船上のポスドク
久保信一はポスドク研究員である。
彼は、研究船パーズに乗る前から、大城戸研究室でポスドクをしていた。
そして、そのままポスドクとしてパーズに乗ることになった。彼は今、ウニの研究をしている。と言っても、ウニをモデル生物として扱う研究ではなく、ウニを人工的に作りだすための研究である。
ウニは、発生生物学の分野で、代表的なモデル生物であった。
ゲノム情報も詳細に解読されており、初期発生の機構もよく理解されていた。
信一は、人工的にウニを作るために、ゲノムDNAを人工的に合成し、マウスの受精卵内のゲノムDNAと置き換えた。発生の初期に必要となるウニ特有の母性遺伝子は、人工mRNAで導入した。
これは、昨日の朝のことだ。
そして今日、信一は、顕微鏡を覗き込み、目を見開いた。
小さな透明なピラミッド型の生物が、ピラミッドの底に生えた毛を動かし、水中を泳いでいた。本来のものとは少し異なるが、いわゆる『プルテウス幼生』である。
多くの死体の周りに、生きて泳いでいる個体が数匹いたのだ。
「あれ? もしかして、ついにやったかも」
信一は思わず呟いた。
「大城戸先生! ついにやりましたよ!」
信一は、同じ実験室で実験中の博士に向けて、大声をあげた。
「ほんとかぁ。今いく」
博士は、作業中の実験を止め、信一の元へ急いで駆けつけた。信一は、笑顔で博士を迎えながらも、落ち着きなくソワソワしている。
「どれどれ、見せてみて」
と、博士は顕微鏡を覗き込んだ。
「あっ、ほんとだ、泳いでいるね。やったね、久保くん。ついに出来たね」
博士は、満面の笑みで、信一に言う。
「はい」と、信一も満面の笑みで頷き返した。
博士はすでに、ベニクラゲとエビクラゲを完成させていた。
研究の傍に作製した、海水中で栽培可能なチューリップとヒヤシンスも忘れてはならない。そして今回、信一がウニを完成させた。大城戸研究室は、順調に海の生物を作製していた。
博士は、妻のレイアの元にやってきた。
先ほど信一が完成させたウニのことをレイアに話しにきたのだ。
「Hi, Leia. I wanna let you know that Kubo finally made sea urchin, I mean I just saw the pluteus larvae. (いやぁ、レイア。ついに久保くんがウニを完成させたよ、まだプルテウス幼生だったけど)」
レイアも実験中であった。
博士の声に、顕微鏡から顔を上げた。
「It sounds great. It’s actually good news. By the way, I have good news, too. (まぁ、すごいわねぇ。いいニュースね。ところで、私も、いいニュースがあるわよ)」
レイアは顕微鏡の横に置いてあったガラスビーカーを手に取り、博士に見せた。
小さな白い花が、レイアの持つガラスビーカーの中で咲いていた。
レイアは、シロイヌナズナを海水に適応させる研究をしていた。
このガラスビーカーの中の水は、海水である。海水中のシロイヌナズナはきちんと育ち、花を咲かせていた。ビーカーの底には土は無く、シロイヌナズナは、根っこごと海水に浮かんでいたが、花を咲かせるほどに成長したのだ。
「Awesome! (素晴らしい!)」
博士は、歓声をあげる。
「Thank you, and love you! (ありがとう。あなたのおかげよ)」
レイアは博士に抱きつき、キスをした。
実験室の反対側では、二人の姿を見て、信一が、「やれやれ」と一人静かに頭をかいていた。しかし、口元には笑みを浮かべていた。
論文までには時間がかかるが、彼はついにウニの人工合成の第一個体を手に入れたのだ。大きな結果である。自然と笑みがこぼれるのも、無理はない。
平和な昼下がりのことであった。
研究機関パーズは、東ティモールの北側を通り過ぎ、オーストラリアに近づいていた。
南半球に入り、気温は少しずつ下がってきていた。5月とはいえ、吹く風は冷たい。
次回から、お待ちかねのバトルです。