悪神
上位に位置する存在の“愛”を、なぜ下々は言葉通りの愛と解釈するのか。
親愛? 友愛? 愛? 否。ちょこちょこと足元を走り回っている小動物に向ける感情だ。
朽ちかけ自制心が無くなった最後期だからこそ、エレノアは自らこそが頂点に相応しいと自己愛を爆発させた。そして石の王冠を奪い去り、奇妙な生物を作り上げたのだが、肥大し過ぎた自尊の塊に仲間などいる筈もなく、同胞達との争いに敗れて命からがら逃げだした。
そして神々は醜聞を恐れたのか、それともどうでもいいと思ったのか、この件が外部に漏れることはなかった。
最終的にエレノアは、自分が生み出した産物に喰われた挙句に名前を利用された。しかし皮肉と表現すればいいのか、結果的にエレノアの名はエレノア教と共に不変のものと化し、現代では最も著名な存在の一人だ。
だがそれは今現在の殺し合いには関係ない話だ。
『おおおおお!』
ホタルの光の様だった【粛清】が人型に輝くと、無色透明の力場が壁となり異様な存在を阻んだ。
ビタンッと粘着質な音が広い洞窟に響く。
成人男性の倍はある高さもおかしいが、奥行きと言ってもいい長さがそれ以上なのは悍ましさだけを齎す。
まるで超巨大なナメクジの如き軟体動物の体に、法衣を纏っている女教皇の上半身だけ突き出ている怪物が、力場の壁にぶち当たったのだ。
『化け物が!』
思わず【粛清】ですら悪態を吐いてしまう。
力場が無色透明なせいではっきり見える向こう側には、濁った水に似た粘液で形作られた巨大な口が裂け、容易く百を超える牙のような触手が蠢いている。
それらは一刻も早く【粛清】を噛み砕きたいと思っているのか、擦り合ってガチガチと嫌な音を発しているではないか。
この世のモノとは思えない存在に、神の遺物である【粛清】も嫌悪と恐怖を感じていた。
『エレノアの命令か!』
恐怖を誤魔化すように【粛清】が叫ぶ。
エレノアの生死は神々も把握しておらず、【粛清】は置き土産だと思っていた存在が、実はまだ生きている裏切り者の命令かと悩んだ。
命のやり取りの最中にするべきではない悩みだが、神の裏切り者がまだ存命しているなら、その殺害は【粛清】が勝手に思い込んでいる使命に等しい。
(エレノアの命令?)
イザベラの思考のかなり端の部分が、目の前の神擬きは何を言っているのだろうと戸惑った。
本能的な行動しかできなかった千年前のイザベラは、エレノアの拠点から逃げ出したことや纏わる陰謀を覚えていない。そのため疑問を僅かに抱いたが、あくまで思考の端の部分だ。
(ややこしい存在には消えてもらう!)
神擬きが世界の核心を知っていようが、自身の秘密や謎を知っていようがイザベラには関係ない。自己愛とは真逆の愛に生きている彼女にすれば、それを邪魔する者は排除対象だ。
尤も吸収するつもりはない。腹を壊すという訳ではなく、エレノアを貪って自我を確立したイザベラが、神擬きを吸収すると何が起こるか分からないため、目指しているのは徹底的な破壊だ。
『ぐうううう⁉』
渾身の力を籠めている【粛清】の力場は、イザベラの一部を焦がしているのに、スライムの圧倒的な再生力と質量はそれを上回っていた。
力場の崩壊は一瞬だった。
何処かが罅割れるような予兆もなくいきなり力場が消失すると、洞窟を埋め尽くすようなイザベラの体から、無数の触手が飛び出し襲い掛かる。
『な、舐めるなよ!』
言葉では強がる【粛清】だが、言葉はつっかえている上に洞窟の奥へ逃げた。
それを追うイザベラのあちこちは更に変質し、下半身は蛇のような細長い体になって動いている上に、突き出た数多の触腕は洞窟の地面、壁や天井に張り付き移動を補助している。
はっきり言って悍ましい異形。まさしくモンスター。怪物。化け物。それなのに神亡き今、最も神聖という言葉に近い女教皇の体は突き出たままだ。
『何を考えてこんなものを作った! 頭がおかしいだろ!』
洞窟の土や岩を崩しながら進む神殺しの獣に怖気を感じた【粛清】は思わず罵倒するが、喚いたところで現実は変わらず、どうにかして対処しなければならない。
『死ね!』
力場ではなく、輝く槍のような物を幾つか浮かべた【粛清】は、それらをイザベラに発射した。
(なぜ戦場では使わなかった? 使えなかった? 人間の器が邪魔をしていた? それならどうして態々器が必要だった? 拘っていた?)
この攻撃方法や先程の壁に、イザベラの端にある思考はまたしても疑問を感じた。
きちんとした力があるなら、戦場で使えば叫び喚くだけの醜態を晒さなかったはずだし、隠し通した切り札というには大したことがない。
なにせ輝く槍はイザベラの命を奪うには全く足りなかった。
確かに複数の槍はイザベラの巨体に突き刺さったが、貫通や爆発などは引き起こされず、その後は力尽きたかのように消え失せた。
寧ろスライムの体に余計な刺激が加わり、腐食を引き起こす危険な酸まで分泌され始める始末だ。
『こんなものが生物と言っていいのか⁉』
大量虐殺を引き起こそうとした【粛清】の言葉としては相応しくないものの、多くの人間が同意するだろう。
人間が受ければ蒸発して骨しか残らない攻撃を気にせず、ただひたすら怪物が追いかけてくる様は恐怖そのものであり、どんな悪魔よりもずっと酷い。
『っ⁉』
しかも最終的に【粛清】は洞窟の奥に追い詰められ、どこにも逃げることが出来なくなった。
『うおおおおおおおお!』
ならばと【粛清】は渾身の力を宿し、襲い掛かる化け物と対峙した。
存在が揺らいでも、消えてもいいと覚悟して、【粛清】の腕から光が迸る。
その力は洞窟を照らし……イザベラの体に直撃。麗しい女教皇は消し飛んでしまった。
『や、やった!』
歓喜に震える【粛清】は、相手がスライムということを理解していなかった。
世間一般が思い浮かべるスライムにはあまりに遠く、またエレノアがどういったモノを作り上げたか知らなかったからだ。
『あ?』
ポカンとした【粛清】に、夥しい触腕が叩きつけられた。
怪物が叩く。叩く。叩く。
それは生理的嫌悪感を感じる虫を見て理性を失い、何度も何度も物を叩きつける人間の姿に似ていた。
洞窟が揺れ、大地が揺れてもお構いなし。怪物の上半身に再びイザベラの体が作り出されてもそれは変わらない。
核となる部分を壊さなければスライムは死なないが、今現在のイザベラの部分は、人間の形をしているだけの末端だ。脳や臓器がある訳でもなく、巨体の中央にある核にはなんの影響もない。
言ってしまえば、チョウチンアンコウの疑似餌に等しく、【粛清】はまんまと騙された。
尤も気が付いたところで、今の【粛清】にイザベラの核を破壊できるかは怪しく、勝敗は初めから定まっていた。
そしてこうなると【粛清】はどうしようもない。
一軒家程度は軽くなぎ倒せる怪物の触腕が何度も振り下ろされ、【粛清】の輝きは徐々に、徐々に小さく……そして消失した。
神が死して千年。世界の最深淵部に位置する者こそがイザベラであり、神話の中で消え去る筈だった怪物は、またしても真っ暗な闇の中で神の力を叩き潰した。
それなのに真に恐ろしいのは戦闘力ではなく、世界の隅々まで張り巡らされたスライムによる情報の共有だ。
世界の裏側に潜み続けた怪物が、歴史において聖人そのものであると記されたのは異常だ。
なお……重ねて述べるが【粛清】は本当にしつこかった。
神王国の下流で輝きが再び灯った。




