中
「お味は如何かな、テレンティア嬢」
ラスカーの父であるデニス・ローゼンフェルド伯爵に尋ねられ、テレンティアは花が綻ぶように笑った。
「とても美味しいですわ」
「それは良かった」
微笑みかけられたデニスはでれでれと相好を崩した。その横で、妻エリヴィラも微笑まし気に見守っている。
会話を耳にしながらも、デニスの反対隣に座っているラスカーは無表情で食事を食べすすめた。その隣のマルセルは苦いものを噛みつぶしたかのような顔をしている。
伯爵夫妻とテレンティアだけが笑っている。ローゼンフェルド家で時たま行われるテレンティアとの会食は、いつもこんな感じだった。無言の兄弟を尻目に、テレンティアは完璧なマナーで食事をしつつ、夫妻との会話をいつも卒なくこなしていた。
幼少の頃から美しさを褒め称えられ、蝶よ花よと育てられたテレンティアは、完璧な淑女である。頭脳明晰、容姿端麗、マナーも完璧。楽器の類も一通りこなし、歌わせればそこらの歌人など裸足で逃げ出す。
欲するものが何でも手に入ると令嬢というと、とんでもない我儘だと思われがちだが、そんなこともない。テレンティアが時々周りに囁くのは、ほんの小さな可愛らしいおねだりだ。
そもそもテレンティアは、あまり何も欲しない。かといって差し出されたものを拒むこともないが、笑顔で受け取って柔らかくお礼を述べる姿に、また信者が出来ていくのだ。
そんなテレンティアだが、ラスカーの前でだけは悪態をついた。褒められた行いではないのだろうが、人前ではきちんとした淑女である。言われるラスカー自身も何も動じていない。実際には動じていないわけでなく、それなりに傷ついてもいたが、如何せん顔には出ない。
流石に両家の家族と親しい者達は知っているが、困ったものねと眉を下げるだけで、別段注意もしていなかった。どうやら喧嘩するほど仲が良いと思われていることに、ラスカーは最近になって気がついた。実際には違うのだが。ラスカーは言い返さないし、一方的に睨まれるだけで、喧嘩ではない。
「なぜそのタイなのです」
例えば今。食後、ラスカーの自室へと顔を覗かせたテレンティアにいつものように睨まれて小言を言われても、ラスカーは何も言い返さない。
だからこれは、あくまでも喧嘩ではないのである。
ラスカーは自分のタイの色を確認した。灰色。自分としては、仕事終わりに騎士服から着替えただけでも十分かと思っていたが、どうやらテレンティアのお気には召さなかったようである。
「わたくし、申しましたわよね? 今度からはいつもあのタイを着けてくださいと」
確かに言われた。だがしかし、本気だったのか。
「それは、そうですね。確かにそうおっしゃいました」
「ではなぜ着けないのです?」
「あれ1つをいつも着けていては、すぐに傷んでしまうでしょう。いつもとはいっても、正式な夜会の時だけかと思っていました」
「わたくしがすぐに痛むような安物を贈るとお思い?」
あれは誰かからテレンティアへの贈り物ではなかったのか。今の口ぶりだとテレンティアが選んだように聞こえたが、まあ言葉の綾だろう。ラスカーは何も突っ込まず、黙って言葉の続きを待った。
「……ですが貴方がそう思われるとは、わたくしが迂闊でした。明日にでも幾つか同じものを届けさせますわ」
どうやら本当にあの色のタイだけを着けさせるつもりらしい。
「テレンティア嬢はあの色が好きなのですか」
「好き、嫌いの問題ではないですわ」
「はあ、そうですか」
「…………あ、貴方は、あの色を見て何かお思い? お、お嫌いかしら?」
なぜか急にもじもじし始めたテレンティアに、ラスカーは首を傾げた。お手洗いにでも行きたいのかと思ったが、さすがのラスカーでも女性にそんなことを聞くのは失礼だと知っていたので、懸命にも黙っていた。
あの色を見て、何かを思い出すか。レヴォリにも同じようなことを聞かれた。実を言うと、そう問われて思いつくものが、ラスカーには1つしか無かった。
「……そうですね、貴女の瞳を思い出します」
「!」
何と言っても、全く同じ色なのだ。よくここまで一緒の色で染められたものだと思う。
「綺麗な色で、好きですよ」
「!」
何と言っても、幼い頃からずっと見つめ続けてきた色だ。家族の誰よりも、目と目を合わせて向き合っている時間はテレンティアが1番多いだろう。
それほど身近にある色が嫌いだとは思わないし、むしろ綺麗で好ましい。慣れ親しんだ色だ。
そう思ったままに伝えると、テレンティアは顔を真っ赤にさせて口を開けた。また怒らせてしまったのだろうか。
「あっ、あっ、あなた……っ」
「はい」
「わっ、わたくしは………っ」
「はい」
何を詰られるのかと待ち構えていたが、テレンティアは何も言葉が続かない様子だった。目元を抑えると、ふらふらと力なく傍のソファーに腰を下ろした。
その様を見て、ラスカーはまたも首を傾げる。もしかしてこれは怒っているのではなく、具合が悪いのではなかろうか。
心配になり、くたりと座っているテレンティアの足元に跪くと、脈をとろうとその手を取ったら。
「!?」
弾かれたかのようにテレンティアが目を見開き、ラスカーの手を振りほどいた。振り払われた手が所在なげに宙に浮き、ラスカーはそっとその手をおろす。
悲しみが湧かないわけではないが、嫌われているのは分かっている。いつの間にか、手に触れるのも嫌なほど嫌われてしまったとは思わなかったが。
こんな時、表情の変わらない己の顔は、便利だとすら思う。何もなかったかのように、テレンティアに接することができるから。
テレンティアの瞳を見つめると、彼女は赤い顔のままあちこちに視線を彷徨わせていた。
「具合が悪いのですか」
「……何てことないですわ」
「そうは見えませんが。今夜はここで休まれると良い」
「えっ」
「客間を用意させましょう」
「……まあ、そうですわよね。ええ、そうだとは思いましたけれど」
「何か?」
「何でもないですわ。帰宅できますから問題ありません」
赤い顔から一転、舌打ちでもしそうな険しい顔で、テレンティアが立ち上がった。足取りもしっかりしているし、本当に大丈夫なのだろう。
歩き出す彼女に手を差し出そうとしたが、先ほど振り払われたことを思い出してやめた。それでもやはり心配で、思わず声は掛けてしまう。
「明日はラセーヌ女史のいらっしゃる日でしょう。あまり無理はしないように」
ラスカーの言葉に、テレンティアは歩みを止めた。
「……よく覚えていらっしゃるのね」
「それは、まあ」
「あなたが我が家に滞在なさったのは、10年以上前ですのに」
そんなにも経つのかと、ラスカーは久々に思い返した。ラスカーがテレンティアと毎日顔を合わせたあの1年間は、もう10年以上前になるのか。
ラスカーの言葉に否定をしなかったので、明日はラセーヌ女史がテレンティアの元に語学を教えに来る日で間違いないようだ。10年前と変わることなく、彼女は目の回るような日々を送っているらしい。語学に帝王学に数学、はたまた天文学に舞踊まで、ありとあらゆる家庭教師が訪れる、あの日々を。
体調が悪いのならば休めばいいと思うけれど、他でもないテレンティアがそれを良しとしないのだろう。明日もきっと、何事もなかったかのように予定をこなすに違いない。ラスカーが止めたところで、きっと無駄なのだ。
それでも、再び歩きはじめたテレンティアが危うい気がして、ラスカーはまたしても声をかけてしまった。
「お待ちください」
「まだ何か?」
「マルセルを呼びます」
「何故マルセル様を呼ぶのです」
「貴女は、マルセルに送らせる方がよいかと思いまして」
ラスカーが言うやいなや、テレンティアは目を見開き、次いで親の敵でも見るかのような目でラスカーを睨んだ。どうやらラスカーは間違えたらしいが、もう遅い。
「―――あなたのそういう所が、たまらなく憎く思えるのですわ」
吐き捨てるように言い放ち、テレンティアは部屋を出て行った。
*****
テレンティアとの会食の翌日。日勤のラスカーが日暮れともに帰宅すると、珍しくマルセルも帰宅しているようだった。普段は王宮勤めの文官として、ラスカーよりも余程忙しくしているのに珍しいことだ。
「兄上」
ラスカーが帰宅するのを待っていたようで、自室に入り上着を脱いだところでマルセルがやってきた。
「お疲れ様でした」
「ああ、お前もお疲れ様。珍しいな、こんなに早く帰ってるなんて」
「あの女がわめいて仕事にならなかったのですよ」
マルセルは顔をしかめ、忌々しげにそう言った。マルセルがあの女と呼ぶのはただ一人、テレンティアだけである。
どうやらテレンティアは、今日も今日とてマルセルの元へ押しかけていたようだ。昨日ラスカーが不快な思いをさせてしまったことの愚痴でも言いに行ったのか、はたまたマルセルと2人で会いたくなったのか。
どちらであるにせよ、ちくりと痛む胸には気づかぬふりをした。
「それはすまなかった。私はまた、彼女を不快にさせてしまったようだから」
「兄上が謝ることではありませんよ」
ふう、と重い息を吐き、マルセルはソファーに腰を下ろした。その向かい側にラスカーも腰を下ろす。
「本当に、兄上は悪くない。それなのにあの女が僕のところへやってきてはわめくから、良からぬ話が広がるのです」
良からぬ噂の見当はつく。ラスカーはとんでもなく恐ろしいとか愚図だとか、テレンティアが好きなのは本当はマルセルだとか、そういうものだろう。殆ど合っているのが悲しいところだが。
「言うまでも無いとは思いますが、誤解しないでくださいね兄上」
「もちろん正しく理解している。他の者から見れば、私は素晴らしい婚約者を得た幸運な男であるくせに、笑顔にすら出来ない愚か者なのだろう」
「だからそれが誤解で、兄上の思い違いだと、何度も言っているでしょう」
こう言った話になると決まって口にするラスカーの決まり文句に、マルセルもまた決まり文句で返した。
マルセルはいつも、ラスカーの考えは全て違うと言い張るのだ。気を遣ってくれているのだろう。優しい弟を持ったものだとしみじみ思う。
「幸運なのは兄上ではない。兄上を手に入れたテレンティアの方です」
不本意で仕方がないといった様子で言い放ち、マルセルは苛々と足先を上下させた。
「陛下の御前の婚約でなければ、僕が何がなんでも婚約を破棄させていましたよ」
マルセルはそれほどテレンティアのことを好いているのか。ラスカーは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
けれど、婚約者を変えられないのが現実だ。マルセルとテレンティアが正式に結ばれることなど、ラスカーが不慮の事故で命を落としでもしない限り、あり得ない。2人には本当に辛い思いをさせてしまっているのだろう。
「そうは言っても、婚約は破棄できない」
「…………そうですね、分かってはいますよ」
「すまない。だが破棄できない代わりに、私なりにテレンティア嬢を大切にしたいとは思うのだ。せめて不快にさせない程度の仲にはなりたいとも思っている」
「あんな女を大切にだなどと……兄上はなんてお優しい……」
ぼそり、とマルセルが吐き出した言葉はラスカーの耳には届かなかった。
マルセルは大きなため息をつき、前髪をかきあげて憂鬱そうに足を組む。本当にラスカーの弟かと疑いたくなるくらい、よく表情の変わる弟だ。
もしもラスカーがマルセルのように笑うことができたら、テレンティアも自分を少しは好いてくれるのだろうか。
自分ですら想像も出来ず、ラスカーは小さく息を吐いて苦笑した。苦笑したつもりだが、悲しいことにマルセルですらこれが苦笑だとは分からなかった。
「本当は、このことを伝えるつもりはありませんでした。あの女が喜ぶことは極力したくなかったので」
ひどく忌々しげに、マルセルが言葉を続ける。
「ですが、兄上の憂いが少しでも晴れるのなら、仕方ありませんね」
そう言うと、胸ポケットから紙切れを取り出した。小さく畳まれたそれを広げ、テーブルの上に置く。ラスカーは少し身を乗り出し、差し出された紙を眺めた。
「何組かの婚約者同士で、郊外の湖へ出かける企画があるそうです。2人で行ってきたら良いのではないですか?」
「私と、テレンティア嬢とが?」
つまりは集団デートというわけか。
日時は2週間後。今すぐ申請を出せばなんとか休暇を取れるだろう―――が、しかし。
想像してみて、ラスカーは力なく首を横に振った。
「彼女はつまらないだけだろう」
「そんなことは絶対にあり得ません」
「しかし……」
ラスカーと外出して、本当にテレンティアは楽しいのだろうか。
今まで2人で出かけたのは、夜会や茶会、他家での会食など。数年来代わり映えの無い内容だ。殆ど年中行事と化していると言っても過言ではない。
そしてそのどれもで、ラスカーはテレンティアを笑顔に出来た記憶がなかった。大体がテレンティアを不機嫌にさせて終わっている。
どう頑張っても良い結果が想像できなくて渋るラスカーの背中を、マルセルが押した。
「テレンティアには伝えておきます。僕としては非常に不本意ではありますが、2人でよく話せる良い機会でしょう。兄上が2人の関係にお悩みなら、行って損はないかと」
確かについさっき、関係の改善に前向きな発言をしたのは、他でもないラスカーである。
このまま何もしなくてもテレンティアとの結婚は近づいてくるが、何もしないのに2人の関係が好転するわけがない。此処は1つ、行動を起こしてみるべきか。
ラスカー・ローゼンフェルド24歳。一世一代の覚悟を決め、首を縦に振った。