5.公爵夫妻と二女
キオネが自室に戻ると、部屋では侍女が支度を整えながら待っていた。フォレット公爵の書斎へ向かった際は、散らばっていた図書も角を揃えて整理されている。
「戻ったわ…」
「お帰りなさいませ、お嬢様」
身体はちっとも動かしていないのに、何故かぐったりとしていて丸まった背筋を伸ばしても気は晴れない。きっと苦手な存在に、主張して気疲れしたのだろう。
下弦の月夜に出会った彼の言葉がなかったら、おそらくキオネは父親と向かい合う事などなかっただろう。特にキオネにとって父親のフォレット公爵は畏怖の対象である。フォレット公爵とは違う意見を主張し、受け入れられるということは、キオネにとって背伸びをしても届かないはずの出来事だった。
瞳を閉じて、子供の頃を思い出す。
キオネは、初めて手にした小さな勝利を改めて噛み締めた。
§
キオネが出ていった扉が閉まると、執事が白い手袋をパタパタと合わせて小さく拍手をし、嬉しそうにフォレット公爵の背後に回った。
「お嬢様は、成長されましたね…」
フォレット公爵は、執事の言葉にふんと鼻を鳴らす。
「あれのどこが成長だ、まったく教育が生きてないではないか」
「とは仰いましても、ご許可なされたじゃあないですか」
執事は拗ねたような表情のフォレット公爵へと、一ミリも崩れない笑みを向けた。フォレット公爵はちっとも書き進められていなかった洋紙を横へ追いやり、羽ペンを下ろす。
「…あれには悪いことをした。したいというなら、希望はできるだけ叶えてやりたい」
フォレット公爵は、そう伝えると何かを思案するように目を閉じた。
シャノンの婚約を決めた頃、キオネはまだフォレット公爵夫人の腹の中にいた。
公爵夫妻が大切な第一子の婚約者をすぐに決めた理由はいくつかある。その中でも特に、相手が第一王子だったことと、もう一人まだ見ぬ子供がいたことが大きな理由だった。
生まれてきたキオネは、公爵夫人とも、シャノンとも異なる錆色の女児。似ても似つかぬその姿に、公爵閣下は第一に夫人の不貞を疑った。もちろん違うのだが、熱りが冷めるまで、フォレット公爵は夫人を別邸へと追いやった。
フォレット公爵は躍起になって、公爵家の子供なら容姿は似ていなくても出来はいいはずだと、普通なら七つの子供に付けるような厳しい家庭教師を、まだ足元も覚束ないキオネへ用意した。キオネは部屋に閉じこもって毎日代わる代わる厳しい家庭教師から指南を受けた。
フォレット公爵は一度たりとも様子を見ることはなく、家庭教師や侍女からキオネの仕上がりを聞いては失敗作だと称した。
姉のシャノンは、閉じこもった妹の様子を見に行くことは許されておらず。キオネが休みの日や、体調を崩した日にのみ姉妹の関係を楽しんだ。キオネにとってそれは唯一の楽しみだった。
しばらくして夫人の遠縁に赤褐色の者が見つかると、夫人は本邸に戻された。
夫人は、身の潔白が証明されたことに喜んだ。しかし、不貞を疑われる原因となったキオネの事は中々愛することができなかった。さらに言えば、嫡子として育てられたキオネは死んだ魚のような目をしており、事情をしらない夫人は令嬢教育が行き届いていないと憤慨してしまう。
キオネが六つになる頃には、令嬢教育と嫡子教育の二つの方針が争うように厳しくされ、キオネは次第に“求められる自分の役割”に固執し、それを希望とするようになった。
そうして十歳になる頃、キオネの役割は男児の誕生と共に無くなってしまう。
ずっと厳しい教育だけを受けてきたキオネは、突然、ただの公爵令嬢としての役割しかなくなってしまったことに狼狽し、自分を模る要素や価値は、一瞬で崩れる砂の城のようなものだと思うようになった。
嫡子でなくなったただの公爵令嬢のキオネには、たくさんの縁談が届いた。その中には、家柄もよく、フォレット公爵家の力をより盤石にできるような、名家の息子もいた。
しかし、希望を見失ったキオネはどの面談に行っても、ボロボロと泣き崩れて帰ってしまう事から“姉とは大違いのできの悪い妹”と呼ばれるようになってしまう。
シャノンと寄り添い合い穏やかな生活を送ることで、数年かけて平常な心で両親と話せるようになったキオネだったが、縁談だけは過去の失態からまともなものが来なくなってしまっていた。
キオネにとって子供の時の十年は、深すぎる闇夜に巻き込まれたような、灯の無いトンネルを強制的に走らされているような年月だった。
だからこそ。
キオネにとっても、フォレット公爵にとっても、今日の出来事は奇跡のような出来事だったのだ。
§
キオネは、思い返したように部屋に置いてある便箋を取り出した。
「そうだわ!早く、クリフォード様にお伝えしなくては…」
クリフォードがこの手紙を受け取った時の表情を想像して、キオネは踊るように羽ペンを走らせる。サラサラとした音がキオネの部屋に響いて、便箋に心の声をしたためるたびに、キオネのやわらかく傷つきやすい心は、小さな幸せを感じた。
クリフォードへの手紙を書き終えた後、キオネはもう一組の便箋を取り出して大切な姉へ王立研究所で助手をすることになった旨と、父との約束を書き記した。
驚きつつも優しく受け入れてくれる姉を想像して、キオネはふっと笑みをこぼす。
「ロゼ、こちらの便箋をなるべく早く届けたいの」
「かしこまりました」
侍女は、キオネが大事そうに抱える便箋を、丁寧に受け取った。