神々の戦い
それが起こったのは、ある日の昼下がりのことだった。
研究船パーズは、オーストラリアを目指し、南に向かって進行していた。
大城戸家の居住部屋で、それが起こった。
そこで、海神ポセイドンと最高神ゼウスとの神々の戦いが繰り広げられることになったのだ。
(兄者は、こんな美味しいものを食べていたのか?)
アムルは、口の周りにチョコレートをつけながらも、満面の笑みを浮かべている。
チョコパイに、一口目をかぶりついたばかりだ。
ついに、アムルは念願のチョコレートを口にした。
シンシアが目を離した隙に、子供用テーブルの上に置かれたシンシアのチョコパイを一口いただいたのだ。
いくら最高神ゼウスの生まれ代わりと言えども、アムルが今できるのは、ハイハイのみだ。
ハイハイをして、子供用テーブルに近づいて来たのだ。
(うまい……うますぎる)
苦労して手に入れたチョコパイである。
口の中にとろける甘いチョコレート、ふわっとしたスポンジ、そして、濃厚な甘みのクリーム。
どれを取っても、アムルにとっては新鮮な味だった。
アムルが、一口目のチョコパイを口の中で存分に堪能していた時だった。
姉であるシンシアに、見つかった……。
(あ……)
アムルの目が泳ぐ。
「あー、それわたしのー! しかも、アムル、まだ離乳食しか食べちゃダメでしょ? わたしの時は、一年以上経つまで、食べさせてもらえなかったのに。アムル、ちょっとずるくない?」
アムルが声の方に目を向けると、シンシアが立っていた。
鬼の形相を浮かべている。
「食べ物の恨みは怖いんだからね」
(待って、兄者! 話せばわかる、待って)
アムルは、チョコパイを手に、目をキョロキョロさせる。
最高神ゼウスは、神々の頂点である最高神ではある。しかし、実の兄である海神ポセイドンには頭が上がらない。
そして、最高神ゼウスは、海神ポセイドンが怒ると怖いことも知っていた。
知ってはいたが、チョコレートの魅力に負けたのだ。
怒ったシンシアは、子供用テーブルの上に置かれたマグカップの中のオレンジジュースを宙に浮かべる。
オレンジジュースは、拳の形に姿を変えた。
(待って、兄者! 話せばわかる、待ってって、すまなかったって!)
「いくら弟でも、食べ物の恨みは恐ろしいんだよ。ちょっと痛い目に合わないとわからないかな。お姉ちゃんが教えてあげるよ」
シンシアは、拳の形に姿を変えたオレンジジュースをアムルに向かって飛ばす。
アムルの頭を、叩くように。
ビューン
それは、アムルの頭目掛けて一直線に飛んでいく。
(兄者! ちょっと、待って……。)
バシ、バシッ
アムルは、チョコレートのついた小さな手から、小さな稲妻を生じさせた。
それは稲妻と言うには細く小さなものである。
しかし、その小さな稲妻は、オレンジジュースの拳を木っ端微塵に破砕するには十分だった。
バシャー
オレンジジュースの拳は砕け散り、バラバラになった水滴は、部屋に敷いてある絨毯の上に散らばる。
(兄者、すまない。俺が悪かった、すまない。代わりに俺のこのお菓子を食べていいから)
アムルの言葉に、シンシアは、ピタリと止まる。
「うん、そうか。アムルのそれ、食べてもいいのか。ちょっと気になっていたんだよなぁ。じゃあ、チョコパイを半分あげるから、それ、もらうね」
アムルは、シンシアに白い小判形のお菓子を差し出した。
アムルの今日のお菓子である。
シンシアは満面の笑みでそれを受け取る。
(ふーぅ)
アムルは、一息ついた。
脅威は去った。
シンシアは、チョコパイをアムルから受け取り、半分に割った。
その半分をアムルに渡し、アムルからもらったお菓子とともに、子供用テーブルの前に座る。
「うーん、ちょっと薄味だね。でも、美味しいや」
シンシアは、アムルからもらったお菓子を食べる。
続けて、アムルから返してもらったチョコパイを頬張った。
「うーん。やっぱりチョコパイは最高だねー」
シンシアは、口の周りにチョコをつけながらも、口を全開にしてチョコパイを頬張る。
(そうだな、兄者。最高だなー)
アムルも、手と口をチョコレートでベタベタにしながら、チョコパイに舌鼓を打っている。
「こらぁ、シンシア。どうしてこんなことになっているんだ」
「こらー。シンシアー」
博士とレイアがキッチンから、部屋にやってきた。
「もぅ、なんだよ、これはー?」
博士は、床に敷いてある絨毯に大きく丸く濡れた跡があることに気がつき、頭を抱えた。
「アムルがね、わたしのお菓子を勝手に食べるからいけないんだよ」
シンシアが口を尖らせる。
「そうかもしれないけどね。シンシアは、お姉ちゃんなんだから、もうちょっとアムルには優しくしてあげないと」
博士には、状況が理解できていた。
絨毯の上に散らばったオレンジジュースは、シンシアが能力で操ったのであろう、と。
「って、なんでアムルがチョコパイを食べているんだよ」
博士は、アムルがチョコレートまみれなのに気がついた。
手も口もベタベタにして、笑顔で口を動かしている。
「半分あげたんだよ。優しいお姉ちゃんでしょう」
「もう、口ばっかり達者になって。それに、ジュースを飛ばしたら、ジュースがもったいないでしょ? 今日は、もうこれだけだよ」
博士は、呆れ顔を浮かべる。
「えー、新しいのくれないのー?」
シンシアは不満げな顔を浮かべる。
「シンシアが、自分で粗末にしたんでしょ。あげないよ」
「じゃあ」
シンシアは、口を尖らせる。
そして、右手に力を入れ、絨毯から、オレンジジュースを取り出す。
絨毯から、水蒸気のように飛び出した水滴が集まり、一つの大きな塊になる。
それは、オレンジジュースの塊として宙に浮いた。
「あーぁ、そうか。わかった、シンシア。そのジュースの塊はそのまま捨てよう。新しいのをあげるから」
博士は頭を抱え、ため息とともに声を出した。
絨毯に落ちたものを飲ませるわけにもいかない。
「うん」
シンシアは、笑顔で頷いた。その横では、一旦絨毯の上に落ちたオレンジジュースがプカプカと宙に浮いている。
「やれやれ」
博士は、もう一度小さく肩を落とし、ため息をついた。
「やれやれです」
レイアは言った。
博士の横で、首を小さく縦に振っている。
博士はレイアの方に目を向ける。レイアが子どもみたいな話し方をしても、博士には注意できない。
日本語は、かすみから習ったと思っていたが、シンシアの言葉遣いの影響もあるようだ。
博士は、頭を抱えた。
博士の父親としての苦労は、絶えることがない。




