

 

 あの日のことは、夢だったのかもしれません。

 それでも、私は今でも、あの人の背中を思い出すのです。

 私は十四のとき、村が“徴兵訓練場”に指定されました。

 田畑が焼かれ、父も兄も連れて行かれました。

 母は火傷を負い、私と幼い弟を守るだけで精一杯。

 希望など、どこにも残っていませんでした。

 その日の午後、村の外れにひとりの武士が現れました。

 髪を一つに束ね、白い衣のまま。背丈はとりたてて高くないのに、周囲の空気が違った。

「ここにはもう、兵は残っていないのですか」と、淡々と訊ねられました。

 私は震えながら答えました。

「全員、山の方に逃げました。もう、何もありません」

 そのとき、彼はふっと空を見上げて――微笑んだのです。

「なら、僕の出番は、もう少し先のようですね」

 その笑みが、とても優しかったことを、私は今も信じられないのです。

 だってその夜、彼は――百人以上の敵兵を、たったひとりで斬り伏せたというのですから。

 村のはずれに咲いていた彼岸花が、あの日だけ白く変わっていたのを覚えています。

 誰かが「あの剣士の命が、花に映ったのだ」と噂していました。

 戦の翌朝、私は山から下りてきて、彼を探しました。

 でも彼はいませんでした。足跡も、剣も、何も残っていません。

 ただ、焼け跡にひとつだけ、丸く平らな石が置いてありました。

 石の表には、細い筆致でこう記されていたのです。

「戦いは、終わらせるために在る」

 名前は、書かれていませんでした。

 でも、私は知っていました。

 その人は――沖田静。

 私たちの村に、確かにいた“帰り道の鬼神”でした。

 あの人が、どこかで安らかに眠れていることを祈りながら、

 私は今も、この村で彼岸花を育てています。

 白い、花を。

 

(了)

________________________________________

二話目:

「花を踏まなかった人」

――敵軍の若き従兵“ヘイスケ”の証言

 

 俺は、戦場の名もなき足軽だった。

 名誉もない、俸禄も少ない、ただ命を賭けるだけの駒のひとつだ。

 その日も、命令に従って村の制圧に向かっていた。

 三人一組で小道を進んでいたとき、俺たちは“出会って”しまった。

 一人の少年兵。

 いや、あれを“兵”とは呼べなかった。

 白装束に、鞘に手を添えただけで、すべての空気が変わった。

 リーダー格の奴が威嚇して近づこうとしたその瞬間、

 気づいたときにはそいつの首が、地面に転がっていた。

 俺は、声が出なかった。

 血が跳ねたその下には、つくしの芽がいくつも生えていた。

 だが――その剣士は、斬ったあと、そっとその花を避けて歩いていった。

 敵を倒したあとで、だぞ?

 ただの雑草だと思っていたものに、目を向けて――踏まないように足を向けたんだ。

 俺はその場に膝をついた。

 生き延びたのが奇跡だったのか、何か意味があったのか、わからない。

 けれど、その人が去ったあと、俺は泣いていた。

“命を取る剣”で、心を撃ち抜かれるなんて思ってもみなかったからだ。

 のちに名前を知った。

 沖田静――そう呼ばれる剣士は、実在した。

 だが、軍の記録では、戦功よりも“失踪”の文字が残っていた。

 あれだけの剣を持ちながら、

“戦に勝つため”ではなく、“何かを守るため”に剣を振るった者。

 俺は今、もう剣を捨てた。

 でも、どこかで見知らぬ花を見かけたとき、思い出すんだ。

 ――ああ、あの人なら、これも踏まずに歩いたろうな、って。

 

(了)

出陣当日の道場の空気や別れの描写

________________________________________

三話目:

「白き朝、剣を置いて」

【兄弟子の視点】

 朝の空気が、やけに澄んでいた。

 霜がまだ降りるほどの寒さだったが、不思議と息は白くならなかった。

 それはきっと、どこかで“何かが終わる”と、皆が悟っていたからだと思う。

 縁側に座っていた静は、稽古着ではなかった。

 白い旅支度。腰に帯刀していたが、それはあいつの剣ではなかった。

 ――あれは、“誰かの剣”だった。

「預けます」と、静は言った。

 竹刀を丁寧に桐箱に収め、俺に託した。

「戻ったら、また“剣を教えてください”って言えるくらい、僕は人のままでいたいんです」

 あいつの背はまだ小さかった。

 けれど、背負っているものの重さは、誰よりも大きかった。

 手を振ることもできなかった。

 あれは別れではない。

 あれは“背中を見送ること”だけが許された、出陣の朝だった。

 

【師範の視点】

 あの日の朝ほど、道場が静まり返ったことはなかった。

 皆、口を閉じていた。口惜しさでも、恐れでもない。“敬意”の沈黙だった。

 静が最後に道場の中央で一礼した。

 その姿はまるで、“神前に詣でる者”のようだった。

「師範。――ありがとうございました」

 それだけだった。

 多くは語らない。

 あの子は“斬る者”ではあったが、同時に、“余白に語らせる者”でもあった。

 だから私は言った。

「お前が戻ってきたら、そのときは“勝ち”ではなく、“生きていたこと”を誉れとせよ」

 静は、小さく微笑んだ。

 けれど、目は笑っていなかった。

 その微笑みだけを、私は一生、忘れない。

 

【門弟の妻の視点】

 台所で握ったおむすびを、風呂敷に包んだ。

 静くんは「ありがとうございます」と頭を下げ、小さく笑った。

 私はそれ以上、正面からあの子の顔を見ることができなかった。

 その笑顔が、まるでこの世のものではないようで、

“もうこの子は戻ってこない”と、心のどこかでわかってしまったから。

 帰ってきたら、甘い味噌汁を作ろうと思っていた。

 それだけを、願っていたのに。

 

【幼馴染の少年の視点】

 走った。必死で道場に向かって。

 間に合わなかった。静はもう、門の外に立っていた。

「静!」

 名を呼ぶと、彼は振り返った。

 その顔に、見覚えのない表情が浮かんでいた。

“もう戻れない”ことを知っている者の、そんな表情だった。

「また、空を斬ってよ」

 そう言ったら、静は少しだけ、目を細めた。

「今度は、“風の音”じゃない音を斬るんです。……もし戻ったら、空を斬らせてください」

 わけがわからなかった。けれど、涙が止まらなかった。

 あいつは、あの日、“空じゃないもの”を斬りに行ったんだ。

 

【静・独白】

 白い息は、もう見えない。

“斬らずに済む世界”を、どこかに置き去りにして、

 僕は歩いている。

 この足が、血に染まっても、

 この手が、戻れないところまで汚れても、

 ――誰かが、“剣を捨てられる”未来を持てるように。

 ああ、願わくば。

 あの道場に戻れるなら。

 いつかまた、“教わる者”になれるなら。

 僕は、今日、

“剣を置く”ことを、許されるだろうか。

 

(了)

ーーーーーーーーーーー

■遺体が見つからなかった理由とその後の調査記録

「名前の残らぬ帰還記録」

――軍事報告書・聞き取り証言・道場側記録より構成

 

【軍報告書抜粋・戦後調査班】

対象名:沖田 静(歩兵部隊所属/剣技指導補佐)

最終確認日:第三戦線・南部林地/交戦日より72時間経過後、消息不明

遺体確認:なし(衣類片および刀の鞘のみ回収、のちに刀身を回収)

生存報告:なし

敵側死体確認数:78体(戦闘範囲狭小)

味方戦死者:全4名

逃走兵:2名(未帰還)

地形状況:ぬかるみ、斜面多く、複数の水路あり

調査班の見解:

 戦闘痕と残留物から判断するに、対象は単独で敵中に突入し、全戦力を排除後に再帰途上にて力尽きた可能性が高い。

 ただし、直接的な死体確認がなされておらず、剣・外套ともに“意図的に”残された痕跡があることから、

 対象が「死を偽装した」もしくは「味方に死を見せぬように姿を消した」意志が働いたと推察される。

 記録整理にあたり、対象の戦功を“帰還未遂・行方不明者”として分類。

 後日、以下の報告を受ける:

「森の奥の沢に、布を流すように横たわる影を見た」との証言(通報者:通行の薬売り)

→現地捜索の結果、影の所在は確認されず。跡地には白い布切れと、足跡が一対のみ残されていた。

 

【師範による報告記録】

 静の名が戦功者一覧に載らなかったのを見て、私は初めて“安心”した。

 あの子は、戦果を誇る人間ではない。

 もしも死んでいたなら、それでさえ名前を残したくないと願っただろう。

 だが、ずいぶん経った頃、剣が道場に返された。鞘と一緒に、箱に入って。

 泥が乾き、血も拭われていた。……誰が運んだのかは、わからない。

 私は、それを床の間に納め、こう書いた。

「この剣、未だ帰らず」

 いつか、あの子が本当に帰ってきたとき、

“戦場を越えた剣”として再び持たせられるように。

 

【門弟の妻の手記】

 朝、庭先に小さな風呂敷が置かれていた。

 中には、あの子が好んでいた焼き海苔のおむすびが一つと、白い紐。

 それだけだった。

 まるで「もう食べられない」って言っているみたいだった。

 私は黙って、それを火にくべた。

 それが“あの子の帰り”だと、私にはわかったから。

 でも、みんなには言わなかった。

 

【兵卒の噂話より】

 あの剣士は、死んでないって奴もいる。

「味方にだけ“死んだ”と思わせて、あのまま山に消えたんだ」

「ほんとはもう、刀を捨てて、どこかで別の名前で生きてんじゃないか?」

「いや、死んだよ。だって……誰も、あの剣を二度とは見てないんだろ?」

 それでも、俺は信じてる。

 戦のあと、山道に生えてた一輪の白花。

 それが、“彼の歩いた痕跡”だってこと。

 剣を置いて、花を残したなら――それは、あの剣士の生きた証だ。

 

【道場の柱裏の刻み文字】

 ――名前はない。

 ただ、一言だけ。

「斬らずに済んだ」

 それが、彼の“帰り道”だったのかもしれない。

 

(了)

ーーーーーーーーーーーーーーー

■生きて帰らなかった静を想う者たちの“祈りの集”

「祈ることしか、できなかった者たちへ」

 

【門弟の妻・夕凪の手記】

 三月の風が吹いた朝。

 私は仏間に、白い椿を供えました。

 何も言わず、誰にも告げず、ただひとりで。

 静くんの名前は、誰の位牌にも記されていません。

 あの子の“死”は、誰にも確認されていないから。

 けれど、私は知っているのです。

 あの子が、もうこの世界のどこにも存在していないことを。

 彼が使っていた茶碗を洗いながら、ふと思いました。

 ――今頃、誰かがこの空の下で、“斬られずに”済んでいるのだとしたら。

 それだけで、あの子の祈りは、きっと届いたのだと思えるのです。

 

【幼馴染・文市の手紙(宛先なし)】

 静、

 お前がいなくなってから、もう二年が経った。

 なあ、聞こえてるか? 俺、まだ“あの音”を覚えてるんだ。

 竹刀で空を斬るときの、あの風の音。

 今でもたまに夢で見るよ。お前の背中と、振り下ろしたその一拍。

 この間、近くの子どもが木刀を構えて真似してた。

 その構えが、なんだかすごく似てて、俺、泣きそうになった。

「なんで泣いてるの?」って聞かれてさ。

 俺、笑ってこう言ったんだよ。

「その剣は、誰かを斬るためじゃなくて、“斬らずにすむ道”を探すためにあるんだよ」って。

 お前がいたら、きっと笑ってくれたよな。

 それでまた、空を斬ってくれたよな。

 静。

 お前の祈りは、ここにまだ残ってる。

 ちゃんと届いてる。

 ありがとう。

 

【軍医・望月の回想】

 私のもとに、彼が運び込まれることはなかった。

 どの負傷兵の列にも、彼の名はなかった。

 けれど、その名を呼ぶ者は、確かにいた。

 戦の終わり。

 私は夜ごと、眠れない者たちの傍にいた。

 ある若い兵士が言った。

「俺、沖田さんに助けられました。あの人が斬らなければ、俺たちは全滅してた」

 そう語ったその兵士は、翌朝、戦の記憶を断ち切るように黙して去った。

 彼の声に、嘘はなかった。

 ――沖田静。

 その名は、戦場の片隅で、今も誰かの灯火になっている。

 医師として私にできることは、ただ一つだった。

 祈ること。

 それだけだった。

 

【師範・書き残しの言葉】

 あの子の席を、まだ道場から外せずにいる。

 誰も触れない。誰も話さない。

 だが、そこには毎朝、花が置かれている。

 誰が置いているかは、訊かないことにしている。

 “名前のない祈り”ほど、尊いものはないからだ。

 一度だけ、床の間に“彼の剣”を戻そうかと思ったことがある。

 だが、それは間違いだった。

 あの剣は、もう“誰のものでもない”。

 彼が“人を斬らぬために残した剣”として、永遠に封じられている。

 それでいい。

 それで、いいのだ。

 

【道場の子らの遊びより】

「おナツ様、こっちこっち!」

「風斬りのしーちゃんがくるぞー!」

「みんな伏せて! 斬られないように!」

 子どもたちの遊びのなかで、いつしか“風斬りの静”という名が登場していた。

 誰が教えたわけでもない。

 けれど、その“見えない剣士”はいつも、

「斬らずに守ってくれる英雄」として語られていた。

 その名が、本物の沖田静に由来するとは、

 もう誰も知らないかもしれない。

 それでも。

 祈りとは、そういうかたちで残るのだ。

 

(了)

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

■静を戦場で見送った軍医の記録

「あの背に、白はなかった」

 ――前線随行医・望月衛もちづき・まもるの従軍記録より

 

 私は軍医であり、記録者でもあった。

 何度も戦場を見た。敗者も勝者も、嘘も涙も、すべて。

 けれど、あの少年兵――沖田静ほど、“言葉にならない存在”を見たことはない。

 彼が戦場に現れたのは、前線が崩れかけていた午後だった。

 敵が高台を占拠し、我々の兵はすでに半数を失っていた。

 そこへ現れた彼は、隊列を組むわけでもなく、合図を出すでもなく、

 ただ、“風のように”歩み出た。

 その背には軍旗もない。身に着けたものも無地。

 白衣にすら見えたその姿は、“治す者”のようで、実際には“終わらせる者”だった。

ーーーーーーーーーーーーーーー

■沖田 静 戦の記録

【第一章:戦地にて】

 私は負傷兵を並べていた。

 呻き声が響く中、誰かが叫んだ。

「沖田だ! 沖田が来たぞ!」

 その名に皆が顔を上げた。

 だが私には、それが“救い”とは思えなかった。

 むしろ、誰よりも“静かなる絶望”に近いものだった。

 彼は斬った。

 正確に、速やかに、敵を眠らせていった。

 だが、斬るたびに、彼の顔から“人間の色”が削れていくように見えた。

 何も叫ばず、何も誇らず、ただ斬る――まるで、それが“贖罪”であるかのように。

 

【第二章:負傷兵の語り】

 あの夜、回復した若者が語ってくれた。

「沖田さん、俺たちの盾になって……敵陣をひとりで抜けたんです」

「矢も、槍も、全部受けて、でも――倒れなかった。まるで“歩く意志”みたいで」

「俺、最後に沖田さんの背中を見ました。

 白くて、淡くて、まるで雪の中を歩く影みたいでした……」

 その兵士は涙を流しながら語った。

「“あんな人が死ぬなんて”、思いたくなかったんです」

 

【第三章:軍医としての記録】

 私は翌朝、負傷兵の後を追って戦場に出た。

 すでに敵も退いており、森は静寂を取り戻していた。

 その中に、一振りの鞘だけが、地面に立てられていた。

 土に突き刺したようでもなく、まるで“置かれた”ような、不自然な佇まい。

 剣本体は見当たらなかった。

 私は鞘を持ち帰り、記録にこう記した。

「この者、遺体未確認。

ただし、戦後の地には血痕もなく、足跡は片方のみ。

故に、死亡の確定を下せず」

 だが、本心ではこう思っていた。

 あれは、“死ななかった”のではない。

“姿を消した”のだ。

 

【第四章:医師の葛藤】

 医師とは、命を救う者だ。

 だが時に、“命を斬る者”が、その何倍もの命を救ってしまうことがある。

 沖田静は、まさにそれだった。

 彼の剣は、百の命を救った。

 だが彼自身の命を、誰も救えなかった。

 医師として、私は無力だった。

 薬も、包帯も、彼には必要なかった。

 彼に必要だったのは、“斬らずに済む場所”だけだった。

 

【終章:白の幻影】

 数年後、前線の森を再訪した折、

 ある老猟師がこう言った。

「ああ、あそこは“風の剣士”の森だ。

 一度だけ見た。白い着物の若者が、誰もいない中を歩いていくのを」

 それを聞いて、私は思わず問い返した。

「背中に、何か背負っていましたか?」

 猟師は言った。

「何も。……ただ、風だけだった」

 私は鞘を握りしめ、静かに目を閉じた。

 あの少年が“風そのもの”となって、この戦を去っていったのだと、

 ようやく納得できた気がした。

 彼の遺体は見つからない。

 だが彼の存在は、確かにこの手に残っている。

 ――あの背に、白はなかった。

 斬るための白ではなく、“何も斬らないための白”だったのだと、

 今なら、私は言える。

 

(了)

ーーーーーーーーーーーーーーーー

■敵の捕虜が語る“命を奪わなかった剣士”との遭遇談

「斬られなかった、ということ」

――敵軍元捕虜・コウモトの証言記録

 

 私は名をコウモトという。

 西陣営に属していた軽歩兵であり、現在は戦後復興事業の労働に従事している。

 この証言は、尋問によるものではなく、私自身の意志によって記すものである。

 理由はただひとつ――命を奪われなかった日を、私は忘れたくないからだ。

 

【遭遇】

 あの日の戦場は、霧が深かった。

 我々の小隊は包囲に気づかぬまま、敵地に踏み込んでいた。

 音もなく、空気もなく、まるで“ここはもう世界の果てだ”と告げられているかのようだった。

 先頭の男が倒れたのは、一瞬だった。

 風もなく、声もなく。

“斬られた”のではなく、“消えた”ように見えた。

 そのとき、私の眼前に――彼が現れた。

 白い衣。血の跡すら吸い込むようなその布は、

 まるで“穢れを拒む衣”のようにすら思えた。

 剣を抜いていなかった。

 それでも、誰も動けなかった。

 剣がそこにあるという“事実”だけで、我々はすでに斬られていたのだ。

 

【目を合わせた瞬間】

 その剣士――沖田静、と後に聞いた名を――

 私の方へ歩いてきた。

 静かに、丁寧に、一歩一歩、まるで“許可を得るように”歩いてきた。

 そして、私の前に立つと、こう言った。

「殺さずに済むなら、それでいい。

 降伏する意志があるのなら、あなたの血は、必要ない」

 私は咄嗟に地面に膝をついた。

 剣を抜いたことが恥ずかしかった。

 命乞いではなかった。

“その剣を汚したくなかった”のだ。

 すると、彼は剣を抜いた。

 だが、斬られたのは、私の後ろにいた仲間だった。

 槍を構えて突進していた男の首が、ひと閃で落ちた。

 そして、剣は再び鞘に戻された。

 私は震えながら言った。

「なぜ、私を殺さなかった……?」

 彼はただ、こう答えた。

「……剣は、“終わらせる”ためにある。

 命を絶やすためではないんです」

 

【その後】

 私は捕虜として扱われた。

 だが、不思議なことに、私はあの日以降、一度も悪夢を見ていない。

 仲間を斬られたのに。

 味方を守れなかったのに。

 なのに私は、あの剣士の姿を思い出すたびに、“救われた”気がする。

 なぜか。

 たぶん、私の“死”を前にして、彼が“選ばなかった”からだ。

 生かすことは、時に斬るよりも重い。

 その重みを、その細い体のどこに背負っていたのか――

 私は、今でも思い出す。

 あの目を。

 あの沈黙を。

 あの剣を。

 

【記す理由】

 戦が終わって数年が経った。

 私は今、名もなき村の塀を修理しながら暮らしている。

 ときどき、夕暮れに“白い人影”を見ることがある。

 幻か、記憶かは分からない。

 でも、私は知っている。

 “殺されなかった命”は、誰かが祈ってくれた結果だ。

 誰かが“剣を下ろした”から、私は今ここにいる。

 この証言が誰に届くかは分からない。

 けれど、私はただ一つ伝えたい。

 沖田静という剣士は、

“斬らなかった剣”として、

 確かに存在していたのだと。

 

(了)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

■戦場から戻らなかった静に捧げられた「名もなき歌」

――口ずさがれるもの、語られぬもの

 

【歌が生まれた場所】

 それは、戦の記録にも、書物にも、歴史の中にも残らない。

 ただ、“口ずさがれていた”だけだった。

 静の名を口に出す者は、ほとんどいなかった。

 それは禁忌というより、沈黙が祈りに変わっていったのだ。

 ある村で。

 ある峠で。

 ある道場で。

 子どもたちが、不思議な旋律を歌っていた。

♪ しずく しずく 風にゆれて

ふれずにさよなら ふれずにほほえみ

つるぎはおかずに てをつなぐ

かえらぬものに はなのなを

 誰が作ったとも知れぬそれは、“名もなき歌”と呼ばれるようになった。

 けれど人々は、心のどこかで分かっていた。

 ――これは、“彼”の歌だ、と。

 

【歌い継がれた者たち】

道場の小さな弟子たち

「これはな、“帰ってこなかった兄弟子”のうたなんだって」

「でも、死んだって書いてないよ?」

「書いてないけど、戻ってこなかった人は……きっと、まだどこかで戦ってるんだよ」

 彼らは誰に教わったわけでもない。

 けれど、自然とその歌は“剣の合間”に口ずさまれていた。

 稽古終わりの静けさの中に、

 真夜中の掃除のときに、

 ふと漏れるように。

 それは、まるで“風が覚えている”かのようだった。

 

戦を越えてきた老兵

 酒場で歌われることもあった。

 だがそれは酒の肴ではなかった。

 たとえば、語るに堪えぬ夜の、静けさの中で、

 炎の揺れる火鉢の前で、ぽつりと一人が始める。

♪ さめないゆめに なみだをのせて

 あしたがくるのを しらせてくれた

 そのときだけは、誰も声をかけない。

 誰も騒がない。

 まるで“斬られた者の霊”が帰ってくるのを、静かに迎えているように。

 ある者は言った。

「この歌が終わるころ、白い影が見えるんだ。

 それは……剣を持たぬまま、歩いてくる」

 

【花の咲かない場所で】

 師範が、かつて静と交わした道場の地には、

 ある年から、毎年決まって咲かない場所ができた。

 白椿の木の下。

 花は、つぼみをつけるが、必ず落ちた。

 誰かが手を加えたわけではない。

「花が咲かぬ場所にも、祈りはある」

 そう言って、師範はそこに“歌詞の断片”を刻んだ。

「かえらぬものに はなのなを」

 そこは、今も“名もなき剣士”のための場所として、

 誰も語らぬまま、大切にされている。

 

【名前を呼ばない祈り】

 その歌には、名前がなかった。

 けれど、その歌を知る人は、皆、“誰のことを歌っているか”を知っていた。

 静――彼の存在が、語られずとも記憶の底で灯り続けたからこそ、

 言葉は歌になり、歌は風になり、

 いつしか、季節の合間にさえ響くようになったのだろう。

 咲かぬ桜を見にいくように、

 斬らぬ剣を語るように。

♪ さようならのかわりに

 だれにもいわずに

 しずかに しずかに

 いまもあるく

 それが、名もなき歌。

 そして、彼のことを決して忘れなかった人々の、

“言葉にならなかった祈り”そのものだった。

 

(了)

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