最高神ゼウス
部屋の真ん中で、天井から吊るされた黒い塊。それは、熊だった。
正確に表現すると、熊ではない。熊のような生物だ。もっと正確に表現すると、熊のような生物『だったもの』が、機械に繋がれていた。おそらく手足があったであろう部位にはケーブルが刺さっており、機械に繋がれている。また、頭部からもいくつものケーブルがのびていた。
「ひどいことをする」
博士は、目を疑った。
生きたままケーブルに繋いで、『何か』をしようとしていたのだろう。ゼウスが熊のような姿をしていることと、ゼウスが雷を操る力を持っていること。これらのことから、おおよその想像はつく。
シンシアは、ゆっくりと、熊に近づく。
「ころし、てくれ」
と、その熊の頭部が微かな声を出す。
「ゼウス、わたしだ。ポセイドンだ」
シンシアは、熊に語りかける。この熊こそがゼウスなのだ。
「ポセイドン? お前がか?」
ゼウスは、うっすらと目を開け、シンシアを見つめる。
ツインテールの金髪をした青目の幼女の姿を見て、海神ポセイドンと信じるものはいないであろう。もちろん、ゼウスも不思議がった。兄の気配が感じられるが、姿は全くの別物なのだ。
「この姿に転生したのよ、4年前に」
シンシアは、宙に浮かせておいた水の塊を、ふわり、と動かして見せた。水を動かせる力を示すためだ。ゼウスは、水の塊をゆっくりと目で追う。うっすらと開いた眼の奥で、眼球が少し動いた。
「なるほど。兄者が、海からいなくなったことにはすぐに気がついた。海の生物がいなくなったから。それから、色々あった。積もる話をする元気もない。兄者、お願いだ、早く、楽にしてくれ」
「……。」
シンシアは言葉を飲み込んだ。
ゼウスに今聞きたいことは山ほどある。しかし、ゼウスの苦しむ姿を見たくはない。
ゼウスを助ける方法は、おそらくただ一つ。とどめをさすことだ。
「兄者が、無事でよかった。私も、どこかいい転生先を見つけるさ。じゃあ、またどこかで。達者で……。」
ゼウスは、震えるように口を動かし、微かに声を出す。目はもう開いていない。
「うん、そうだな」
と、シンシアは俯いた。
自分が転生したように、ゼウスも転生することはできるであろう。そうすれば、また世界のどこかで会えるかもしれない。今は、ゼウスを苦しみから解放させてやることが優先だ。
「パパ! 大丈夫。やっちゃって」
シンシアは俯いたまま、声を出す。
「わかった」
博士は、機械を止めた。
重要そうなケーブルを、片っ端から切ったのだ。さらに、スパナで、ところどころをぶっ壊した。
沈黙していく機械とともに、ゼウスは静かに息を引き取った。
二人は、ゼウスの遺体を、装置から取り外して、船の外まで運んだ。
そして、それを海に沈めた。ゼウスは、手足も頭の後ろ半分もない姿になっている。その大きくも弱々しい遺体はゆっくりと海に沈んでいった。
「ゼウス、またな」
シンシアは、ゼウスを見送った。
憂いを帯びた青い目がまっすぐにゼウスを見つめていた。博士は、シンシアの横で、小さく手を合わせた。
空を一面に覆っていた黒い雲は、薄まり、辺りは少し明るくなっていた。南から吹いて来た冷たい風が、二人の横を通り過ぎていく。
海賊船の目の前では、研究船パーズが待っていた。二人は小型ボートでパーズに戻る。
これは、オーストラリアの北の海域での出来事であった。




