45 殺るか逃げるか
晃と優希は顔を見合わせ、それから急いで浴室へと戻った。
ドアを開ける前から「ボッ」「ドッ」と、鈍い音が繰り返し聞こえる。
とんでもなく嫌な予感を抱えつつ、スライドドアを一気に開く晃。
奥からは「ぬぢゅ」「ぐじょ」と、泥濘に足を突っ込んだような――
「おいっ、やめっ……やめとけ、って」
ダイスケが、弱々しく止めようとしている。
それに対する応答はなく、「ぶちゅ」「ごびゅ」と水っぽい音だけが響く。
誰を止める――は佳織だろうが、何を止めようとしているのか。
最悪の展開を予想して竦む足を引きずり、晃は浴室の奥へと踏み込む。
同じような心境なのか、ついてくる優希も呼吸が荒くなっていた。
イヤで仕方ないが、一歩ずつ進んでいく晃と、歩調を合わせる優希。
血腥さが濃くなり、糞尿の臭いがそこに混ざっていた。
さっきまでとは、明らかに部屋の空気が違う。
ぐちょ、べちょ、という感じの音が、数秒に一回ペースで鳴る。
やがて晃の視界に、バールで顔面を耕されたクロの姿が入ってきた。
「ぅひぃいぃっ――」
引き笑いならぬ引き悲鳴は、自分と優希のどちらが発したのか。
眼前の光景に圧倒されている晃には、俄かに判別がつかない。
何が起きているのか、視認は出来ていても脳が理解を拒んでいた。
バールを手にした佳織が、その先端をクロの顔に繰り返し突き立てる。
無表情で、黙ったまま、決められた作業をこなすような動きで。
ばちゅっ
左の眼窩にバールが振り下ろされ、釘抜き部分が深々と埋没。
そして半ば潰れた眼球が、視神経ごと抉り出され血が滴る。
次の一撃は、既にグズグズになった鼻梁の横に。
左目は数秒前より数センチ下の、頬骨あたりに強制移植された。
衝撃でクロの頭部が揺さぶられ、元からあった穴と新規で増えた穴から、血と肉と脳と脳漿が混合された半固体がドロッと溢れる。
「なっ、てんっ、かっ――かぁ――」
『何やってんだよ、佳織さん!』
そう怒鳴ったつもりの晃だが、途切れ途切れに掠れて声がまともに出ない。
狂った情景が思考と行動の接続を阻害し、舌を縺れさせている。
自然と全身の力が抜け、いつの間にかバットを落としてしまった。
「うっ、んぅくっ――ふっ、ぶふっ」
怪音の出所を振り返れば、惨劇から目を逸らせないでいる優希が。
吐き気を堪えているのか、叫び声を抑えているのか、両手で口を塞いでいた。
バールの持ち主だったダイスケは、自分の道具を使って行われている、クロの顔面開拓をボケッと眺めている。
全身に紅い飛沫を浴びながら、窒息寸前の金魚のように口を開け閉めして。
「いっ、いいから! もういいっ、もう死んでるって!」
やっと動けるようになった晃は、振り上げられた右手を背後から掴む。
汁気でヌメっていたせいか、佳織の手からバールがスッポ抜けた。
宙を舞った凶器は壁にぶつかり、床に転がって鈍い金属音を鳴らす。
数テンポ遅れて振り向いた佳織は、不思議なものを見る目をしている。
予告ナシに手品を披露されたような、気の抜けた顔を晃に向けて言う。
「えっ……何が?」
「いや何が、じゃなくて! もうヤメなって、死んでるから!」
「うんうん。わかってる、わかってるんだよ。でもさぁ、でもだよ? でもコレさぁ、そういう問題じゃなくない? ないよね、うん」
妙にハキハキと、リズミカルに、滑舌よく答えてくる佳織。
これはダメだ――そう悟った瞬間、胃から腹にかけて重い痛みが走る。
今日だけで何度も遭遇した『箍が外れたヤツ』の列に、佳織も並んでしまった。
晃は大声で喚き散らしたい気持ちを捻じ伏せ、この状況を作り出した原因である可能性が高い、ダイスケの両肩に手を乗せて問う。
「どうなってんだ? 何で佳織さんにバール渡した!?」
「え、あの、渡したっていうか、置いといたら勝手に――」
「アホかお前ぇえええっ! そもそも、どうして止めねぇんだよ!」
「待って、待って待って、ダメだよ晃!」
ダイスケを揺さぶっていると、優希に背中を何度も叩いて止められた。
それで少し冷静さを戻した晃は、ダイスケから手を離して振り返る。
「起きちゃったのは、仕方ないから……次だよ、次のこと」
「ていうかさ、さっきから何なんだよコイツは!? 意味わかんねぇミスとか、ワケわかんねぇドジとか、そんなんばっかじゃんよ!」
「声を落として、声を……ミスが多いのは、私らもだって。こんなさ、イカレた状況なんだから……もうさ、普通でいられないでしょ、ね?」
自分も動揺しているだろうに、どうにか冷静に話を進めようとする優希。
彼女が伸ばした両手の指先の震えを目にして、晃の興奮は醒めていく。
ここで黙っているのは何か違うと察したか、ダイスケが釈明を始める。
「そ、それがさ……あの男が、ボソッと何か言ったら急に、急にあの子がバールを……壁にな、こう、立て掛けといたんだけど。こう、普通に。したらそれをパッと拾い上げて、もう、メチャクチャに殴り始めて……とっ、止める間もなかった、から」
「それで、クロは何て言ったんだ」
「や、内容とかまでは、イマイチ聞こえなくて……」
本人に確かめようか――とも思ったが、これ以上の心理的負担はマズい気がする。
フラフラと頭を左右に振って、小声で何かを早口で語っている佳織。
話を理解しているのか怪しいが、優希がウンウンと頷いて聞いていた。
「まったく……最後までクソ面倒な、カス野郎だ」
転がっているバールを拾い、ぬらめいた先端でクロの顔を突く晃。
それはもう人の頭部とは思えない、センスのない現代アーティストが泥酔して作ったオブジェみたいな、何だかわからないボロボロの塊になっていた。
元は口だった穴から、割り折られた歯の欠片らしいのが二つ三つ零れる。
本当にせよデタラメにせよ、何か衝撃的な情報を持ち出したのだろう。
その言葉で佳織を混乱させ、場の主導権を握るつもりだったのか。
匙加減を間違えたか、或いは聞かされる方が限界だったのかも。
単にクロが、自分への憎悪の度合いを理解してなかったセンもある。
優希の言う通り、起きたことは仕方ないから、次をどうするかだ。
膨らみ続ける焦りを無視して、晃は最善の手を探り始めた。
「なぁ、どうすんだって、こんな――」
「今、それを考えてんだよ!」
役立たずの分際で、賢しげに口出ししてくるダイスケを黙らせる。
しばらく行動を共にしてきたが、コイツに何かを任せるのは危うい。
佳織は虚脱状態になっていて、ダイスケ以上にお荷物と化すだろう。
優希は正気だし体力も大丈夫そうだが、戦闘力は期待できない。
慶太の安否については絶望的で、玲次はどこにいるのやら。
「クッソ、何でもっと……いや、ボケがっ! ったく!」
イライラが募り、意味のない悪態が次々に口を衝く。
そして脅威となる霜山とリョウは、どこで何をしているか不明。
クロを相手の情報収集が、完全な失敗に終わったのが痛い。
「どうするかは二択、だよね」
「は? 二択?」
優希からの予想外な発言に、晃はつい鸚鵡返しをしてしまう。
「大雑把に言うと、だけど。私らが選べるのは、慶太さんと玲次くんを助けるか、もう諦めて逃げちゃうか。そのどっちかでしょ?」
「あ……ああ、そうだな。そうなる、のか」
優希の指摘で、混濁していた晃の思考が素早く整頓される。
確かに、自分らの選ぶべき道は元から二つに一つ、なんだ。
無線の音声が途切れたのと、さっきまでの騒々しさ。
その合わせ技で、霜山達が異変に気付いた可能性も否めない。
どちらにせよ、方針を早く決定して動き出さなければ。
二十秒ほど悩んだ晃は、大きく息を吐いてから答えを出した。
反応の乏しさに苦戦しつつジワジワ更新中です……
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