夜の女王
神を至高としてそれ以外を軽視する背信者。
伝承では神の思念を受信するための器官とされる、額のパールを誇るパール王国の民として生まれながら、神ではなく人を選んだ女。
激突は必然だったが……背信者とパール王国は妄念で全く負けていないどころか、パール王国が凌駕していた。
国家全体が神に選ばれた民だと妄信し、千年間も積み重ねて積み重ね続けた選民思想と傲慢は、一つの宗教組織程度では及ばないものだ。
全国家を見比べても、パール王国程歪んだ国家は存在しない。
だからこそ……そんな国家が生み出した殺人兵器としての最高傑作など、人工的に作り上げられた神とすら表現してよかった。
◆
別々に行動しながら、同じ目的を抱いているドナとナタンの双子は、完全に同一ではないが複数のスキルを所持している。
その共通しているスキルの中に【変装】と【認識阻害】がある。
【変装】は言葉通り外見を変えられるため、実際の彼らは司祭服を着たままだが、鎧を着た兵士に見えた。
そして【認識阻害】は他者から気付かれない、認識されないようになるスキルだ。
これら二つに加え、他にも様々なスキルを組み合わせたドナとナタンは、部下にもスキルの力を施せるので、単なる軍勢なら忍び込み混乱を起こすことなど容易かった。
実際、ドナとナタンは互いのことを全く把握できていない程で、二人とも肉親を出し抜いたと思っていた。
ところでこの【認識阻害】、野生動物には匂いや気配で感知されるという若干の欠点が存在している。更に今現在、念には念を入れた一行は別々のルートで森を通っているため、狼などの野生生物に出くわす確率が高まっていた。
実際、ドナ達の前にナニカがおかしいぞと鼻を動かす狼が現れたが、単なる獣如きなど障害にもならない。
「【破壊】」
ドナがぽつりと呟いた途端、狼の心臓が破壊されて倒れ伏す。
奇しくもこの男、サンストーン王国最強を謳われたイーライと同じスキルを所持しているのだが、練度には雲泥の差があるし認識も違う。
物体の持つ硬度を無視して破壊を齎すこのスキルはイーライの奥の手だったものの、ドナにとっては手段の一つに過ぎず、また限られた箇所にだけ行使することも出来た。
「行くぞっ⁉」
小石の様な障害を取り除いたドナが再び呟いた途端、僅かな違和感を感じて急に立ち止まる。
ドナが率いていた部下は十人。そして率いている立場のくせに、気持ちが先走っていたドナは先頭にいたため、異変に気が付くのが遅れた。
振り返ったドナの視線の先には四人しかいなかった。
つまり彼を含めてこの場に背信者は五人。
「固まれ!」
(な、なにがあった⁉ なぜ気が付かなかった!)
端的な命令を発したドナだったが、自分に自信があるからこそ混乱の極致に叩き落とされた。
視線を彷徨わせても残りはどこにも存在せず、あるのは僅かな月明りに照らされた木々と草花だ。
(あり得ない! なぜ何も感じ取れない!)
ドナと部下達は心の中で絶叫を上げる。
明かな異変が起こっているのに、何も感じないのならばそれは異常という他ない。
彼らは死角が無いように固まり備えていたが、頭上の枝から垂れている蛇の様な影には気が付かなかった。
ずぶりと男の脳天に影が突き刺さり、獲物を捕らえた影は痙攣する体を引き上げ連れ去る。
残り四。
「なっ⁉」
一瞬の惨劇で背信者達の注意が頭上に逸れた瞬間、足元の影から湧き出るように闇の女王が現れた。
練り上げに練り上げ、積み重ねに積み重ね、人という種がついに至ってしまった最高到達点。
狙いは金属の様な光沢を宿した最も面倒な人間。
スキル【硬化】を極めたその男は同質量の鋼鉄よりも硬く、一方で襲い掛かる武器はしなやかな手が手刀を形作っているだけなのだから、何も恐れる必要がない。
ここまで【硬化】を極めた人間を真っ正面から殺すのは不可能と言ってよく、炎やなにかしら別の方法が必要だ。
その筈だった。
「ひゅー……」
口から漏れた音だったか。それとも、鋼鉄よりも硬い筈だった頭に突き刺さるどころか、貫通してしまった手刀の周りから漏れた空気音だったか。
残り三。
「ひっ⁉」
怯えた背信者の周囲の石ころが大量に浮き上がり、闇に向かって発射された。
スキル【飛礫】という若干頼りない名を持つ力だったが、木を貫通する破壊力を宿しているなら話は変わる。証拠が分かりにくいため非常に暗殺向きの力でもあったが、当たったら。という注釈が付く。
人類の限界値を容易く超えている認識能力は、夜の森で発射された小さな石を全て把握し、異常な反応速度で回避し切る。
次の攻撃はなかった。
たった一発。足元で拾われた小石が闇の親指で弾かれると、背信者の顔と頭蓋骨を貫き、ぴったりと脳幹に到達して生命活動を終わらせた。
残り二。
「や、やった! やったぞ!」
艶やかな闇の胸から氷柱が生えて、背と胸を貫通した。
一瞬で氷を繰り出せる【氷生成】は生活を便利にするスキルだったが、暗殺者が用いれば立派な武器になる。
それを用いて背信者は恐怖の闇を殺すことに成功したのだ。
彼の頭の中では。
「ごぶっ……」
氷が貫いたのは背信者の仲間で、第三者が見れば仲間割れかと思うだろう。だが氷の武器を振るった男の目では、確かに自分達を襲ってきた敵が血を噴き出していた。
残り一。
甘い香りを吸い込んだ瞬間に朦朧として味方殺しを遂げた氷の男は、意識がはっきりとする前に煌めいた鋼糸によって単なる肉塊と化した。
ゼロ。
ドナの持つ【破壊】や身に宿した様々なスキルが行使されることはなかった。唯一使用できたのは【硬化】だけ。他は使う前に、頭にぽっかりと穴が開いたのだから不可能だ。
闇の女王、リリーは念のため指で操っている鋼糸を再び振るい、死体を細切れにして作業を終えた。
だが漆黒の世界で浮かぶ金の瞳は止まらない。
彼女の探知網は残った敵を捉え続けており、音を立てず異常な速度で森を駆けていく。
見つけた。
能力は先程の集団と大差なく、纏めて始末するには少々面倒な力量を持っている。しかし実戦経験が乏しいのか、自分達が見つかる訳がないという慢心を持ち、周囲の警戒も疎かだ。
細められた金の瞳が最後尾の女に狙いを定め、超至近距離に接近する。
呼吸数、足音、更には気配までも同調して女の後ろを取ると、いきなり頭を引っ掴んで首をねじ折った。
「……」
不思議なことに骨の折れた音は響かない。
女は自分が死んだことも理解せず、無理矢理一回転された頭部は表情を変えないまま、体だけが緊張を失って倒れ伏した。
殺し合いにおいてリリーが明確に姉貴分のレイラを上回っている点は、欠片も容赦がなく殺人を全く躊躇わない精神性だ。
何処までも冷静に、冷酷に、冷徹に殺すという作業を完遂できる今現在のリリーは、まさしくパール王国の目指した粛清機構として完成している。だがその過程において、本来不要で入り込まない筈だった愛こそが完成への最後のパーツだったことを考えると、パール王国が同品質を生み出せることはないだろう。
腕、掌、指先。脚からつま先。髪の毛、視線、体臭、声すらも必殺の武器。なによりそれを完璧に使いこなす技量と、それら全てを凌駕する精神性。
対するは浮ついた心で功績を求め、神だけを妄信する愚か者達。
これで勝負になる筈がない。一人、また一人と背信者の息は絶えていく。
他国の誰が知る。ともすれば神にすら届きうる闇の短刀が、サンストーン王国という国家のためではなく、偶々愛する男が国王になった故に力を振るっているなど。
(脅威。それ以上ではない)
リリーは冷静に背信者の戦力を評価していた。
人体を貫通してしかも十数の石を発射できる【飛礫】や、どこからともなく人体から氷柱を発生させる【氷生成】。殺す手段が非常に限られる【硬化】。更にはリリーの目だからこそ捉えることが出来た【変装】と【気配遮断】。
スキルを発動する前に殺された面々も同じ水準の力と仮定するなら、やはり単なる軍勢に忍び込んで大将を討ち取る程度はやり遂げるだろう。
だがあちこちで暗躍していたパール王国の貝や黒真珠に比べ、後生大事に切り札として温存されていたアルバート教の暗部は実戦経験に乏しい。
そのためどちらが脅威かと比べるなら、最盛期の貝と黒真珠であるとリリーは結論する。
パール王国千年の妄念が生み出した組織はそれほどまでの存在なのだ。だからこそほぼ単独で黒真珠を追放し、事実上貝を壊滅させ、パール王国そのものを崩壊に導いた男は、怪物と評するに相応しい存在だった。
だがその男ですら、今のリリーを見ることができたら称賛半分、呆れ半分の感情を抱くだろう。
戦いにやり過ぎという言葉はないが、それでもやり過ぎだ。と。
最早残っている背信者はナタンを含め五人なのに、全員が気付いていない。なぜか死した人間分の足音が聞こえる。息が聞こえる。気配すらも存在する。それどころか、死んだ人間達は幻影となって歩いている。
限界点に達したリリーが垂れ流している欺瞞の情報は、達人中の達人が直視してようやく気が付けるかどうかの精度だ。
(……え?)
実際、ふと振り向いた背信者は幻影の姿を見ても特に違和感を感じず……なぜか景色が一回転したことに疑問を感じて死んだ。
最後に彼が見た光景が、魂すら抜き取ってしまう美貌の女だったことは幸せなのかもしれない。
「……っ⁉」
残りが四人になった時点で、ようやく統率者であるナタンが後ろを振り向き、幻影が混ざっていることに気が付く。
「敵だ!」
半数以上が殺されているのだから今更叫んだところで何になる。
影と闇で編まれた幻影は一瞬で形を崩すと塊になり、別の形に変貌を遂げた。
大木に匹敵する蛇の体から蜘蛛、蟷螂、百足、クラゲ、タコなどの様々な手足が突き出て、頭部は百を超える赤い複眼がギョロギョロと蠢いている。更に尻尾は細かな蜂と蠍の針がびっしりと生えているではないか。
この世に存在する訳がない、常人が見ただけで正気を失いかねない冒涜の獣だが、ただ一点だけ例外がある。
蛇の頭頂から生えている男が求める理想像の様な女、リリーの上半身だけが唯一悍ましさとは無縁だ。
「ひいっ⁉」
(に、人間じゃない!)
「あ、ああああ⁉」
(これがスキル⁉ こんなものが⁉)
背信者の二人が正気を失いかけていたが、それは外見に怯えているのではない。
ある程度の練度がある故に、この冒涜の獣を作り出すのにスキルが軽く五十以上は必要で、しかもそれら全てに達人級の技量が求められると理解してしまったのだ。
その心の隙間は致命的だった。
一瞬だけ冒涜の獣の赤い瞳が輝くと、背信者の精神は奈落の闇に囚われガクリと膝を折って倒れ伏した。
「おおおおおおお!」
「あああああああああ!」
残ったナタンと側近は、とにかくがむしゃらにスキルを起動させて冒涜の獣を殺そうとした。
だが今回、リリーが真っ先に女を排除したということは……。
周囲に甘い香りが漂う。
張りぼてに注意が向いた瞬間、木の傍から蛇の頭頂にいる偽物ではなく本物のリリーが現れ、二人の背信者の背後を取ると耳元に口を寄せた。
最大稼働の必殺でありながら単なる手段の一つでしかない。
【傾城】発動。
「死んでください」
リリーの声がナタンと側近に吹き込まれる。
市街地のど真ん中で貝を始末した時の比ではない。周囲を巻き込む心配のない森で、最大稼働している【傾城】の声が不意打ちとして解き放たれたのだ。
天上で神の傍にいるような至福を味わった二人の男は、スキルの攻撃を自身の頭部に向け、命じられた通りに死んだ。
まさしく闇の女王が。
男にとっての天敵が屍を見下ろす。
これに甘えられ、理性を保っているどころか普段通りの男がいると知ったなら、背信者は何を思っただろうか?
そんなもしもの話はいいだろう。その男、ジェイクを殺す為の背信者達は、彼に届く前に闇の短刀で屠られた。
歴史においてサンストーン王国第三王妃リリーはほぼ語られず、名前が出てくることもほぼなかった。
究極到達点に至りながら歴史の闇に消え去ったのだ。どのような技量だったのか。どのような戦い方だったのか。どのような強さだったのか。それら全てが伝わらなかったどころか、そもそも第三とは言え王妃が戦うことなど想像もされなかった。
戦闘者にとってある意味最も凄まじい偉業であり、偉大と表現するに相応しいだろう。
パール王国の心臓へ短刀を突き刺しながら、歴史の闇に消えた男と同じように。