1.姉と妹
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キオネ・フォレットは憤慨していた。
湖畔に浮かぶゴシック様式の美しい城には似つかわしくない、荒々しい足取りで湖畔と対岸が見渡せる廊下を歩く。
(お姉さまったら、いつになったら自覚してくださるのかしら)
キオネの背後には、フォレット家の侍女数人が手一杯の荷物を持って付いて歩く。その荷物は、先週王太子妃になった姉シャノンの物だった。
キオネは公爵家の二女である。
フォレット家には三人の子供がおり、長女のシャノンは穏やかで慎ましく豊満な女性で、第一王子と年齢も近かったことからの幼い頃より婚約者として育てられていた。弟のエディはまだ幼く、キオネが十歳になる頃に誕生した嫡男であった。
「キオネ様、シャノン様のご寝室は突き当りにございます」
フォレット家から連れていったシャノン付きの侍女が、先導するように城内を案内する。
「突然来訪したにも関わらず、ここまで案内下さり感謝を申し上げますわ。お姉さまからの依頼を済ませたら直ぐに出ていくから心配しないで」
キオネはもう会う事はないのではないかと思っていた侍女へ礼をしてから、シャノンの寝室の戸を叩いた。
「お姉さま、ご依頼いただいていた品物をお持ちしましたわ。ご準備が宜しければ開けてくださいませ」
対岸の草木や、水面の揺れている音が聞こえる。
風がやむと廊下にはキオネの高い声と、戸のかつんとした音だけが響いた。
「…お姉さま?」
訝しげに再度呼びかけをするが、返事はない。
どうやら姉は自分を呼び出したことを忘れているなとキオネは思い、肩を下ろした。
「お姉さまの天然さも困ったものだわ。王太子妃なんてやっていけるのかしら…」
キオネにとってシャノンは常に世話を焼いていないといけない女性だった。
美しく優しく穏やかなシャノンは、一つだけ欠点があったのだ。それは、物忘れが激しいというところである。といっても、この物忘れ…人や学問やマナーは当てはまらず、むしろ学園の教諭や、両親、王室の方からは完璧な淑女と名高かった。
そう、迷惑を掛けられるのは常にキオネただ一人なのだ。忘れ物をしたり、迷子になったり、贈り物をするときに変わった物を選んだりする姉に、いつも振り回されている妹。それがキオネの役割だった。
「御待たせしてごめんなさいね」
扉がゆっくりと開くと、そこには金色の絹糸のような滑らかな髪と、若草色の宝石のような瞳を覗かせたシャノンの姿があった。
姉の容姿は息を呑むほど美しい。一方で、自分は赤褐色の髪と瞳。
キオネは、シャノンの容姿を見る度に同じ両親から生まれた存在と思えない気持ちになっていた。
「キオネ…その表情、もしかして怒っているのかしら…」
シャノンは扉を盾に、照れたように白い肌を赤らめながら、上目遣いでキオネを見つめた。
キオネは、シャノンの姿に面食らいながらも、ぐっと心を鬼にして、扉からシャノンを引っぺがす。
「ここではお姉さまに荷物を渡せませんわ。怒っているか否かの確認は後にして下さいませ」
「キ、キオネ、絶対怒っているわ」
シャノンは若草色の瞳を揺らした。
「怒っていません」
キオネがぴしゃりと言うと、シャノンは生まれたての小鹿のように震えながら、導かれるようにソファへ腰かけた。
シャノン付きの侍女は、腰かけるシャノンのスカートを整えると、キオネへと向き直った。
「キオネお嬢様、お久しゅうございます。お嬢様がお好きでした紅茶を用意しておりますわ」
キオネはテーブルに用意されたティーカップを見て、仕方なしに席へ着く。
シャノンの召し物やテーブルの様子を見ると、どうやらキオネが来ることを想定して準備したようだった。
「…お姉さま、あまり言いたくはありませんが、私はもうお姉さまのサポートはできませんのよ。今回のお忘れ物は、重要なものではなかったかと思います。ですが、重要なのは物を忘れたという行為。その行為自体が王太子妃としては有るまじき姿ですわ…」
背後で侍女たちがせっせと荷物を片付けている最中、キオネは神妙な面持ちで言葉を継げる。シャノンは、そんなキオネの様子を愛おしそうに見つめながら、花のような笑顔を向けた。
「お姉さま、聞いていますの?」
「ふふ…聞いているわ。とても嬉しくて…キオネにまた会えてとても嬉しいの、忘れ物を届けていただいたのに不謹慎かもしれないけれど、妹離れができていないのね」
シャノンの和やかな雰囲気に、キオネは落胆するようにため息をついた。
「お姉さま、それは聞いていないのと同じですわ」
「あら、そうかしら?」
「もう、いいですわ。私もお姉さまの様子が気になっていましたし」
通常、忘れ物など侍女に持っていかせ、従者に渡せばいい。キオネのような令嬢が届けに行く必要などないのだ。しかし、キオネは家から嫁いで出ていってしまったシャノンを心配し、一目でも見ようと無理を言って侍女に同行した。
(姉離れできていないのは、私の方ね)
キオネは侍女が入れてくれた紅茶を啜り、一息ついた。
「お父様も、お母さまも、エディも、お姉さまの様子を伝えたら喜びますわ」
蝶よ花よと育てたお気に入りのシャノンが嫁いだ時、キオネの家族は、王太子妃誕生の喜びと、愛娘の巣立ちに相反する気持ちを抱いて、それは大変な騒ぎだった。
キオネに至っては、もちろん寂しかったが、シャノンの様子を知っているからこそ心配の方が勝っていたが。
キオネは家族の事を思い出し、笑みをこぼす。
「お父様たちと、うまくやっているのね」
シャノンは、ティーカップに沿えていた細い指をゆっくりとキオネの頬にあて、なぞった。
「キオネ、フォレット家が嫌になったらすぐに姉さんに言うのよ、私はいつまでも貴方の姉なのだから」
慈しむようにシャノンは微笑むと、キオネは美しい姉から目を反らした。
ずっと前の話だが、エディが誕生する前は、キオネがフォレット家を継ぐ予定だった。しかし、フォレット家念願の男児が生まれ、キオネの役目は白紙に。当時、公爵家の跡継ぎとして育てられた十歳の少女キオネにとって、それは自分の存在価値を否定されるような出来事のように感じていた。
今ではキオネも両親と和解し、エディのことも可愛いと思えるようになったが、当時はすべてが憎らしく、何をやっても投げやりになっていた。
そんな時、ずっとそばにいてくれたのはシャノンだった。
「いつも心配の種だったお姉さまがそんなことを言うなんて。大丈夫よ、私ももう淑女だわ。お姉さまがいなくても、一人でやっていける」
キオネは、シャノンを心配させない様、精一杯の強がりで満面の笑みを向けた。
しばらく、姉妹は二人の会話を楽しんだ。この機会を逃したら、次に姉妹で会話ができるのは随分先だろうと考えていたのだ。
そうして陽が水面に沈む頃、シャノン付きの侍女が、シャノンへと耳打ちをした。
「…あら、そうだわ。ごめんなさい。今日は、殿下と予定があったの」
シャノンは、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ふふ、お忘れにならなくてよかったわ。私たちはこのまま帰宅するので、お見送りは不要よ」
キオネはシャノンの手を握り、自分の胸へあてがった。
「お姉さまが、今後一生幸せであるよう、祈っておりますわ」
大好きで、大切な姉が、殿下と幸せになりますように。と神に祈りを捧げ、キオネは準備の邪魔にならない様、そそくさと部屋を退室した。
水面に映る姿が大変美しいといわれている城の、最も美しい時期は夜である。水面に星空が映し出され、月明かりに照らされたバルコニーは、フォレット家の屋敷とは比にならないほど圧巻であった。
城の正門を抜けて、敷地内を馬車で走ると、協会や研究所、庭園、図書館、船着き場などの施設が並ぶ。湖畔にある水門を抜けると広い運河に繋がっており、来賓が船で訪れることもあるようだった。
キオネは来た時とは打って変わり、ゆっくりとした足取りで正門へ向かっていた。もちろん、荷を持っていた侍女もあとを静々と歩く。
すっかりと陽も暮れて、水面には一番星が輝いていた。
(来るときは急いでいたからわからなかったけれど、お姉さまのいらっしゃるところは、世界が違うのね)
キオネは姉の世界を目に焼き付けようと、周辺に侍女以外いない事をいい事に、ちらちらと目を泳がせた。姉の嫁ぎ先とはいえ、王室である。あまり失礼があってはいけないとキオネも気を張っていたが、美しい光景につい歩みを止めてしまう。
しかし、侍女も止めることなく、キオネに合わせて歩みを止めた。
「素敵なお城ね…お姉さまはこんなところで暮らすのね」
独り言のように呟くと、侍女の一人がキオネに声を掛けた。
「キオネお嬢様、実はシャノン様より言伝がございます」
「何かしら?」
「はい。今日の事は旦那様に伝えてあると。また、殿下にもお伝えいただいており、城内を散策しても問題ないとのことでした。せっかくですから、バルコニーに出てみませんか」
侍女の提案に、キオネは張っていた気を緩めた。美しい景色や、城を見て回りたい妹の気を察して、事前に根回ししている姉の周到さにももちろん感謝したが。
キオネは早速、廊下から外に繋がるバルコニーに足を踏み入れて、景色を見まわした。
カルガモの親子が、水面を優雅に泳いでいる。下弦の月明りが対岸の花を照らし、白い花びらが浮き出ているように見えた。
「美しいわ…」
「お嬢様、我々は背後で控えておりますね。何かありましたらお声がけくださいませ」
侍女は礼をすると廊下に戻り、言葉の通り待機した。
キオネはそれを見届けると、一人静かに水面に映る世界を楽しんだ。