5.再開
「──っ!」
意識が不意に覚醒する。
脈打つ鼓動に頭の裏を叩く心音。血圧が急上昇したためか軽い眩暈と強い不快感が僕を襲った。
状況を確認する。暗い視界に映るものは、布団、畳、タンス、通学鞄、柱、シンク、冷蔵庫、干したままの衣類、そして手元にはけたたましい音で鳴り続ける目覚まし時計。どうやら僕は布団に入って寝ていたようである。時刻は六時三十分を過ぎたところ。いつも通りの朝だ。
僕は安心してほっと胸を撫でおろし、うるさいベルを止める。
──なぜ、安心するのか?
喉に小骨がつっかかったような軽い違和感。朝自室で目覚める事がどこか不思議に思える。なぜだ、確か昨日は事故現場を後にして──家に帰って勉強してから寝たんだったか。
あれ? なんだ、いつも通りじゃないか。
きっと、この違和感は寝ている最中に見ていた夢かなんかのせいだろう。もっとも、夢をみていた感覚は無いが、もともと夢とはそういうものだ。
そう僕はまだどこか引っ掛かりを覚える僕を納得させ、布団を片付ける作業に入った。
朝食や身支度をすませ、通学鞄の中身に忘れ物が無いことを確認すると、部屋を出て玄関の鍵を閉める。
外は立ち眩みを覚えるほどに眩しい日光が刺していて、気の遠くなるような青空にはひどい倦怠感を覚えた。
僕はどこか覚束ない足取りで階段を下ると、海道荘を後にして学校を目指す。
通学路は昨日と変わらず、駅前の署名活動は果敢に行われている。組織的に行っているためかその顔ぶれは昨日のそれとは違っているように見えた。僕は視線を交わすことが無いように大回りして、その場を歩み去った。
やがて踏切が見えてくる。僕は時間を確認する、いつも通りの時間だった。昨日はこれより数分遅かったのだ。
まさかあり得ないとは分かってはいるが、昨日の今日である。真実を確かめるためにも、ここで待ってみることにした。
あるのは漠然とした不安。十中八九違うとは分かっている。ただ、僕はあれは見間違いだったのだと少しでも納得したいだけだ。
しかし、もしも本当に彼女が現れたとしたら──。
やがて警鐘が鳴り響き、赤い点滅を繰り返しながら遮断機が下りる。
不規則なリズムに前後不覚になり、時間の感覚が曖昧になる。ただ、目線だけは遮断機の向こう側を逃さないように意識を持っていて、眼球が脈打つような錯覚に襲われた。
そして電車が通り過ぎて行って──
ついに彼女は現れなかった。
∦
全く酷い倦怠感である。
通学路の最後に立ちはだかる校門へ至る坂道。そこを登板する僕は始業前にして、すでに色々と満身創痍だった。
そもそも学校前に坂道を作る意義が分からない。だいたいこの急斜面。もはや若者の運動不足を嘆いて作られたのではないかとすら疑ってしまう始末だ。
おまけに道行く人はそれなりに多く、いつも早めに教室に着く僕からすれば、それだけで心労がかさむと言うもの。それに、今日は行き交う学生の視線がなぜか鋭い気がするから余計だ。
そんな過酷な状況の中、一歩一歩乳酸が溜まる足を必死に動かす僕をあざ笑うかのように、一台の白いスクーターが通り過ぎた。
「はっはー! 有一発っ見~!」
大きな誤算だった。この時間帯はヤツと被るんだ。
最悪だ……少し死にたくなる。
「おはよう……中郷」
「元気がないぞ~有一! そんなでは、これから始まる俺の熱くて甘くてスパイシーな青春についてけねーぜ?」
「それは間違っても味わいたくない青春だね……と、いうか始める気なんだね……」
涼やかにニヤニヤして並走する中郷、相変わらずにじみ出る狂気には脱帽する他ない。しかし、今日の彼はいつもよりどこか浮ついているように見えた。また面倒事が始まってしまう予兆めいたものがあったのだ。
「ふふふふ、そう! 今日からが青春なのさ! 神は! けして俺を見捨てはしなかったのだ! はっはっはっー! うげぇっ!?」
意図せずアクセルを急にふかしすぎたらしく、彼は高笑いを置き去りにして前にすっ飛んでいった。幸い、うまく人込みの無いところを突っ切ったようである。彼がここに戻ってくる気配が無いことは僕にとって僥倖と言うべくほかない。
「……なにあれ、とうとうネジが外れちゃった系?」
僕のすぐ側で声がして声の方に顔を向けると、すっかり呆れた表情をした柊さんが立っていた。
「違うよ、中郷の場合は頭が外れてきたんだよ。止めるネジなんてもともと無いから」
「普通に怖いわ! でも、彼の場合は妥当な表現かも」
そう言ってくすり、と彼女は微笑した。彼女が歩き始めると僕もつられて隣を歩く。こうして歩くのは久しぶりで、どこか懐しく思えた。
「にしても、桐谷君はよくあんなのとつるんでられるわね……。私だったら三日と言わずに発狂している自信があるわ」
数分とかからず発狂していたことは伏せておくのが賢明か。
「つるんでいるように見える? 心外だなぁ」
あれは脅迫のようなものだと思うんだ、僕は。
「だって、毎日一緒にいるんでしょ? それってつるんでるって言わない?」
「違うよ。あれは勝手にアイツが寄ってきてるだけ。僕からアプローチすることは決してないよ」
「それはお気の毒に……」
「それにアイツが一人で何かをすると決まって被害が大きくなるんだ。だから僕は無視したい感情を抑えながらも嫌々付き従うしかなくって……。はぁ」
「ほんと、よく正気でいられるわね……。けど、共犯者になるくらいならほっときなさいよ? そこまで付き合わなくても、いずれアレは間違いなく犯罪を犯すから。確実に。断言できる」
「ははは……、気を付けるよ」
そう、僕は力なく答えた時、目の前に迫った校門の奥に、談笑している生徒や、所在なさげにぶらついている生徒、壁にもたれながらスマホを弄る生徒など、いつもの日常が視認できた。
しかし、若干の違和感。始業十分前を切ろうとしているというのに人が多すぎる気がするのだ。それに、ほとんどの人の目線が忙しなく移動しているように感じた。
それは、まるでなにかを探っているような。
「なんか、今日変じゃない? 物々しいというか、おどろおどろしいというか……」
隣の柊さんに尋ねてみる。彼女は周囲を一瞥すると、つまらなさそうに答えた。
「情報部じゃないの? 馬鹿馬鹿しい」
「いや、情報部にしては多すぎるって」
僕の知る限り、最近増えてきたとは夢路さんから聞いていたが、これではまるで野球部並みの人数じゃないか。
「彼らは多分、報酬目当ての一般生でしょ。隠すにしても目立つにしても行動が中途半端すぎるもの」
「あぁ、なるほど。けど、それでも多いなぁ……」
いくら有益情報を提供すれば先着順で話題性のある情報が貰えるからって、こんな大人数はなんでも集まりすぎだ。
これまでにも、クラス替えのメンバー表や座席表、新入生のスペック値、文化祭のイベント内容等で情報部の活動が様々な形で表面化することはあった。しかし、今回のはそれらの時とは一線を画す様相である。いや、別物と言っても良い。
「それだけ、みんな知りたくて仕方がないことがあるんでしょ」
そう言って彼女はもう一度周囲を一瞥すると、渋い顔をして「どこまで本当か分からないのにね」と、付け加えたのだった。
∦∦
昇降口で柊さんと別れ、教室に入ろうとその敷居を跨ごうとしたとき、急激な違和感に襲われる。
背筋を逆なでにされたような、恐怖。あってはならないものを目にしてしまった、畏怖。本能がその光景を根底から否定する。
体の筋肉が全て一瞬硬直し、呼吸さえ忘れた。
僕の机のすぐ後ろで起きているそれは──
「おきょっ、きょきょきょ~! 机机机~すりすり~♪」
中郷が自分の隣席である空席を雑巾がけしている。
僕は自分で自分が何を見ているか分からくなった。いや、見ていたことすら否定したい。しかし、残念ながら僕の席の近くのために無視が出来ない!
なんなんだこれは、現実にあって良い事象なのか。もしかしてこれが世紀末ってやつなのか。
「やっときたか桐谷! アイツを早くどうにかしてくれ!」
世界の終わりを覗き込んだかのような憔悴しきった顔で佐田浜が懇願してくる。他のクラスメイトの表情もどこかげっそりしているように見えた。
「一体、何があったのさ? 中郷が空席を掃除するなんて、地球に小惑星が衝突するより珍しいことじゃないか」
「俺も詳しくは知らない。ただ、最初の方は青春がどうこうとのたまいながら、とち狂っていたようだ。いつも狂ってはいるが」
「青春ねぇ、う~ん」
そういえば、さっきの坂道の時にも言ってたな。それでなんで机を掃除するのか訳が分からない。いや、分かりたくない。
「とにかく頼んだ。誰も不気味がって近づけないんだ」
「はぁ……なんでいつも僕ばかり」
そう独り言ちながらも僕は一歩一歩ゆっくりと、中郷を中心とした異界じみた空間に接近していった。
中郷は床掃除用の雑巾を片手に、机の至る部分を磨き続けていた。呪文のような奇怪な唄が更に不気味さに拍車をかけていて、しかも彼は満面の笑顔。
命の危険を感じずにはいられなかった。
最後の一線を踏み越えられずにいると、不意に振り向いた中郷と目が合ってしまう。おおげさに反応する彼に僕はやけくそ気味に適当な相槌を返して意思疎通を試みた。
「やぁ、中郷。今日もいつも通りだね」
「そんなことよりこれを見てくれよ! 机だ!」
「……うん、机だね」
意思相通、失敗……。
「ただの机じゃねぇんだぜ? なにせ俺の愛情が籠ってるんだ。実にプライスレスな一品だろ?」
その机は確かに他の机とは違い輝いて見えた。主に水に濡れすぎて。
「確かに値段はつけれそうに無いね……」
「だろう?」
彼はしゃがんで、椅子に頬を擦り付ける。周囲からは悲鳴が上がった。彼は相変わらず満面の笑みだった。
「これだけ綺麗にしたんだぜ。きっと座った彼女は一瞬で俺にメロメロだろう。ふけけけけ」
「そこの席は空席だからね……」
もしや彼はとうとう見えないものが見えるようになってしまったのだろうか。……有り得そうだから困る。
中郷は一瞬真顔に戻った後、不敵な笑みを顔いっぱいに広げ、どこか得意げに問いを投げた。
「知らないのか? 有一」
「分からない事だらけだよ……」
そう言うと彼は渦中の机に腰を据える。そしてもったいぶるように間を空け、その奇行に走る原因となった根源を自白した。
「ここに転校生が座るんだ。それも飛び切りかわいい子がな!」
その発言を受けて僕の心臓が大きく跳ねたのと、本鈴が鳴り響いたたのはほぼ同時だった。
得体の知れない不安がどこからともなくやってきて、思考の隅までも灰色に埋め尽くしていく。
「やべ、ファーストコンタクトは紳士じゃなくちゃ印象最悪だ。有一も早く座れ、そこは邪魔になるだろ!」
「あ、あぁ」
中郷に指摘されて我に返った僕はふらふらと自分の席に着いた。一歩が重たく、遠く感じた。
席に着いた僕はどこか落ち着かず、じっと机の深い溝を見つめる。しかし頭は否応なしに、このクラスに来るという転校生の事を考え出す。昨日から何度も繰り返し否定した可能性が、もうすぐそこまで迫ってきているようで、気が気でない。
不意に扉の開く音がする。僕はハッとなって扉の方を凝視すると、見並先生が入ってくるところだった。僕は息を少し吐いた。
先生は教壇の前まで来ると、いつものように不自然にゆっくりと挨拶をした。
「早速ですがHRを開始するに先立ちまして、重大な発表があります」
即時的に色めき立つ教室を、笑顔でもったいぶるかのように見回した先生は一息置き、口を開く。僕は拳を強く握りしめた。背中を冷たい汗が伝う。
「今日より、みなさんの一員となります転校生の紹介をしたいと思います」
教室のボルテージが一気に跳ね上がる。しかしそれとは対照的に僕はなかば恐慌状態に陥っていた。
まさか、そんな希望にも似た絶望に、降って湧いたような瞬間に、押しつぶされそうになる心が悲鳴を上げる。
「さぁ、行方さんどうぞ」
「はい」
鈴の鳴るような通る声。僕の目は扉を隔てて板一枚向こうにいる転校生の姿を透視せんとばかりに限界まで張り詰める。
だって、僕はその声を、名前を知っている──。
そして、扉の向こうから転校生は教室の敷居を超えて眼前に現出する。その姿を見て僕は、いよいよどうにかなりそうだった。
長く揺れる、黒絹の髪。大人びた憂いを帯びる表情に、光る瞳は月のよう。黒板の前に立つ転校生は、いつかの少女の面影を酷く残していて──
狂ったように脈打つ心臓が、頭をミキサーで粉々に砕くような痛みが、記憶に無い言葉を再生させる。
『君は明日、運命とも呼べる数奇な出会いを果たすことになるだろう』
──転校生はその懐かしい名前を、黒板に書き記す。
『しかし、順当な人生を、平穏な日々を望むなら』
──そして振り返り、告げる。
「行方 縁と言います。今日からどうぞよろしくお願いします」
なんで、どうして。
『そいつと関わるな』
彼女と視線が交錯する。その微笑んだ笑顔に僕は、反射的に顔を背けてしまい──底知れぬ戦慄を隠せなかった。




