10.回帰
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どれくらい見ただろう、この光景を。時折呼び返されては自分を呪わないではいられない、この顛末を。それは、最悪にして忘れることを赦されない、遠い日の記憶。
きっと、この身を這うような悪寒は、あの日から変わってはいないのだろうから──今回も同じなのだ。
『なぜ、わたしをたすけてくれなかったの?』
心を鷲掴みにされたような不快感。それを皮切りに、じわりじわりと染みを作るようにして、視界と意識が広がっていく──
幼い僕は立っていた。道路に飛散した赤い染みの数を数え、心を落ち着かせようとあがいていた。もう、その時点で落ち着くことなど到底不可能なのだと、その矛盾した行為が物語っている。
道路に転がっているのは、かの友人。もう死に体で、もっても後数分。救急車でも、ドクターヘリでも間に合わない。
僕はそばの公園で待ち合わせをしていた、日の沈む前の十七時に待ち合わせをしていたのだ。けど、今はどうだろう? 既に時計は十八を通り過ぎて十九時を指している。もはや誰が見ても完全な大遅刻である。
大方かの友人はいつまでも来ない待ち人に愛想を尽かして帰ろうとしたのだろう。結果として二時間にも及ぶ大遅刻だ。当然の帰結である。
ならば、その待ち人は何をしていて遅れたのか。寝坊? すっぽかし? だったらまだ良かった。なんと、行くか行くまいか悩み続けて二時間を消費していただけなのだ。しかも最終的に行く気になったのが親の叱責のためである。その滑稽さには失笑するしかあるまい。
僕は急いで公園にやってきたが、そこには既に友人の姿は無い。が、どうにも気になる匂いがするのだ。そのやってきた道とは反対側のかの友人の家がある方向である。ふらついた足取りでとろとろ歩いて、そして後悔する。
道路に転がっているのは、かの友人。もう死に体で、もっても後数分。救急車でも、ドクターヘリでも間に合わない。
叫ぶ事すら忘れた、現実からとにかく目を背行けなければ自分がおかしくなりそうだった。けれども自分の中にあるちっぽけな正義感がなにか行動を起こさなければ、と蠢いて止まなかったのだ。
もっと、早く来ていれば。
こんなところで優柔不断。叫べばよかった、逃げればまだ思考の余地はあった、けれども僕は半端な決心も伴わないままその場に留まり続けた。結果は見るも無残な立ち往生。挙句の果てには思考放棄で卒倒する始末!
なんと、なんと無様で罪深いことか!
友人は──夕香里ちゃんは見ていただろう!
その、遅れてやってきた待ち人の醜態を!
消えゆく意識の中で!
立ち尽くしたままろくに助けもしない友人を!
その虚ろな目で!
絶望を感じながら! 彼女は死んで行ったのだ!
なぜ、赦される?
なぜ、自由がある?
なぜ、生きていられる?
なぜ、明日がやってくる?
どうして、僕はあの時何もすることができなかったんだ……!!
幼い僕は立っていた。道路に飛散した赤い染みの数を数え、心を落ち着かせようとあがいていた。もう、その時点で落ち着くことなど到底不可能なのだと、その矛盾した行為が物語っている。
道路に転がっているのは、かの友人。もう死に体で、もっても後数分。救急車でも、ドクターヘリでも間に合わない。
──ならば、いなくなればいい。罪深い自分を殺せばいい。だが、死ぬのは短絡的で、刹那的に終わる贖いでしかない。ならば、間違いをただそう、愚かな自分のこれまでの行いを否定しよう。そうして完全に自分を無にできたならば、あの行動にも少しの意義はあったのだと、赦しを乞うことぐらいはできるのだから。
しかし、時々不安になる。
僕は、かつての自分を否定することが今もできているのだろうか、と──
※
∦
ジャストで尾行をした翌日の日曜日。僕はあの事故現場を訪れた。
相も変わらず最悪な寝覚めと、進んだカレンダーの日付が、明日彼女に相対する事実を再認識させたのだ。僕はどうしようもないその事実を考えると、自然とこの場所に行くべきなんだと足が動いていた。
晴れた青い空と、白いガードレール。時々吹く風はおそらく、側を走る車に誘われたものなのだろう。
昨日も寄ろうと思えばすぐ近くだったのだが、なんとなく彼女がそこに立っている姿が頭に思い浮かんで、とても立ち寄る気にはなれなかった。
肌に吹く風は、冷たい。
思えば数日前、ここを訪れるきっかけになったのは彼女の姿を見たことからだった。
その時から僕は、彼女が見間違いであると思うと同時に、夕香里ちゃんであって欲しいと淡く薄い期待を抱いていたのだろう。
『夕香里ちゃんにはもう、会えません。あなたはそのことを早く受け入れるべきです』
全く、夢路さんの言う通りだ。僕は、最初からどうにかしていたんだろう。僕が彼女に対して考える事は夕香里ちゃんに会えることが前提なのだ。
『あなたは転校生と面と向かって話をするべきですよ』
別人なのだから、それはできるはず、はずなのだ。
──彼女と対面した初日を思い出す。底知れぬ恐怖感と機械的な嫌悪感が、相対することすら拒絶した。それを当初僕は、漠然と復讐されるかもしれないからだと、そう思うことで納得していた。しかし、それから数日が経ち尾行をした後でもあるというのに、その感情は覆らない。
なぜ? なぜ、恐怖を感じてしまう?
背後に寒気を感じて、僕は思わず身震いした。焦り、振り返るが誰もいない。色濃く伸びる自分の影が、僕を嘲っているようだった。
そもそも、復讐をされるかもしれないと思っていながら僕は、のこのこ学校に登校している。それも明らかな体調不良にもかかわらず、だ。本気で脅威に思えているなら、仮病を使ってでも彼女を避けるのが道理だろう。
本当は復讐をされないと思っていた?
客観的に彼女が夕香里ちゃんでないと判断していた?
だったら、なぜ今もこの恐怖は和らいでくれないんだ?
これではまるで──僕は復讐をして欲しかったみたいじゃないか。
そうだとしたら、なぜ話しかけることができない? そうすれば全てが終わって──終わって?
その後、僕は、どうなるんだ?
惨憺たる恐怖がゾッと、身を這い上がる。しかしそれは、彼女に対して感じるそれと同質のものだった。
まさか、僕は──
『順当な人生を、平穏な日々を望むなら、そいつと関わるな』
誰かの言葉が思考を過ぎる。それは頭を割りそうなほどに重く、足のつま先まで響くようで、まるで考える事を中断させるかのように思考を揺らす。しかし僕は、同時に疑念にも似た確信を抱く。
──彼女に赦されることを、恐れているのか。
視界が動転しそうになって、平衡感覚がゆらぐ、よろめく足をどうにか踏んばって、地面を水平に捉えようと足掻いた。
だから、話すのが怖くて仕方がない。何故なら、彼女と話して“赦す”の言葉が出た時、僕──数年かけて償いを続けた今の自分──は意義を失ってしまうから、その、喪失感に堪えられない。
なんて、矛盾。これまで僕は、赦されるために償いを続けていたというのに、これではあべこべじゃないか。
だから、僕はその現実から目を背けるために、自分に言い訳を繰り返して現実から逃げていた。あの脳裏に響く声も、身を焼く程の悪夢も、すべて僕の都合の良い幻想なんだ。
それは許されない逃走だ。唾棄すべき弱さだ。僕は償いを続けなければ、いけないんだから。その道を外れることは、その誘惑に乗ることは、決してあってはならない。
ならば、僕のするべきことは──
『──そいつと関わるな』
──彼女と関わることだ。
圧し潰されそうな青空に、屈折した白いガードレール。吹く風は今もなお、車に連れられやってくる。
僕はこの場を去る前に、もう一度その下にある供花を見た。絶えて久しく珍しい供花に、今日来た時には驚き戸惑ったものだが、今となってはそれが幸運の象徴に思えて縋りたくなったのだ。
手向けられたその──四葉のクローバーに。
∦∦
月曜日、教室。
僕はここ数日に比べ、どちらかと言えば良好な状態で登校することができた。
それは、いつもの時間、いつもの風景──百十数回は繰り返した普段の日常だった。
だから、これから起こるできごとは、きっと、日常のままで終わるはずだ。
机の溝をじっと見つめる。時間にして七時五十分を過ぎたところ、そろそろ彼女がやってくるだろう。
努めて冷静に──しようと脈を測る。心拍数が上がりすぎているのが分かって、むしろ落ち着ける気がしなかった。
「ゆっかりちゃ~ん! グッモーニン! ……あれ、いない? やだなぁ、もう!」
……なんで、ヤツが先に来る……?
「おう、有一、今日は珍しくはえーな!」
「僕はこれが普通だよ……」
内心、舌打ちするのを忘れない。
「そんなことより、ゆかりちゃん知らない?」
「まだ来てないよ」
そう答えると、僕に興味を無くした彼は、教室の隅に移動しておもむろにスクワットを始める。……残念ながら、これもいつもの光景だった。
僕はそんな上下運動を繰り返す彼から細めた視線を元に戻す
──瞬間、血液が沸騰しそうになった。
扉の前には、腰に届く長さの髪。まっすぐ伸びた背筋。月のような目をした、待ち人が立っていた。
転校初日の日と同じように、扉から彼女がちょうど入ってきたところのようだ。
彼女が正面から、こちらに向かって歩いてくる。
あらかじめ考えた案をシュミレートする。彼女が僕の隣を通りすぎる少し前、二つ前の席を通り過ぎるくらいに立ち上がり、一息で『すみません』と勢いよく最敬礼をする。そうすれば土曜の一件への謝意は少なからず通るはずだ。バレてなくても変な人と思われるだけで終わる。大丈夫、OK、問題無い。
何より、僕は彼女──と、いうより夕香里ちゃん──にはどうしても謝罪を伝えなくてはいけないんだ。
彼女は僕の方に向かって近づいてくる。間延びしたようにゆっくりと、もったいぶるかのように緩慢に見えるそれは、僕の鼓動の速さと相まって精神を大きく摩耗させていた。
想定した机を彼女が越える。
僕は戦慄く心臓と、それに呼応して白く光る視界に、勢いを削がれながらも必死に立ち上がって──
「へ~い! ゆっかりちゃ~ん! 今日は良い夢みれたかい!? 俺は覚えてないぜ!」
──中郷ォォォォォッ!!
結果大げさに椅子を鳴らして、中途半端に立ち上がったまま固まってしまう僕。
目の前を飄々と横切って行く彼に抱く感情は、最早殺意を否定する気はない。
「おはようございます、中郷さん。夢は──残念ながら悪夢でした。だから今日はとても眠いんです」
そう言ってあくびをする彼女。僕は相変わらず不自然に中腰のままだ。
「そうなんだ。で、悪夢ってどんな夢なんだ? 俺そういうの見たこと無いから、むっっちゃ興味あるんだよ!」
「中郷!!」
自然と声が出ていた。二人とも中腰で声を張り上げた僕に目を丸くしている。
「なんだ、有一。新しい発声練習でもしているのか?」
その言葉で火の点いた僕は、中郷に一息で詰め寄った。
「違うから! 中郷は少しくらいデリカシーを考えろって注意してるんだよ!」
「デモクラシー? 大正か?」
「デ、リ、カ、シ-! なんでこんな時だけ歴史の用語が出てくるんだよ! 少しは授業で活かしてよ! 先生生徒みんなの願いなんだよ!」
「え……。俺、そんな人気者なの? 照れるなぁ……」
「照れないっ!! お願いだから反省してっ!!」
「──ふふ、中郷さんと話せる人って、あなたのことだったんですね」
ヒートアップする中郷との会話に一区切りつくと、極自然に、かつ当たり前のように、そこまで静観していた彼女が微笑みを携えて口を開いた。
それを聞いた僕は瞬間、硬直した。想定外の状況にシュミレートは意味を失う。
「え、あ、はい」
結果、口に出るのは覚束ない敬語。
「そう言えば、話すのは始めてでしたね。もう知ってるでしょうけど、私、行方縁です。あなたは?」
「僕は──」
もう、彼女の目は僕を捉えていて、もう避ける事は出来ない。冷たい恐怖が身を駆け抜ける。
しかし僕は僕であるために、これだけは、これだけは、逃げてはいけない。
「桐谷、有一……です」
「よろしくね。えー、と桐谷君」
彼女の目の逡巡に、暗いものや、驚きは、無かった。
「……よろしく、お願いします──」
ここまできたら、もう、結果は変わらないのだろうから。
「──行方さん」
僕は、その懐かしい名前を呼んだ。
第一章 Clover 完




