C無限解読装置
「あの時ほど、恐ろしい瞬間は無かったよ」
私はしみじみと言った。あのスクエア事件から約三ヵ月後の11月26日。ゼミ室には私と李実の二人だけがいた。
「ああ、スクエア。怖かったわね。木津岡君と橘君の絶叫なんてまだ耳に残ってる」
それは恐怖の体験であった。私たち四人はその後も友人の関係だが、あの夜の話は自然と避けていた。
「いや、あの夜の体験自体が怖かったんじゃない」
「スクエアが成立してしまったのが怖かったんでしょ?」
「だから違うって。スクエアを成立させる方法なんていくらでも考えられる」
「でもあんたあの時、泣きまくってたじゃない」
「……弁解の余地はないけど。
でも、怖がりながら、頭の片隅にはあったんだよ。スクエアを成立させるだけなら、決して不可能じゃないって」
私はパイプ椅子から立って、ホワイトボードに図を書いた。
正方形を書き、その隅に、『1』『2』『3』『4』の番号を振る。左上が『1』で後は時計回りに『2』『3』『4』と書く。また、『1』『2』『3』『4』の上に小文字でabcdと書く。
1 2
4 3
a b
d c
「このように、四隅の場所を『1』『2』『3』『4』とする。また初期配置でそこにいた人物をabcdとしよう。つまり最初は、aは『1』に。bは『2』に。cは『3』に。dは『4』にいることになる。
そしてゲームが始まると、まずaが『2』へ、bが『3』へ、cが『4』へ、そしてdが『1』へ行く」
「普通ならそこで終わりよね。だって『1』には既に誰もいないから」
「謎の五人目がいない限りね。そしてあの夜、教室に忍び込めた何者かがいなかったことは全員が確かめているから、五人目は存在しなかったはず。
でも、五人目がいなくても、スクエアは成立する。
いくつか方法はあるけど。ここでは三つ紹介しよう」
私はホワイトボードに①a②/③dと書いた。
「まず一つ目の可能性。①aがルール違反をした場合。
aはまず『1』から『2』に移動する。そしてbの肩を叩いた後、また『1』に戻る」
a b
d c
↓
ab
d c
↓
aは元の位置に戻る。bは『3』へ行く。
↓
a
d cb
「なるほど。aが元の位置に戻れば、dが『1』に行った時、肩を叩かれることができる」
「うん。
ゲームが進み、bが『3』へ行った後、cが『4』へ。dが『1』に行く。
『1』には、戻ってきたaがいる。
『1』で肩を叩かれたaは、『2』を素通りして(本来a本人がいる場所だからね)『3』へ行き、bの肩をタッチ。
また『3』から『2』へ戻って、dに肩を叩かれるのを待つ」
「つまり、aが文字通り肩代わりをするってことね。いない分の五人目の肩代わり」
スクエアは暗闇で行われるから、aの動きに気付ける可能性は低く、また、深い深い暗闇ならば、aの肩を叩くdを騙すことも、それほど難しくはないだろう。
「これが成立するなら、dも同じようにできるわね」
「うん。それが、③dがルール違反した場合。」
a b
d c
↓
↓
abcは通常通り動き、cがdの肩を叩く。
↓
↓
a
dc b
↓
d a
c b
↓
dは『1』を素通りしてaの待つ『2』へ行く。
↓
da
c b
↓
dは『1』に戻る。aはbの待つ『3』へ行く。
↓
d
c ba
「dは最初、cに肩を叩かれて『4』から『1』へ向かう時、誰もいない『1』を素通りして、『2』へ行く。
そこにはaが待っているから、aにタッチする。
そして来た道を戻り『1』で待機。これを繰り返す」
「なら②/っていうのは?」
「これは、進行ルートを無視した場合。つまり斜めに移動するんだね。この方法を使えば、bcにも犯行可能だ。
例えば、bは最初、『2』から『3』へ行ってタッチした後、『3』から誰もいない『1』に教室を斜めに移動する。そして『1』でdからタッチされた後、『2』へ行って、aへタッチ。その後、大急ぎでaを追い越して『3』へ行って待機」
「無理矢理だけどね」
李実は感情を込めずに言った。
彼女には、これらの可能性がありえないと分かっていたからだ。
それがこの事件の厄介なところだった。
「この三つの方法のいずれかを用いれば、スクエアは成立する。
参加する四人の中に敢えてルール違反する悪戯好きがいれば、スクエアは成立してしまうんだ。
でも、あの夜、そんな奴はいなかった。李実には、それが分かってるんだろ」
彼女は頷いた。
彼女は読心術を持っている。だから、悪事を働く者がいれば、察しがつくはずなのだ。
「私があの夜、一番絶望したのは、李実が最後に「分からない…」と呟いたからだ。
四人の中で、誰かが悪巧みを働いたなら、李実には確実に察しがついた。
しかし李実は分からないと言った。君にも、分からなかった。
なぜスクエアが成立したのか。成立するはずのないゲームが無限ループしていたのか。
李実に分からなかった。つまりあの夜、悪事を働こうとした者はいなかった。
今私が挙げた、①②③の可能性は、絶対にありえなかった」
①②③の方法を使えば、スクエアは成立する。これがスクエアを成立させるための、悪知恵。
しかし、①はa、②はabcdの誰か、③はd。それぞれ、最低でも一人が意識的にスクエアを成立させるように行動しなければ、絶対に成立しなかった。
そして李実は読心術を持っている。勿論、その能力は暗闇でも働いたはず。
スクエアは誰かの悪知恵で成立してしまう。しかし、李実が参加したあの夜。スクエアを李実に察知されずに成立させるのは不可能だったはずだ。
「うん。あんたの言う通りよ。私の読心術は、その人物が強く思った言葉、繰り返した言葉、悪い言葉を読み取れる。加えて、あの講義室全体が、私の能力の範囲内にあった。
だから、誰かが『悪戯してやろう』『他の人を驚かせてやろう』と思えば、絶対に分かったはず。
そして、何も思わずに、悪巧みできる人なんていない」
彼女の読心術は、心の中で強く思った言葉や心の中で繰り返し言った言葉、悪い言葉を読み取れる。
強く思った、という基準は曖昧だが、あの場でスクエアを成立させるのは他の人に対する悪戯行為だ。李実の読みやすい『悪い言葉』を思う可能性が高い(『騙してやれ』とか『驚かせてやれ』とか)上、またある程度強く思わないと、やはり行動できないだろう。
例えば強く強く別の言葉を思い続けたり、常に音楽を脳内再生し続けるなど、誤魔化す方法はあるかもしれない。
しかし、李実の能力を知っているのはあの場で(本人を除けば)私だけ。それ以外の人物は、李実の能力に対策を立てられなかったはずだ。
よって、私たち四人のうち、五人目を演じられるのは、能力者本人である李実か、能力への対策を立てられる私のどちらかだけだ。
しかし、私はこの物語の語り手であり、決して嘘は吐かない。彼女もそんなことをする動機がない…
いやそもそも、私はスクエアが終った後、『1』の位置にいた。つまり『3』→『4』→『1』→『2』→『3』→『4』→『1』と移動したのだ。
ドッキリだとしたら、長すぎないか?
またそもそもを云うなら。
あの後、私たち四人はこっぴどく叱られた。大学生にもなって、構内で、しかも台風の夜、何を悪ふざけしているんだと、たっぷり1時間は叱られた。
ドッキリならやりすぎだろう。木津岡と橘が絶叫した時点で止めないと、誰かが騒ぎを聞きつけて講義室へやってくることは予想できた。
しかし私たちは止めなかった。止められなかった。それは、みんなが本気でスクエアが成立したと確信していたからだし、止めたら何らかの罰が下されるのではないかと恐れたからだ。
李実の能力と、現場の状況。少なくとも、誰かの悪意が働いた可能性はなかったと断言していいだろう。
「悪意がなかったとしたらどうだ?」
私はパイプ椅子に座る李実に問いかけた。
「李実は、人の心に浮かんだ言葉を読める。逆に言えば、心に思わなければ読めない。
先に挙げたように、スクエアを成立させるには、絶対に誰か一人がルール違反をしなければならない。
悪意がない。ルール違反をする。この二つは矛盾しない。
つまりあの夜、悪意がないのにルール違反をしてしまった人物がいる」
「悪意がないのにルール違反したってことは要するに」
李実が眉間にしわを寄せ考える素振りをした。
「その人物は、ルール違反したことを悪いと思っていなかったのね?
ルール違反を悪いと思わないって云うのは、言い換えると。
…その人物は、ルールを理解していなかった?」
私はこくりと頷いた。
「ゲームはループし続けた。だからルール違反した人物は、悪意を持っていないにも関わらず、ルール違反を延々と続けた、ということになる。
言い換えれば、その人物は通常ならスクエアが成立しないということを分かっていなかった人物。
私はスクエアについて知っていた。
李実はスクエアの提案者だから当然知っていた。
橘は『さっさとこんなゲーム終わらせて寝る』つもりだった。つまり、通常ならゲームがすぐ終わることを知っていた。
木津岡だけが、知らなかった。
スクエアが通常なら成立しないゲームであることを、彼だけが知らなかったんだ」
ゼミ室の窓からは夕日が差し始めている。今日はゼミの予定がないから、夜遅くまでいても問題ないだろう。
「木津岡は、スクエアについて知らなかった。
スクエアを知らない彼に、まず最初にルールを説明したのが、橘だった。
橘の言葉が、木津岡の中でスクエアのルールになった。
『ほら、さっさとそこの角に移動しろ!スクエアってのは四隅に立って次の人にタッチしていくって、まーアホらしいゲームだからな!ああ馬鹿馬鹿しい!』」
「よく覚えてるわね」
私は趣味のために、印象に残った場面は忘れずにメモしておくよう心がけている。あの夜の出来事は、その翌日に全て文字に書き起こした。
「橘はスクエアについて『四隅に立って次の人にタッチしていくゲーム』と説明した。
重要なのは、『次の角に立つ人』ではなく、『次の人』にタッチするゲームと言ってしまった点だ。
また李実は、ゲームを始める前に、こう言った。
『橘君から始めて、時計回りにタッチしていきましょう』
この言葉で、木津岡はタッチする順番を理解した。橘→李実→私→木津岡だと。
時計回りなのだから、講義室をぐるぐる回る進行ルートも理解した(そもそも講義室には机があるから暗闇の中で斜めに移動するのは至難の業だが)。
これらの情報から、木津岡は「自分は橘にタッチすればいいんだな」と判断した。
そして、橘の言葉を信じるならば、このゲームは次の角に立つ人ではなく次の人にタッチするゲーム。
だから「自分は誰もいない角を通り過ぎて、次の橘にタッチすればいい」と考えた。
考えたと言っても、木津岡はそれが「当然」と思い込んでいたのだから、悪意もなければ意識にすら上がらない。李実の読心術でも彼の行動を読むことはできなかった」
李実は首を傾げる。
「でも、それだとゲームが終わらないわ」
「うん、終わらないよ。
木津岡にとって、このゲームは終わらないゲームだったんだ。
あの時、李実はこう言った。
『この手の儀式は下手に終わらせてはいけないから』『延々と儀式は継続される。キツイけど、それが目標よ』
橘はスクエアについて『降霊術』と言ったから、霊が降りるか、また太陽が昇るか、どちらかの条件で終わると木津岡は確信していたんだ。
加えて言うなら、木津岡は『こういうの大好き』で、『私たちの言うことなら絶対聞く便利』な後輩。
彼の中のルールを、私たち先輩が捏造してしまったわけだ」
李実は納得したように溜め息を吐いた。
が、すぐ腕を組み、「おかしいわ」と呟く。
「木津岡君は、スクエアを延々と終わらないゲームだと思い込んでいた。それが当然と思い込んでいた。
次の角にいる人ではなく、次の人にタッチするゲームだから、誰もいない角をスルーして橘君の待つ、次の次の角まで行った。
ここまでは良いとしましょう。a=『1』→『2』、b=『2』→『3』、c=『3』→『4』、d=『4』→『1』(素通り)→『2』。
これで、一周目は成立する。繋がらないはずの輪が繋がる」
a b
d c
↓
ab
d c
↓
a
d cb
↓
a
dc b
↓
d a
c b
↓
da
c b
「でも二周目は繋がらない。
一周目。a=『1』→『2』、b=『2』→『3』、c=『3』→『4』、d=『4』→『1』(素通り)→『2』。これに続いて。
二周目。a=『2』→『3』、b=『3』→『4』、c=『4』→『1』となる。」
c d
b a
「c、つまりあんたは、『4』から『1』へ行ったはず。
でもその時、『1』には誰もいない。次の木津岡君は『2』にいるから。ここでバトンは途切れてしまう。
あんたはスクエアのルールを知っていた。だから木津岡君と同じように、次の角である『1』を素通りして木津岡君の待つ『2』に行くなんてことはない。
また木津岡君も、『最後の走者が一つ先の角まで行くのがルール』だと思い込んでいたのだから、『2』に行ったあと、『1』に戻ってくることはありえない。そうじゃない?」
今検討しているのは、先に挙げた③のパターンだ。dがルール違反するパターンを考えている。
③では、『4』でタッチされたdは、『1』を素通りした後『2』に行ってタッチした後、『また『1』に戻り』、そして次にタッチされたときは、『2』を素通りして『3』へ行ってタッチした後『また『2』に戻る』。
つまりdは『4』→『1』→『2』→『1』。『1』→『2』→『3』→『2』。『2』→『3』→『4』→『3』。『3』→『4』→『1』→『4』。と、ひたすら行って戻ってを繰り返さなくてはならない。
木津岡はあくまで『次の角の人ではなく、次の人にタッチするゲーム』と勘違いしていただけであり、わざわざ戻ってくる理由はない。
二周目は、自分の後ろに控える走者が、一つ角を飛ばして自分の元へ走ってくると思い込んでいたはずだ。
しかし、私はそんな奇妙な行動は取っていない。私は、確かに、一周目は『3』から『4』へ。二周目は『4』から『1』へと移動した。そして『1』には木津岡らしき人がちゃんと待っており、私はその肩にタッチした。
「結論から言うと、木津岡は戻ってきたんだ。
彼は、『4』→『1』→『2』と移動して、『2』にいる橘にタッチした後、また『2』から『1』へと戻ってきた」
「そんなはずは」
「正確には、戻らされた、というのが正しいかもしれない。
ヒントはいくつかあった。
例えば、木津岡と橘の悲鳴。あの二人の悲鳴は同時に響いた。
そして橘はオカルトが大の苦手。
また彼は、『口よりすぐ手が出るタイプの男で、バリツの使い手』。『バリツとは、一瞬で相手を10m弱吹き飛ばす最強の武術』。
加えて、あの講義室の『隅と隅の距離はせいぜい8m』」
李実は、ぽかんと口を開いた。
「まさか。でも、そんなことが」
「木津岡は『1』を素通りし、『2』へ行き、そこにいる橘にタッチした。
橘は、本当に驚いただろうね。まさか自分がタッチされるはずはないとたかをくくっていたから。
自分にタッチするならば、それは誰もいない『1』に突如現れた五人目しかいないと知っていたから。
だからタッチされた橘は、絶叫した。
と同時に、口より手が先に出る彼は、自分にタッチしてきた『何者か』を、バリツを使って、やって来た方向へ一瞬で吹き飛ばした。
つまり木津岡を、吹き飛ばした。
木津岡は、『1』へ戻ってきた。
自分の意思で戻ってきたわけではない。橘のバリツで吹き飛ばされたのだ!」
図にすると以下のようになる(以下『橘』=橘将。『村』=村岡李実。『私』=六時六郎。『木』=木津岡)。
橘 村
木 私
↓
橘村
木 私
↓
橘
木 私村
↓
橘
木私 村
↓
木 橘
私 村
↓
ルールを勘違いしていた木津岡は『1』を素通りして橘の待つ『2』へ。
↓
木橘
私 村
↓
橘はバリツで木津岡を『1』に吹き飛ばし、自身は李実の待つ『3』へ。
↓
木
私 村橘
橘の悲鳴は、叩かれるはずのない肩を叩かれたから上げた悲鳴。
木津岡の悲鳴は、最強の武術、バリツで吹き飛ばされたから上げた悲鳴だった。
二つの悲鳴は同時に聞こえた。木津岡が橘の肩を叩くのと、橘が木津岡を吹き飛ばすのが、ほぼ同時に起こったからである。
あの時、私が恐怖から『1』へ全力疾走したとき。
『1』には誰もいないように見えた。『2』の方向をまっすぐ見ていたら、突然背中が現れた。
あれはやはり、木津岡の背中だったのだろう。バリツにより吹き飛ばされた彼は、『1』付近で倒れていた。そして彼は起き上がった。
私は前方を見ていた。だから、下から起き上がってきた彼が、闇の中突如として現れたように見えたのだ。彼の背中は、前でも、右でも、左でもなく、下から現れたのだった。
「ちょ、ちょっと待って。あの夜、私たちはあのゲームを延々と続けていたのよ?
もしあんたの言うことが正しいなら・・・木津岡君は肩を叩くたびに、橘君に吹き飛ばされていたってこと?何度も何度も」
「その通り。木津岡と橘はひたすら同じ行動を繰り返した。
止めることは出来なかった。
木津岡にとって先輩の言葉は絶対だから儀式成功のために止められなかったし、橘は怖がりだから、途中で止めて祟られたりするのが怖くて、どうしても止められなかった」
「ば、馬鹿じゃないの!それなら、木津岡君は橘君に、なにか言ったはずよ。先輩やめてください、とか」
「バリツは一瞬で相手を吹き飛ばす。もしかしたら木津岡は、橘に吹き飛ばされたのではなく何か人外の力で吹き飛ばされたと思ったかもしれないね。
でも、橘に吹き飛ばされたと分かっていても、抗議することは出来なかった。
李実のルール設定により、悲鳴以外の私語は禁止されていたし、ゲームが始まる直前、橘は『うるせえ二度と口答えすんな馬鹿野郎』と叱っているからね。
また橘は自分の肩にタッチした者が木津岡だとは分からなかった。彼は怖がりだから、自分の元にやって来た『何者か』を見ることができなかった。
そして李実の読心術に引っ掛かることもなかった。
木津岡はルール自体を勘違いしていたから、角を素通りして次の人にタッチすることに対し、何の感情も持っていなかった。
橘は恐がりだから、木津岡にタッチされても『恐い!』『止めたい!』以外の感情を抱けなかっただろうし、また木津岡も暗闇で一瞬で吹き飛ばされるバリツに対し『痛い!』『止めたい!』以外の感情を持てなかったろう」
こうして、無限ループは完成した。
ルールを勘違いした木津岡は、ひたすら次の人を求めて角をスルーして走り続ける。
タッチされた橘は、バリツを駆使して木津岡をやって来た方向へ吹き飛ばし、前の角に戻す。
木津岡の行ったりきたりの上下運動に、私や、読心術を持つ李実すら気付けない。
恐怖を振り払うために、私たちの走るスピードは速く速く止まらなくなり、暗闇のドタバタ劇は誰にも止められず、ひたすら同じ場面を繰り返し、繰り返し演じ続ける。
回転スピードだけ加速して、無限ループはいつまでもいつまでも続いていたのだ。
スクエアの秘密は、今解かれた。
「木津岡に話を聞けばすぐ分かるはずだけどね。みんな、あの夜を話題に出すのは避けているから、解決まで三ヶ月もかかってしまったんだ」
私はポケットからスマートフォンを取り出し、電話帳を調べ始めた。
「何してるの?」
「木津岡を呼び出そうと思って。彼に聞けば、あの夜彼がどんな行動をしたかすぐ分かるだろう?
ついでに、どっか飲みに連れて行ってやろう。勿論、橘のおごりで」
橘が取っている選択科目の講義がそろそろ終わる頃だ。もし今言った私の推理が正しいなら、彼も喜んで飯を奢ってくれるはずだ。
「あれ、連絡つかないな」
良い思い付きだと思ったのだが、残念ながら電話は繋がらなかった。
「ああ、それなら、私に任せて」
李実はそう言うと、目を閉じた。
「今、木津岡君は…自宅で寝てるわね。
スマホもマナーモードのままみたい。だからあんたからの呼び出しに気付かないのね」
彼女は目を閉じたまま続けた。
「後、あんたの推理だけど…当たっているわね。木津岡君、スクエアのルールを理解してなかったみたい」
目を開いてにこりと笑う彼女。
私は戸惑いを隠せなかった。
「木津岡の心を、読んだ…とでも?」
「そうよ」
「しかし、木津岡は自宅で寝てるんだろう?」
彼の自宅は大学から10キロ近く離れた場所にあるはずだ。李実の能力の範囲を大きく越えている。
「進化したから」
李実はさらりと言った。
「私の能力、急速に進化してるわ。私の意志とは無関係にね。
もう能力の範囲は関係ない。読もうと思えば、全世界の人間の心を読むことが出来る」
「……信じられないね」
「前に集合的無意識の話をしたでしょ?私はそこにアクセスできるようになったの」
集合的無意識とは心理学者のユングが唱えた概念だ。全人類の無意識はどこかで繋がっているという概念。
しかし繋がっているとは物理的な意味ではなく、『人類には普遍的な無意識がある』という意味に近かったはずだ。
私が疑問を口にすると、彼女はゆるゆると首を振った。
「全人類の無意識は、人間には認識できないところで共有されている。集合している。それが人間。それが無意識。
私は、全人類の無意識にアクセスして、そこを通して有意識まで認識することが出来る。
つまりは、全人類の心を読むことが出来る。
しかも詳細に。望めば、不必要なほど詳細に」
ありえない。彼女は嘘を吐いているのだ、と私は思った。
「じゃあ私の心を読んでみてくれよ。私しか知らないような情報が、李実に分かるはずがない」
彼女の読心術は、強く思ったり繰り返したりした言葉や、悪い言葉を読み取るはずだ。私の深層心理まで読むことは、不可能だったはず。
「勿論」
李実はまた目を閉じた。
「あなたの名前は六時六郎…って、これは言わなくても分かるわね。
本名でネット小説を書いているけど評価は概ね不評。
大学三年生だけど実は一浪していて、現在22歳。恥ずかしいから周りの友人には秘密にしている。
初恋の相手は小学一年生のとき隣の席だった女の子。最近バイトをきっかけに再会するも、既に彼氏を作っていて軽いショックを受けた」
全て当たっているだと。馬鹿な。
「あっごめん。つい読みすぎちゃった。加減が難しいから」
彼女はそう言って謝ったが。
これで決定した。彼女の力は本物だ。つい最近までちょっと心を読めるだけ(それも凄いが)だったのが、今や誰の心も、しかも過去の記憶まで、アクセスできるというのか。
「後、私が読めるのは今や、過去の心だけじゃないの」
「どういう意味?」
「読める心に時間の制限は無い。つまり私は未来の心も読める。よって私は未来を読める。
今から10秒後に、橘君がここを訪れる。でも彼は扉を開くだけでこの部屋には入らない。
なぜならあんたが足を滑らせて近くにいる私の方へ倒れてきて、私に抱きついてしまうから。意外とナイーブなところがある橘君は浮気現場を見たと勘違いし文句を言うこともなく逃げ帰ってしまう。
でも大丈夫よ。私はあんたと付き合う気なんてないし、きちんと説明すれば私たち三人の仲はすぐ直るから」
言い終わると同時に、ゼミ室の扉が開いた。
私はその音に驚き、足がもつれ、倒れてしまう。
倒れた先にはパイプ椅子に座る李実がいた。しかし崩れたバランスを立て直すことができず、私と彼女は抱き合う格好になって床に倒れこんでしまう。
「お、お前らっ。う、うわあああ」
扉の方から橘の声がして、その絶叫は発生源と共にどこか遠くへ消えていった。
未来の思考を読んだのか?本当に?
「今朝、橘君の今日一日の思考を読んだ。そしたらあなたと私が倒れこんでいる場面と、それを勘違いして悩む彼の思考が読めた」
私は彼女に抱きついたまま、彼女の瞳に訴えた。
「ではスクエアの真相も、すでに読んでいたと?」
「いいえ。能力が進化してから、あまり深く人の心を読まないよう、自制してるから。
あんたの心を深く読んだのはついさっきが初めて。だからスクエアの解決をした先程の推理シーンは読んでいない。
ただ橘君は、あの夜から落ち込んでいたから、試しに未来をちょっと覗いてみたの。そしたら橘君の視点からこのシーンが読めた」
私は、断じてわざと転んだわけではない。だからこの未来予知は、本物と言わざるを得ない。
化け物。私は彼女の小さな体を抱きしめたまま、彼女の能力に怯えた。
「李実の能力は、自制できるものなのか?
前は…李実の言うことを信じるなら、進化する前は、『無意識に』人の心を読んでしまうと言っていた気がけど」
「今でも無意識に人の心を読んでしまう。それは変わっていない。
でも、進化した後に身につけた能力は、まだ自制できるレベルなの。人の心の深いところまで読んだり、その人の過去や未来の思考まで全て読み取ったり。それらの恐ろしい能力は、まだ、自制できないレベルまで達していない」
まだ、という言葉を彼女は強調した。
「いずれ、無意識にでも読んでしまうと?人の心の奥底を。未来の思考までも。
しかも人類の思考全てを」
彼女は目を伏せた。
「近い将来、ううん。おそらく一週間もすれば、その時が来る。自制できなくなるほど、能力が強力になる時はすぐに来る。私の能力は加速度的に進化しているから」
全人類の思考が、勝手に、脳内へ流れ込む。とんでもない量の情報が、問答無用に脳へ押し寄せる。
「だ、大丈夫なの、それ」
「たぶん大丈夫じゃないわ」
李実は私の手を振り解き、静かに立った。私も、彼女の正面に立つ。
「私の脳は、おそらく耐えられない。だから、たぶん死んでしまうと思う。
でも、死ぬならまだいい。
もし、この私の脳が、押し寄せる情報量に耐えてしまったら。あらゆる人の思考を理解してしまったら。
私は怖い。人の思考を全て読みきってしまうことがどうしようもなく怖い。
例えば橘君が、将来どんな子と付き合っているのか。街で会う美人にどれほど目を奪われているのか。私と比べて何を思っているのか。
あんたが、私をどんな目で見ているのか。能力者の私に、心の底でどれだけ好奇の目を向けているのか。
両親が、私にどんな感情を向けているのか。過去に殺したいほど憎んだことはないのか。
世界中で、どれほどの殺意が飛び交い、どれほど汚らわしい思考が存在するのか。
私は怖い。人間の、汚い部分まで全て見てしまうことが、怖い」
もし彼女の精神がもっと鍛えられていたら、おそらく今彼女自身が言ったようなことは心配する必要もないはずだ。
しかし彼女はまだ大学生。ただの女子大生だ。
若い彼女は、やはり耐えられないだろう。人間の悪意と殺意。つまるところ人間の本性を全て暴露されて、それに彼女は耐えられないのだ。
「だったら自殺するとでも?」
「自殺は怖いわ。どうやってやるか知らないし」
彼女はあっさり言った。
「あなたに殺して欲しい」
「…嫌だ。私には私の人生がある。人殺しで捕まりたくはないね」
それに彼女を殺すなんて、私には考えられない。私は彼女の恋人ではない。しかし大切な友人ではあるから。彼女の死なんて、考えたくも、書きたくもない。
その答えまで読んでいたのか、彼女は性質の悪い笑みを浮かべた。
「だから、絶対に警察にばれない方法で、私を殺して欲しい。いや、殺す手伝いをして欲しい」
「何が言いたいのか良く分からないけど。
そんなに悲観的になるようなことなの?もしかしたら、能力の進化が止まる可能性もあるのでは」
「うん。だから、私の能力の歯止めがきかなくなった時、私を殺してくれればいい」
「やはり李実の意見は分からない。遠隔殺人装置でも作れってこと?」
彼女は声を出して、ははっと笑った。
「飲み込みが早いじゃない。その通りよ」
「……馬鹿。私が作ったもん使ってお前が死んだら、結局私が捕まるだろ」
「大丈夫、その心配はない。私に良い考えがある。だから」
彼女と私の瞳がぶつかる。
「私を殺して」
彼女とこの話をしたのが、2018年11月26日のこと。
そして、それから一週間後、村岡李実は死んだ。
死因は心臓麻痺だった。警察は事件性なしと判断した。