1.日常#1
思想は常に人間よりも現実的である。
──フョードル・ドストエフスキー
──僕は何をしているのだろう?
行動、感情、状況。僕自身が持っているものと、現実のそれはひどく乖離しているような気がするのだ。そうした不明瞭な疑問が頭の奥に異物感としてまとわりついて離れない。
今だって、そう。肩の上にずしりと重い体重を感じ、校舎の壁と見つめ合う今も、自分の状況には疑問を感じずにはいられない。
「有一! もう少し右だ……」
頭上からのうるさい声。周囲に人気がないから良いものの、どうやら隠れる気は全くないらしい。
やれやれ、と、高校生二人分の体重を乗せた足を右に移動させる。あぁ、しかし体が重い。それもこれも昼飯を掻き込んで食べたせいだ。
「よし、OK。ナイスロケーション。グッドだ、有一」
「ねえ、本気でやるの? 引き返すなら今のうちだけど」
体重の主に提言を投げる。彼は今、換気扇のフードに頭を突っ込み、カメラを構えているのであろう。それは想像するだけで危ない絵だと思えた。
「夢を、見たんだ」
いつもの返答なのか一人言なのか、よくわからない発言である。相変わらず疑問符を浮かべていると、彼はそれを返答と受け取ったらしい。
「そう! 誰もが興味を惹かれ、そして諦めた果てなき夢を、な……。そして今こそ俺がそれを成し遂げ、ヒーローになる時なんだ!」
換気扇フードの中で彼は熱く夢を語る。顔は隠れてる上、微妙にエコーがかかっているそれは、非凡にして奇っ怪である。まぁ、そんな夢なんだろうが。
それでも僕は、無駄だと分かっていても、その夢について指摘する。
「おそらく諦めたんじゃなくて、良心に従ったんだろうけどね……」
「はっ、俺はそんなものには縛られねえぜ!」
「少しは縛られようよ!」
──トンッ。
壁の向こうより、近づいてくるような足音が聞こえた。
「シーッ、本番だ有一。とにかく静かに、だ」
「もう、分かったよ……」
もうどうにでもなってくれれば良い。そう、僕は彼に抗うのを止めた。
相変わらず頭上から興奮した熱気が感じられる。壁の向こうからは足音が次第に大きくなってくる。
そして、音が止んだ。
「おお、ドアノブが動いたぞ……! 開く、開くぞ! 有一! カーッたまらねぇぜ! エェェキサイティンッ!!」
密着した首筋から伝わってくる興奮、騒音、振動。どうやって捨てたものだろう。と、いい加減に愛想が尽きた僕は、一人逃げるために足に力を込めようとして──不意に鈍い音を聞いた。
「ぐげぇッ!?」
彼は謎の奇声とともに海老ぞりのような体勢になって暴れ出す。当然、僕にそれを支えるだけの力は、無い。
「ああっ!」
僕と彼は倒れて硬い地面に転がる羽目となった。
「あたた……」
横になった体を検分する。どうやら異常は無さそうである。それにしても危うく後頭部から倒れるところだった。しかし、彼は……まあどうでもいいや。
顔をあげて周囲を見渡すと、彼の側には転々とするバスケットボールと見知った顔がもう一つ。
なるほど、彼女の仕業か。
「あなた達、本当に懲りる気がないのね」
彼女は仁王立ちで地面に転がる彼を見下ろしている。その親の敵を見るような眼光、すこぶる機嫌は悪いようだ。見る人が見れば怒りのオーラが轟々と発せられていることだろう。
「まぁ、いつものことなんだけどね。柊さん」
ゆっくりと立ち上がって、僕は口を開く。すると、その視線が切るようにして僕に向けられる。正直、怖い。
「い、つ、も、の、こと?」
「ごめんなさい、気の迷いです」
迫力たっぷりの声に発言の撤回を求められる。僕の返答に満足したのか、彼女は表情を崩して笑顔になる。迫力は据え置きなのだけど。
「よろしい。で、あなたは何でコイツを肩車していたのかな?」
彼女は足元に転がる彼を、汚いものを触るかなのように足で小突く。どうしたことか彼はにやにやして気持ち悪いうめき声をあげ、目を開いて呟いた。
「ふふふ、大きい事は良いことだぁ」
そして笑顔のまま絶句する柊さん。あぁ、彼女の拳が震えている。これからの彼に同情し、僕は少し哀しい気持ちになった。
彼女は足をスッと引く。まるで何かを悟ったかのような自然で流れるようなモーション。さすが、見ていているだけで血の気が引くようである。
「良い……白」
「この、変態っ!!」
「ぐぼっ!? ぅげぇ! ざぼっ! ぐは……」
繰り返す都度、四度の蹴撃。今度こそ彼は口開かぬ置物となった。
「可哀想な子……」
「ははは」
うらむな中郷、さよなら中郷。
そして、満足げな彼女の視線がこちらに向けられる。それは満開の笑顔だ。しかし、無意識に背筋がピンと張り詰める。
「それで、なぜ、あなたはコレを?」
「えーと、中郷がとりたいものが高いところにあるから、肩を貸して欲しいって言われて仕方なく、ね」
「へー、撮りたいものって換気扇の中にあるのね!」
「そうなんだよ、中郷は変わってるよねー」
渇いた笑いが裏庭にこだまする。全く、冷や汗が止まらない。
「んなわけあるかぁーっ!」
「ひっ」
表情一転。もう耐えきれないとばかりに盛大に声を荒げる彼女。
「この、覗いていた部屋! 何をする部屋か分かってるんでしょ!? ほら、言ってみなさいよ!」
“何をする部屋”か。なるほど、彼女は誤解しているようである。まぁ、人のプライベートを覗き見るという点ではやっていることは同じなのだが。声高々に言おう、この部屋は──。
「校長室」
「そう! 女子更衣し……え? ごめん、もう一回」
「だから、校長室」
風が吹いた。小鳥のさえずりが聞こえた。そして、彼女はそれまでの勢いが嘘のように、力無く立ち尽くした。
「女子更衣室じゃ、ないの?」
「だから、校長室だって。今日の女子更衣室は多分作法室。」
「……なんで?」
彼女はキツネにつままれたような顔になる。まぁ、無理もないか。
「中郷が校長先生がヅラかどうかを証明したいって」
「証明って、だってヅラでしょ? 校長先生は」
「うん、それでも中郷はスクープ写真が撮りたいって言ってきかなくてね」
「……」
彼女はうなだれて押し黙る。自分の勘違いに落ち込んでいるのだろう。どんよりと重い効果音が聞こえくるようだ。その長い黒髪が覆う顔はまるで幽霊のよう。
「あぁあああぁ!!」
と思っていたら急に叫びだした! 怖い!
「ど、どうしたのさ柊さん」
「そうよね、私、馬鹿よね、アホだわ……」
そして、ぶつぶつ誰もいない方向を向いて呟く柊さん。まったく、忙しい人だ。
「大丈夫?」
「ごめん、一人にさせて。恥ずかしすぎて死にたくなるから……本当に、ごめん」
さっきまでの迫力はどこ吹く風、生気の抜け落ちた彼女は、ふらふらとおぼつかない足取りで去って行った。大丈夫かなぁ。
僕もそろそろ教室に戻ろうかな。と、思い浮かぶのは地面に寝転がる中郷。さてどうしたものか。
「お~い、中郷~」
返事が無い。彼の特性を考えれば、これはちょっとやそっとでは起きることは無いだろう。しかし、これはこれで気持ちよさそうに寝ているように見える。そう、寝相が素晴らしく笑顔なのだ。
うん、なんだか起こすのは悪い気がしてきたぞ。
「先に行ってるよー」
そう言い残して僕は教室に戻るのであった。
∦
教室に戻ってからの授業は順風満帆で、いつもの後ろの席からの妨害行為も無いために、落ち着いて授業を受けることができた。現在はHR直後、放課後である。帰り支度をしている最中に僕は話しかけられた。
「なぁ、桐谷」
机の中に目を落としていた僕は、顔を上げる。目に入るのは、スポーツ刈りの角ばった頭髪と、人当たりの良さそうな表情を浮かべたガタイのいい人物──佐田浜だ。
「なに? 佐田浜」
「いや、中郷はどこいったんだろうかな、と思ってさ」
「気にすることはないよ。中郷は気持ち良く眠っている、それでいいんだよ」
「相変わらず、中郷にたいしては辛らつだな」
「だって中郷だからね。そうなるよ。というより佐田浜は幼馴染なんでしょ? いかげんにアレ、どうにかしてよ。高校生活の二年間がアレに浸食されると考えるとどうにかなってしまいそう……」
僕がそうやって匙を投げかけると佐田浜はおどけてみせた。
「無理無理。だって今も昔も中郷だから。だから、みんな少なからずお前には感謝してるんだぜ、取波根高校の秩序を守ってくれてるってな」
「そんな名誉、願い下げだよ……」
彼はふっ、と微笑する。その仕草はもともとが美形であることも相まって女性殺しもかくやといったところである。
「で、そもそも今日は何に付き合わされたんだ?」
「覗き、……っていっても校長室だけどね」
と、それから事のあらましをある程度しゃべったところで、教室の奥の方をふらふら歩く、げんなりとした中郷が目に入る。とりあえず僕は見なかったことにして話を続けた。
「でさ、柊さんが──」
「有一ィ! よくも放置してくれたなぁっ!」
いつものまにか側に寄ってきていた彼は、傍らの佐田浜を片手で押しのけ、僕めがけて咆哮する。しかしあわててはいけない。
「けど、眠るの気持ち良かったんでしょう?」
「あぁ! とても気持ちよく眠れて体調はスッキリしているぜ! ありがとな!」
「どういたしまして」
僕がそう言うと彼はふっと、真顔になって少し考えたように首を傾ける。
「あれ? 俺なんで怒ってたんだっけ……ま、いいか」
「いいのかよ……」
佐田浜が軽く突っ込む。彼も中郷の特性を理解しているせいか蒸し返すことは避けたいようだ。ありがたい。
「じゃあな桐谷。あとは頼んだぜ」
彼は中郷が帰ってきたことで興味が失せたのか、騒動に巻き込まれるのを避けたいのか、ここぞとばかりに軽く手を振って足早に帰っていった。さわやかな笑顔が、痛い。
そして、教室には残された二人のみ。僕は手早く帰り支度を済ませようと鞄に荷物を詰め込む。しかし、彼の口が開くのが早かった。
「よし、有一。今日の反省を活かして明日の計画を見直そう」
「明日やることは確定事項なのね」
荷物を詰め込む手は止めない。止めてはいけない。
「当たり前だ。まず、問題点の洗い出しをするぞ」
めずらしい。中郷が論理的なことを言っている。
「最大の問題点は、なぜ、俺の完璧な計画がバレたのか」
「……」
あれで、完璧なのか、それでいいのか中郷。
「問題点しかないよね」
「おう、その問題点を一つずつ改善していくぞ」
やばい、これはリアルに明日の朝までかかりそうな議題だ。
そこで、帰り支度が終了。よし、帰る!
「じゃあね中郷。僕、帰るよ」
「待て、有一。ここで帰るということは、だ。俺たちは永遠に校長の禿げ頭を拝む機会が無くなるんだぞ? それでもいいのか?」
「すごくどうでもいい。じゃ、帰るね」
僕はスッと立ち上がり、彼を背にして歩き出す──ところで肩を掴まれた。
「待つんだ、有一。もし、これが女子更衣室を除くための準備段階だとしたら、お前はどう思う?」
「え? 中郷また覗く気なの? 前に袋叩きにあった時に、もうしませんって神に誓ってたのに」
「俺は、反省してパワーアップしたんだ。もう、失敗しない」
「それ反省したって言わないから……」
「だから、頼む!」
だからってなんだよ、と言いかけた途中、不意に声がする。
「おいっ! 中郷!」
声の方向に振り返る。立っていたのは頭を丸刈りにしたゴツイ教師。学年主任の宮川先生だ。
「げ、やばっ、宮川!」
中郷の顔が引きつる。宮川先生はこれまで中郷をなんども補習や職員室に連行していった頼れる先生だった。
「春季実力テストの結果で話さなきゃならんことがある。職員室までこい!」
そう言われると中郷は急に怯えたような目をしてこちらを見る。
「助けて! 有一!」
「自業自得だよ」
最後にそんな会話をして連行される中郷であった。