The flower of desire
初投稿初小説なので頑張ります。
自分を失った感覚は今でも覚えている。ふと目を覚ますと、まず嫌な臭いが鼻を突いた。その不快感に一気に意識を取り戻した。辺りは薄暗く、灰色の天井は臭いと相まって息苦しい雰囲気をはらんでいた。その時の僕に視界に入ったものを定義する術はなくこの視界の持ち主である自分自身でさえ定義できない。生まれてきたばかりの赤子のように泣き喚きたくなるような恐怖と混乱が一気に襲ってくる。僕は泣き叫んだ。呼吸の感覚も分からず肺の中の酸素が尽きてしまうまで、声の限り叫んだ。だけど、その声は反響してやがて消えていくばかりで、その後は虚しい呼吸音が残るだけだった。孤独。恐怖と混乱は収まり、かわりに寂しさが胸のあたりを苛むのを感じた。苦し紛れに天井を見上げる、しかしいっそう孤独感はつのってくる。「誰かに会いたい。」寂しさから芽生えた意思をぽつり、と声に出した。枯れ切った声はおそらく、誰にも届かなかった、というより誰にも届かせる気もなかったのだろう。けれどそう声にした途端に、意思は体を支配し始めた。心臓がどくどくと早鐘を撃つ、身体の末端に熱が広がっていく、頭に「誰かに会いたい」の声が溢れかえる。じっとしてなんかいられなかった。僕は立ち上がり些か暗い道をよろよろと歩き始めた。
ヴァロン通りの下水道で、名もなき少年はあてもなく歩いていた。いや、歩くというより、足が彼の上半身に引きずられていると言った方が正しいといえる。かつん、かつんと歩みを進めるごとに足音が壁に天井に反響する。人のいるとは思えない下水道で人を求め歩くのは愚かなことではあるけれど、少年にそれを定義する術はない。彼は浅い息を不器用に、不規則に吐きつづけている。酷い下水の臭いに時々顔を歪めながら、それでも、ただただ人を求めていた。
歩き始めて5分もしない頃。少年は目線の先に何かがあることに気づいた。ごみ袋だろうか、いや、ごみ袋にしても、粗大ごみにしても、「何か」は少々平べったすぎる、と少年は感じた。彼は歩みを速くする。「何か」まであと10メートル、というところまで来て「何か」というのは倒れている人間で、それも女性で、小さな女性であることが見て取れた。彼はふらつきながらもその女性の前に辿りついた。途端、少年は女性の顔を見もせずにその小さな身体を乱暴に揺さぶった。
「ねえ、起きて。起きてよ。ねえ!おい!起きてくれよ!!」
「ん…んん…?うぅぅ……んぁぐっっっ!?」
乱暴に揺さぶったせいか、女性はすぐに覚醒したようだったが__。
「あああああああああ!?何よあなた!何なの!?」
すぐさま少年の手を跳ね除け、転がっていたステッキを素早く拾い上げ、少年の喉元に突き付け壁に追いやる。この間約2秒。このわずかな間にあっけなく少年は追い詰められた。
そこで初めて少年は女性の顔を見る。いや、女性というよりは少女と言った方が良いのだろうか。小さい体に見合った幼くかわいらしい顔立ち、所々汚れている色白の肌。大きな瞳。何より目を惹くのは、金色の髪。耳の上で括られた金髪は少女の荒い呼吸に合わせてゆらゆら揺れていた。
少年が喉元に突き付けられたステッキに慄き声も出せずにいると、ゆっくりとステッキが喉元から放された。それでも、少女の目は未だ少年を鋭く見据えている。
「あなたは誰?何故わたしを起こしたの?」
「お…起こしてごめん」
「答えなさい。あなたは誰なの?」
少年は黙ってしまった。彼は二つの質問に答える術を持ち合わせていない。少女はその様子に訝しみ、語気を強めてさらに問いつめる。
「質問の意味わかるかしら?…答えないならあなたを敵として扱うけ」
「知らないんだよ!」
少年は声を荒げて少女の話を遮った。少年の声は長いこと狭い通路に反響し、やがて静寂に包まれた。
「分からないんだ…。目覚めたらここにいた。…その前のことを何も思い出せないんだ」
静寂を破ったのは少年のか細い、不安げな声だった。何もかも分からない不安と恐怖、心細さに締め付けられる胸、言葉にしてしまえばその感情は決壊する。少女は少年の頬を伝う涙に気づき反射的に駆け寄った。
「記憶がないの?自分のことも?」
少年は嗚咽を漏らしながらもぶんぶんと頷いた。少年は、彼を見上げる少女の目を見て
「お願い。名前が欲しいんだ、それだけでいいから…」
と懇願した。
「名前…」
少女は彼の目から、彼の瞳に宿る何かから目を逸らせなかった。まるで射抜かれているように動けなくなった。
「そんな…、わたしが決めるの?」
「適当でもいいから」
「名前は大切なのよ!?適当に決められないわ!」
「せめて自分の呼び方でも教えてよ」
「え…、僕、とか俺、とか?」
「そうか。僕、ぼく、ボク、俺、おれ、オレ……」
少年は目を瞑ってうわ言のように一人称を繰り返す。壊れた機械のようだと言っても差し支えなかった。自らに一人称というプログラムを書き込むように。
そうして数分間経ち、少年は目を開き、少女に向き直った。
「僕にしようと思う」
彼はすっかり泣き止んだようだ。まだ赤い目元には笑みがうかがえた。
少女はその様子に安心したのか、
「そう…似合っていると思うわ」
と言い微笑みを返した。一人称が似合うかなど、少女も初めて言ったがどうも奇妙な感覚に苦々しく笑った。
「名前はそんな軽々しく決めるものじゃないのよ。まして人に名前を付けてくれ、なんて」
少女はふっと呆れたように息を吐きながら腕を組んだ。その振る舞いは少女の姿にしては大人っぽすぎて何かちぐはぐな印象を少年に与えた。…違和感は振る舞いだけではなかったようだ。
「そういえば、君の服大きすぎない?」
「ああ……。…ッ!?」
少女は肩まで服がずり落ちているのに初めて気が付いたようだ。彼女はそんなあられもない自身の姿を見る姿勢で数秒固まって、何事もなかったのように少年に向き直った。
「あ…ありがとう。…そうね、邪魔ね」
少女はそんなことをぶつぶつと言いながら、特に造作もなく袖を引きちぎった。
「これでよし、と」
彼女は一人満足げに微笑んだ。肩までずり落ちた服は特に気にしなかったらしい。少年は引きちぎられた袖を呆然と見つめていた。置いてきぼりをくらったような顔で、まるであり得ないものでも見るかのような顔で。
少年がしばらく呆然としたまま立っていると、少女が近寄ってきた。
「ねえ、お兄さん」
先ほどの少女(ステッキを突き付けたり、袖を破ったり)らしからぬ猫なで声と上目使いに少年は警戒心をあらわにした。
「何?…というか君も誰なんだ?僕のことだけ聞いておいて自分のことを教えてくれないのはずるいよ」
すっかり威勢を取り戻した少年は、少しむっとした様子で少女に問う。
「じゃあ教えてあげるわ。わたしの名前はアリル・クレーベル、迷子なのよ」
「迷子?」
「そう、迷子。だから私をお家に返してほしいの」
迷子、という単語は誇らしげに言う言葉じゃないと少年は心の中で突っ込みつつ、彼女の要求の急展開ぶりに焦った。
「随分唐突だなぁ!というか、君…アリルの家はどこなんだ?」
「魔法界」
「え?」
「魔法界!」
聞き間違いじゃないかと思ったのだが。どうやらこのアリルという少女は至極真面目な顔をして「魔法」などと言っているらしい。しかし子供の悪戯のような馬鹿らしさはアリルからは感じ取れない。
「まほうかい…?」
「そう、ま・ほ・う・か・い。お兄さん、お願い…信じてくれないの…?」
アリルはみるみる顔を曇らせ、少年を見上げた。アリルから潤んだ目を向けられ、少年は怯む。小さな子供、特に女の子に泣かれるのは彼の弱点のようだった。
「魔法」だなんて荒唐無稽にも程がある、と少年は怪しむ。しかし、自分が何もかも忘れている以上、有り得ないと思うことも現実には有り得るのかもしれない。それにアリルの言葉を信じてみたいとも思った。それ以外に彼には縋れる存在がいなかったから。
「わかった、わかった。信じるから!泣くのはやめてくれ!」
アリルはその答えを聞くと、まるでそれを待っていたかのようにぱっと笑顔になった。
「ふふふ。じゃあお兄さん、お願いね」
少年はアリルのにんまりとした笑いを見て悔しさがこみ上げるのを感じた。