少女と夕日とへのへのもへじ
張り込みを続けて三日。
ようやく、犯人が姿を現した。
真夏の午後。
照り付ける太陽の中、一台の自転車が公園の中に入って来た。
自転車に乗っているのは――噂通り、女子高生だった。
夏休みだというのにもかかわらず――噂通り、うち高校の制服を着ていた。
リボンの色から推察すると、一年生だ。
スカートがめくれるのも構わず、女子高生は立ち漕ぎの姿勢になって自転車を走らせて行く。
この時点で捕まえてもよかったのだが、俺はもう少し様子を見ることにした。
現行犯逮捕でなければ、言い逃れされる恐れがある。
犯行に及んだところで捕まえれば、言い訳のしようがないだろう。
公園の奥、噴水広場にある壁の前で自転車は急停止した。
噴水を取り囲むように立つ壁には、南国の海に沈む夕日が描かれていた。
水平線に沈もうとする夕日の丁度目の前に、女子高生は自転車を止めた。
女子高生は自転車から飛び降りると、スタンドを立てた。
そして、素早い動きですぐさま自転車の荷台に飛び乗った。
それら一連の動作は、時間にして数秒。
呆れるほどの手際の良さで、彼女は犯行に取り掛かった。
彼女は作業に夢中でこちらに気が付いていないようだ。
公園には身を隠すのにちょうどいい木陰がたくさんある。
それに、木陰の下ならば夏の日差しを遮ってくれる。
ミンミンゼミのやかましい鳴き声をがまんすれば、張り込みにはうってつけの場所だった。
真夏の公園で遊ぶ子供たちの姿はなく、老人たちの姿もない。
人目を気にせず少女は、堂々と犯行に取り掛かる。
壁画の中央、やや高い位置にある夕日の部分に狙いをつけ、
手に持ったスプレー缶を向けた瞬間、
「あっ!」
荷台の上で、少女はバランスを崩した。
小さな悲鳴と共に、少女の体が宙に舞う。
「きゃあああああああああっ!」
少女の悲鳴と、自転車の倒れる音が、広場に響く。
どうやら、犯行は失敗に終わったようだ。
最早隠れている意味はない。
俺は、隠れていた木陰から出て、彼女の元へと歩み寄る。
「あいたたたた」
幸いなことに、大きな怪我はないらしい。
背中をさすりながら、涙目で起き上がろうとする女子高生に向かって、俺は声をかける。
「……何やっているんだ」
びくりと、身をすくませると、女子高生は振り向いた
俺の顔を見ると同時に、叫ぶ。
「モッさん!」
「望月先生と呼べ! この馬鹿!」
§
「いらっしゃいま……」
カウベルの音と共に、顔なじみの店主はこちらを振り向いた。
そして、女子高生の襟首をつかむ俺の姿を見て、唖然とする。
「ほら、とっとと歩け」
「痛い! 痛いってば、先生!」
そのまま俺は、女子高生を引きずるようにして店の中に入った。
カウンターの前を通り過ぎた時、未だ唖然とした表情の店主に向かってオーダーを告げる。
「アイスコーヒー、一つ」
「あたし、アイスカフェラテ……あ痛っ!」
ずうずうしくも注文する女子高生の、後頭部をはたいて黙らせる。
「お前はいいんだよ! アイスコーヒー一つ、一つだけ、お願いします」
公園から数分の距離にあるこのカフェは、数年前に出来たばかりの新しい店だ。
こんな田舎町にはそぐわない、洒落っけのあるカフェだが結構繁盛しているらしい。
かく言う俺もまた、この店の常連だった。
この店の店長兼、バリスタの淹れるイタリアンローストは俺のお気に入りだ。
また職場である学校からも近い事から、仕事を抜け出してはサボるのにこの店を利用させてもらっている。
真夏の昼下がり。
昼食の繁忙期を過ぎているにもかかわらず、カフェには結構な数の客が居た。
他の客の迷惑にならないように、俺達は一番奥の席へと向かった。
「ほら、そこに座れ」
「痛いっ! 何すんのよ、モッさん!!」
放り投げるようにして椅子に座らせると、俺も反対側の席に座った。
「モッさんじゃねぇ。望月先生だと言っているだろうが」
生徒達が俺の事を“モッさん”の愛称で呼ぶのは、親しみを感じているからではなく、馬鹿にしているだけだ。
俺は一応、生徒指導担当教師と言うことになっているのだが、まともに仕事をしたことなど無い。
“生徒”に“指導”などできるような立派な教師で無い事は、俺自身よくわかっている。
しかし、今回ばかりは黙っているわけにはならない。
生徒指導担当教師としての威厳を、このバカに見せつけてやらなければならない。
「お前、自分の立場がわかっているのか? 少しはしおらしくしろ」
「あたしが何をしたっていうんですか?」
顔を背け、つんと顎を上げる。
実に生意気なしぐさだ。
「あたしは唯、公園を散歩していただけです。何でモッさんにお説教されなくっちゃならないんですか?」
やはり、そうきたか。
現行犯でないと思って、とぼけるつもりのようだ。
「落書きしようとしていただろうが。公園の壁画に」
「そんなことしていません。証拠はあるんですか?」
「これは何だ?」
彼女から取り上げた、スプレー缶をテーブルの上に置いた。
ホームセンターで売っているような、赤色の水性塗料だ。
「それは、ヘアスプレーです。あたし、くせっ毛だから」
「ほう、そうか。……どうやって使うんだ? これ」
あくまでもとぼけようとする彼女に、
俺は、スプレーのキャップを外し、彼女に向けた。
「いやっ! ちょっ、やめて!!」
「ヘアスプレー何だろう? くせっ毛何だろう? 俺がセットしてやるよ」
「だからやめてってば!」
などと言って、じゃれ合っていると、
「……何やってんですか、二人とも?」
店主が、注文のアイスコーヒーを持ってやってきた。
コーヒーを差し出しながら、咎めるような目つきで俺に注意する。
「一体何事なんですか、望月先生? 他のお客様に迷惑ですから」
「すみません」
どうやら、騒ぎ過ぎたようだ。
素直に謝ると、店主は対面に座る女子高生に目をやった。
「珍しいですね、生徒さんと一緒だなんて」
「そんなんじゃありませんよ――こいつですよ、噂の連続落書き事件の犯人は」
「ああ。この子が……」
そう言うと、納得したように店主はうなずいた。
事の発端は、一週間前にさかのぼる。
その日の朝。
夏休みの日課であるラジオ体操の為、公園の広場に集まった小学生たちが、壁画にへのへのもへじの落書きを発見した。
赤いスプレーで描かれたへのへのもへじは、かなり目立つ。
そのまま放置しておくわけにも行かず、近所の住民たちは手分けして落書きを消した。
幸いなことに、落書きは水性塗料で書かれた物であったらしく、水洗いしたら簡単に消すことが出来た。
しかし、その翌日の朝には、再び壁画の同じ場所にへのへのもへじの落書きが書かれていた。
一度だけならばまだしも、二日続けてとなると異常だ。
不可解な事件に首をかしげながらも、近所の住人たちは再び落書きを消して、事件を静観することにした。
三度目の犯行が起きたのは、その二日後。
昼下がりの公園で散歩中の老人が、脚立を肩に担ぎ、スプレー缶を持った女子高生を目撃した。
目撃証言によると、女子高生はウチの学校の制服を着ていたそうだ。
明らかに不審な女子高生に老人が声をかけると、女子高生はすぐさま逃げ出した。
重そうな脚立を担いでいるにもかかわらず、ものすごい足の速さだったそうだ。
逃げ出したところを見ると、この女子高生こそが連続落書き犯に間違いないだろう。
女子高生の人相風体は、噂と共にこの近辺の住民たちに広まった。
やがて噂は公園近くのこのカフェまで広まり、この店の常連である俺の知るところとなった。
校外の出来事ではあるが、ウチの学校の生徒が関与している以上、生徒指導担当としては見過ごすことはできない。
俺は、連続落書き犯を捕まえるべく、公園で張り込みをすることにした。
そして、公園に張り込んで三日目。
ようやく犯人を捕まえることが出来たという訳だ。
「……まったく。手間をかけさせてくれたな」
苦々しげな表情で少女を見つめると、俺はあらためて尋問を始めた。
「とりあえず、学年とクラス。名前を聞こうか?」
「五年Z組。伊集院、エリザベス=花子です!」
「嘘つけ!」
よくもまあ、咄嗟にこんなうそがつけるもんだと感心していると、横から店主が口を挟んで来た。
「あなた、本庄香苗さんよね? 美術部の……」
「わーっ! わーっ!」
あたふたと、両手を振り回す。
その慌てぶりから見て、この娘の名前は本庄香苗で間違いないようだ。
「知っているんですか? この娘のこと」
「ええ、有名人ですよ。今年の県展で入選した、
あっさりと答える店主に、俺は少しばかり気恥ずかしい思いにとらわれた。
学校外の人間でも知っているような有名人の顔を、俺は覚えていなかった。
自分がいかに生徒に対し無関心であり、進路指導担当の仕事を怠けて来たのかを思い知らされたような気がした。
気を取り直し、俺はあらためて本庄香苗に質問する。
「……それで、そんな有名人がなんで、こんなバカなことをしたんだ?」
「…………」
本庄は答えなかった。
固く口を閉じ、上目づかいで俺の顔を見返す。
どうやら黙秘権を行使するつもりらしい。
本当に、手間のかかる娘だ。
俺は辛抱強く、言葉を選びながら彼女に言った。
「言っておくが、落書きはれっきとした犯罪だ。警察に捕まれば、器物破損の罪に問われることになる」
「…………」
「俺が何故、この店に連れて来たのか解るか? 学校に連れて行けば、生徒指導担当としてお前に然るべき処罰をあたえなければならない。そんなのお前は、嫌だろう? 俺だって、嫌だ」
唯ですら三日も、張り込みをやらされたんだ。
こんなバカげたいたずらで、これ以上面倒かけられるのは御免だった。
「俺としては、この件をなるべく穏便な形で納めたいんだ。今のところ、学校はこの事件を把握していない。いまなら俺の一存で事件を処理できる。素直に反省して、二度としないというのならばこの場は見逃してやる。その気がないのならば――仕方がない。お前を警察に突き出すぞ。どっちがいい?」
問い詰めると、
上目遣いで、本庄は口を開いた。
「笑わないって、約束してくれます?」
「……俺は今、怒っているんだがな?」
片眉を吊り上げていうと、彼女はようやく重い口を開いた。
「好きな人がいるんです」
「……は?」
「相手は、美術部の先輩なんですけど、すっごく親切な人で、入学してからずっと私の指導をしてくださったんです。県展で入選できたのも先輩の指導のお蔭だったんです」
もじもじと、はにかみながら、
まったく関係のない話を始めた彼女に、俺はいささか面食らう。
「その先輩が今度、転校しちゃうって言うんですよ。親の仕事の都合で、夏休み中に東京に引っ越してしまうんだそうです……」
余程、その先輩とやらが好きなのだろう。
肩を落として、本庄はうつむいてしまった。
「先輩は、あたしにとって特別な人なんです。その先輩がいなくなっちゃうだなんて、あたしもう、悲しくて……。どうしたらいいかわかんなくて、筆を握る事も出来なくなってしまったんです。そんな様子を見かねて、美術部の友達が私におまじないを教えてくれたんです」
「おまじない?」
「うちの学校の美術部に、代々伝わるおまじないなんです。あの壁画の夕日の中に、赤いスプレーでへのへのもへじを書くことができると、好きな人と永遠に一緒にいられるって……」
「なんだ、そりゃ?」
まるで、一昔前のギャルゲーみたいな話だ。
よくある学校の伝説なんだろうが、今時そんな話を真に受ける奴がいるとは思わなかった。
約束通り、俺は笑わなかった。
あまりのくだらなさに、ただただ呆れていた。
「……ぷっ!」
代わりに笑ったのは、店主だった。
余程おかしかったのだろう、口を押えて吹き出した。
客の話に聞き耳を立てるのは、どう考えても褒められたことではない。
目くばせすると、店主はカウンターへ退散した。
「まあ、理由はわかったが……」
邪魔者が居なくなった所で、
気を取り直して、あらためて本庄に問いかける。
「しかし、何で何回も落書きをする必要があるんだ? おまじないなら、一回で十分だろうが?」
「一回目は手が届かなくって、夕日の下にへのへのもへじを書いちゃったんです」
「まあ、壁画の高さ三メートルはあるからな。お前さんじゃ、手が届かないだろうな」
「それで、二回目は脚立を用意したんです。でも、昼間に脚立を担いで公園に行ったら、目立つじゃないですか?」
「一応、犯罪行為をやっているって自覚はあるんだな?」
「だから、夜中に書くことにしたんです。そしたら、暗くてよく見えなかったんで、夕日から右に大きくずれちゃったんです」
「やる前に気づきそうなもんだろうが、そんな事」
「三回目は昼のうちに書こうとしたんですけど、散歩中のおじいちゃんに見つかっちゃったんです」
「だからそれは、最初からわかっていた事だよな?」
「それで、あたしどうしようかって考えたんです。自転車で乗り込んで、荷台に乗って書けばいいんじゃないかって!」
「三日もかけて考えた末の結論がそれか」
「そしたら、バランス崩して転んじゃって……」
「結局失敗してるじゃねぇか!!」
話を聞いているうちに、頭が痛くなってきた。
こめかみを抑えながら、俺は訊ねる。
「まあ、これで色々なことに説明がつくが、一つだけわからないことがある――なんでわざわざ、制服姿で公園に行ったんだ? 身元がばれちまうだろうが?」
「へのへのもへじをかくのに使ったスプレーとか脚立は、美術部の備品なんです。制服姿じゃないと、学校の中に入れないじゃないですか」
「って、学校の備品まで持ち出してるのかよ!? れっきとした窃盗じゃねぇか!?」
しかも、その理由がおまじないときた。
本格的に痛み出した頭を抱え、俺は呻いた。
「よくもまあそんなバカげたことの為に、ここまで……」
「そんな事は、わかってますよ!」
突如、本庄は声を荒らげた。
「自分でも、バカな事しているってことは、わかっています。おまじないなんてただの迷信だってことぐらい、わかっていますよ。引っ越しのことだって、どうしようもないってことぐらいわかっているんです。それでも、……それでも、何とかしようと思いたいじゃないですか。何かせずにはいられないじゃないですか!」
声を詰まらせながら語る彼女の眼には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「好きな人がいなくなっちゃうんですよ? 二度と会えないかもしれないんですよ? たとえ迷信でも、信じてみたいって思うじゃないですか。先生は、そういう人の気持ちがわからないんですか!?」
――人の気持ちがわからない。
そう言われるのは二度目だ。
一度目は十年前、まだ俺が高校生だった頃。
未熟で、世間知らずで、馬鹿で、
抗いきれない現実を前にして、苦しみあがくことしかできなかった――あの頃。
「……わかってないのは、お前の方だ」
そして、今の俺は教師としてここにいる。
彼女たちを教え導く立場の、教師だ。
ありもしない可能性に望みを託す若者に、現実の厳しさを思い知らせるのは、俺達大人たちの役目だ。
「あの壁画に、そんないわれがあるはずがない――そもそも、だ。あの壁画を描いたのは誰か知っているのか?」
「美術部の先輩だって聞いています。確か、名前は……」
「俺だよ」
「……は?」
「あの壁画は、俺が書いたんだよ」
公園の方から、セミの鳴き声が聞こえてくる。
あの年の夏も、暑かった。
§
今から十年前。
当時の俺は、ウチの高校の生徒だった。
自分で言うのもなんだが、在学中の俺は真面目な生徒だった。
取り立てて頭の良い方ではなかったが、真面目に勉強するだけが取り柄の俺は、学校の成績だけはよかった。
社会学だとか、哲学だとか、小難しい本を読んで、世の中を知ったような気分になっている――典型的な“勉強のできるバカ”って奴だ。
学校行事にも積極的に参加していたから、教師たちのウケも良かった。
大人たちに取り入る術を身に着けた、理屈っぽい性格のクソ生意気なガキだった。
それで、色々なものをこじらせた俺は、生徒会長なんてものに立候補しちまったんだ。
しかも当選しちまったもんだから、手におえない。
自分の得た知識を広く世の中の為に役立てようと考えて、俺は校内の様々な問題に取り組んでいったのさ。
……今にして思えば、かなりイタい奴だったな。
高校三年生の夏。
生徒会長の俺は二つの問題を抱えていた。
一つ目の問題は、あの公園だ。
当時、あの公園は市の予算の関係で、放置されて荒れ果てていた。
ちょうど噴水広場のある辺りは、古くなって使えなくなったテニスコートがあった場所なんだ。
あの壁は壁打ち練習に使われていたものの名残ってわけさ。
その壁に、アーティスト気取りのバカが落書きをしたのがそもそものきっかけだった。
グラフィティーだとか、ストーリートアートって言うのか?
文字なんだが絵なんだがよくわかんねぇ落書きを、壁一面に描き始めたのさ。
その落書きに引き寄せられるように、怪しげな連中が公園を出入りするようになった。
ラッパーだとか、ヒップホップのダンサーだとかが、テニスコートにあつまりパフォーマンスをやり始めたんだ。
気が付くと、荒れ果てた公園は、ストーリートカルチャーの発信基地へと変化していった。
本人たちはいっぱしのパフォーマーのつもりなんだろうが、やっていることはそこいらの不良と変わらない。
飲酒、喫煙、喧嘩に不純異性交遊と――公園内はたちまち無法地帯になってしまったのさ。
公園を我が物顔で占拠して、毎日のように騒ぎを起こす連中に、近所の住人たちは迷惑していた。
俺達の学校の生徒達も度々トラブルに巻き込まれ、その度に先生や生徒会長の俺が呼び出された。
生徒会長の俺は町内会の皆と連携して対策を考えたのだが、結局、答えは出なかった。
もう一つの問題は、美術部だ。
当時の美術部は、江藤美幸って女が部長を務めていた。
江藤美幸は、天才だった。
真面目なだけが取り柄の俺と違い、彼女には本物の才能が――天から与えられた才能があった。
高校生の身でありながら全国規模の展覧会でいくつもの賞を受賞していた彼女は、将来を嘱望された画家だった。
全校集会が行われるたびに彼女の表彰式が行われるほどの、校内一の有名人だった。
彼女が三年生になると同時、あっちこっちの美術大学から推薦入学の話が来た。
わざわざ東京の大学から、教授自ら勧誘に来るくらいだって言うんだから、そのすごさがわかるだろう?
そして、彼女の才能に、校長が目を付けた。
夏休み明けにある文化祭で、彼女に作品を作らせて披露させたい、と生徒会に打診してきたんだ。
文化祭の目玉になるようなオブジェかなんかを作らせて、客を呼び込もうってわけさ。
でも、文化祭の予算なんて限られている。
いくら実績があるからって、彼女だけを優遇して予算を裂くわけにはいかない。
校長の命令と、生徒会長としての立場の間で、俺は板挟みになってしまった。
難問を抱えた俺は、とにかく考えた。
受験勉強もそっちのけで、来る日も来る日も考えて、考え抜いて、
ようやく俺は、二つの問題を一気に解決する方法を思いついたのさ。
「割れ窓理論?」
夏休み中の登校日。
俺は江藤を呼んで一つの提案をした。
いつものように俺は本を読んで得た、聞きかじりの知識を彼女に得意げに披露した。
「そう。社会心理学の分野において提唱された理論だ。治安の悪化は割れた窓を放置するなどといった、些細なことに起因する。つまり犯罪を未然に防ぐには、徹底した環境整備が必要だという考えなのさ。その昔、犯罪が増加傾向にあった当時のニューヨークで、ジュリアーニ市長が、この割れ窓理論に基づいた改革を実践して効果を上げている」
「その、ニューヨークだか、市長だかの話と、あたしが何の関係があるわけ?」
夏休み中に呼び出された彼女は、不機嫌そうに答えた。
めんどくさい話は抜きにして、俺は本題を切り出した。
「公園の治安が悪化したのは、あの壁の落書きが原因だ。壁の落書きを消して公園内をきれいに整備すれば、公園内の治安も元に戻る。そこで、だ――テニスコートの壁に壁画を描いてほしいのさ」
「壁画?」
「そう、落書きって言うのは、スペースがあるから落書きしたくなる。あらかじめ壁に絵が描いていれば、落書きしづらい。江藤画伯の圧倒的な画力でもって真の芸術とは何たるかを見せつけてやれば、にわかアーティストたちも公園からでていくって寸法さ」
「そんな、簡単にいくかしらね?」
俺の提案に当初、彼女は懐疑的だった。
「落書きがなくなったぐらいで、治安が良くなるとは思わないんだけど?」
「割れ窓理論の効果のほどはどうでもいいとして、この話は美術部にとってもメリットのある事だと思うぞ」
この計画は、彼女の存在なくしては成り立たない。
乗り気じゃない彼女をなんとかしてその気にさせようと、俺は必死に説得した。
「大きな壁に、思いっきり絵を描くことができるんだぞ。やってみたいとは思わないか?」
「そりゃあ、やってみたいとは思うけど……」
「壁画が完成したら、文化祭で大々的に発表してやる。制作にかかった予算は町内会から出る。文化祭で作品を発表できるし、地域への貢献も出来る。一挙両得だろう?」
「……ふうん。まあ、そういうことならいいけど」
「それじゃ、決まりだな」
こうして、俺達は壁画作成に取り掛かることになった。
§
問題は、何を書くかだった。
壁の大きさは縦三メートル、横幅は十メートル以上にもなる。
その全面に絵を描くには、綿密な計画が必要となる。
俺たち二人は、図書室に移動して相談を始めた。
夏休み中の図書室には誰もいない。
周囲に気兼ねすることなく、俺達は壁画の図案を考えた。
「やっぱり、地域住民のみんなに親しまれるような絵がいいと思うんだ」
俺はなるべく派手で、一般受けしやすいような図案を提案した。
何しろ、この企画には町内会や校長といった様々な人々が注目している。
その期待に答えるためにも、中途半端なものを作るわけにはいかない。
そのためには、近所の住民たちに愛され、後世にまで語り継がれるような大作を作り上げるべきだ、と俺は意気込んでいた。
「動物とか花とかの絵ならば、見栄えもいいし親しみのある絵になるんじゃないか?」
「いやよ、そんなのめんどくさい」
しかし、彼女は俺の意見をあっさりと却下した。
「動物とかはデッサンをとるのが意外と面倒なのよ。花とかは、たくさん色を使い分けなくちゃいけないから、予算がかかるわ」
江藤はなるべく簡単で、手間のかからない絵を描くべきだと主張した。
今は八月の半ば。
二学期の頭に始まる文化祭までは二週間とちょっとしかない。
短い作業期間と、限られた製作費。
そして、作業にかかる人員の事を考えたうえで、図案を決めるべきだと考えていた。
企画側の俺の意見と、制作サイドの彼女の意見は真っ向から対立し、議論は紛糾した。
「そりゃあ、期限までに書き上げることは重要だけど、モノがしょぼかったら元も子もないだろう?」
「あんたこそ、見た目のインパクトばかり優先して、描く側の苦労なんてこれっぽっちも考えていないでしょう!」
「これは町内会から予算が出ている、一大プロジェクトなんだ。どこの公園にもあるようなありきたりなモチーフじゃ、クライアントを納得させることはできないだろうが!」
「納期やコストを無視して、現場に無茶押し付けないでよ! ブラック企業みたいなことを言わないで!」
不毛な言い争いに疲れが見え始めたころ、
俺達は互いに妥協点を模索し始めた。
「……じゃあ、風景画なんかどうだ?」
「風景画?」
「そうだよ。美しい自然の風景ならば、見栄えもいいし、簡単に描けるんじゃないか?」
「それじゃ、夜空にしましょう。星一つない、漆黒の夜」
「壁全体を黒く塗って、それでお終いってか? ダメだ、そんなの」
「じゃあ、雲一つない、澄み切った青い空ってのはどう?」
「青く塗って終わりってか? だからダメだって。夏休みの宿題じゃないんだから」
「じゃあ、間をとって夕焼けはどう?」
「夕焼け?」
「そう。風景画の中で、もっとも簡単で、見栄え良く見えるのは夕焼けなのよ。“下手の夕景”って言ってね、映画監督とか写真家とか、どんなヘボでも夕景さえ書いておけば、大抵は上手に見えるものなのよ」
身もふたもない事を言うが、確かに夕日の画は迫力があって綺麗だ。
壁画に書くには丁度いいかもしれない。
「しかし、ただの夕日だけじゃあちょっと物足りないな。他にも風景を足してくれないか? 山間の里山とか、ニューヨークの摩天楼とか……」
「海だったらいいわよ。水平線に沈む夕日とか綺麗じゃない」
「じゃあ、南の海の夕日ってのはどうだ?」
「そうね、ヤシの木陰とか脇に書いておけば、南の島に見えなくもないわね」
ようやく、アイディアがまとまってきた。
テーマが決まれば、あとは江藤の仕事だ。
「それじゃ、この線で行きましょう。早速、下絵の作成に取り掛かるわ」
「どれくらいできる?」
「一週間くらいはかかるわね」
「時間がないんだ。なるべく早く頼むぞ」
「はいはい。わかったわよ。……まったく注文が多いんだから」
ぶつくさと文句を言いながらも、彼女は予定を組み立ててゆく。
「下絵が完成するまでに、他の準備を進めておきましょう。必要な道具と材料は、副部長に頼んで用意してもらうとして、問題は人員ね。これだけの大作だと、美術部全員が総出でかかっても手が足りないわ。みんな、予定とかあるだろうし……。望月は、夏休みの予定とか大丈夫?」
「え? 俺も参加するの?」
「当たり前でしょう。企画したのはあんたなんだから。言い出しっぺが、参加しないでどうするのよ? 覚悟しておくことね、たっぷりとこき使ってあげるわ」
そして彼女は、意味ありげな笑みを浮かべた。
どことなく勝ち誇ったようなその姿に、俺は言いようのない不安を覚えた。
§
それから数日して、ようやく下絵が完成した。
あれこれ悩んだ甲斐があって、出来上がった下絵は見事なものだった。
オレンジから紫、そして群青色へと変化する空。
そして中央に燦然と輝く、黄色い夕日。
夕日の照り返しに輝く海と砂浜を、ヤシの木陰が縁取っていた。
方眼紙の上に、マーカーとパステルを使って描かれた下絵は、そのまま額に入れて飾っておきたくるほどの出来栄えだった。
これならば、町内会の皆も納得してくれるだろう。
壁画が完成すれば、落書き小僧たちも裸足で逃げ出すに違いない。
早速、俺達は制作に取り掛かることになった。
作業は美術部員が中心に行うことになった。
それぞれに夏休みの予定があるため全員参加という訳にはいかなかったが、交代で作業にあたることで、何とか人員の確保はできた。
制作に取り掛かってすぐに、俺は壁画制作というものを完全に誤解していたことを思い知らされることになった。
二、三日程度の作業で完成するだろうと高をくくっていたのだが、壁画制作はそんなに甘いものではなかった。
まず、壁画を描くための下地塗りから取り掛かる。
壁全体を綺麗に洗い、下地材が定着しやすいようにゴミやほこりを徹底的にとる。
次に、下地材を塗り付けて行くのだが、これが結構な重労働だった。
左官屋が使うようなコテで壁前面に下地材を塗り付けて行くのだが、なかなかうまくいかない。
制作に携わっているのは、勿論素人ばかりだ。
慣れない作業に悪戦苦闘しながら、下準備だけで数日がかかった。
壁全体が下地材で真っ白になったところで、ようやく下書きに取りかかった。
まず、壁全体に下絵と同じ方眼を書くことから始める。
測量計を使って正確に位置を計って、墨壷を使って壁面の上下左右に直線を書く。
こうして壁全体に縦横四角の格子模様を書き上げた。
そしてその方眼を頼りに位置を確認しながら、下絵と同じ絵を壁に描いてゆく。
それは、失敗の許されない、技術と神経が要求される繊細な作業だった。
そしてようやく、塗装に取り掛かかった。
まず、色を塗ってはいけない部分に、マスキングテープを張り付け養生する。
その上からスプレー缶で、塗料を吹き付けていく。
夕焼け空の微妙なグラデーションを表現するには、何度も重ね塗りをしなければならない。
マスキングをかけて、スプレーを吹き付け、乾くのを待って、マスキングをはずして、またスプレーを吹き付けて――と、同じ作業を延々と繰り返してゆく。
細かい部分は、筆を使って仕上げてゆく。
美術部員たちの筆使いは俺のような素人と違って、やっぱり手慣れていた。
巧みに筆を操りながら、砂浜やヤシの木、空に浮かぶ星空などを書き込んでゆく。
以上が、制作作業の大まかな流れだ。
説明した通り、芸術作品の創作活動と言うよりも、建築現場の肉体労働に近いものがあった。
炎天下の中の作業は過酷で、俺達作業員は熱中症を防ぐためにこまめに休憩を入れて、水分補給を行いながら作業を続けた。
そして、現場監督よろしく一連の作業の指揮をとっていたのが、美術部部長の江藤というわけだ。
彼女自身は、作業には一切かかわらず、俺達の後ろから――デッサンスケール、って言うのか? 四角いフレームを片手に持って、あれこれと指示を出す。
「そこ、ムラになっている! もっと厚塗りして!」
「曲がってるわよ! もっと左!」
「そこは、カナリアイエローね。……違う、それはレモンイエロー!」
美術の知識のない俺は、作業員の中でも一番の下っ端だった。
直接作業に関われない分、下働きとしてめいっぱいこきつかわれた。
「望月、アイス買ってきて。ハーゲンダッツの抹茶。支払いは生徒会でお願い!」
「……それ、作業と関係ないよな!?」
§
「……てな感じで、壁画制作は進んだ」
当時の事を思い出し、俺はしみじみとうなずいた。
「確かに過酷ではあったが、作業自体は楽しかったよ。やっぱり、みんなで一つのものを作るっていうのは、充足感ってものを感じることができるしな。しかし、炎天下での作業はクソ暑くてしょうがな……」
「すいませーん。チーズケーキ追加でお願いしまーす」
「はーい」
注文の声と、それに応じる声に、俺は現実に引き戻された。
「……何やってんだお前」
いつの間に注文したのか、
テーブルの上にはクリームソーダと食べかけのピザが置いてあった。
そこにさらに、店主が持ってきたチーズケーキが加わった。
「ごゆっくりどうぞ♪」
愛想よく笑うと、商売上手の店主は逃げるように立ち去った。
届いたばかりのケーキに、フォークを入れると本庄は美味しそうに口に入れた。
「……俺の話、聞いていたのか?」
「聞いていましたよ」
にらみつけ、うなるようにたずねると。
どことなくやさぐれた様子で、本庄は答える。
「昔の先生は、頭が良くて、生徒会長で。天才芸術家の彼女と一緒に、楽しく一夏を過ごしました――って、そういう話でしょう?」
「……今の話の何処をどう聞いたら、そんな解釈が成り立つんだ?」
「ようするに、ただのリア充自慢じゃないですか。なんなの、モッさん? 私に対する当てつけ?」
「そんな話じゃない」
そう、これはそんな甘酸っぱい思い出じゃない。
これは、砂糖抜きのアイスコーヒーにも似た――青春時代の苦い思い出だ。
§
なんやかんやあったが、
制作は順調に進み、壁画は無事完成した。
完成した時は、感慨深いものがあった。
落書き防止の塗料を前面に塗り付け、最後の作業を終えたのは八月の終わり。
夏休み終了直前だった。
危ういタイミングだったが、文化祭にはどうにか間に合ったってわけだ。
完成を祝って、俺達二人は祝杯をあげることにした。
祝杯と言っても、高校生だから酒なんかじゃないぞ?
近所のコンビニで、アイスコーヒーを買ってきて、壁画の前でささやかな打ち上げをやろうじゃないかってわけさ。
コーヒー代を出したのは勿論、俺だ。
「ほら、買って来たぞ」
アイスコーヒーを買って、戻って来た時。
公園の空は、壁画と同じ夕焼け色に染まっていた。
市の管理から見捨てられた公園には、街灯なんてものはない。
薄い暗がりの中、俺がコーヒーカップを差し出すと、彼女は黙って受け取った。
「ありがと。……って、砂糖とミルクは?」
「無いよ」
素っ気なく言い返すと、俺はコーヒーに口をつけた。
疲れた体に、カフェインが染み渡る。
「コーヒーはブラックで飲むもんだ。砂糖やミルクを淹れたら、香りや苦みが台無しになっちまう」
「そりゃあ、あんたはそうかもしれないけど、あたしは砂糖とミルクが必要なの! このままじゃ苦くて飲めないじゃない」
「だったら、初めっからコーヒーなんて頼まなきゃいいだろう。甘いもんが飲みたいんだったら、別のもんを飲めばいい」
俺がそう言うと、
あきらめたような顔をして、彼女はカップに口をつけた。
一口すすり、すぐに口を離すと、彼女は小さく舌を出した。
それからしばらく、俺達は壁画を眺めながら無言でコーヒーを飲み続けた。
八月とは言え、夕方になると肌寒く感じてくる。
公園を吹き抜ける涼しい風は、夏の終わりが近い事を感じさせた。
やがて、ブラックコーヒー相手に悪戦苦闘していた彼女が口を開いた。
「ほんと、望月って、人の心がわかんない人だよね」
「なんだよ、それ?」
「他人に対する気遣いとか、思いやりってものが決定的に欠けているのよ。自分の意見を押し付けるだけで、周りの意見に耳を貸そうとしないんだもの。壁画のことだってそうじゃない。見た目ばかり優先して、無茶な注文ばかり付けてさ。望月の言う通りにしてたら、今頃地獄だったよ」
「……うっ!」
痛い所を突かれた俺は、うめき声をあげる。
確かにあの当時の俺は、見栄えばかり気にして、作業する人間の苦労なんてちっとも考えて無かった。
今にして思えば、彼女がなるべく簡単な画にしようとしていたのは、作業をする人間を慮っての事だったんだ。
あのまま俺の主張通りに作業を進めていたら、俺達作業員の何人かは確実に熱中症で倒れていただろう。
そして、文化祭には間に合わず壁画制作は失敗に終わっていただろう。
「そんなんだからさ、女子にもてないんだよ。望月ってさ、頭いいし、生徒会長だし、顔だってそこそこイケてるじゃん。それなのに彼女が出来ないって事はさ、性格に問題があるってことでしょう」
その言葉は、そのままこいつに返してやりたかった。
言い忘れていたが、江藤は結構、美人だ。
背も高いし、顔立ちだって悪くない。
何といっても絵の才能がある。
校内では目立つ存在であるにもかかわらず、浮いた話の一つも出て来ない。
それはつまり、性格に問題があるってことなんだろう。
「女心とか、一切わからないんだろうね。鈍感そうだもん。そんなんじゃ、一生恋人なんてできないよ?」
「うるせぇよ。彼女が出来ないんじゃなくて、作らないんだよ。俺は受験生だ。女なんかと付き合っている暇なんてねぇんよ」
「うわ、何それ? 下手な言い訳!」
そう言うと、彼女はけらけらと笑い出した。
言っておくが、断じて言い訳なんかじゃないぞ?
何しろ、当時の俺は勤勉な学生だったからな。
恋愛なんてものは、学業の邪魔だと本気で思っていたんだ。
「今更、勉強なんて必要ないでしょう? 望月って、頭いいじゃん。大抵の大学は入れるでしょう?」
「そりゃ、地元の大学ならばな。しかし、東京の、それなりの大学に行くには、勉強しないといけねぇんだよ」
「……え?」
俺の言葉に、
彼女は笑うのをやめて、驚いたような顔をした。
「東京の大学に行くつもりなの?」
「ああ。そのつもりだ」
「大丈夫なの? いくら望月でも、東京の大学に行くのって大変なんでしょう?」
心配そうに江藤は訊ねる。
彼女の言う通り、地方から東京の大学に行くって言うのは簡単なものではない。
何しろこの辺じゃ、進学予備校なんてしゃれた物なんてないから、受験勉強のしようがない。
大学とのコネクションもないから、指定校推薦なんてものもありゃしない。
「まあ、難しいが、何とかなるさ。実は、AO入試を受けるつもりで論文を書いているんだ」
「論文?」
「そう。今回の企画を、論文にしてまとめているんだ。タイトルは『社会心理学における“割れ窓理論”の実証』。壁画制作によって、地域社会の治安に与える影響度などを調べて、大学に提出するんだ。実例をもとにした論文は評価が高い。今回の企画がうまくいって、論文をまとめることが出来れば、合格はまず間違いないはずだ」
「なんでわざわざ、そんな苦労してまで東京の大学なんかに行くのよ。地元の大学でいいじゃない。東京に行って、何かやりたい事でもあるの?」
「特にやりたいことはないさ。ただ、この町から出て行きたいんだ」
東京に何があるかはわからない。
ただ、この町に何もない事だけは確かだ。
「地元の大学を卒業したって、まともな就職先なんてありゃしない。民間じゃあ、潰れかけの中小企業ばかり。公務員にでもなるしか道はない――こんな、スタバもないような町で、一生を終えたくないんだよ。俺は」
「……そう」
コーヒーの入ったカップを掲げてそうつぶやくと、彼女は黙り込んでしまった。
会話の間を埋めようと、彼女に訊ねる。
「そういうお前はどうなんだよ、江藤?」
「あたし?」
「お前だって、進学するんだろう? 美術大学に行くんだったら、それなりの準備としなくっちゃいけないんじゃないのか?」
「いかないよ、あたし」
「……え?」
今度は俺が驚く番だった。
振り向くと、
飲みづらそうに、ブラックコーヒーをすする彼女の横顔を覗き込む。
「美大なんて行かないわよ、あたし」
「いや、だってお前、推薦入学が決まっているんだろう? 教授がうちの学校に来たとか言っていたし……」
「ああ、その話なら断ったわよ」
「なんでだよ、もったいない!」
「美大なんて行ってどうするのよ。それこそ、碌な就職先なんてないじゃない。美大を卒業しても、画家になれるのはほんの一握りの人間だけ。卒業生の半数が“行方不明”とかっていう世界なのよ。とてもじゃないけど、やってられないわ」
「……そういうものなのか」
絵の事について何も知らない俺は、美術大学を出れば自動的に画家になれるものだと思っていた。
しかし、現実はそううまくはいくおのではないらしい。
彼女の才能をもってしてもかなわない、そんな世界があることを俺はあらためて思い知らされた。
「わたしにとって、絵は趣味でしかないの。生活かけてまでやるような覚悟は、私にはないわ。高校卒業したら、きれいさっぱり絵はやめるつもりよ――つまり、この作品は江藤画伯の最後の作品、ってわけ」
壁画を見つめ、彼女は笑みを浮かべた。
何かをあきらめた人間の浮かべる、寂しげな笑みだった。
「そう言えば、望月にお礼言っていなかったわね」
「お礼?」
「あんたのおかげで、高校生活最後の思い出が出来たわ――ありがとう、望月」
面と向かって礼を言われて、俺は激しい罪悪感に駆られた。
彼女に壁画制作を依頼したのは、みんなの幸せを願っての事だった。
町の人の為、学校の為――そう思って、俺はこの壁画制作を企画したんだ。
それが、結果的に彼女に筆を折らせるためのきっかけになってしまった。
そのことがどうしても、許せなかった。
「……絵を描くことまでやめることはないじゃないか」
だから俺は、彼女に向かって言ってやった。
俺 みたいな、何の取り柄の無い男と違って、彼女には絵の才能がある。
絵に関しては素人の俺でも、ハッキリとわかる才能が彼女にはある。
その才能が、活かされることなく朽ち果てて行くのは、いかにももったいない。
「絵に関する仕事なんていくらでもあるだろう? お前の才能を活かせる仕事が、きっとあるはずだよ」
「たとえば、どんな仕事?」
「どんなって、その……」
問われて、俺は答えに詰まる。
思い付きで口にしたはいいが、そこまでは考えていなかった。
手の中にあるコーヒーカップをみつめ、必死に考えているうちに――ひらめいた。
「バリスタとか、どうだ?」
「バリスタ? 何それ?」
「カフェの店員の事だよ。コーヒーとか、エスプレッソを淹れて、その上に絵を描いたりするんだ。ラテアートとかっていって、東京じゃ流行っているらしいぜ」
咄嗟の思い付きで言ったのだが、話しているうちに案外良いアイディアのような気がした。
「バリスタは芸術的センスや手先の器用さが要求される仕事なんだ。江藤なら、その辺はだいじょうぶだろう? 人使いも上手いし、客商売にもむいているようだし きっと、うまくやれると思うぜ」
「それで、そのバリスタとやらには、どうやってなるわけ?」
「そりゃあ、何処かのカフェで修行して……」
「こんなスターバックスも無いようなど田舎に、カフェなんてあるわけないじゃない。馬鹿ね」
「……そうだな」
所詮は、思い付きだった。
結局、俺の力なんてものはそんなものだ。
世の中どころか、一人の人間の人生すら変えることができない。
その時の俺は、どうしようもない無力感に打ちひしがれた。
§
壁画が完成してから、数日後。
夏休みが明ける同時に、文化祭が開催された。
当日、壁画のある公園は文化祭の別館として一般開放された。
江藤の描いた壁画は、予想以上の反響だった。
壁画の前には町内のみならず、市内のそこら中から大勢の客がやって来た。
壁画の前では、吹奏楽部の演奏や、演劇部の即興劇など、様々なイベントが開催され、それもまた好評であった。
他にも有志達による屋台などが出店して、まずまずの盛況ぶりだった。
事件は、二日目の朝に起きた。
初日の盛況ぶりを聞きつけて、市長が文化祭に視察に来ることなったんだ。
江藤の描いた壁画と、俺の提唱した割れ窓理論の実証について興味を示したらしい。
市長の突然な来訪に、俺達は大慌てで出迎えの準備をした。
俺と校長は公園入口に立って、市長が来るのを緊張と共に待ち構えた。
やがて、市長は公用車に乗ってやってきた。
車から降りた市長を、揉み手をしながら――実際にはしていないのだがそんな勢いで、校長は出迎えた。
「ようこそ、市長!」
この校長は権威とか、名誉とかにひたすら弱い。
文化祭で、江藤の作品展示をゴリ押ししようとしたのも、彼女の名前を使ってこの学校の宣伝をするためだった。
本日はどうも、お忙しいなか云々と、
ひとしきり社交辞令を交わすと、校長は俺を市長に紹介した。
「市長、彼が我が校の生徒会長です」
「はじめまして、市長。生徒会長の望月です」
「ああ、君が壁画制作の企画をしたそうだね?」
「はい」
「いや、実にいいね。“割れ窓理論”に基づく、公園の美化運動は市の方でも大いに注目しているんだ。君のような若者が社会活動に積極的に取り組んでくれるのはうれしい限りだ。今後もこの町の発展の為に、力を尽くしてくれたまえ」
「はいっ!」
「早速、君達の成果を見せてもらおうかな? 案内してくれたまえ」
市長の言葉に、俺はすっかり有頂天になった。
高校生が大人の、それも市長なんて偉い人に褒められれば舞い上がるのも無理もない。
俺は意気揚々と、公園の小路を先導して市長たちを壁画まで道案内した。
やがて、俺達は壁画のあるテニスコートに到着した。
市長同様、初日の噂を聞きつけて公園には町内の人々が集まっていた。
朝だというのに、壁画の前には既に人だかりができていた。
その様子がおかしい事に、俺はすぐに気が付いた。
「……何だ?」
壁画を取り囲む群衆達は、ざわざわと何かを話をしていた。
中には嘲笑と思えるような、くすくす笑いまで聞こえて来る。
嫌な予感がした俺は、壁画に向けて駆け出した。
人垣をかき分け、俺は壁画の前に出た。
そこで俺が見た物は、
夕日の中に、鮮やかに浮かぶ――へのへのもへじだった。
赤いスプレーペンキで書かれた物なのだろう。
太陽の中にきっちりと納まったへのへのもへじは、まるで夕焼け空に浮かぶ顔のように見えた
美しい南国の空に浮かぶ、へのへのもへじは、シュールで、幻想的で――とてつもなく間抜けに見えた。
「……なんだ、コレ?」
茫然と、壁画の落書きを見つめる俺の背後から、
後を追いかけて来た校長が、押し殺した声で俺に訊ねた。
「これはどういうことかね、望月君?」
「…………」
§
「……その時の気まずさったら、無かったぞ」
あの日の事を思い出し、俺はしみじみとつぶやいた。
「何しろ、市長の目の前で大恥をかかされたんだ。文化祭が終った後、俺は校長に滅茶苦茶怒られたよ。落書き防止のために描いた壁画の上に、堂々と落書きされたんだからな。俺の企画は大失敗だったってわけさ」
結局、“割れ窓理論”なんて、効果などなかったということだ。
聞きかじりの社会心理学に頼った俺がバカだったんだ。
「この騒動をきっかけに、市長は公園の整備に予算を裂くことになった。文化祭が終った後、大規模な公園の改修工事が始まった。テニスコートは撤去されて、代わりに噴水や花壇が設置された。以前とは見違えるほどに綺麗になった公園に、ストーリートアーティストたちは姿を消した。今では、近所の住民たちが安心して過ごせる憩いの場になっているわけだ」
当時の面影が残っているのは、あの壁画だけだ。
さすがの市長も、あの壁画の出来栄えだけは気に入ったらしく、改修後も壁画は保存されることになった。
「企画が失敗に終わったことにより、俺の論文は完成することはなかった。AO入試で大学に行くことが出来ず、俺はしかたなく地元の大学に進学した。行きたくもない大学に行って、俺は以前の真面目さとは無縁の自堕落な大学生活を送った。それでもなんとか卒業して、教員免許を取ることはできた。そして、母校の教師に収まった、ってわけさ」
田舎の大学じゃ、碌な就職先なんかありゃしない。
教師の職にありつけただけでも、俺は幸運だった。
「校長は未だに文化祭の時の事を根に持っているらしい。俺に生徒指導担当なんて面倒な仕事を押し付けたのも、あの時の仕返しなんだろうよ――そして俺は、炎天下の中、女子高生を捕まえる為に三日も公園に張り込むようなことになったってわけだ」
そして俺は、本庄を睨み付けた。
「これでわかったろう? あの壁画は、そんなロマンチックな代物じゃない。俺はあの壁画のせいで人生を狂わされたのさ」
今にして思えばあれが人生のターニングポイントだった。
あの落書きさえなければ、
いや、壁画制作なんてものを提案しなければ、
そもそも、生徒会長になんてものにならなければ――今頃、東京の大学を出て、そこそこの企業に就職していたかもしれない。
「いたずらにせよ、おまじないだろうが、それによって迷惑している人がいるんだ。これに懲りたら、二度と落書きなんかするんじゃないぞ? わかったか?」
長々と語る俺の説教に、本庄は黙って耳を傾けていた。
どうやら、自分のやった事を反省してくれたようだ。
俯いた姿勢のまま、彼女は一言呟く。
「……最低」
「ああ、全くだよ。誰がやったか知らないが、あの落書きさえなければ……」
「そうじゃなくて、モッさんが!」
「……え?」
突如、
彼女は顔を上げると、怒りの表情で俺を睨み付ける。
「本当にわかんないの? 誰が落書きしたのか?」
彼女の怒りの意味が解らず、俺はうろたえる。
「……いや、誰なんだ?」
「江藤さんに決まっているでしょう!?」
「……え?」
間の抜けた声が、俺の口から洩れる。
「な、何で江藤が? ……っていうか、お前は何でそれがわかったんだ?」
取り乱した様子の俺を見て、
彼女は苛立たしげな様子で説明を始める。
「いいですか? 落書きが発見されたのは、文化祭二日目の朝だったんでしょう? つまり、落書きは夜のうちに書いたって言う事じゃないですか。暗闇の中、夕日の中に、へのへのもへじを書くなんて、誰にもできるような事じゃありませんよ。正確に、壁画の位置を把握している人でなければ、できないことです。そうなると、デッサンスケールで、壁画の位置を把握していた、江藤さん以外に考えられないですか!」
「…………」
彼女に言われて、俺は絶句する。
絵を描くことに関しては、俺よりも詳しい。
実際、彼女は何回も挑戦して、いずれも失敗している。
経験者である彼女がそういうのならば、そうなのだろう。
「いや、でも、なんで江藤が!?」
しかし、それでも、納得できないことが一つある。
「なんで、自分で書いた壁画に落書きなんかしたんだよ。理由は何だよ、理由は!」
「そんなの決まっているじゃないですか。江藤さんは――モッさんの事が好きだったんですよ」
「……へ?」
間髪入れず答える彼女に、再び俺は絶句する。
「公園の問題が解決しちゃったら、東京の大学に行っちゃうんでしょう? 好きな人が遠くに行っちゃったら寂しいじゃないですか。先生にこの町から出て行ってほしくなかったから、先生といつまでも一緒に居たかったから――だから、自分の書いた壁画に落書きしたんです。そんな事も解らないんですか。先生?」
「…………」
俺の頭の中は真っ白になって、何も考えることが出来なくなっていた。
それから後の事は、よく覚えていない。
しかし、彼女の言った、最後の一言だけは、はっきりと覚えている。
「……本当に、人の心がわからない人なんですね。先生は」
§
どれだけ時間がたったのだろうか。
窓の外は陽が傾きはじめ、店内も薄暗くなっていた。
公園から聞こえてくるミンミンゼミの鳴き声も、ツクツクボウシへと変わっていた。
気が付くと、対面に座っていたはずの、本庄真奈美の姿は消えていた。
テーブルの上には、彼女の食い散らかした痕跡が残されていた。
やがて、カフェの店主が食器を片付けにやって来た。
「……支払いは、先生にツケておきますね」
伝票片手にテーブルを片付けながら、店主は言った。
せっかく捕まえた落書き犯に逃げられた挙句、タカられたことについては、もうどうでもいい。
食器を担いでカウンターに向かう彼女の背中に向かって、俺はつぶやいた。
「……お前か?」
「…………」
無言で、彼女は振り向いた。
その顔には、十年前のあの日と同じ、勝ち誇った笑みを浮かんでいた。
「……お前だったのか、江藤!」
「……やっと気が付いたの? 鈍感!」
そう言い残すと、カフェの店主――元美術部部長、江藤美幸はカウンターへと立ち去った。
その後ろ姿を見送って、俺は自分のバカさ加減を心の底から呪った。