前
テレンティア・フリードマン伯爵令嬢は、欲するもの全てが手に入る。
実しやかに囁かれるこの言葉は、社交界では誰もが空んずることのできるほど有名であった。
美しい宝石やドレスは言うまでもなく、異国でしか作られない珍しい織物や花々、天下一と言われる芳しき香水や、至高の音楽まで。彼女が欲するものは、何でも手にできるという。
それは伯爵家の行う手広い貿易や、家自体の地位や財力のおかげでもあるけれど、彼女自身の美貌が殊更強い力を発揮していた。
輝く黄金の髪、鮮やかな蒼の瞳、何処までも透き通る白磁の肌。数百年前、この世で最も誇り高く美しいとされた姫に生き写しと称されるその美貌は、彼女の望みを何でも叶えた。
喉が渇いたと呟やけば気にいりの果実水が目の前に、小腹が空いたと呟けば焼きたての菓子が目の前に、寒いと呟けば新作のドレスが目の前に。欲したものは、瞬く間に目の前に現れる。
彼女の美貌の虜になった者達がそこら中に蔓延り、信者のように貢ぐのだ。微笑むだけで、贈り物の山ができると言われているほど。その信者の中には各界の大物やその子息、はたまた他国の重役や、王子や姫も含まれるという。噂ゆえの誇張もあるだろうが、真偽のほどは定かではない。
そんな状態なので、テレンティア・フリードマン伯爵令嬢は、欲するもの全てが手に入る。欲しないものでさえ手に入る。
そんな彼女が唯一、手に入れることができなかった『欲しいもの』は、婚約者である―――
「ラスカー様」
―――と、今まさに渋面の彼女に名を呼ばれた、ラスカー・ローゼンフェルドは考えていた。
「何でしょうか、テレンティア嬢」
できる限りの優しい声音で返答すれば、テレンティアは更に顔を険しくさせる。今日も今日とて彼女は不機嫌そうだ。また何か失敗をしてしまったかと思うものの、どう機嫌を取れば良いかも分からない。にこりと微笑み、最近人気と噂される俳優のように甘い言葉でも囁やけば、彼女の機嫌も治るのかも知れないが、ラスカーには到底出来ない芸当である。
自他共に認める程、ラスカーの表情筋は死んでいる。赤子の頃から笑わなかった。あの手この手で笑わせようとした実の母さえ、彼が生まれて数カ月で匙を投げ、床に崩れ落ちて自身の無力さを嘆いたことは社交界でも有名である。それに加えて泣きもしないので、この赤子の中身は本当に幼児かと、達観した大人ではないかと疑われてもいた。そのことをラスカー自身は覚えてもいない。つまりは本当に自我も何もない、ただの赤子であった。
そのまますくすくと成長したラスカーは、武の名門ローゼンフェルド家の長子らしく立派な騎士となり、国立騎士団に勤めている。若くして頭角を現し、昇進を重ねる彼についた渾名は『鉄面の魔王』。影でこそこそ呼んでいるつもりらしいが、ラスカー自身の耳にも入るくらいには有名である。
微笑みかけたところで笑いもしない、睨んだところで怯みもしない。大きな体躯で剣を振るう姿は見るものを竦み上がらせ、流す視線は人をも殺す―――と言われているが、実際には平和そのもののこの国で、ラスカーが人を殺したことはない。ひどい言いがかりである。
ラスカーの表情筋は死んでいるが、感情がないわけでもないし、ましてや残虐でもない。幸いにも、早々に諦めをつけた家族や親しいものはそのことを知っているので、ラスカーに辛く当たることもなく、彼自身も別段困ったことは無かった。両親やひとつ下の弟は、普通の人よりも表情筋が豊かな方なので、血筋と言うわけでもないらしい。
そんなこんなで表情筋を鍛えようともしないまま、生を受けて早20数年。そのツケが回ってきているなと内心困り果てながら、目の前でこちらを睨み上げるテレンティアを見下ろした。
彼女はラスカーを上から下までじっくり眺め尽くした後、忌々しげに口を開いた。
「今日のタイのお色は、如何なされましたの?」
「如何、とは。何か不都合でもあるでしょうか」
「酷いお色ね」
酷い色。この緑のタイは何かがいけなかったらしい。
今日は着慣れた騎士服でもなく、更にテレンティアの隣に並ぶのだからと、上から下まで母や女中に選んでもらったので、流行遅れでも無いと思ったが。いつでも流行の最先端を行く彼女が酷いというのだから、酷いのだろう。
「それは気づきませんでした」
「今すぐ変えたほうがよろしくてよ」
「そうですね、では」
弟ならば、タイの1つや2つは予備で持ってきているかもしれない。とりあえずそれを借りようと踵を返したら、テレンティアが高い声をあげた。
「お、お待ちになって!」
「はい」
すぐさまUターン。待てと言われたら待つ、それがラスカーだった。
もう一度見下ろしたテレンティアは、先程よりも立腹しているようだった。目に力が入っているし、心なし赤い。
「違うタイなんて持っていらっしゃらないでしょう」
「弟が持っていると思いますので、借りようかと」
「えっ、あ、マ、マルセル様は無理ですわ」
「無理、とは」
「………その、そう、そうよ、先ほどタイにお飲み物を零していらっしゃったもの」
そんなことをしていただろうか。
人の集まる広間でそんなことをしていては目立つと思うが、ラスカーは気づきもしなかった。見逃してしまったらしい。騎士として常に周りに気を配らねばならないというのに、非番だからと随分気を抜いてしまっていたようだ。
「そうなのですか。ですがもう1つくらい持っているでしょうし、探して、」
「に、2回! 2回零していらしたわ!」
「……2回もですか」
そんなことをしていたのか。気づかなかった己も己だが、弟も一体何をしているのか。
それにしても、テレンティアはマルセルのことをよく見ているようだ。ラスカーと違い、マルセルは淑女にとても人気がある。顔の作りはほとんど変わらないはずだが、如何せん弟はよく表情筋が動くのだ。
役者よろしく、全ての女性に笑いかけ、甘い言葉を投げかける。マルセルに落とされた女性が集まって会合を開いているほどだと聞くし、もしかしたらテレンティアもその中の1人なのかも知れない。
「もしも3つ持っていらしたとしても、お色が合うか分かりませんわ」
「愚弟のことですので、テレンティア様のお眼鏡にもかなうものを持っているかと思いますが」
「そ、そうではなくて、何色でも良いわけではないのですもの」
どうやらテレンティアの中で、これと決めた色があるらしい。いくつもある色彩の中で答えが1つとは、きっとラスカーでは正解を導き出せない。
ラスカーが小さくため息をつき、見下ろした先で、彼女はより一層難しい顔をしている。タイの替えも持ってきていないのかと、目の前のラスカーに怒りが爆発しそうなのだろう。これは早めに退散したほうが良さそうだ。
「申し訳ないですが、テレンティア嬢。今夜は別のどなたかと過ごしていただきたい」
「えっ」
「私は貴女の目にかなう替えのタイなど持っていませんので、お暇したほうがよいでしょう」
テレンティアとしても、ラスカーが視界に入らない方が不快な思いをしなくても良いだろう。そう思っての提案だったのに、テレンティアはサッと顔色を変えた。あちこち視線を彷徨わせ、こほんと咳払いする。
「し、仕様のないかたですわね。わたくしのタイを差し上げてもよろしくてよ」
そう言うと、扇の後ろから何やら細い小箱が出てきた。そんなところに隠し持っていたのか。
「タイをお持ちで?」
「もちろんですわ」
「貴女は女性なのに」
「……細かいことを気にするなど、器の小さい方がなさることです」
つまりラスカーは器が小さいらしい。
女性なのにタイを持っているのはおかしいが、テレンティアのことだ。何を持っていても不思議ではない。なにせ欲するものは全て手に入るのだ。そう思うことにした。
渡された小箱は丁寧にラッピングされていて、どう見ても未開封である。開けてもいいものか躊躇われたが、テレンティアに目で促されたので、そっとリボンを解いた。贈り主の誰かには申し訳ないが、そもそも女性にタイを贈るような気の利かない人物なのだから仕方がないと思うことにする。
箱の中に入っていたのは、鮮やかな蒼のタイだった。
「それをお付けになって」
「はい」
会場の端に移動し、人混みに背を向けてタイを付け替える。なぜかテレンティアも後をついてきていたので、振り返ったところで彼女の検査を受けた。テレンティアはもう一度上から下までラスカーを睨め付け、ようやく満足したのか、ほんの少し口の端をあげた。
「それでよろしいわ」
「そうですか。ありがとうございます」
お礼を述べたのに、テレンティアは一瞬で眉を寄せた。今の一言の何がいけなかったのかさっぱり分からない。
「あなたはそんななのですから、タイくらい明るいものをつけなければならないのですわ」
そんなとは、ラスカーの威圧的で暗く見える容貌のことを言っているのだろう。テレンティアによく思われていないことは知っている。テレンティアどころか殆どの人によく思われていない。
「今度からはいつでもその色のタイをお付けになってください。よろしいですわね?」
「いつでもですか」
流行だとか、気にしないのだろうか。テレンティアなのに。
「文句がありまして?」
ラスカーの思っていることが顔に出ているわけないが、テレンティアは何かを取り繕うかのように言葉を続けた。
「黙ってつけていればよろしいのよ。あなたはわたくしの、わたくしの、こ、婚約者なのですから」
婚約者。
その一言を発するテレンティアは、いつもひどく辛そうである。現に今も、真っ赤な顔をして、手にした扇を折れそうなほど握りしめていた。怒りか悲しみか、赤く潤んだ瞳できつくラスカーを睨みつけている。
テレンティア・フリードマン伯爵令嬢は、欲しするもの全てが手に入る。彼女が唯一、手に入れることができなかった『欲しいもの』は、婚約者。
『欲しくなかった』婚約者であるラスカーは、いつもその言葉を罪悪感とともに聞くことしかできないのだ。
*****
テレンティアとラスカーが婚約者となったのは、両家の親と、国王陛下の気まぐれによってである。
ラスカーが生まれる少し前、武の名門ローゼンフェルド家が、王家主催の鷹狩で優勝したことがある。その時の褒美に陛下が思いついたのが、ローゼンフェルド家とフリードマン家との婚姻であった。
武のローゼンフェルド、商のフリードマン、家格も同じ伯爵家。だがしかし、ローゼンフェルドにはフリードマンのような財力も歴史も無かった。遡ること数十年前、この国が戦を繰り返して国土を広げていた時代に頭角を現したのが、ローゼンフェルド家だ。現在のこの国が出来上がる過程で1番尽力したと言っても過言ではないが、平和となった昨今、急速に力を失いつつあった。その様を見かねての、フリードマン家との婚約である。
フリードマン家としても悪い話ではなかった。衰えたとは言いつつも、武芸においてローゼンフェルドの右に出るものはいない。国内外問わず、様々な権力者と商売をするにあたって、ローゼンフェルドを味方につけておくことは大きな牽制となる。
両家の親とも了承し、陛下に取りまとめられたこの婚約。両家ともまだ子供が生まれる前のことであったので、『長男と長女を婚約者とする』という、中々にざっくりとした内容であった。
取り決めから数年後、ローゼンフェルド家で生まれたのがラスカー。同じ年にフリードマン家で生まれたのが、テレンティアの兄にあたる、イヴァン。男同士だったのでこの時は婚姻とならなかった。翌年生まれたマルセルも男であったため、またも成立せず。
そうして幾年か経過し、フリードマン家に生まれた待望の女児が、テレンティアである。
大いに喜んだ両家は、あっという間に婚約をとりまとめた。ローゼンフェルド家には男児が2人おり、この時にはすでにラスカーが笑わないことで有名であったが、陛下の取り決めに則って、マルセルではなくラスカーが選ばれた。成長すれば笑うようになるかもしれないと、一縷の期待も込められていた。
ラスカー5歳、テレンティア0歳での婚約である。両者の正式な顔合わせは、テレンティアが3歳となった誕生日会にて行われた。
その場で初めてラスカーを見たテレンティアは、周りが大慌てするほど大泣きした。嫌だ嫌だと泣くテレンティアは、余程ラスカーが怖かったらしい。齢8歳にして、ラスカーの表情筋は死んでいたのだ。
そんなに嫌かと周囲は狼狽えたが、この婚約は陛下の御前での取りまとめであり、容易に解消することもできない。ただでさえ、この国において一度決められた婚約を覆すことは良い顔をされないのだ。どちらかが死別すれば話は別だが、殺すわけにも殺されるわけにもいかない。
どうしたものかと周囲を悩ませていた2人だが、ある時を境にテレンティアが嫌だと言わなくなった。皆が不思議に思いつつも、テレンティアも分別のつく年になったのだろうということで話は落ち着き、婚約自体も落ち着いた。決して良好な関係とは言えないものの、そういった経緯で今日まで婚約が続いている。
成長し、ラスカーが騎士見習いとして寄宿生活になると、テレンティアと会う機会はめっきり減った。精々社交シーズンでのエスコートや、両家の会食で顔を合わせるくらいである。
時折、稽古の合間を見計らったかのようにテレンティアが訪れて、何やら差し入れを置いて行くことがある。多方、王宮に文官として務めているマルセルにでも会いに来たついでだろうが。あの2人は随分仲が良いと、ラスカーは認識している。
嫉妬もするが、それ以上に申し訳ない気持ちが生まれるのは否定できない。ラスカーの方が後に生まれていれば、婚約者はマルセルだったのだ。先に生まれたばかりに、自分が彼女の婚約者になってしまった。テレンティアが欲しくない方の、婚約者。
彼女に会った後は、その申し訳ない気持ちを振り払うかの様に一層稽古に打ち込んだ。
今日も今日とて、先日の夜会でのテレンティアの発言を思い返しつつ、ラスカーは一心不乱に剣を振るっていた。
「聞いたぞラスカー」
稽古の合間、木陰に腰を下ろしたラスカーを見て、にやけた顔の同僚が寄ってきた。レヴォリという名のこの男は、ラスカーに怖気づかない貴重な存在である。
ラスカーの隣に腰を下ろすと、気安い仲のように肩を叩いた。
「テレンティア様から、蒼のタイを貰ったんだって?」
「よく知っているな」
相変わらず、レヴォリの早耳には驚かされる。少しも顔には出ていないが。
「で、どうだった」
「どう、とはなんだ」
「なんだ、って、え、もしかしてお前何も進展してねぇの?」
「進展? テレンティア嬢とか? なぜ進展などする」
意味が分からず首を傾げると、レヴォリは額に手をやって天を仰いだ。心底呆れ返った様子でため息をつかれたが、ラスカーには何故呆れられたのかさっぱり分からない。
「嘘だろこの朴念仁。社交界で蒼と言ったらなんだよ、分かるだろ」
「何か意味でもあるのか」
「そこからかよ」
もう駄目だ、と呟いて、レヴォリは頭を振った。
「テレンティア様には同情する」
「なぜお前が同情をするんだ」
「もういい、鈍感め。いつか愛想を尽かされるぞ」
「愛想など、元々持っていらっしゃらないが」
はあ、とまたもため息をつく。ぽん、と肩に手を置かれたが、ラスカーにはさっぱり分からない。
「兄上」
遠くから覚えのある声で呼ばれ、ラスカーは座ったまま視線をあげた。この場に兄という立場のものはごろごろいるだろうが、この声を間違えようもない。
見上げた先、少し離れた王城の回廊から、マルセルがこちらを見ていた。その隣には女性の姿。遠くからでもよく分かる、テレンティアだった。
テレンティアはラスカーと目が合うと、さっと視線を逸らして扇で顔を隠した。隣のマルセルが何やら笑いながら話しかけると、駆けるようにしてその場を去ってしまう。
何故か満足げなマルセルは、ラスカーに頭を下げるとテレンティアとは反対方向へと歩きだした。何か用かと思ったが、見かけたから声をかけた程度なのだろう。ラスカーも顔を戻し、ふうと息を吐いた。
「レヴォリ、お前も見ただろう。私はテレンティア嬢に嫌われているのだ」
マルセルと2人でいた。ラスカーと目が合っただけで逃げ出した。こんなのはいつものことだ。
鈍いと言われるラスカーでも、こんな反応ばかりされていては、いくら何でも気づく。たとえ直接言われたことはないにせよ、自分はテレンティアから嫌われているのだと。
テレンティアが『欲しかった』のは、弟なのだと。