久保信一とホヤ
久保信一は大城戸研究室の助教である。
大城戸研究室のポスドクから、この4月に助教になった。
海産物の研究を専門にしている。
ウニの人工合成の論文が大きな雑誌に掲載され、今はマボヤの遺伝子組み換え実験に集中している。
カリフォルニアのパトリック教授からもらったマボヤを元に、遺伝子組み替えで、他の種類のホヤを作るのだ。
元々の海には、2000種類以上のホヤが存在していた。
人工的に作ると言っても、もちろん、その一部である。
元々存在したホヤと似たホヤができれば、それだけで論文が書ける。
論文の大量生産が可能かもしれない。つまりこの研究は、論文を大量生産するための研究である。一方で、海の生物の多様性の回復にも貢献するではあろう。
信一は、やる気満々で実験に励んでいた。
研究船パーズは、大西洋に入り、ニューヨークを経由し、ウッズホールに停泊中だ。
その間、ずっとストイックに研究に励んでいた。ニューヨークに停泊中は、ずっと船内にこもっていたのだ。
「ふぅ、やっとまともな感じになって来たなぁ……。」
信一の持つガラスビーカーの中には、色とりどりなホヤたちがいた。
元々のマボヤは赤色である。
そのマボヤからオレンジ色のホヤ、黒いホヤ、白いホヤなど、様々な色のホヤをゲノム編集で作り出したのだ。それらは、ガラスビーカーの中に浮かぶペトリディッシュに張り付いている。
「あ、アーシーさん、ちょうどいいところに。見てくださいよ、このホヤたち。僕が作ったんですよ」
信一は、近くを通りかかったアーシーを呼び止め、ガラスビーカーの中の色とりどりなホヤたちをアーシーに見せる。
「わぁ〜。すごい綺麗です。色々な色をした宝石みたいです」
アーシーは笑顔を浮かべる。その顔を見て、信一も笑顔を浮かべた。
ウェイが来る前までは研究室には信一とアーシーの2人だった。
信一は、アーシーとは仲良くしていた。かといって、あくまでも研究室のチームメイトであり、それ以上ではなかった。
もともとアーシーは英語も日本語も話せた。最近では、信一の方がアーシーに話かけるのに慣れて来たのである。
2人は日本語で会話をする。
しかし、アーシーの日本語は、まだぎこちない。
「このホヤたちが大きくなって、種として維持できるようになったら、論文が書けるんですよ」
信一は、鼻高々に言う。
「それは良かったです。頑張ってください」
アーシーは笑顔を浮かべる。青色の綺麗な瞳を信一に向ける。
「あっ……、そういえば、アーシーさんは、ニューヨークでどこか行きました?」
「私は一人で、美術館も自然史博物館にも行きました。博士が、ここに停泊している間は休んでいいと言っていましたから」
「あぁ、大城戸先生たちも自然史博物館に行ったとか言っていましたねぇ。もしかして一緒に行ったんですか?」
「私は、教授たちとは別の日に行きました」
アーシーは軽く首を振る。
「そうですか。ちなみに、ウッズホールではどこか行きました?」
「まだどこにも行っていないです」
「そうですか。この港の近くに、『パイインザスカイ』という有名なパイ屋さんあるらしいですよ。あ、良かったら、一緒に行きます? 今日はもう僕の実験は終わったので……。」
「はい。いいですね。行きましょう」
信一とアーシーは時折2人でご飯を食べたりもする。
研究室のメンバーとしてごくごく普通のことだ。
2人は、実験を終え、研究室から出た。
博士たちは、港の近くのパイ屋さん、『パイインザスカイ』の前を通りかかった。
ウッズホールの街の港の近くにある大きな池をくるっと回るように、散歩をしていたのだ。
「あ、ねぇ、パパ、信一お兄ちゃんとアーシーお姉ちゃんがいるよ。ねぇ、おに……。」
パイ屋のところに、信一とアーシーがいることに気がついたシンシアは、2人に声をかけようとした。
「シンシアちゃん、だめよ」
それを、レイアがシンシアの口にそっと手を当て、止めた。
「うぐっ……。ん? なんで?」
「2人の邪魔したらいけないでしょ」
レイアは、シンシアの前にしゃがみ、小さな声で耳打ちした。
「う〜ん、そうか。わかった」
シンシアは、首を傾げながらも、納得した。
その時、シンシアの横で、さーべるちゃんが「バウ」と吠えようとした。
「だめ、さーべるちゃん。2人のじゃまをしたらいけないんだよ」
シンシアは、人差し指を、口につけて、シーっと合図をした。
博士は、満足げにシンシアたちのやりとりを眺めていた。
その視線のはるか向こうには、信一とアーシーの姿もあった。
彼らは、パイとコーヒーを楽しみつつ、談笑していた。




