ポポとやきそば
茹だるような暑さがなくなり、日暮れが早まった秋。道路の両端に生える街路樹は緑を失い、ほとんどが褐色に染まっている。頬を撫でる向かい風がひんやりとしていて、身を縮めながらジャンバーの襟に顔を埋めた。
背後から走ってくる足音が聞こえ、近づいてきたと思うと勢いよく背中に突進されてよろける。振り返ると、向井が子供のような悪戯っぽい顔で笑っていた。だがすぐに何か悪いことを思い出したように顔を歪める。
「英単語のテスト勉強すんの忘れてた。ああマジかあ。さすがに今回も赤点だったら説教される。芦川、英単語帳持って来た? 貸して。今覚える」
よく喋る向井にリュックサックから英単語帳を出して渡すと、彼は声に出しながら覚えていった。元々頭が良い方ではない向井は、学年でも後ろから数えた方が早い。僕はちゃんと勉強をする方なので理解はできないが、自分より出来ない人といる時の優越感はあった。
向井は学校に着くまで英単語帳と睨めっこをしており、生徒玄関の前にジャージ姿で仁王立ちしている体育教師に「ちゃんとワイシャツしまえ」と、朝から絡まれやっと顔を上げた。厳しく典型的な昭和の教師だが、なぜか向井のことはお気に入りで、廊下ですれ違う度に子供っぽいちょっかいを掛けていた。向井もそれに乗って、二人でいつも小学生のようなやり取りをしているのだった。それを見て「馬鹿だな」と思う僕は性格が悪いのだろうが、昔からそうだからもう慣れている。
体育教師と話している向井を置いて先に二階の教室へと行く。後ろの扉を開けると先に来ていたバス通学の人達が一斉にこちらを向いた。この瞬間がいつも苦手で、俯きがちに自分の席に歩いて行った。廊下側の前から三番目で後ろから四番目。列の一番後ろの席は今日も空席だった。
窓側で自分の席ではない机に座って取り巻きと話している立川を一瞥し、すぐに鞄から小説を出して読み始める。向井は別のクラスのため、このクラスでは僕は友達といえる存在はおらず、いつも本を読んでは耳に入ってくる立川のうるさい話し声に苛立っていた。
中学生にもなってろくに勉強もせず、小さい脳のままガキ大将のような弱い者いじめをしているのは見るに堪えない。将来父親になったとしても、絶対にあんな風に人間に進化したばかりの猿みたいな子供には育てないと決めている。それくらい立川が嫌いだった。
ショートホームルーム開始のチャイムが鳴り、数秒遅れて担任が教室に入ってきて教壇の後ろに立つ。四十代後半のメガネをかけた細身の男で、偉そうに教壇の両端に手をやり大きな声で「おはようございます」と言った。皆が声を揃えてオウム返しをすると、担任が天井を見上げて「暗くないか」と言って電気のスイッチを入れたため、明るさに慣れていない目の奥が痛む。まだ八時すぎなのに窓の外は暗く、どんよりとしていた。傘持ってきてないのにな、と思いながら一日の流れを説明する担任の話に耳を傾けたが、その回りくどさに聞くのをやめた。
「今日は金曜日だから頑張ろう。明日から三連休だぞ」
そういえばそうだった。学校に来なくて良いのかと思うと少しだけ心が躍り、頭の中で色々な妄想をする。今日は帰ったら図書館に行って本を借りて、土曜に一気読みして、日曜は絵を描こう。休みの前は必ずするが、それが計画通りに行ったことは覚えている限りない。いざ自由になると面倒になったり、母親からお遣いを頼まれたりと想定外の出来事も起こるからで、休みが終わってからしとけば良かったと後悔する毎回の月曜日。
読書時間が終わり、小説を閉じる。表紙には「那珂川 瑞穂」と書かれており、今一番好きな作家だが、一般的にはあまり認知されていないマイナーな作家である。これを図書館から掘り出した僕は天才だと思う。
一時間目が始まって終わり、と何も感じることなく事務的にこなしていると、もう放課後がきていた。鞄を机の上に置いて教科書を詰める。置き勉はしちゃだめと言う割に教科書の量が多く鞄に入らなかったり重かったりする。置き勉禁止の発案者はきっと馬鹿だ。
皆が友達同士と話ながら帰っていく中で、リュックサックを背負って椅子をしまったところで担任に「芦川」と声を掛けられ、なんだよ、と思いながらも近づく。担任は教卓の上のプリントをまとめて揃え、僕に渡した。
「芦川は木瀬の向かいに住んでるだろ、届けてくれ。あとついでに『みんな待ってるよ』とも言えるか」
「……わかりました」
「よし、三連休は楽しめよ」
僕は頷いて教室を出て行き、手に持つホチキス止めされた数枚のプリントを捲った。先週から今日までのプリントで、隙間に入っていた小さな紙がひらりと床に落ちる。メッセージカードのようなものを拾い上げると、電話番号とともに「ひとりじゃない」と書かれていた。
木瀬は僕のクラスの不登校児だ。木瀬灯里。中学に入ってから引っ越してきたが、一度も登校してきたことがないため、皆は顔も知らないだろう。だが木瀬が引っ越してきたのは僕の向かいの家なので、僕だけは木瀬の顔を知っていた。華奢で色が白く、ショートボブの髪の片方を耳にかけており、切れ長の目は平行二重だった。一般的に可愛いのかわからないが、僕は可愛いと思った。だが話したことはないので、なんて話したらいいのかわからず帰りながらずっと考えていた。「こんにちは、初めまして。芦川です」はなんかよそよそしいし、「久しぶりだね、元気にしてた?」は僕のキャラじゃない。
木瀬の家の扉の前まで来て考えをまとめ、インターホンを鳴らす。すぐに「はあい」と出た母親らしき声に、
「こんにちは、芦川です。プリント届けに来ました」と言うと、「ちょっと待っててね」と返されすぐに足音ともに扉が開いた。扉の隙間から顔を出したロングヘアの四十代くらいの女性は僕の手のプリントを見て、「届けに来てくれたの、ありがとうね」と愛想良く言った。
「あと……」
なんて言ったらいいのかわからず口篭ると、母親はそんな様子を察してか中に入るように促した。迷ったが断るわけにも行かず足を踏み入れると、ほんのりと漂ってきたローズの香りが心地よく鼻孔をくすぐった。
「お邪魔します」
母親にリビングのソファーで待っているように言われ、大人しく白いソファーに腰かけた。部屋の中はあの母親の趣味なのかすべてがアンティーク調で、どこからか紅茶のような良い匂いがしてくる。落ち着きなく周囲を見渡していると、優雅に床を歩いていた犬と目が合った。茶色のヨークシャーテリア。赤い首輪を付けており、僕を見るなり駆け寄ってきて、熱心に足の臭いを嗅がれる。僕の家にもチワワがいるから、犬の臭いがするのだろうか。おいで、と手を出すと、犬は恐る恐る手の臭いを嗅いでから頭を撫でるのを許してくれた。買いたての毛布のように柔らかく、すぐに虜になり家でするようにその犬と戯れていると、いつの間にか傍に立っていた母親に「犬好きなの?」と声を掛けられた。体勢を直しながら頷くと、リビングの入口から木瀬が顔を出した。
「じゃあ紅茶淹れるから、ゆっくりしなさい」
母親が木瀬の背中を優しく押してソファーに座るように促し、警戒している木瀬はさっきの犬と同じように恐る恐る僕の向かいのソファーに座った。紺のジーンズに白いシャツ、その上から薄紅色のジップアップパーカーを着ており、僕を拒否するように目が伏せられていた。強引に連れて来られたのだろうと思い、同情する。
僕はプリントを木瀬に渡し、さっき担任から言われたことをそのまま伝えた。「みんな待ってるよ」
本当は誰も待っていないし、存在さえも忘れている。
そもそも来たくないと行っている人に何を言っても無駄な気がするし、意味がないと思って来ていないのだったらその意見を尊重した方がいい気もした。だがそんなことを伝える勇気はないし、第一初めて顔を合わせたクラスメートから熱弁をふるわれたら怖いだろう。
「……ありがとう」
木瀬は遠慮がちに上目遣いで僕を見た。目が合い、僕の方がすぐに逸らす。動揺を隠すように唇を舐めた。
さっきの犬が木瀬の膝の上に飛び乗り、猫のように丸くなって座る。それを少しだけ微笑んで見下ろしている木瀬の顔を上目で盗み見て、目が合いそうになったためすっと逸らした。その先に湯気の立つティーカップを二つプレートに乗せた母親がいて、それを僕達の間にあるテーブルに置き、ティーカップを僕と木瀬の前に置いた。その所作が綺麗で、育ちが良いのだろうと思った。
アンティークなティーカップには薄茶のお茶の上に輪切りのレモンが浮いており、上がってくる湯気からは柑橘系の良い香りがする。口をつけると甘さが初めに流れ込んできて、次にレモンの酸っぱさが口を満たした。
「美味しいです」
僕がそう伝えると、母親は嬉しそうに笑った。年を取ってはいるが、顔立ちは整っているように見えるため、きっと若い頃は美人だったのだろうと思う。
紅茶を飲み干し、腕時計を見ると午後五時半だった。もう一時間ほどこの家にいることに気付き、「ごちそうさまでした」と言って席を立ち、僕を見上げる木瀬に会釈をした。玄関先まで来てくれた母親に礼を言うと、母親は僕に身を傾け、小声で囁いた。
「また来て。芦川くんが来てくれたら、灯里も学校に行きたくなるかもしれないから」
この人は木瀬を学校に行かせたいのだろうなと思った。木瀬が行きたくないと言っているから無理には言えないけれど、機会があれば行かせたいのだろうと。
僕は返事をし、一礼してから家の外へと出る。
遠くの空が青紫色に染まり、風がひんやりと冷たい。
もうすぐ冬が訪れようとしている、そんな気がした。
どうしてこうなったのだろう。
この間行ったばかりのアンティークなリビングのソファーで、クラスの優等生の茅原彩音が向かいのソファーに座る木瀬に前屈みで積極的に訴えかけている。
「灯里ちゃん、皆待ってるんだよ。学校は楽しい場所なんだから、来た方がいいよ。勉強だって追いつかなくなるし、家にいても楽しくないでしょう」
茅原は典型的な模範生だった。成績も良く、友人関係も良く、クラスの中心人物。そんな茅原に説得され続け、木瀬は両手を強く結んで強い拒絶を示していた。
今日の放課後、担任にまたプリントを届けるように言われ受け取った際に、偶然聞いていたのか茅原が「私も行きたい」と言ったことで二人で行くことになった。茅原は馴染めていない生徒に積極的に話しかけたりするお節介な性格のため、時々友達に「灯里ちゃん来ないかなあ」などと漏らしていた。それが純粋な心配の気持ちなのか否かなのかは知らない。
自分の気持ちを受け入れてくれない木瀬に、茅原はさらに熱心に学校の素晴らしさを伝え続ける。キッチンに立ちこちらの様子を伺っている母親も頷いており、この場には僕以外木瀬の味方はいない。
学校はこんな苦痛を与えてまで行く必要がある素晴らしいものなのだろうか。力に自信のある者が弱者をいじめているのを見ても、同じ言葉を言えるのか。良い面しか見ていないから自分の価値観を押し付けられるのだ。
「だから、来て欲しいな」
茅原は木瀬の手を取り、優しく言った。その間も木瀬の目は伏せられていて、一切目を合わせる気配はない。
「じゃあ、失礼します。ありがとうございました」
茅原が母親に丁寧に頭を下げると、母親はすっかり茅原が気に入ったようで菓子折りを持たせ、家を出る直前までずっと「ありがとうね」と繰り返していた。
外に出ると、茅原は長い息を吐きすっきりしたように笑った。胸下ほどの長い髪と前髪が内側に巻かれており、顔立ちも愛嬌のある顔をしていたが目を合わせても何も感じない。魅力がないのだろうか。
「灯里ちゃん、明日来るかなあ」
女の子っぽい高い声で茅原は言う。そういえば向井が勝手に作ったクラスの可愛い子トップファイブで、茅原が三位くらいだった。理由は見た目と、声。確かに男に好かれそうな声だと思った。
きっと来ないだろうなと思ったが、翌日学校へ行くと空席のはずの席に木瀬が座っていた。その周りを茅原のグループが囲んで話をしており、それを皆が微妙な顔で見つめている。いつも大声で話している立川でさえ黙ってその様子を眺めており、その静かさを異様に思った。
きっと来ないだろうなと思ったが、翌日学校へ行くと空席のはずの席に木瀬が座っていた。その周りを茅原のグループが囲んで話をしており、それを皆が微妙な顔で見つめている。いつも大声で話している立川でさえ黙ってその様子を眺めており、その静かさを異様に思った。
ショートホームルーム開始まであと十五分に迫った時、ふと立川が木瀬に聞こえるように言った。
「不登校ってズルいよな」
教室内がしんと静まり返り、楽しく話していた茅原達も話を止める。茅原のことだから立川に注意をするかと思ったのだが、何事もなかったかのように話を始めた。反応してもらえなかった仕返しか、立川はさらに大声で「空気が汚い。昨日まで綺麗だったのに」や茅原に向かって「不登校が伝染るぞ」など酷いことを言い続けた。立川の取り巻きが吹き出し、男子の中に忍び笑いが伝染していく。それはチャイムが鳴るまで続いた。
言い返したかったのに、拳を握ることしかできなかった。悔しくてしかたがない。僕が弱虫だから「やめろよ」の一言さえも言えないのだ。僕が言っていたらどれほど木瀬の心が救われただろうか。そう思うと、自分に対しても苛立ちが止まらなかった。
当然だが翌日から木瀬は来なくなった。邪魔者がいなくなった立川は「ずっと引きこもってりゃいいんだ」とすっきりしたように取り巻きと話していて、僕は複雑な気分で授業を終え、家へと帰った。ずっと心が晴れないから木瀬のことを考えないようにしようと思っても、家が向かいだから嫌でも考えてしまう。
木瀬は今何をしているんだろうか。悲しくて泣いているだろうか。母親に登校するよう説得されているだろうか。
自宅の玄関扉を開け、そのまま二階の自室へ行く。リュックサックを放りなげ、ベッドの上にある窓のカーテンを開けて木瀬の家を眺めた。二階のカーテンが開いており、ベッドの縁に座って本を読む木瀬が見える。やっていることが異常なのは自覚しているが、時々こうすることで木瀬の知らない一面を見ようとしていた。
木瀬について知れたことは、読書好き、犬好き、勉強もしていることだけだったが、ただ眺めているだけで満足できたため、休日はいつも窓際にいた。
木瀬が本を閉じ、ベッドに頭をつけて天井を見る。数秒間そうした後、袖で目元を拭った。泣いているのか。心配になり窓に顔を近付ける。その時、部屋の扉が叩かれ、慌てて布団の皺を直しているふりをした。瓶底メガネをかけている姉が扉の隙間から顔を出し、母親の真似をしながら言う。
「ただいまも言わないで部屋に直行して、反抗期? ってお母さんが言ってたよ」
大学生の姉はなぜかいつも家にいたし、夕方まで寝ていることが多かった。大学生は暇なのだろうか。
「用はなに」
「駅前でケーキ買ったから食べな」
「わかった」
駅前のケーキ屋はどこの店よりも美味しいので、ベッドから飛び降りて階段を駆け下りていく。階段横にあるリビングの扉を開けると、食卓テーブルの上に三人分のケーキが皿に乗って置いてあった。母親が紅茶を手にキッチンから歩いてくる。僕は椅子に座ってフォークでケーキを切って掬い上げ、口に入れる。ほんのりとした甘さと苺の香りが口の中に広がり、鼻から抜けていった。
姉が起きたばかりのような乱れた髪のまま、パジャマのズボンに片手を突っ込みながら向かいの椅子に座る。
「髪くらい梳かしなさいよ」
母が口を尖らせ、それに対し姉は何も言わずに髪ゴムで髪を結ぶ。母はそんな姉を冷たい目で見ていたが、すぐに「紅茶は?」と聞いてキッチンへ歩いていった。
「レモンティー」
姉は雑にケーキのフィルムを取り、ケーキの中心部分にフォークを差し込んで大きく掬い上げ、ブラックホールのような口の中に突っ込んだ。口端にクリームがつき、それを蛇のように出した舌で綺麗に舐めとる。姉はふと僕の視線に気付き、般若のような顔で睨んだ。
「なんだ、その目は。文句があるなら言いなさい」
「なんでもないです」
僕は姉から目を逸らし、目の前のケーキに集中する。苺が大きく真っ赤に熟しており、最後に食べるためにケーキの上から落として皿の端に置いた。
母がレモンティーを持って戻ってきて、椅子に座る。母はケーキを食べ終わり、紅茶をゆっくりと飲みながら僕に聞いた。
「学校はいい感じなの?」
言葉の中に微かな不安を感じ取り、僕は紅茶を口に流し込んでから「うん」と平気を装って明るく答える。母は僕がクラスで友達がいないことを知らないのだ。
母が少しだけ身を乗り出すように体勢を変えた。
「灯里ちゃんは来てるの?」
目を伏せ、心の内を悟られないよう努める。実親であっても皆、噂が好きなのだ。自分に一切関係のないことでも、詮索し尾鰭をつけて広める。純粋な心配ならいいが、母の言葉にはただの興味が含まれていた。
「……来てないよ」
べったりとクリームの塗られたスポンジを口に入れる。甘さがつらくなってきて、少し噛んだ後すぐに飲み込んだ。皿の上には真っ赤な苺が残っている。
「向かいの家なんだし、一緒に行こうって誘ってみたら? 本当は学校に行きたいかもしれないし」
母は上目で僕の反応を伺った。
僕は苺のヘタを指で取り、「散歩行ってくる」と言って苺を口に突っ込んだ。ソファーに座っていたチワワのポポにリードをつけると、背中に小さく「気をつけなさい」と声を掛けられたが、聞こえないふりをして元気にリードを引っ張るポポとともに玄関を飛び出た。
近くの公園まで元気なポポと走っていき、公園内のベンチに座って荒れた息を整える。運動が得意じゃないため、体力はないしすぐに息が切れるのだ。
足元に行儀よく座っているポポを抱え上げ、小さな白い塊を赤ん坊のようにあやす。目が大きく鼻は薄いピンク色でとても愛らしい顔をしている。ポポが人間だったら美少女だっただろうなと思うことが多々ある。
ポポが腕の中で手足をばたつかせて暴れ、仕方なく地面へ下ろすと、僕がリードを掴み忘れたのをいいことに急スピードを出した車のように走って行ってしまう。慌てて追いかけると、ポポは茶色の小型犬とお互いの匂いを嗅ぎあっていて、その犬の傍には木瀬が立っていた。見覚えがある犬だと思ったら、あのヨークシャーか。
木瀬は近づいてきた僕に気付き、はっとした顔でヨークシャーのリードを引っ張る。だがヨークシャーはポポと仲良く戯れるのに必死で、木瀬は諦めたようだった。
僕は「ポポ」と声を掛けるが、ポポは案の定振り向かない。無理やり離すのも嫌だったので、気まずい中でその場に立ち尽くした。木瀬に声を掛けようか迷ったが、あの学校での出来事以来話していなかったので、出かけた言葉は喉の奥に戻る。あんなに酷いことを言われても助けなかった相手となんか話したくないだろう。
黙ったまま戯れる二匹の犬を見つめていると、不意に小さく繊細な声が耳に届いた。木瀬の声だった。
「可愛いね」
あまりにも不意だったので初めは何のことかわからず固まったが、すぐにポポのことだと気付き、礼を言って控えめに上目で木瀬の顔を見る。木瀬はポポを見つめたまま穏やかな微笑みを浮かべていて、その顔の可愛さに思わず鼓動が早まった。普段は大人のような表情なのに、笑うと幼い子供のように可愛らしくなる。
少しだけ距離が近くなったような気がして、調子に乗ってヨークシャーの名前を聞くと、木瀬は恥ずかしそうに小さな声で言った。「やきそば……」
予想外すぎて吹き出して笑ってしまうと、木瀬はさらに恥ずかしそうに顔を逸らした。
「何でやきそばって名前?」
「毛色が茶色だから。小さい時につけたの」
「それならチョコとかあるのに、何でやきそば……」
「さあ。その子は名前なんていうの?」
木瀬はとぼけながらポポを見つめるので、名前を言ってやると「かわいい」と拗ねたように呟いた。
意外に面白い人だし、性格も明るい。学校に行っていたらすぐに友人ができたように思えるが、なぜ行かなくなったのだろう。犬達を眺める木瀬を見つめた。
ショートボブの髪の片側を耳に掛けており、その耳には小さな水色のストーンのスタッドピアスがついていた。校則でピアスは開けてはいけないはずだが、太陽に反射して輝いてみえる水色に目を奪われる。冷たさや大人っぽい印象を与える木瀬にとても似合っていた。
白い肌にすっと通った鼻梁は高さがあり、伏せ目がちの瞼も平行二重で目の色も薄茶に透き通っている。どこか西洋系の血が入っているのだろうか、それにしては彫りはあまり深くなく日本人に見えるし、髪色は一般的な濃茶色だ。
木瀬の目がゆっくりと移動し、僕の目とばっちり合う。すぐに逸らしたが、これじゃ見ていたことが丸わかりではないか。目が合っても微笑むくらいの余裕を持ちたいのに、どうも今の僕には厳しいみたいだ。
僕はその場にしゃがみこみ、やきそばの背中を撫でるとやきそばは気持ちよさそうに目を細め、野原に寝転がって腹を見せた。前に会った時のことを覚えてくれているのだろうか。癖毛になった柔らかい腹を撫でていると、腕の隙間からポポが無理やり顔を入れ、頭を撫でるよう要求してくる。妬いているのだ。
「動物に好かれるね」
木瀬に言われ、恥ずかしくて無愛想に返事をした。
「うん。……木瀬って家で何してる?」
唐突すぎる質問だっただろうか。だがこの機会だから僕の知らないプライベートな部分を知りたかった。
「本を読んでる」
「何のジャンル? ミステリーとか恋愛とか」
「大体はミステリーかな。でも色々読むよ」
「僕も小説はミステリーが好き。好きな小説家は?」
「那珂川瑞穂」
どくんと心臓が鳴る。驚きすぎて声が出ない。
陳腐な言葉だが木瀬に運命のようなものを感じ、心の中を埋める木瀬の面積がさらに広まった。あんなにマイナーで図書館の閉架にあるような本を好きな人が、同じクラス、同じ町のこの場所に存在している。僕はずっと那珂川瑞穂の好きな所を、同じく好きな人と語り合いたかった。それがこんなにすぐに叶うなんて。
僕は木瀬に那珂川瑞穂が好きなことを伝えると、木瀬は喜び、二人でベンチに座りながら落日するまで彼女の良いところや好きなところを語り続けた。すっかり打ち解け、遠くで沈む夕日を見ながら僕は聞いた。
「木瀬は何で学校に来なくなったの?」
薄暗い公園には遠くで鳴く鳥の声だけが響いている。
木瀬が両手を合わせ、組んだ。
「些細なことだよ。小学生の頃に仲良かったグループがあったけど、ある日突然無視されるようになって。同級生全員に無視されるから担任の教師に言ったのに、先生は何もしてくれなかったし、私自身に問題があるような言い方をした」
木瀬は目を伏せ自嘲の笑みを浮かべる。
「それから徐々に行かなくなって、家で本を読み漁ってる内に、学校は理不尽で正論なんか通じない、将来文句を言わずに一生働いてくれる駒を探しているだけだ、って気づいたの」
木瀬はまだ十四歳だ。それなのにこんなにも社会の汚い部分を知ってしまっている。それを知った上で、人生なんてそんなものだ、と諦めて生きているのだ。幼い頃から個性を育てると言いながらも、型から外れた子供は切り捨てる。担任も生徒によって態度を変えていた。
木瀬の妙に大人びている部分はこういうところからきていたのだろうか。言葉の選び方に知性を感じ、他の女子とは雰囲気が違う。他の中学生が考えないことを木瀬は深く考え、調べ尽くす。ある意味残酷な気もした。
何も言えず、腕時計を見る。午後五時半。足元でポポが飽きずにやきそばと遊んでいる。
話し尽くし、二人でぼんやりと遠くの空を見つめている内に完全に日が沈み、木瀬の顔もはっきりと見えなくなるくらいに空が黒く染まって星が散りばめられた。
僕はポポを抱き抱えてから木瀬を振り返り、言う。
「また」
照れくさくて「また話したい」なんて言えなかった。本当は明日もたくさんのことを話したかったし、木瀬のことをもっと知りたかった。だが僕は子供だった。
背を向け、胸に小さな白い塊を抱えながら歩き出す。後ろから「楽しかった」と声を掛けられ、足が止まりそうになったが、我慢して歩き続けた。
心臓が痛いほどに高鳴っている。
それをきっかけに公園で会って話すようになり、木瀬の色々なことを聞いた。家族構成、母親が木瀬をどうにかして学校に行かせようとしていること、父親は諦めて何も言わなくなったこと。木瀬が母親と学校に挟まれて苦しんでいることを知ったが、どうにもできなかった。
初めて公園で会ってから一週間後、またも担任からプリントを届けるように言われ、案の定茅原もついてきた。木瀬の家のソファーで茅原はあの日と同じように木瀬の手を取り、「灯里ちゃん久しぶり」と声をかけた。その様子を見て大丈夫だと思ったのか、木瀬の母親はスーパーに買い物に行くと言って家を出ていく。三人になったリビングで、茅原は再び熱弁をふるう。
「学校に行ったら楽しいことがいっぱいあるんだよ。立川くんのこと気にしてるんだったら、私ががっつり怒ってあげるから、また来てみようよ。今度は楽しいって思わせるように頑張るからさ。マリちゃんだってチナミちゃんだって灯里ちゃんが来るの楽しみにしてるんだよ」
「でも」意外なことに木瀬が大きな声で言った。
「この間は酷いこと言われても何もしなかったよね。できないことをできるって言わないで」
木瀬の鋭い視線が茅原を刺す。茅原は図星をつかれて何も言えず、拳を握って顔を真っ赤にした。
「ああ、そう! じゃあもう来なくていいよ。さよなら」
茅原は雑にティーカップをテーブルに置き、僕を置いて家を出る。慌てて追いかけると、茅原は玄関先で泣きながら「死ね」と何度も繰り返していた。
思った通り、茅原が木瀬に対して抱いていたのは純粋な心配ではない。不登校児を学校に来させたえらい子という肩書きが欲しかったのだろう。だから木瀬の気持ちに寄り添おうともせず、自分の価値観や理想だけを押し付けていたのだ。くだらない。
翌日から学校では茅原を中心とした木瀬の悪口大会が開かれていた。キモイだのウザイだの、いままでの茅原からは考えられないほどの悪口を言っていた。それほど木瀬に腹立っているのだろうが。
もうこのクラスに木瀬の居場所はない。来たとしてもいじめられるだろう。
そう思いながら僕は那珂川瑞穂の小説を開いた。
それから一週間後の放課後も公園で会ったのだが、ベンチに座る木瀬の顔が晴れないように見えた。木瀬は僕に気付くと微笑みを浮かべたが、その笑顔もぎこちなく、何かあったのかと心配になる。
僕は木瀬の隣に腰掛けて、関係のない話をしながらもどう切り出そうか考えていた。仲良くなったとはいえ、僕が口を出していいことかわからなかったのだ。だが理由を知るのにそう時間はかからなかった。木瀬の方から話し出したからだ。
「お母さんが、明日学校に行かないと追い出すって」
言葉を失う。木瀬の母親も追い詰められてそう言ったのだろうが、あまりにも極端すぎる。それじゃあ脅しだ。それで怖くて行ったとしても、続くとは思えない。
「だから、明日学校に行く」
「……大丈夫?」
絞り出した言葉はそれだった。頑張れという言葉は好きではなかったので、言わない。学校に行かなければ問答無用で追い出されるということだから、「無理するなよ」なんて言えなかった。木瀬に選択肢は一つしかないし、僕に口を出す権限はない。ただ応援の言葉を掛けることしかできないのだ。
木瀬は精一杯に微笑みを浮かべたが、その顔には不安や恐怖が宿っていて、時折目を伏せ小さなため息を吐いた。それを見ても何もできない僕はもどかしく、息を吐いてから勇気を出して言った。
「何か言われたら言って」
木瀬に言われたからといっても相手に殴りかかれるわけでもないし、胸倉を掴んで睨みつけられるわけでもない。だが少しなら木瀬の不安を減らせるのではないかと思ったのだ。味方がいると思うのはとても重要だから。
「ありがとう」
その言葉は心からの言葉のように思えた。
一時間ほど話した後いつも通り別れ、僕が先に帰路に着く。家は向かいだが、木瀬はいつも僕が帰った後も公園に残っていた。黄昏ているのかわからないが、その時間を邪魔したくなかったため、何も言わずに早めに帰るようにしていた。
ひんやりとした秋風で木々が揺れ、枯れた紅葉が宙を舞ってから濡れた地面へと落ちた。
翌日教室の扉を開けると、木瀬が一番後ろの席に座っていた。茅原達のグループは窓際を陣取ってコソコソと木瀬の悪口を言いながら忍び笑いをしており、登校してきた立川は木瀬を見つけると、「何か臭くね」などと遠回しに傷つけるような陰湿なことをしていた。その他の生徒は関わらないようにしている。
僕は席につき、リュックサックから小説を取り出した。栞の挟んだところから読み出したところで、「芦川ー、芦川いるー?」と聞き覚えのある声がし、顔を上げると、教室の入口から向井が顔を覗かせていた。小さく手を振ると気がついた向井が教室の中に入ってきて、僕に「国語の教科書貸してくんね?」と聞いてきた。国語は四時間目なので、僕は机の中から教科書を取り出し、「四時間目までに返せよ」と言って渡す。おちゃらけた様子で「おけまる」と言った向井は帰ろうとして、大きく鳴った物音に振り返った。立川が木瀬の机を倒したのだ。見ていたかったため何があったのかわからないが、木瀬は口を一文字に閉じて立ち尽くしている。
「お前来ると気分悪くなんだけど? ママに行けって言われたのか知らんけど、帰れよ。キモくて目障りなんだわ。お前皆から悪口言われてんの知らねえの? 女子からもキモイとか言われてんぞ。こんなこと言ったら自殺しちゃう? するんだったら今しろよ。とにかく消えろ」
立川が笑いながら木瀬の椅子も倒す。異様な雰囲気だった。皆が息を呑んで立川の様子を眺めているのだ。
あまりにも酷い悪口に僕の心臓が脈打ち、沸騰しそうなほどの怒りに拳を握った。木瀬は何も言わずに目を伏せている。
立川が木瀬の腕を掴み、窓際まで連れていく。「飛び降りろよ」と立川が窓の鍵を開けて窓を全開にして言った。普通なら泣いてしまいそうだが、木瀬はは泣きもせず平然とした顔で立っており、その様子に苛立った立川が「早くしろ」と低い声で言った。
木瀬は窓の縁に足を乗せ、背を向けて縁に座った。立川が十、九とカウントダウンをしていく。止めろ。止めろ。心が叫んでいるのに足が竦んで動かない。彼女の笑顔が浮かびあがった。五、四。考えるよりも先に足が動いていた。
残り一秒で木瀬の背を押そうとした立川を力いっぱいに押し倒し、木瀬の小さな背中を両腕でしっかりと抱きしめて教室内へと引っ張りこんだ。尻もちをついたが助けられたという安堵感で息が荒くなる。だがすぐに呆然としている立川をキッと睨み、「この世に必要ないのは、お前の方だ!」と精一杯の怒りをこめた大声で言った。立川はすぐに「なんだと」と胸ぐらを掴んできて、殴り合いの喧嘩になり、気がついた頃には何人もの先生に押さえつけられていた。
母が迎えにきて「なんでこんな…」と言い、その日は家に帰らされた。車の中で母に「なんでこんなことしたの」と聞かれたが、黙り込んで何も言わなかった。
後日立川と担任と副担任の四人で会議室に行かされ、耳鳴りが聞こえる中で担任に謝るよう促される。
「僕は間違ってないので謝りません」
僕はこんなに頑固な性格ではないが、絶対に謝りたくはなかった。殴られたとしても謝らないだろう。
立川も黙りを決め込んで謝ろうとはせず、埒が明かないため教師達が適当に話をまとめ、すべてが終わった。
それから僕は学校の問題児になり、向井以外は誰も話しかけてくることはなくなった。元々友達がいなかったので生活にあまり変わりはない。
立川はあれ以来暴れたりすることはなくなり、すっかり大人しくなった。何故かはしらない。
木瀬と関わったことで濃くなった中二が終わり、淡々とこなしている内に中三の冬になった。高校の合格が確定してから、しばらく会っていなかった木瀬の家を訪ねた。勉強が忙しく会うのは二ヶ月ぶりだった。出てきた木瀬の顔を見て、心が安心したように暖かくなる。
「久しぶり、散歩でも行こう」
木瀬の髪が肩にかかるほどに伸びている。前とは印象が違ったが、それでも可愛かった。
木瀬はやきそばを連れて出てきて、二人で寒空の下を並んで話をしながら散歩する。
木瀬はあれから学校に来なくなったが、来年は通信制の高校に通うのだという。家では資格の勉強をしていて、高校に入ったらアルバイトもしてみたいと言った。
僕も高校に合格したことを言うと、木瀬は自分のことのように喜んでくれた。
行き慣れた公園に入っていく。木々は紅葉が落ちて裸で、ブランコは乗れないようにされていた。
ベンチに座ると木瀬が隣に座る。緊張しながら手を擦り合わせ、息を吐く。木瀬の髪が風に揺れた。
「僕は__」
絞り出した言葉は、冬風に乗って空へと消える。
中三の冬が終わりを告げようとしていた。