9.クリフォードとキオネ
偶然を装っているとはいえ、初めて待ち合わせをして会話をする二人は何を話題にしていいかわからず、ただ執務室の横並びの席に腰かけて机を見つめていた。
何か話さなきゃと思えば思うほど、言葉は出ない。それは、キオネもクリフォードも同じだった。
時計の針は僅かしか動いていないのに、まるで永遠のように長く感じる。
キオネは次第に、自分といてもクリフォードは楽しくないのではないかと、気の利かない令嬢だと思われているのではないかと、不安を感じるようになり、隣に座るクリフォードへとおもむろに目線を向けた。
クリフォードも、自分から(偶然という名の)約束をしたという責任を感じており、何か会話をしなくてはと思いながらも、キオネと二人きりで会いたいという事しか考えていなかったため、会話の用意はしていなかった。鉱物の研究しかしてこなかったクリフォードに、気の利いた話題など持ち合わせている訳もなく、クリフォードはキオネの反応を伺うように視線を向けた。
二人の視線はばっちりと交差する。それなのに、お互いに顔を赤らめて俯くばかり。
「キ、キオネ嬢。業務の一環なのだが、ムーンストーンを一つ城壁に忘れてしまったらしい。一緒に取りに行ってくれないか」
クリフォードは、このままでは会話をせずにキオネが帰宅してしまうと思い立ち、取って付けたような理由をキオネへ伝えて、席を立ちあがった。
「業務ならば、致し方ありませんよね」
キオネもそれに納得するような素振りを見せて、クリフォードの差し出した手を握るのであった。
§
月のない新月の夜は、星が一段と美しく輝く。
ゆらゆらと透き通る水面が揺れて、水面に映し出されていた小さな星の粒たちが、ミルクをいれた瞬間の紅茶のように混ざり合う。
昼間の騒めいていた研究室が嘘のように、静まり返り、二人の耳には足音だけが響いた。
城壁には、水面の監視用に設置している石でできた椅子がある。
クリフォードはさも当たり前かのように、内胸ポケットから白いハンカチーフを取り出し椅子にそれを敷く。キオネは誘導されるがまま、その美しい絹のハンカチーフに腰を掛けた。
クリフォードは、恥ずかしそうに水面の方に視線を向ける。
キオネはそんな暗闇に栄えるクリフォードの横顔を見つめた。
二人にとって、それはうっとりするような、甘く幸福な時間だった。
「クリフォード様」
先に切り出したのはキオネだった。
「私、助手をできて幸せでしたわ。こんな幸福を、人生で経験できると思っていませんでした。お誘い下さりありがとうございました」
本当は、満月の夜に伝えようと思っていたことなのに、つい口から出てしまう。キオネは、まだ満月の日まで時間があることを思い出し、少しバツが悪そうに口に手を当てて、クリフォードの返事を待たずに口を噤んだ。
「それではまるで、もう会えないような言葉だな」
クリフォードは、水面にやっていた瞳をキオネへ向けて、暗闇のかかるキオネの表情を心配そうに見つめた。
「…私の贈り物、ガーネットに込めた思いは、真意だ。本当は、キオネ嬢のお考えを伺いたかったのだが」
柔らかな羽で包むようなクリフォードの優しい微笑みに、キオネは泣きだしたいような、縋ってしまいたいような気持ちになった。
「っ…」
「言い辛いこともあるだろうが、私はキオネ嬢の気持ちを知りたい」
誰にも見えないように、お互いの小指だけ軽く触れ合う。
それでも、キオネには十分だった。
「…わ、私も、クリフォード様をもっと知りたい。クリフォード様のお心に応えたい。でも、私は一人の女性である前に、フォレット公爵家の娘としての役目がございます。私個人のわがままで、心の向くままクリフォード様と共に過ごすことはできないのです」
胸に留めていた、キオネ個人の感情が、決壊したかのように溢れる。
キオネは、口に出してようやく自分がクリフォードに抱いている感情がどんな種類のものだったのかを理解した。それと同時に、本来ならば伝えてはいけない言葉を口に出してしまった後悔と、クリフォードへの思いが結ばれることはないという事を理解し、悲しさで小さな涙が零れた。
クリフォードは、思わずキオネの涙を指で掬い上げる。指に付いた雫は、星が零れたように煌き輝いた。
「…それで?」
熱のこもったクリフォードの瞳に、キオネが映り込む。キオネは慌てて視線を逸らした。
「他は、何も…」
「くくっ…アニーから聞いたぞ、キオネ嬢の癖。まだ何かあるのだろう」
「なっ…」
クリフォードの意地悪そうな視線に、キオネの心臓は抑えきれないほど高鳴った。もうこれは隠せないと観念したように、キオネはぐっと強張り、反らしていた視線を再度クリフォードへと向けた。
「わかりましたわ。不躾かもしれませんが、腹を割って話します。他言無用でお願い申し上げます…」
クリフォードはもちろんと、二つ返事で頷いた。
キオネは、自分の生い立ち、フォレット公爵と交わした約束、クリフォードに心惹かれていること、そして、アニーから聞いた疑惑等のすべての事を吐露した。
不思議なことに誰にも今まで伝えてこなかった自分の感情を、言葉にすることで気持ちが軽くなる。抱え込んだままの状態よりも、よっぽど素直に自分の気持ちを認めることができた。
クリフォードは、キオネのエピソード一つひとつに共感し、キオネの気持ちを表すかのように、時折心配したり、笑ったりと、相槌を打って聞いていた。
そしてすべてを話終えるころ、クリフォードは何かを考えこむように腕組をし、右下へと視線を寄せて言葉を紡いだ。
「キオネ嬢は、その、御父上がご納得するならば私と結ばれたいという思いで間違いないのだろうか…?」
「もちろんですわ」
「苦労するかもしれないが、それでも良いのか…?」
「私の生まれた役割は、フォレット公爵家の役に立つこと。それを果たしたうえで、クリフォード様と一緒にいられるのは、どのような状況であれ私の本望ですわ」
クリフォードは思案する為に組んでいた腕を直して、咳払いをすると、であれば…と言葉を続けた。
「それは私が何とかしよう。私もキオネ嬢といられるのであれば本望だ」
あまりの呆気の無い返事に、キオネは拍子を付かれ思わず声を上げる。
思いが通じ合っていたことの喜びよりも、何ともできないと諦めていた事をさらりと出来ると言い切った事に対しての、信じられない気持ちの方が勝っていたからだ。
そして、キオネは昼間アニーと会話した“謎の人物との物々交換”の話を思い出し、高揚した気持ちが一転、サッと氷のように冷たい汗をかいた。何か悪事に手を染めるのではないかという疑惑が脳裏を掠めたのだ。
「待ってくださいませ、何とかするなんて!それは…アニーが言っていた悪事に関連があるのでしょうか…、国の為にならない事は応援できませんわ!」
だとするならば、クリフォードを全うな道に戻さなくては、とキオネは慌ててクリフォードの手をぎゅっと掴む。
クリフォードは、キオネの言葉に首を傾げて、少しして何かに気が付いたのか、大きな笑い声をあげた。
「ふ、ふはっ…あははは!キオネ嬢、何か勘違いをしていないか?」
「か、勘違いなんて…!」
クリフォードは、呼吸を整えて、再度いつもの笑顔を作ってキオネへと言葉を続けた。
「アニーにも説明したのだが、私は現王の勅命で他国との取引も兼務しているのだ」