B無限反復装置
死ね。
言葉の意味をよく考えずに言ってしまうことは誰にだってある。特に『死ね』なんて言葉は、老若男女、誰もが使う「本当は言ってはいけない言葉」だろう。「そんな簡単に死ねって言ったら駄目だよ」そう注意された経験のある人は、決して少なくない。
しかし、それも今は昔の話かもしれない。新聞テレビ小説に加え、インターネットにより言葉が氾濫する現在の世界では、「使ってはいけない言葉」なんて縛りが本当に有効だろうか?言葉は自由で、遷ろうからこそ、魅力的ではないのか?
こんな趣旨の話を、私の大親友、村岡李実に話したら、彼女は猛反発した。
「なに言ってんの六郎!言葉は立派な武器なのよ。あんたも、変な言葉使ったら駄目よ!」
彼女の必死な物言いに、私は苦笑した。
「おい。仮にも講義中なんだから、もうちょっとボリューム抑えろ」
私と李実は、大学で三限目の講義を受けている。講義最後に簡単なレポートさえ提出すれば単位をくれる楽な講義なので、こうしてひそひそと雑談を開始したところだったのだが。
しかしあんまりうるさくすると『はい学籍番号書いて退出して。きみには単位出さないから』と追い出される恐れがあり、気を付けなくてはならない。
私が注意しても、李実はまだぷりぷりしていた。
「なに必死になってんだ李実。ただの雑談だろ」
私の弁明を彼女は聞き入れない。
「言葉って怖ろしいのよ。特に他人に使う言葉は、とっても怖いの」
「でも『死ね』なんてよく使うよ。教授に怒られて『くそっ死ねよ』って、よく李実の彼氏も言ってるじゃないか」
私と李実と李実の彼氏、橘将は、同じゼミに所属している大学三年生だ。どんなゼミかは詳しくは触れないが、文系とだけ書いておこう。
「橘君は今、私の手で調教中だから大丈夫」
李実は同性には優しいのだが、私や橘のような、異性には共通して厳しい。
橘将は口よりすぐ手が出るタイプの男で、バリツの使い手だ。バリツとは、一瞬で相手を10m弱吹き飛ばす最強の武術で、あのホームズが使ったと云われている。まったくもって恐ろしい奴なのだが、李実と付き合いだしてからは、大人しくなった気がする。
「でもインターネットの掲示板とか凄く汚い言葉で罵り合ってるよ。李実だって知ってるだろ」
「確かにネットは顔が見えないから、面と向かっては言えないような罵詈雑言がひしめいてるけど…」
と言いながら、李実がよくネットの掲示板に書き込みしている事実を、私はよく知っている。
「でも汚い言葉遣いを繰り返すと癖になるわ。ちょっと嫌なことがあると、『なんだあいつ死ね』なんて思ったり」
「でも嫌な奴に嫌なことされたら『死ね』って思うよ。李実はちっとも思わない?」
彼女は苦々しげに首を振った。
「思うけど。死んじゃえって思うけど。でも思うことも本当は良くないのよ。
ユングの集合的無意識って考え方、知ってる?」
彼女は最近はまっているアニメの影響か、隙あらばユング+集合的無意識の話に針路変更してしまう。
「個人の心のどこかにある無意識が、全人類の無意識と繋がっているのよ。だから無意識にでも思ってしまうと、集合した無意識を通して、その思いは相手に届いてしまう。
だから、たまに『死ね』って思うのは止められないにしても。
癖になっては絶対にいけない。簡単に『死ね』なんて言ったらいけないし、心でそんな呪いを唱え続けちゃ、絶対にいけないの」
人を呪わば穴二つとも言う。と李実は結んだ。
人に死ねと言ったらいけません。まるで小学生みたいな話になってしまって、私は些か辟易した。
第一、彼女は集合的無意識がどうちゃらと言うが、そんなもの実際にあるはずがないとも思うし、大体にわかユングファンの彼女の考え方が正しいのかどうかもよく分からない。
ただ、李実がこれだけ言葉にナイーブになるには、理由がある。
彼女は小学生の頃、いじめられていたのだ。
幼い同級生達から、とても同じ人間の言葉とは思えない罵詈雑言を浴び続けた結果、彼女は言葉に敏感になりすぎてしまった。
しかしそのおかげで、彼女は一つの特殊能力に目覚めた。
読心術である。読唇術ではない。あらゆる人の心を読む、読心術。彼女は人の心を読むことが出来るのだ。
能力に目覚めた当初、彼女の読心術は『相手の感情がぼんやり分かる』程度だったと云う。
しかし彼女の能力は日々成長しているらしく、今では『相手の思っている具体的な言葉』が分かるようになったそうだ。しかも、彼女の意思に関係なく、まわりの人の言葉が勝手に脳内へ流入してくるらしい。
いずれ、どこにいても世界中の人の心を読めるようになるかもしれない。
しかし、少なくともこの時の彼女は、心の中の言葉全てが読めるわけではなかった。強く思った言葉や、何度も繰り返した言葉を読んでしまうだけである。意識を集中させればもっと深く読むこともできるらしいが、繰り返した言葉は読みやすいのだそうだ。
例えば、今私が実際に、「あー『焼肉食べたい』なあ。李実奢ってくれないかなあ。あー『焼肉食べたい』なあ」と繰り返し思ってみよう。
李実がはっと私の顔を覗き込む。
「あんた今、焼肉食べたいって思ったでしょ。
もう。私の能力で遊ぶの、やめてよね」
李実はぷいと他所を向き、拗ねてしまった。
私は焼肉食べたいなあと思った。彼女は私の言葉を読んでしまった。嘘であろうとなかろうと、本心であろうとなかろうと、彼女は繰り返した言葉を無意識的に読んでしまう。
そして。
「あーっ。あんたのせいで、焼肉食べたくなってきたじゃない!今夜は橘君と三人で焼肉屋行くわよ!」
李実は…いや正確に云うと、李実の身体は、他人の心の声に強く影響されてしまう。これが彼女の能力のデメリットである。
次に私は強く思った。『李実、私は金欠なんだ!奢ってくれ!』。
強く思った言葉も、彼女は読んでしまうはずだ。
彼女は、私を睨みつけた。
「あんた今、『金欠だから奢ってくれ』って思ったでしょう?
でも私、『言葉』の中でも、悪い言葉の方がより読みやすいのよね。
『金欠だから奢ってくれって思って李実に「奢らせてやれ」』まで読めたわ。私の能力を利用しようとするなんて、汚らわしい奴。
罰として、あんたが奢るのよ、私と橘君に。でないと絶交だから」
「マジで?」
ちなみに、彼女の特殊能力を知っているのは、彼女の両親を除けば、幼馴染の私だけで、彼氏の橘すら知らない。私には、それがちょっとだけ誇らしかった。
―そして。事件はこの会話から数日後、今現在から約三ヶ月前の、9月に起きた。
事件が起こったのは、2018年の9月だった。
あの日、台風が日本を襲い、大学周辺の交通機関をストップさせてしまった。私たちの大学は山奥にあるので、歩いて帰るなど絶対に出来ない。
普段は寝泊り禁止の大学だったが(といってもゼミ室でこっそり一泊する者は多数いるらしいが)、この日は例外的に、大学に泊まらせてくれることになった。
私、李実、橘の三人は、ゼミ室で台風が過ぎ去るまで待機していた。
早く家に帰りたい。こんな辛気臭い場所に居たくない。不満はくすぶり続けていたが。
同時に、大学で一夜を明かすという非日常に、子供っぽい興奮も覚えていた。
だから
「スクエアやりたい」
なんて馬鹿げた李実の提案に、私と橘は乗ってしまったのだ。
スクエアとは、降霊術の一種である。所謂、雪山の山小屋のホラー(ところで、ホラー=ほらと最初に言ったのは誰なのだろう?)に出てくる有名な儀式だ。
ある五人の人物が雪山で遭難した。一人を見捨てて、四人は必死に歩き続け、やっと小屋を見つけ、そこに入った。
雪山で寝ることは死を意味する。四人は長い夜を越えるため、あるゲームを考え出した。
小屋の四隅に、それぞれ一人ずつ立つ。まず一人が、壁沿いに角から角へと走り、角で待つ一人の肩ににタッチする。タッチされた人は、また壁沿いに次の角へと走り、そこで待つ人にタッチする。
角から角への無限ループ。これを繰り返せば夜を寝ずに過ごせるし、また誰か寝てしまったらループしなくなるから、すぐに異変に気付ける。
四人は夜通し走り続け、そして朝を迎えると、吹雪はすっかりやんでいた。
四人は助かったと思った。山を下っていき、もうすぐ完全に下山できる。
そのとき、四人の中の一人が、ある事実に気付いた。
「なあ、昨日の夜のゲーム、おかしくないか?」
「何が?」
「だって、四人が四隅に立って走るんだろ?じゃあさ、四人目は誰にタッチするんだよ」
そう、このゲームは本来、成立しないはずなのだ。
四隅を『1』『2』『3』『4』。それぞれ対応する人物をabcdとしよう。
1 2
4 3
a b
d c
まずaが『1』から出発し、『2』へ行く。『2』で肩を叩かれたbは『2』から『3』へ。さらにcは『3』から『4』へ。dは『4』から『1』へ。
しかし、最初『1』にいたaは既に『2』にいるのだから、『1』には誰もいないことになる。だからdは誰にもタッチできず、このゲームは終了するのだ。
四人は青ざめた。
あのゲームは四人では成立しない。しかしあの夜、ゲームは成立していた。
つまりあの場には、俺たちのほかに、何者かがいたんじゃないか?
そしてそれは、見捨てたあいつじゃないか?
というホラーである。ちなみに最後は『見捨てたあいつが俺たちを助けてくれたんだ!』なハッピーエンドバージョンもある。
この物語から発展して、ゲームの名前を『スクエア』と呼び、降霊術の一種として使われる場合もあるとかないとか。
李実は最近このゲームを知ったらしく、ぜひやりたいと言い出した。彼女は自身の能力を解明するため、オカルト方面に興味を持ち始めていたのだ。
私はその話『スクエア』を既に知っていたが、実践したことはなかったし、やってみてもいいかな、と思った。
意外だったのは橘が賛成したことだ。彼はこの手のオカルトが大の苦手(彼女がテレパスの癖に)なのだが、就職活動という現実問題を忘れたかったからだろうか。珍しく賛成した。
ゼミ室はパソコンやらプリンターやら書棚で狭すぎる。私たちは廊下へ出て、手ごろな広さの講義室が空いていないか探した。
大きな講義室は学生がちらほらいたものの、どうやら台風が来ると分かっていて大学へ来た学生は少ないらしく、空いている講義室も多かった。
私たちは一階の小さな講義室を選んだ。一階なら走っても目立ちにくく、また、その講義室は構内の隅に位置していたので、多少ならうるさくしても問題ないと判断した。
その講義室は中学校の教室程度の広さで、おおむね正方形だ。
講義室と言っても階段などは皆無で、長机や椅子が置いてある以外に障害物はなかった。教卓はあるが教壇はない。講義室の前と後ろには人二人ほど通れるスペースがあり、また左右も人一人分ほどのスペースが空いている。
講義室は申し分ない。ただ後一人、人数が足りなかった。私、李実、橘。三人でスクエアは出来ない。まあ四人でも出来ないはずなのだが。
友人に連絡を取ろうにも、台風の中、しかも夜―この時21時45分―に出てきてもらうわけにもいかない。
「ま、誰か来たら参加してもらえばいいだろ」
橘は心底ほっとしたように言った。どうやら彼がスクエアに賛成したのは『彼女の前で「怖いからやりたくない」なんて言えない』という純粋な見栄が理由だったようだ。暴力的なところは嫌いだが、見栄っ張りなところは微笑ましい。
しかし、橘の思惑通りに事は進まなかった。
「あっ橘先輩!村岡先輩!六郎先輩!こんなところで何やってるんですか!」
講義室の扉を開けて入ってきたのは、同じゼミ室所属の二年生、木津岡ツゲユキ。
彼は気の利く良い後輩で、私たちの言うことなら絶対聞く便利な…いや、ありがたい後輩だ。
「やった!いいところに来たわ木津岡君。ちょっと、スクエアに参加して欲しいんだけど」
「スクエア?」
木津岡はスクエアを知らないらしかった。吹けば飛びそうな小さな体と小さな瞳が、好奇心に揺れる。
「なんですかスクエアって。楽しそうな名前ですね!」
私は横にいる橘を盗み見た。彼は唇を噛み、いかにも憎らしげな表情で木津岡の様子を見ていたが、自分で「誰か来たら参加してもらえばいい」と言ってしまった手前、引っ込みがつかないのだろう。顔を引きつらせながら、木津岡に説明した。
「木津岡。スクエアってのはな、降霊術なんだよ」
「降霊?オカルトチックなやつですか?」
「ああそうなんだ。霊を降ろすための儀式だ。危険も伴う」
「こっくりさんみたいなもんですか?術者にも災いがふりかかる、みたいな」
「ああ、その危険は無視できないだろうな。ただの遊びじゃないんだ。分かるな?」
「はい」
どうやら橘は木津岡に「やりたくない」と言わせたいらしかった。
「俺たちは素人だ、本来なら、そんな危険な儀式はやっちゃ駄目なんだ」
「ですよね。青森県出身でもないですし」
「うんうん。それに俺たちは大学生だ。未来もあれば希望もある。呪われるなんて絶対駄目だよな」
「ありえないですよね」
「そうだろうそうだろう。だがスクエアってのは、呪われる危険がある、とんでもない儀式なんだぜ」
「橘先輩にそこまで言わせるとは…怖ろしいですね」
「まあ俺はやりたくないわけじゃないんだ。俺の親友二人もやりたそうだし。
ただこれは四人参加の儀式でな。お前がやりたくないなら、この儀式はやらなくてもいいんだ。どうだ、それでもやりたいか?」
「はいやりたいです」
木津岡は即答した。
「僕、こういうの大好きなんすよね。ぜひやりたい。いや、やらせてください!」
木津岡が目をきらきらさせるのと対照的に、橘は苦虫を噛み潰したような表情をしていた。
「さあ先輩方。さっそくやりましょうよ!スクエアっていうんですか?やりかた教えてください!」
橘は木津岡の頬を思い切りビンタした。痛い!と張られた頬を抑える木津岡。
「なんでビンタするんすか!」
「うるせえ二度と口答えすんな馬鹿野郎!
ほら、さっさとそこの角に移動しろ!スクエアってのは四隅に立って次の人にタッチしていくって、まーアホらしいゲームだからな!ああ馬鹿馬鹿しい!
ほらほらお前らも、さっさとこんなゲーム終わらせるぞ。俺は早く寝てえんだよ!」
橘はやけくそに言って、一番近い角に移動した。彼の言葉に従い、私達は一言も話さず速やかに角に立った。
全員が角に立ったのを確認すると、李実は期待を隠しきれないようで、すぐさま話始めた。
「さあ、全員位置についたわね。
橘君から始めて、時計回りにタッチしていきましょう。橘君、それでいい?」
「ああ、分かったよ」
講義室はほとんど真四角と考えていいだろう。話を分かりやすくするため、四角の左上隅を『1』、右上隅を『2』、右下隅を『3』、左下隅を『4』とする。図で書くと
1 2
4 3
『1』『4』の辺が廊下側の壁、『2』『3』の辺が外側の壁。『1』『2』の辺が講義室の後ろ側。『3』『4』の辺が講義室の前側である。
私たちは、それぞれ『1』『2』『3』『4』の位置に立った。
橘が『1』、李実が『2』、私が『3』、木津岡が『4』。図にすると以下のようになる(『橘』=橘将。『村』=村岡李実。『私』=六時六郎。『木』=木津岡ツゲユキ)。
橘 村
木 私
『1』から始めて時計回りに走るので、順番は数字通り、『1』橘、『2』李実、『3』私、『4』木津岡となる。
「じゃあはじめましょう。今、21時53分だから。そうね、22時からはじめましょうか。本当は0時ジャストがベストだろうけど、ちょっと遅いしね」
李実はポケットからスマートフォンを取り出して軽く操作すると、それを教室中央の机の上に置き、また『2』へと戻った。
「スマホでタイマーかけたから、22時になったらアラームが鳴る。それがスタートの合図よ。
ああ、安心して。スマホはアラームだけで光らないようにしてあるし、アラームは3秒で鳴り止むから、雰囲気を壊さないわ」
橘が何か呟いた。「そんなもん心配してねえよ」といった類の愚痴だろうか。外は大雨大嵐だから、音が聞こえにくい。
「勿論私語は禁止。誰かに話しかけるのは禁止。
途中で終わったらそれまでだけど、終わらなかったらいつまでも続けるわ。この手の儀式は下手に終わらせてはいけないから、日が昇って、『五人目』がこの場にいられなくなるまで、延々と儀式は継続される。キツイけど、それが目標よ。
じゃあ木津岡君。照明を切ってくれる?」
蛍光灯のスイッチは『4』付近にある。
「えっそしたら真っ暗になりますけど」
「明るいままやっても意味ないだろう。
それとも照明を点けたままやろうか?なあ橘」
「うるさい六郎。木津岡、さっさと消せよ」
橘は吐き捨てるように言った。木津岡が、蛍光灯のスイッチに近付いて。
そして、講義室から光が消失した。
廊下側の窓はカーテンが閉められていて、廊下の明かりはほとんど漏れてこない。また外に通じる窓はカーテンが閉められてはいないが、時刻は既に22時近い。近くに灯りはなく、まさか光が入ることはありえない。
じゃあ今からしゃべっちゃ駄目だからね。それがスクエアのルール。悲鳴は仕方ないけどね。
暗闇の中で、李実の声が小さく響いた。
講義室は闇と、やがて静寂に包まれた。
講義室といっても広さは中学の教室と同等程度。隅と隅の距離はせいぜい8mだ。だから息遣いぐらいは聞こえるのかな。と思ったが。
雨の音と窓を叩く風の音がうるさく、他の三人の声、息遣いも、まったく聞こえなくなってしまった。
しかもこの闇の濃度。何一つ光源が無いから、どこを見ても何も見えない。目の前まで手の平を近づけたり、足元を注意深く見ないことには、何一つ見えやしない。目を瞑っているかいないか分からなくなるほどの暗闇だ。
スクエアがまさか成功するとは思えないが、しかし私は怖くなった。他の三人の気配が何一つ感じられず、まるでこの暗い部屋の隅で、一人取り残されたようで、たまらなく寂しかった。
スクエアなんて失敗してすぐ終わりさ。成功したら面白いかもな。
そうやって、さっきまでは軽く考えていたが。
私は今すぐにでも終わらせたくなった。さっさと失敗して、はい終わり、と。
まさか成功してしまうなんてことはありえないが。
もし成功したら、幽霊が存在するという事実よりこの儀式が無限に続いてしまうという怖さの方がより大きいように思えた。太陽が昇り幽霊がいなくなるまで、暗闇の中を走り続けるなんて。怖すぎる。
なるほど。あのホラーの怖さは、寂しさから来るのかもしれない、と思った。
仲間がいるのに一言も話さず、ただひたすらゲームを続ける薄ら寒さ。そしてその中で現出する、もう一人の仲間。
ああ怖い。こんなゲーム、参加するんじゃなかったな。
心の中で呟いてから、思い出した。このゲームには李実が参加しているのだ。
彼女の読心術で、今の私の『怖れ』は読まれてしまっただろうか?
この講義室は8m×8mの広さ。彼女の読心術なら、この範囲内にいる全ての人物の心を読めてしまうはずだ。強く思った言葉、繰り返した言葉、悪い言葉は、彼女に読まれてしまう。また、彼女の能力は無意識に発動する。
私は少し恥ずかしくなった。
まだゲームが始まってすらいないのに、ただ暗い講義室の端っこにいるだけで、『怖い』と思ってしまったこと、それを李実に読まれたかもしれないことに、恥ずかしくなった。
ただ、オカルトが苦手な橘はおそらく私以上にびびりまくっているはずで、また李実は彼の心を読んでいるはずである。そう思うと、少しだけ心が楽になる。
雨のざあざあという音だけが、空間を支配した。
やがてその雨の音を切り裂くように。
ぴぴー…ぴぴー…
とアラーム音が鳴り始めた。ゲームスタートだ。
今、スマートフォンのアラーム音が鳴り終わった。既に『1』にいる橘が『2』へ向かっているはずだろう。
せいぜい8mほどの移動だろうが、視界は闇に包まれているため、早い移動は難しい。小走り、ひょっとしたら歩いて移動しているかもしれない。
橘が『2』へ行ったら、『2』にいる李実の肩を叩き、叩かれた彼女は、今度は私の待つ『3』へと向かう。
アラームから数秒。風雨の激しい音に紛れて、かすかに、足音が聞こえてきた。
こつんこつん。
その足音は少しずつ大きくなっていく。李実が『2』からこちらへ来ているのだろう。
そちらを向けばあるいは闇の中でも彼女の姿を視認できたかもしれないが、私は自分が次に向かうべき『4』の方向へ体をむけ、足音の方向を決して見なかった。
走ってきた人を見てはいけない。それがルールだから。
加えて、もし、万が一、それが李実じゃなかった場合―ありえない話だが―その場合を考えると、視認するのが怖かった。
こつんこつん。
闇の中、足音がこちらへ近付いてくるのが分かる。
そしてついに、その足音がすぐ横まで聞こえてきて。
肩を叩かれた。
ぱすっと音がする、軽いタッチ。
肩に触れたそれが李実の手であることを信じて、私は『4』へ足を進めた。
闇の中を、おそるおそる、それでいて早足に進む。
一寸先はまさに闇で、私は必死に左手で壁を触りながら進んだ。
『3』『4』間は講義室の前側なので、少し歩くと左の壁が黒板に変化する。
ひんやりしたその感触を頼りに、闇を少しずつ、進んでいく。
そろそろ『4』か、というところで、前方に、人の気配を感じた。
最初の配置通りならば、『4』には木津岡がいるはずだ。
しかし、いくら目を凝らしても、まだこの段階では、人の気配は感じても彼の姿を目で見ることは出来なかった。
一歩ずつ、歩みを進め。
やっと、すぐ前方に横向きの肩が見えた。
『1』の方向を向いている、というのはなんとなく分かるものの、それが誰の肩なのかは断言できない。
いや、どことなく肩にかかる髪の感じが木津岡っぽいし、暗くて色が判別しにくいものの、なんとなく服の模様は木津岡っぽかった。
もっと近付けばたとえこの暗闇でも、それが誰か確認することができただろうが、私は肩が見えた瞬間、急いで手を伸ばし、それに触れてしまった。
何者かの肩は、ぴくっと反応して、ゆっくりと、『1』の方向へ歩き始めた。
私は高まる鼓動を沈め、ほっと息を吐いた。
ほとんど暗闇に包まれているが、出入り口の扉があるここは、確実に『4』だ。私は、『3』から『4』へ移動する仕事を終えたのだ。
なんて静かな儀式なのだろう。
しかしこの不気味なスクエアなる儀式もこれで終わり。
なぜなら、『1』には誰もいないはずだから。
今現在の配置は、『2』に橘、『3』に李実、『4』に私、そして『4』『1』間を歩いているのが木津岡…のはずだ。
『1』には誰もいない。『1』『2』『3』『4』無限ループはここで終了する。
しばらくしたら木津岡が『誰もいません』とでも声を出すか、あるいはこちらに引き返してきて『やっぱり誰もいませんでしたよ』と報告してくるかもしれない。あるいはこのまま放置して、終わるか。
それとも。
『1』に現れた何者かによって、この儀式が続くか。
しかしありえない。儀式を始める前、この講義室には私たち四人以外の人物は誰一人としていなかった。
また、儀式の最中にひっそりと教室に忍び込もうにも、廊下側から侵入すると、カーテンを捲った瞬間廊下の明かりが教室に入ってしまう。外からの侵入も不可能だ。照明を消す直前に確かめたところ、窓には鍵がかかっていたし、鍵を開けようとがちゃがちゃ作業するなら、さすがに音や気配でばれてしまうはずだ。
もしこれで儀式が続くようなら。
四人のうち、誰かの悪戯か。
あるいは本物か。
思考しつつ―
―私は少し、妙だなと感じた。
木津岡らしき者の肩を叩いてから、すでに数秒が経っている…しかし。
何も動きがない。
私の、時間の感覚がおかしいだけか?
ループが止まったから、何も動きがないだけか?
まさか、儀式が続いているのか?
暗闇の中で疑問符を並べ続けたそのとき。
二人分の悲鳴が、講義室に響いた。
「ぎゃああああああああああ」
「うわああああああああああ」
闇を切り裂く凄まじい、心の底からの絶叫。
あまりの大音量に、私の心臓は大きく波打った。
な、なんだ今の絶叫は!一人は、木津岡?そしてもう一人は、橘か?この二人が絶叫したということは。
木津岡、橘の間に、何かあったのか、いや、具体的には、『1』に向かった木津岡と『2』にいるはずの橘の間に、なにかとてつもないイレギュラーが発生した。
つまり、つまり。
木津岡と橘の間に、もしや五人目が現れたとでも…そんな馬鹿な!
大丈夫か!と声を出そうとして私はあわてて両手で口を塞いだ。
こういう場合、ルールを破るのは危険だと判断したのだ。李実に怒られる、なんて陳腐な理由ではない。儀式のルールを破ると、そこから発生した何者かの怒りを買うかもしれない。私はそんな非現実的な空想に一瞬囚われ、そして。
「きゃあ」
今度は女性の悲鳴が聞こえた。
李実だ。
先ほどの絶叫に比べればはるかに小さな悲鳴だったが、それは確かに李実の声だった。
何かされた、という類の悲鳴ではなさそうだった。
それはおそらく驚きの声。
つまり、肩を叩かれたことに対する、驚きの悲鳴…
とするなら。
まだ、儀式は、続いている、とでも、まさか、そんなことが、本当に。
焦る私の心に火をつけるように横からだだだと足音が聞こえてきた。
先ほどと違う、明らかに急いでいる音。何かから逃げるかのごとく、ばたばたと散らかった音。
李実の足音か?
やはり儀式は続いていて、木津岡は『1』に出現した何者かの肩を叩き、橘はその何者かに肩を叩かれ、そして李実は橘に肩を叩かれ、彼女は、儀式が続いている事実に興奮と驚きを覚え、先程とは比べ物にならないスピードで、こちらに走って来ているのか。
それとも。
今走っている者がもしや五人目なんて可能性は…いやそんなはずはない。たとえスクエアが成功したとしても私は李実に肩を叩かれ私は木津岡の肩を叩くだけで、五人目と接触するのは木津岡と橘だけなのだ。だから橘が見栄を張って五人目に肩を叩かれる可能性のある『1』を選んだとき、馬鹿だなこいつはと思ったのだ。
だから今私に近付くその何者かは李実であり五人目であるはずなんて万が一にもありえない。
そう頭では分かっているのだが。
走ってきたであろう何者か(おそらく李実)に肩を叩かれた瞬間、私は陸上選手の如く『4』から『1』へ全力疾走した。
歩いてなんていられなかった。走った。速く走った。
肩を叩かれたその感触を打ち消すように。この暗闇から逃れるように。この儀式が一刻も早く終わるように。たとえどれだけ速く走ろうと儀式の時間や成立には一切関係ないのだが、それを理屈では分かっているのだが、私はとにかく全力で走った。この恐怖を肉体的疲労で消滅させるために。
すぐに私は『1』に着いた。
ここは確かに教室の角、『1』。私は壁に手をついて、8mの全力疾走のために乱れた呼吸を必死で整えた。
そして気付いた。
『1』に、着いてしまった事実に気付いた。
おかしい。ここには、絶対に、木津岡がいるはずだ。それはもう、絶対だ。
今の配置は、初期位置から動いて、橘1→2→『3』、李実2→3→『4』、私3→4→『1』、木津岡4→『1』となっているはずだ。
そして仮に、あくまで仮に五人目がいるとするならば、現在『2』にいる、はず。
『1』には木津岡がいる、はず。
しかし今、目の前に、木津岡は、いない。
どこに、まさか、闇の中に、消えたとでも、云うのか?
私は必死に前方を睨みつけた。『1』から、『2』の方向をじっと見た。闇が広がるばかりで、何も見えはしなかった。
「おい、木津岡…木津岡!一体、どこに…」
思わずルールを破って声を出してしまった。
その瞬間。
私の目の前に、背中が現れた。
闇の中から、背中が、現れた。
馬鹿な。
私はずっと前方を見ていた。勿論、視野の許す限り、右も、左の壁も見つめていた。
しかし今目の前にある背中は、前からも、左右からも、そのどこからもやってはこなかった。どこからか、まるで闇の中から突然現れたように、物言わぬ背中は、現れた。
やはり闇の中で、服の色や模様はよく分からない。
もしや、この、闇から登場したこの者こそ、五人目・・・なのか?
私は、その肩をタッチした。まるで誘われるように、それに触れた。
すると、その背は駆け出した。急いで、闇の中へと走り去った。
そしてしばらくして。
「ぎゃあああああああ」
「うわあああああああ」
また、橘と木津岡、らしき悲鳴。
そしてゲームは加速した。
数秒も経たない内に私は背を叩かれ。次の地点に全力疾走。
そこには何者かの背があって。
その者が駆けていくと。
「ぎゃあああああああ」
「うわあああああああ」
また悲鳴。
頭が、おかしくなりそうだった。
これは一体なんなのだ。
終わるはずの儀式が、終わらず。
何度も繰り返される二人の悲鳴。暗闇から現れる謎の人物。恐怖からか、狭い教室を全力疾走する私。はあはあと息を整える間もなく、何者かに肩をタッチされ、またくり返される、悲鳴、悲鳴。心なしかドカンバタンと異質な音も聞こえてくる。まさかこれが幽霊の存在を意味するラップ音と云うやつか。
私は泣いていた。意味が分からなくて。
私の泣きじゃくる音に、やがて李実らしき人の泣きじゃくる音も重なり、また橘や木津岡らしき泣き声もそれに重なり。
恐怖に支配されたこの儀式は、唐突に終わりを迎えた。
「お前達、何をやってるんだ!」
私たちの地獄の饗宴はおそらく相当にうるさかったのだろう。学務係でよく見掛けるお兄さんが、この講義室の扉を開いた。
廊下の照明が、開かれた扉からこの講義室全体を照らす。
私は『1』の位置から(おそらく3→4→1→2→3→4→1と経過したのだろう)、光に照らされた講義室全体を、眺めた。
そこには、学務係のお兄さんを除き、たった四人しかいなかった。
五人目は、いなかった。
その四人は、全員が本気で泣いていた。泣きっぱなしの私、やはり泣きっぱなしの橘、当然泣きっぱなしの木津岡。そして、困惑した表情で「分からない…」と呟いた、李実