11.エピローグ
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暗く、遠い空に手を伸ばす。
地上よりも少し高い今の場所ならば或いは、とでも思ったのだが、結果は当たり前の空振り。結局、何も掴めはしないんだ。
屋上の空はどんよりとして重く、黒く低空飛行を続ける雨雲は今にも泣き出しそう。
私は足場にしていた給水塔に腰かける。眼下に広がる視界一面に、いまだ見慣れぬ取波根の街並みが俯瞰できた。
やっぱり、この屋上の鍵を貰っておいて正解だったと思う。この場所は、この風景は、見ずに留めておくには全く持ってもったいない。立ち入り禁止の場所だからこそ、映える景色は特別に見え、日常は非日常に変わる。反転したこの場所にどこか親近感を覚えるのは、そういうことからなんだろう。
耳元を通り過ぎていく風は、今日の朝から何度も反芻し、何度も聞いた声を再生させた。
『──行方さん』
それが脳裏に響くと、体が熱を伴って震える。いつもとは違うその呼び方が、どうしようもなくたまらなくて、心地よかった。
この学校に編入してからの彼を、一つ一つゆっくりと思い返す。
あの、怯えた表情、震える目、継ぎはぎのような言葉が、全く変わってしまった彼の、別人を見るようなその視線が、際限なく愛おしくて、愛おしくて、愛おしくて仕方がない!
私は震える体を両手で抱いた。どこか遠くで、車の警笛が響いた気がした。背筋がゾクッ、と冷たくなる。
あぁ、私は生きている、ここに存在している。けれどもまだまだ靄がかかったように、あやふやで不鮮明で不確かだ。だからそれを、もっと確かで、鮮やかに彩るために──
桐谷有一、あなたを
「殺さなきゃ」
──ぽつりぽつりと控えめな雨が降ってきて、それは私の頬を濡らした。
不意にぞわりと体が震え、自分の内側を見て暗い崖下に転落するような感覚に襲われる。
そう、これ、これだ。これなんだ!
この、感覚だ!
私は、他ならぬ私なんだ!
「あはははははっ、あはははははははは!!」
○
∦
「入るぞ、有一」
と、言って既に玄関の裾を跨いでいるのは、いつもの買い物袋を携えたマッさんだった。
今日のマッさんは相変わらずの背広姿であるが、いつもの乱雑な髪型ではなくワックスで固めて整然としていた。大方、仕事で重要な取引でもあったのだろう。
いい加減に突然の来訪に対し、抗議するのも馬鹿馬鹿しくなってきたので、無言で迎える事にした。
マッさんは何食わぬ顔で冷蔵庫に向かって行く。どうやら効果は無いに等しいらしい。
「どうした有一。今日はえらく顔色が良いじゃないか」
と、冷蔵庫に向き合ったまま、背中越しに言うマッさん。冷蔵庫に物を入れる手は止めない。
「そうかな、いつも通りだと思うけど」
そう言って僕は、シャーペンを持ってノートに向き合う。
「調子が良さそうでなによりだ」
それからいつもの弁当の変更意思などの諸確認事項が淡々と続く。それらの内容を変更する気はさらさら無いので、すべて現状維持とした。呆れた返事が返ってくることまでそのままだった。
やがてマッさんは冷蔵庫に物を移す作業を終えると、窮屈そうに立ち上がり、年季の入った床をギシギシ鳴らして歩いて、僕の正面に座った。
いよいよ本題のようである。
「さて、家賃について改めて答えを聞かして貰おうか、有一。つまり、バイトをするのか、しないのか」
まっすぐに向けられた視線。声はいつもの調子だったが、眼前にいるマッさんには有無を言わせぬ凄みが、いつにも増して感じられた。
しかし、それは想定していたことであり、今の僕には意味をなさなかった。
「断ったって強制するんでしょ」
「返答内容によるな」
どうせ、そう言っておきながら、押し付ける気なんだろう。
「有一。これはなにも家賃だけが目的じゃ──」
「やるよ、バイト」
話が長くなりそうだったので、考えていた結論を出して早々に切り上げた。
どうやら意表を突くことに成功したようで、マッさんは狐に摘ままれたような顔をしている。珍しい。
「──ほう、意外だな。理由を聞いても良いか?」
視線を上に向ける。くすんだ天井を背景に、淡くぼけた吊り下げ照明が揺れていた。
「別に、少し昔を思い出した。それだけだよ」
思い返せば、僕が嫌だと思うことが否定する理由にはならないのだから。
彼女に対してそうしたように、きっと僕はこうあるべきなんだ──




