3.誘い
けたたましいベルの音に突沸的に意識が浮上する。
気だるい、もうろうとした手探りでその音の発生元に手を伸ばし、ボタンを押した。ベルの音は鳴り止んだ。
同時に時刻を見ると六時三十分。いつも通りの目覚めである。
布団から這い出ると、布団を畳み、部屋の端へ。カーテンを開けるとただ眩しいだけの光線が目を焼いた。
軽いめまいを覚えながらふらふらと歩いてシンクに向かい、冷蔵庫から食パンを一枚とって口へ運ぶ。
……口の中の水分が吸い取られる。
お茶をコップに注ぎ、ごくごくと喉を鳴らして飲み干す。
そこから身支度を整えて部屋を出、鍵をした。今日は冬に逆戻りしたかのような冷たい風が吹いていたが、太陽の日差しは夏のそれのように燦々と鋭く射抜くように降り続いていて、日中は暑くなるのだろうなと思う。
そんなことを考えながら海の方を見ていた僕は玄関先で大きなあくびを噛み殺し、海道荘を後にした。
しかし、取波根市の朝は早い。
通学路を歩いていると、道端を掃除をする人やシャッターをそろそろと上げて開店準備に追われる人が数人いて、店の前では井戸端会議を始めている姿もある。駅前の立地ということもあって、朝一でやってくる観光客を逃さないという習慣だろう。それでも平日であるからにして客数も控えめで、活気だった、というよりはおだやかな朝の光景である。
しかし、駐車場面積だけはやけに広い取波根駅に近くにつれそんな光景は様変わりしていく。
「取波根の伝統と文化を守るため、カジノ反対の署名にご協力ください!」
「依存症で苦しむ人間を生まないために、子ども達の未来を守るために! どうか署名にご協力願います!」
数十人の老若男女が駅入口付近に整列していて、それぞれが独自の呼びかけで行き交う人々へ署名を促している。“カジノ建設反対”の文字が入った上りをかかげ、そろいの緑色の上着。カ反取連──カジノ反対取波根市連合協議会──は今日も変わらずの活動ぶりである。もっとも、その活動は連日連夜行われる訳でもなく、周辺店舗や観光客に配慮して平日のごく限られた時間にのみ行われているようだ。
マッさんによると、その構成員がもっぱら旅館や土産物屋の経営者、もしくは従業員であるからにして周辺の同業者への配慮は一層気を割いているとのことである。
僕はその数か月前に比べ、すっかり変わってしまった駅前に、どこか苛立ちを覚えながら足早に通り抜けた。
駅前を通り過ぎてしばらく歩き観光街を抜け、ちょうど道幅も細くなってきた路地のカーブを抜けた辺り、そこで周囲の風景が一変する。
第二取波根商店街と呼ばれている通りではあるが、今ではほぼシャッター街で商店街の形をなせていない。その様相は古き良き時代の墓標を想起させる。数店はか細く営業している店舗もあるそうだが活気は無いに等しく、崩れかかっているさび色の廃墟が放置されていたり、と荒れ放題の有り様だ。
こんな通りがあったり、かつての名旅館が潰れたりとしていたら観光都市取波根としては、いくら風光明媚な自然が売りとはいえ、起死回生の一手を打ちたくもなるのだろう。
マッさんの話によれば、カ反取連のような反対派だけでなく賛成派の人も決して少なくはないようで、さらに政府を上げて早期建設を後押ししているものだから、余計に現在の取波根市をかき乱す要因となっているそうである。
僕のようなただ生活する身分のものにとってははた迷惑……というわけにもいかないのか。
少なくとも、カジノが建設されればこの町が劇的に変わるのは火を見るよりも明らかで、そうなれば僕も確実に決して小さくは無い余波を被ることになるのだろう。無関係とは言えない。
賛成か反対かと聞かれたら──反対かな。あったはずのものが無くなって、積み上げていったものを否定されてしまうのは、嫌だ。
第二取波根商店街を抜ける。シャッターの閉まった店舗もまだらになり、古民家が立ち並ぶ区域を抜けると、先ほどの駅の延長線にあたる踏切が見えてくる。
僕がその踏切をちょうど視界に収めた時には、赤色が点滅していて遮断機が完全に降りきるところだった。
「はぁ……」
踏切を前にしてため息。この踏切、一度降りると長い間またされるのである。普段なら通過できる時間に出てきているのだが、今日はいつもより考え事をしながら歩いてきてしまったためにタイミングがずれたのだろう。これもマッさんとカジノのせいだ、などと悪態をついてみる。
断続的な警報音が続く中、僕は所在なさげに視線を踏切の向こうに投げると、反対側の道には同じ取波根高校の制服を着た女生徒が、背を向けて歩いていた。髪は長めで、腰元にまで届くぐらい。背丈は一五〇ちょっとくらいだろう、しかし、その凛と伸びた後ろ姿にはどこか大人びた気風が感じられる。
その背格好に酷い既視感を覚え、該当する人物に行き着いた時──僕は知らず踏切に身を乗り出していた。
「まさか、いや、そんなはずは──」
ありえない。まさか、彼女がいるなんて、ありえる訳が無い!
僕は暴れ続ける鼓動と沸騰しそうな血液にめまいを覚えながらも、必死に否定材料を探そうと目を凝らそうとして、
ブーーーーーーッ!!
響き渡る警笛で我に返り、咄嗟に身を引く──
ゴォッと目の前を轟音が通り過ぎていき、地面の硬さを感じた時になってやっと、危ないところだったんだと実感する。
そして慌てて起き上がり、踏切の向こうに映るはずの姿を探して、その姿がもう無いことに気づいた。
「見間違い……だよね」
数本の電車が通り過ぎて遮断機が上がる。車が脇を通り過ぎていく。そんな中僕は一人立ち尽くし、誰もいない対岸をずっと見つめ続けていた。
∦
「お~い、有一! いい加減に反応しろ有一!」
学校についてから早四時間が過ぎ、四限目も終わった昼休み。手短かに昼食を済ませた僕はいまだに踏切の一件のことを考えていた。
「遊ぶぜ有一! ……遊ぶんだぞ俺!? いいのか遊ぶぜ俺!?」
彼女はこの学校の制服を着ていた。つまりこの学校の生徒ということである。しかし、その姿をいままでの行事などで見かけたことは無い。
「よ~し、分かった。俺は俺と遊ぶから、有一は有一と遊べよ!」
よって、僕の見た彼女は見間違い……そうだ、そうなんだ。そうじゃ無いと辻褄が合わない。
「俺が俺と遊べる遊び……そうだ大富豪でもするか」
しかし、なんで僕は制服姿の彼女を見たんだ? 僕は彼女のあの姿を知らない。だからあんな具体的に容姿まで視認できるのはおかしい。いや、他人の空似だ。きっとそうだ。
「やべぇ、俺がついに大富豪に……これまで実に長かった……」
それでも、もし、彼女が本物で僕の目の前に現れたとしたらそれは──
「いいのか桐谷? 中郷がお前の机を彫刻刀で彫ろうとしているぞ?」
「え? 何やってんだ中郷!」
佐田浜の声に意識を目の前に戻すと中郷が、彫刻刀を机に突き立ててニヤニヤ笑っていた。僕は彼が狂行に走ることがないように、努めて慎重に彼を制止して彫刻刀を無力化した。それでも彼はずっと笑っている。キチガイだった。
「やっと大富豪になれたんだぜ、俺。ああ大富豪、やっとなんだぜ……。だからさ、第一回大富豪の記念に掘り込みをだな……」
「分かった。おめでとう大富豪。すごいね大富豪。だから、せめて彫るのは自分の机にしてよ……」
「それもそうだ、俺が大富豪になれたのは対戦相手の俺がいたからこそだからな。名誉の証を刻むのにふさわしい相手だ」
そういって、狂人は自分の机にいそいそと帰っていき、がりがりと机を掘り始めた。
「なんだかいつにも増して中郷おかしくない?」
と、僕の側に立っていた佐田浜を見て言った。
「まぁ、十分中郷はおかしいが……。多分お前が原因だろうな」
「僕?」
「ああ、今日はどうした。やけに元気がないというか、反応が鈍いぞ」
「ああ……うん。大丈夫だよ」
彼の心配気な声に僕は手元をみてしまい、しかし、どうにか笑ってみせた。
「……何かあったら言えよ」
「うん、ありがとう」
彼は怪訝そうな面持ちで僕を見ていたが、返答を聞くとすっと顔を中郷の方に向けて目を細める。僕もつられてそっちの方を見ると、中郷は立ち上がって何事か絶叫していた。どうやら指に彫刻刀をぶっ刺したらしい。
「あと、お願いだからアイツは放置しないようにな」
それに対して僕は引きつった笑い声で答えたのだった。
午後の授業も流れるように終わり、放課後。鞄に教科書を放り込み、席を立つ。
ちなみに中郷は宮川先生に捕まり、成績不振者の補習へと喚きながら強制連行されていった。なので、今はすごい平和である。
……午後の授業中もずっと考えていた踏切の一件。僕は、久しぶりにあの場所に立ち寄ろうと決心した。それでどうにか結論が出るわけでは無かったけど、少しでも心の整理ができれば良い、そう思った。
部活動に委員会と放課後の活動に活気づく廊下を後目に、階段を一人下っていく。
「あーっ! 見つけましたよ有一君!」
不意に階段の上方から背中に声を投げかけられる。
この声は、ああ面倒な人にみつかったな……
「何かよう? 夢路さん?」
「『何かよう?』 じゃないですよ! 授業中に送ったRINE! なんで既読スルーなんですか!」
そういうと彼女は階段を下りてきて僕の正面に向き合い顔を近づけてきた。柑橘系のシャンプーの匂いだろうか、甘酸っぱい良い香りがした。
「だってさ、調理実習の写真だけのせられてもどうコメントすれば良いのか分かないって」
そもそも授業中にスマホは使用禁止だし。
「だったら『言葉にできない』とか『絶句』とかで返してください! あ、いや、やっぱ今の無しで、それだとひどい出来みたいじゃないですか……傷つきましたよ、有一君」
「いやいや、それ勝手に自分で自分の感想に被害妄想繰り広げているだけだから」
そう言うと彼女は、ぷっ、と吹き出して大げさに笑った。
「ふぅ、大丈夫そうじゃないですか」
「え?」
「なんでもないですよ~」
そう言って彼女は一歩後ろずさった。
「大体、有一君はもう少しオープンになるべきなんですよ、私のRINEくらい適当に返してくれたらそれで良いですから」
「そうは言っても、文面を考えていると時間が経ちすぎちゃってね」
なんで、彼女やその同級生はあんな短い時間でさっと意思疎通ができるんだろうといつも不思議に思う。
「考えるんじゃないですよ、感じるんです!」
「それは難しいな」
「感じるといえば……いつも直感と本能だけで生きている馬鹿はどうしたんです? ついに死にましたか?」
「ああ中郷は補習だよ。ほら、春季実力テストの」
彼女は不思議そうに顔を傾けた。
「春季実力テストに補習……? 教師陣もとうとう彼の頭脳改革に一肌脱ぎだした、ということですか。なるほど、面白そうですね」
「まさか、中郷の補習って」
「多分マンツーマンの特別体制でしょうね。そこで彼は小学校レベルの算数から勉強を! うん、こうしてはいられません。わたし、現地に潜入取材してきます!」
「いつもの情報部? 毎度のことながら熱心だね」
「当たり前ですよ有一君。この学校で知らないことが有ったらいけない、その気概がわたしたち情報部の行動理念ですから!」
相変わらずの非公式部活動である。部員は結構いるとのことだが、どこまで知っているんだろうかと疑念が尽きない。
そうか、夢路さんになら聞いてみるのもいいかもしれない。
「どうかしましたか? 顔が恐いですよ?」
彼女は考え込んでいた僕の顔を、不思議そうな顔で見つめていた。上目遣いが心臓に悪い。
──いや、やめておこう。これは、きっと僕の心境の問題なんだ。彼女に聞いても心配をかけてしまうだけだ。
「ううん、なんでもないよ。それより早く行かないと補習が終わっちゃうんじゃない?」
そう言うと彼女は一瞬怪訝そうな表情を見せたが、転じて笑顔になり。
「それもそうですね! じゃあ行ってきますですよ!」
元気よく階段を上って行った。そして階段を上りきると、くるっと振り返り。
「明日は良いことありますよ~」
そんな預言者めいた発言を残して、去っていった。