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今日は明日の昨日より  作者: 森林中野
第一章 Clover
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2.日常#2


 勉強も一区切りついたところで僕はシャーペンを置き、時計を見上げる。時計の針はちょうど午後九時を回ったところだった。

 喉を潤したいと思い、居間から五歩歩いて冷蔵庫を開けると、中にあるお茶の2ℓペットボトル二本が目につく。飲み物は他に見当たらず残り少なくなってきていた。


 台所のシンクから適当なコップを取り出してお茶を注ぎ、ごくごくと喉を鳴らして飲む。数時間ぶりの飲み物はやっぱりうまい。体の細部に染み渡って行くのが分かるようだ。


 視線を上げて台所の窓から外を見る。すでに外はすでに真っ暗になっていて、時間の経過の早さに驚く。ついさっきまで帰って来たばかりだと思っていたが、ここ最近はそんな日々ばかりだった。


 そろそろ風呂に入ろうかと、居間のタンスから衣服を適当に掴み取ったところで、壁の薄い廊下側からドタドタと重い足音が聞こえる。


 この足音とこの時間──マッさんだろう。


 玄関のドアから鍵を開ける音がして急に開く。片手に買い物袋をぶらさげ、窮屈そうに扉を潜ってきた人物は、予想した通りのマッさんだった。今日のマッさんは髪がぼさぼさで背広もどこかよれている。一日事務仕事だったのだろうか。


「よぅ、有一。相変わらず不景気な顔だな」

「だから、いい加減入るときはノックぐらいしてよ……」


 ははは、と愛想笑いを返してきたマッさんは勝手知ったる我が物顔で台所を縦断し、流れるように冷蔵庫を開けた。


 僕のプライベートに対する概念はもはや皆無のようだ。いくらなんでも大家特権でやりたい放題するのは大概にして欲しい。


「大体予想通りだな、ペットボトル。足しとくぞ」


 そう言って、マッさんはお茶のペットボトルを買い物袋から冷蔵庫に入れていく。

 僕はとりあえず、持っていた衣服を床に置き、座ることにした。


「宅配弁当のリクエストは?」


 僕に背を向けた状態で問いかけられる。特に不満もないので「いつも通りで」と返す。すると「ほいほい」と面白くないとでも言いたげな声が返ってきた。

 マッさんは買い物袋の中身を全部冷蔵庫に移し替えると、立ち上がり、僕の対面に座った。


「以前話した家賃の件だが、どうなった?」


 そう言って見つめられる。僕は居心地が悪くなって窓の外を見た。まさか、前の帰り際に言われたその話が本気だとは考えてもいなかったのだ。


「はぁ、そうか……」


 マッさんは僕の様子から事情を察したらしい。実に深いため息である。


「だってさ、今まで遺産の方から引いて貰ってたのを直に手渡せって言われても実感が湧かないっていうか……小遣いに充てられていた分からじゃダメ?」

「ダメだ。自分で無くした金を今さら頼ろうとするな」

「生活資金を削るのは……?」

「それもダメだ。生活費を削った挙句、病気にでもなられでもしたら嫌だからな」

「じゃあ、どうしろって言うのさ」

「簡単だぞ有一。自分で、稼ぐんだ」


 荒唐無稽な回答に唖然とする僕。


「何も全額払えとは言っていないんだ、半額の二万円で良い。今月はもう無理だろうから来月からで許そう、必要なら斡旋もこっちでやってやる」

「ちょっと待って、働く? 僕が?」

「他に誰がいる」

「なんで?」


 自分が働くという言葉にはまるで現実味が無かった。そんな僕の狼狽ぶりが目についたのか、マッさんは見咎めるような目をする。


「それだよ、有一。生活ができて当たり前、金があって当たり前と思っているその考え方が問題なんだ」

「いや、僕は貴重なものだからその分使わないようにしているつもりなんだけど」


 マッさんはさらに目を細める。


「ほぅ、この殺風景で無趣味な部屋で、時間を買いに出かけもしないお前が、稼ぎもせずに金が貴重だと言うのか。ふん、妄言だな。それは使わないんじゃなくて使えないの間違いだろう」


 なんだか少し、頭にきた。


「違うの? 貴重なものって大切にしたくなるものでしょう?」

「ああその通り、大切にすべきものだ。だがな、お前のそれには実感が伴っていない」

「なんで決めつけるのさ」


 そう問いかけると、マッさんはふぅ、と一呼吸置く。その目はどこか遠くを捉えているように細められる。

 

「お前、今楽しいか?」

「え?」


 虚を突かれる。


「楽しいか? 高校二年生といえば思春期真っただ中で、受験も就職もまだ余裕のある期間だぞ?」


 目が僕に向けられた。


「それなのにお前は、部活に入らず、友達と出かけることもなければ、趣味に没頭する訳でもない。何をしているかと思えば勉強だけ、そんな高名な進学校でもないというのに、だ。目標、若しくは夢があるなら教えてくれ、そのための我慢だというなら分かる」


 無いんだろう? と目で問いかけてくる。それに対して僕は沈黙する他なかった。


「それでいて、安定した将来とか抽象的未来しか描けず、そんな曖昧な未来に対して奉公するぐらいだったら、我慢せずに行動して体験して経験するべきだ。そして楽しめ。お前にはそのための金があるだろうが」


 確かにそれは最もなのかもしれないと思う。しかし、僕はその先にある空虚を思い描くと、得るものがあると知っていてもつい何もしない方を選択してしまう。


 それにこっちにだって言い分はあるんだ。


「けど、マッさん。どんな経験をしても、どんな体験をしても結局は生活が安定していなきゃ意味ないでしょ。それに、こんな将来に何が起こるか分からないご時世じゃあ、備えは多い方が良いし、安定した職に就く方が良いと思うんだけど」


 そう僕が返すとマッさんは眉間にしわを寄せて、厳しい目をした。


「そんな、そんな山も無ければ谷も無い、面白味の無いような人生で良いのか、有一」

「それこそ決めつけだよ。だいたい安定して余裕ができてからでも、新しい体験や経験をすることはできると思うんだ。趣味とかはそこから見つければ良いと思う。下手に個が強すぎると足かせになりかねないからね」


 僕の言葉を聞いたマッさんは、深い、深い溜息を吐いて肩を落とした。その目線はあらぬ宙を見つめている。


「もっとも、探し出そうとしたときには後悔しているのだろうがな……。それこそ今言っても分からない、か」


 ふん、と不機嫌そうに鼻をならすマッさん。こわばっていた肩の力が抜ける。


「分かった。そこまで言うのなら一旦この話は保留としよう」

「えぇ、保留なの?」

「保留だ。次までにもう一度よく考えるんだな。自分の将来像をな」


 マッさんはそう言って大きな筋肉質の体をほぐすようにゆっくり立ち上がった。身を翻して、じゃあな、と短く告げる。しかし部屋を出るその時、背中越しの声を聞く。


「なぁ、有一。まだ、引きずっているのか」


 そうして今度こそ後見人は出て行った。僕は当たり前だ、と誰もいない暗い玄関を前に独り言ちた。


「だって、僕は赦されるはずが無いんだから」






 いつか遠く色褪せた記憶。走っているだけで全てが満たされた黄金の時間。今より世界の仕組みがもっと単純で、当たり前のように楽しく過ごせた夢のような空間。


 ──そうだ、これは夢だ。


 全てが懐かしく、ほほえましく、そして感じる遣る瀬無さ。

 何度も見て、何度も笑って、何度も後悔した、僕の失くしてしまった宝石のような回顧録。

 いつもこの夢の始まりは彼女の声から始まって、僕の心に鋭い切っ先を向けるんだ──。


「あーあ、またわたしのまけか~」


 ひどく、懐かしい声が響く。そして視界が広がっていく。


「ゆかりちゃん、よわすぎるよ。きりきりのと同じのにしたらどう?」


「いや、リーダー……僕のはちょっと形がおかしいからゆかりちゃんには似合わないとおもうよ」


 三人の小学生が公園で話している。背後の空は赤く、どうやら夕時のようである。

 彼らは紙飛行機を飛ばしあっていたようだ。


「けど、それが一番飛ぶんだから、一番よわいゆかりちゃんと合わせればいいかんじになるじゃん」


「だったらリーダーのをゆかりちゃんに教えてあげたら?それ、作るの簡単そうだし……」


「俺のはだめだ! あさからずっと考えて作ったスペシャルな紙飛行機だし、なにより俺のせんようきだからな!」


「けど、それ…紙丸めてセロハンテープでぐるぐるまきにしただけだし……そもそもセロハンテープ使うなんて……」


「うるさい! だいたい、きりきりのだって本をひろげただけみたいな形してるくせに!

 とんがってない飛行機ってんなんだよ?」


「リーダーのだって、飛行機のくせにはねが無いじゃないか!」


「……きりきりのくせにいうじゃないか」


「言うよ、だってそれは飛行機じゃなくてただの飛行物体だからね」


「俺のは飛行機だ!」


「──まあまあ、わたしはこのままでいいから、リーダーもきりきりもおちついて?」


 二人の間に少女が割って入る。すると、二人の熱はすっと冷める。


「ちぇっ、なんだよ、これが完全体なんだよ、飛行機の究極なんだよ……」


「まったくなんでそんな形で飛ぶんだろうか……」


「わたしの飛行機にくらべればリーダーときりきりの飛行機のほうが飛行機になっていると思うよ?

 だって、わたしのぜんぜん飛ばないし……」


「けど、そう考えるとゆかりちゃんの飛行機はこのなかで一番飛行機のかたちしてるね」


「たしかに……、俺のには負けるかもしれないけれど、きりきりのにくらべれば飛行機のかたちだな」


「えぇ……、飛行機のかたちしてるっていわれても……ぜんぜんとばないし、それならちゃんと飛ぶふたりの飛行機のほうが──」


 不意に、公園のスピーカーから大音量で十七時の時報代わりの音楽が流れた。


「──あーあ、今日はここまでかぁ……けっきょくまったく飛ばなかったなぁ」


「げ、もうこんな時間かよ、早く帰らないとおかあさんに怒られる…」


「僕もだよ、お父さんいないといいんだけどなぁ…」


「ねぇ、あと一回だけ飛ばさない? 最後の一回、お願い!」


「いいな、俺もきりきりに負けっぱなしでちょうどやりたかったところなんだ」


「しかたないなぁ…二人が言うなら僕もつきあうよ、何回やっても結果は変わらないとおもうけどね」


「ありがとう! じゃ、いくよ ?せーの!」


「「「えいっ!」」」


 三人の紙飛行機が茜色を背に飛んで行く。それは、別れ際の寂しさを乗せて、明日への希望を抱いて、今の喜びを噛みしめて。

 ずっと、ずっと、いつまでもこの空を──飛んでいければ良かったのに。



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