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紅き風は空を駆ける  作者: 雪野耳子
籠炎の檻

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19/19

紅い炎と蒼い炎

 灰を踏む音が、いつまでも耳の底に残っていた。

 藍都を焼いた夜のあと、赫州軍の幕営地は、朝になっても落ち着かない。

 乾いた怒号、馬の嘶き、鉄が擦れる音。

 杭を抜く鈍い衝撃。天幕を畳む布のざらりとした気配。

 ――撤収。

 昨夜、黄牙が「一刻後に撤収する」と言い放った言葉が、今になって現実になる。

 玲華は馬上だった。

 両手首は前で縛られたまま。

 縄の擦れが血を固め、乾いた痛みが脈打つ。

 足は自由だが、鞍の上で踏ん張るにも限界がある。

 馬の背は硬く、揺れは容赦がない。

 呼吸をするたび、肺の奥に煤が降り積もるようだった。

 焦げの匂いがしつこく喉をざらつかせ、舌の上に灰の味が残る。

 それでも玲華は、背筋を折らない。

 折った瞬間、何かが自分の中で砕けてしまう気がした。

 砕けたら、もう二度と拾えない。

 拾えないものは、たぶん――誓いだ。

 隊列の前方で、赤い旗がはためく。

 赫州の軍――その揺れだけが、今の世界の中心のように見えた。

 黄牙は先頭寄りをゆったり進んでいる。

 斬馬刀を背に、馬上であくびまで噛み殺しているその横顔が、癪に障るほど平然としていた。

 その背に続いて出立したのに、少し進んだところで玲華は一度だけ、振り返った。

 幕営地が見える。

 天幕が次々と畳まれ、杭が抜かれ、縄が解かれ、荷車に積まれていく。

 朝の光の下で、兵たちが忙しなく動く姿は、まるで昨日の殺し合いなどなかったかのようだった。

 ――人が死んだ。街が焼けた。

 それでも軍は、ただ予定通りに動く。

 息をするみたいに。

(……当たり前、なんだ)

 胸の奥が冷たく乾いていく。

 泣けない。

 泣いたら負けだ。

 けれど、縛られた手首が小さく震えた。

 自分でもわかるほどに。

 震えるな、と必死に言い聞かせる。

 こんな奴らに弱い自分なんて見せたくない。

 奥歯を噛み締めた。

 清遊は時折、気の抜けた足音を鳴らすように馬を寄せてくる。

「坊や、ちゃんと息してる?落ちたら拾わないよ」

 眠たげな声が、からかうみたいに背中へ降ってきた。

 玲華は答えない。

 答えると声が震える。

 震えた声を聞かれたくない。

 その代わり、視線だけを前へ置いた。

 道は、藍都から続く街道だった。

 けれど、見慣れたはずの景色は、ところどころ黒い傷を負っている。

 焼け落ちた小屋。

 倒れた柵。

 踏み荒らされた畑。

 それが戦の通り道だと嫌でもわかる。

 何もかもが、踏みにじられている。

 ふいに、隊列の端で兵が声を上げた。

「……おい、あれ」

 兵が顎で示した先。

 道端の草むらに、何かが転がっていた。

 最初は荷物だと思った。

 布の塊。

 いや、土にまみれた衣。

 だが、その形が――人の腕だと理解した瞬間、玲華の胃がひくりと痙攣した。

 道沿いに、ひとり。

 少し先にも、もうひとり。

 さらに先には、数えるのが嫌になるほどの影が、点々と転がっている。

 倒れているのは兵ではない。

 鎧も、武器もない。

 薄い着物。

 粗末な草履。

 背負い袋。

 女もいる。

 子どももいる。

 老人も――。

(……逃げた人たち……)

 玲華の胸の奥が、ひゅっと冷えた。

 藍都が焼かれた夜、街道へ逃げた人がいた。

 泣きながら、家族の名を呼びながら、門の方へ走っていった人たち。

 その続きが、今、ここにある。

 死体のそばに、割れた水筒が転がっていた。

 乾いた地面に、黒く染みが広がっている。

 水だったのか、血だったのか、もう見分けがつかない。

 誰かの逃げた跡が、ここで途切れている。

 隊列は止まらない。

 ただ、兵たちが笑いながら眺め、足で小石を蹴り、馬が無造作に脇を通り過ぎていく。

「街の残党だろ。逃げたって無駄なのにな」

「赫州の怒りを買えばこうなる。見せしめだ」

 兵の声が、ひどく軽い。

 まるで、道端の石を見て言っているみたいに。

 玲華は、視線を逸らさなかった。

 逸らしたら、この人たちが「ただの景色」になってしまう。

 そうなったら、家族も、町も、全部、同じ『ただの景色』にされる。

(……覚えておけ)

 喉の奥が熱くなり、奥歯がきしむ。

 拳を握りしめたくなる。

 けれど握れない。

 縛られている。

 その無力さが、さらに憎しみを煽った。

 視界の端に、小さな子どもの手が見えた。

 泥にまみれた指。

 握ったまま開かない手。

 その先に、木彫りの人形が転がっている。

 焼け焦げたわけでもなく、ただ汚れて、土に半分埋まっていた。

(……そんなもの、持って逃げたのか)

 胸が締めつけられる。

 逃げるときに必要だったのは、水と食料と――生きるためのものだ。

 それでも持って出たのがそれなら、その子にとって、それが『大切なもの』だったのだ。

 玲華の目の奥が、じんと痛んだ。

 泣けない。

 泣いたら負けだ。

 けれど、胸の奥が冷たく乾くほど、憎しみは熱を持って膨らんでいく。

(……全部、返してもらう)

 声にできない言葉が、喉の奥で燃えた。灰よりも黒いものが、心の底に沈んでいく。

 行軍はさらに続く。

 陽が高くなるほど、影は短くなり、土の匂いが濃くなる。

 やがて陽が中天に差しかかったころ、黄牙が前方で手綱を引いた。

「……この先、あと少し行ったところで休憩を取る」

 兵たちがどよめき、馬の歩みがわずかに緩む。

 そのときだった。

 遠くに、煙が見えた。

 薄く、けれど確かに立ちのぼる灰色。

 風に流され、空に筋を引いている。

 黄牙の表情が変わる。

 いつもの薄笑いが消え、眉がわずかに寄った。

「……あ?」

 それだけ。

 たった一音。

 けれど、その短い声に、嫌な予感が詰まっていた。

 黄牙は休憩の号令を出したばかりなのに、馬の速度を落とさず、むしろ慎重に進ませる。

 隊列もそれに倣い、ざわつきながらも静かになっていく。

 煙は近づくほど濃くなり、土の匂いに混じって、火の匂いが刺さってきた。

 やがて、丘の向こうから、規則正しく並ぶ杭と柵が見えてきた。

 見張り台。

 旗。

 土塁。

 人の気配が、空気の密度を変えていく。

 玲華は息を呑んだ。

 ――陣だ。

 ここにも、軍の塊がある。

 赫州軍の中でも、さらに中心に近い気配。

 そして、旗が見えた。

 青い布地に、黄色の文字。

 風に翻るその一文字が、はっきり読める距離になった。

 『蘇』

 黄牙が舌打ちした。

「チッ……大人しく待ってろって言ったのに、アイツ」

 呟きは低く、苛立ちが混じる。

 冗談めいた軽さはない。

 黄牙は馬の足を止めた。

 隊列の先頭が止まり、後ろが詰まり、全体が一度呼吸を止めたみたいに静まる。

 黄牙は振り返り、声を飛ばす。

「清遊」

 清遊が眠たげな目を上げる。

「なんっすか?将軍」

「コイツ、任せた」

 玲華の馬の手綱を引いていた兵が、戸惑いながら清遊を見る。

 清遊は肩をすくめ、馬を寄せた。

「はいはい。預かりますよ、っと」

 次の瞬間、玲華の馬がぐっと引かれる。

 清遊が手綱を取り、玲華の位置が半歩、後ろへ下がる。

 黄牙はその動きを確かめると、すっと前へ向き直った。

(……何……?)

 玲華が顔を上げたときには、黄牙はもう、進路を変えていた。

 速い。

 巨体を乗せた馬が土を蹴り、蘇の旗の方へ一直線に進んでいく。

 その背中が、陽を受けて赤く縁取られ、まるで燃えているように見えた。

 清遊が玲華の馬の横に並び、軽く手綱を引く。

「なんで……?」

 思わず、声が漏れた。

 清遊がちらりとこちらを見て、口元だけで笑う。

「お家で待ってるはずの人が待てなくて、お迎えに来ちゃったみたいだね」

 軽口のはずなのに、妙に生々しい。

 玲華は黄牙の背を見つめたまま、唇を噛んだ。

(……迎え……だれ)

 『迎えに来る人』と『迎えを待つ人』。

 そのどちらも、藍都を焼いた人間だ。

 清遊が言葉を継ぐ。

「迎えに来たってことは、待てなかったってこと。待てないってことはまだ相当、お怒りのようだ。だから、君の紹介は、もうちょっとあと。今は面倒が増えるだけだからね」

 その「面倒」が何を意味するのか。

 玲華は聞かなくてもわかった。

 捕虜を見せれば処分の話になる。

 殺すか、引き渡すか、利用するか。

 黄牙の気まぐれが、そこで通用するとは限らない。

 隊列は速度を落とし、柵へ向かって進む。

 近づくほど、空気が違った。

 人が多い。

 馬も多い。

 鍋の匂い。

 汗の匂い。

 油の匂い。

 そして、鉄の匂いと血の匂い。

 戦が続いている場所の匂いだ。

 入口――土塁の切れ目に、大きな門が構えられていた。

 木で組まれ、鉄で補強され、兵が槍を持って並んでいる。

 門の上には見張り台があり、弓兵がこちらを見下ろしていた。

 その門の少し手前で、黄牙がいったん速度を落とす。

 馬上で手綱を引き、まっすぐ門兵を見据えた。

 門兵のひとりが、目を見開いた。

「……林将軍!?」

 声が裏返るほどの驚き。

 次の瞬間、門兵は隣の兵に何か叫び、ひとりが踵を返して奥へと走っていった。

 土を蹴る音が、乾いた空気を切り裂く。

 黄牙は、門の前で馬を止める。

 隊列がその後ろに続く。

 清遊は玲華の馬を少し後ろへ引き、門の視界から半歩ずらすように立てた。

「……見える? あそこが入口だ。中に入ったら、もう空気が違うよ」

 玲華は黙って頷く。

 視線は門の奥へ吸い寄せられていた。

 門の向こうには、無数の天幕が並び、旗が林立している。

 人の流れ。

 馬の流れ。

 軍の中心がそこにある。

 やがて――奥から、人影が現れた。

 最初は数人の兵。

 次に、やや遅れて、ひときわ背の高い人物が歩いてくるのが見えた。

 周囲の兵が、自然と道を空けていく。

 それだけで、『格』がわかる。

 玲華の背筋が、ぞくりと粟立った。

 逆光で顔はまだよく見えない。

 だが、歩き方が違う。

 誰にもぶつからず、誰にも道を譲らせず、ただ当たり前のように進む足取り。

 黄牙が、馬を降りた。

 あの巨体が地に足をつける音が、なぜかやけに重く響いた。

 黄牙は斬馬刀の柄に手を置き、胸の前で拳を作る。

 深く、礼を取った。

 玲華は遠くから、その光景を見つめた。

 黄牙が誰かに礼をする――その事実が、胸の奥を冷たくした。

 あの男ですら頭を下げる相手。

 命令を出す側。

 藍都を焼いた「理由」そのもの。

(……あれが……)

 口の中が乾く。舌が張りつき、息が浅くなる。

(……雅亮……?)

 玲華の視界が狭くなる。

 世界が、そこだけになる。

 胸の炎が、一気に燃え上がり、喉元まで上がってくる。

(……殺す)

 何も考えずに、そう思った。

 理屈も作戦も今はどうでもいい。

 ただ、あの影に――刃で切りつけたい。

 首でも喉でもいい。

 血が落ちれば、それで現実になる。

 視線が鋭く尖る。

 殺気が身体の外へ漏れ出すのが、自分でもわかった。

「……やめた方がいい」

 清遊の声が、すぐ耳元で落ちた。

 軽い。

 眠そうで、いつも通りの声。

 なのに、妙に冷たい。

「それ、今やったら死んじゃうよ。坊や」

 玲華ははっとして、息を呑んだ。

 清遊がほんの一瞬だけ表情を変える。

 いつもの飄々とした顔がわずかに強張り、目だけが鋭くなる。

 そして次の瞬間――。

「おっと。……マズいマズい」

 わざとらしいほど軽く言いながら、清遊は手綱を引いて玲華の馬を半歩下げた。

 同時に、自分の馬体で玲華の姿をさりげなく隠す。

 門兵の列と、奥から来る人物の視線の線上から、玲華をずらす。

 隠すというより、影へ押し込む動きだった。

 玲華は清遊の肩越しに、再び奥の人物を見た。

 逆光がほどけ、顔が見えかける。

 はっきりとはしない。

 だが――その目だけが、こちらを捉えた気がした。

 ぞっとするほど冷たい視線。

 人を人として見ない目。

 怒りでも侮蔑でもない。

 ただ、獲物を測るような静けさ。

 清遊が喉の奥で小さく舌打ちする。

「……見られたな」

 玲華の背中に冷たい汗がつう、と流れた。

 心臓が一度、強く跳ねる。

 それでも目を逸らせない。

 黄牙は奥から来た人物の前で礼を取り続けている。

 門兵は硬直したように並び、誰も声を上げない。

 夕方の光が傾き、陣の入口に、異様な静けさが降りる。

 玲華は清遊の馬の影から、雅亮と思しきその男を見つめ返した。

 殺気を抑えようとしても、胸の奥の紅い炎が勝手に息をする。

(……あれが……)

 言葉にならない。

 ただ、視線だけが、憎しみを帯びていく。

 その瞬間――雅亮の瞳が、確かにこちらへ向いた。

 玲華の身体の芯が、凍った。

 冷たい。

 とても冷たい……揺らめく蒼い炎。

 まるで冬の水に沈められたみたいに、息が詰まる。

 ――見つかった。

 そう理解したときには、もう遅かった。

 ぞっとするほど冷たい視線が、玲華の皮膚をなぞり、骨の奥まで入り込んでくる。

 清遊が、いつもの調子で、しかし少しだけ声を低くした。

「坊や。今は、息をするだけにしときな……ほんとに、死ぬから」

 玲華は答えられなかった。

 ただ、燃えるものを胸に抱えたまま、凍りつく視線の先で立つ男を、見つめていた。

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