イブカの子孫
今のところ、『イブカ』の個体は1匹しかいない。
この個体は、人類にとって貴重な唯一の海産哺乳類である。
動物が普通に子孫を作るためには、オスとメスの『つがい』が必要である。
しかし、博士たちが持つ科学技術の力があれば、1匹の個体から繁殖は可能である。
もちろん、1匹のメスからでも1匹のオスからでも繁殖は可能だ。
一方で、体細胞から配偶子を誘導することはそれなりに難しく、卵を誘導する方が精子を誘導するよりも格段に難しいのである。
受精卵の培養環境のことも考えると、メスの個体がいた方が望ましい。
体外培養よりも、胎内で正常培養させる方が安定であると言うのも理由の一つだ。
幸いなことに、オーストラリアでシンシアと地母神ガイアが協力して作製した『イブカ』は、メスの個体であった。
博士は、『イブカ』の肌から採取した繊維芽細胞から、幹細胞を経て精細胞を分化誘導させていた。そして、精子も作り出していた。
この操作は、実験室内のペトリ皿の上で行えるため、博士が分化誘導実験と培養を担当していた。
そして、これを引き継いで実験に利用するのが、ウェイの役目だ。
ウェイは海産哺乳類が専門である。
『イブカ』の飼育はまさに専門分野だ。
「Hi Wei, this is the sperm I made from ‘eveka’ somatic cells. So, please do your best, good luck! (じゃあ、ウェイくん、これをよろしくお願いね)」
博士は、実験室で培養した『イブカ』の精子を持って、『イブカ』の飼育室を訪れた。
実験室の大きな水槽では、小さくなって来たため、専用の飼育室と大きな水槽をもらったのだ。
今の博士には、研究費も権限もそれなりにある。
そして、初めての海産哺乳類を作製したということもあり、『イブカ』用に専用の飼育室と水槽を手に入れることは、容易ではあった。
「Yes, professor Hiroshi! Thanks so much! (はい。わかりました。ありがとうございます)」
ウェイは、15mLチューブを博士から受け取った。
このチューブの中に、分化誘導して精製された『イブカ』の精子が入っているのだ。
「それにしても、立派に大きくなったなぁ」
博士が見上げるほどに大きな水槽の中には、大人である博士とほぼ同じ大きさをした『イブカ』が泳いでいた。
大きな水槽の中を、『イブカ』は1匹で悠々自適に泳いでいる。
「Um, did you say anything? (ん? 何かおっしゃいました?)」
ウェイが博士の方を見た。
「Nop, I said to myself. I just think the eveka would feel lonely as she is alone in this aquarium. (いや、独り言だ。この水槽も1匹だけじゃ寂しいからなぁって、思ってな)」
「Yeah, I agree. I will do my best to produce the offsprings of her. This is my profession. (そうですね。でも、任せてくださいよ。ここは私の専門分野ですのでね)」
ウェイは、『イブカ』に対して胎内の人工授精を施し、『イブカ』を妊娠させた。
イルカは通常一度に1匹の子供しか生まない。『イブカ』もそうであろう。地道にこの人工受精を繰り返して頭数を増やしていくしかない。
いくら生殖細胞が減数分裂をしているとはいえ、ゲノム情報が非常に似通ったもの同士の交配になる。また、この技術は、自家不和合性の問題も含む。しかし、やるしかない。
そして、『イブカ』の飼育に、最大限の注意を払うだけである。
ウェイの腕の見せ所だ。
研究船パーズは、大西洋を東に向かって進行していた。次の目的地は、イギリスのリバプールである。




