6.μ、異世界へ行く <零日目—前編—>
ナツノは確信していた。路地裏で見た焦げ跡、『あのバカ』の仕業に違いない。μ曰く、彼を見たのはほんの1週間前。近くにいた。それがわかっただけでまずは良しとしよう。
病室のベッドで、ナツノはチャットルームにアクセスする。
『炎みたいに燃えるような頭髪の男性を目撃した人、いませんか?』
『教えてくれてもパンツ見せないよ、私のだから』
ナツノの書き込みの後にすぐさま別の書き込みが入る。ベッドサイドに置いていたスマホを掴み取り、メッセージアプリを開く。
『μさん、あなたは黙っていて』と打ち込んで送信する。
すぐに返信が返ってくる。
『あれは私のだ』
『そんなの欲しがるのなんて、μさんぐらいよ。それにあんな書き込みしたら、本気じゃないって思われるでしょ、バカ』
μとメールで不毛な戦いを興じながら、掲示板やチャットルームで呼びかけてみたが、結局、収穫はない。この方法でこれ以上の成果を出すのは無理そうね、とナツノは思う。
でも、μもあれから、『あのバカ』を見かけないという。P市に住むμなら、もしかするとあのバカを見かけるかもしれないと思っていたけれど。
それにナツノの見立てでは、μには魔法や魔法使用後の残滓を見る力がある。どうやら路地裏に焦げ跡を残した魔法は、『グルグルグチャグチャ』しているらしい。その『グルグルグチャグチャ』を追えば、あの人に辿りつけるかもしれない……。
コンコンコン。いつものノックで、思考を止める。あら、もうそんな時間なのね。
「入っていいわよ」
「失礼します、お嬢様」
恭しく礼をする白いひげを携えた初老の男。片目にはモノクルをつけている。ボディーガードを束ねる長。名を『一条』という。
「彼、見つかったのかしら?」
「いえ、残念ながら。しかし、不思議なものです。彼……性別さえ不明ですが、確かにお嬢様の言う通りボディーガードのリストから1人足りない」
窓際に立ち、外に目を向ける。
「しかし、誰もそのボディーガードのことを覚えていない。書類上にも名前も何も残っていない。けれど、確かに数だけは合わない。決まった人数のボディーガードを用意し、欠員が出ればすぐに補充する。そのようにしているにもかかわらず、3年間も1人足りないままになっている。こんなことはありえません」
一条が続ける。
「至る所に特徴的な魔法の痕跡がありました。痕跡にすら改ざんが施されていますが、記憶操作・情報隠蔽の魔法によるものだと思われます。お嬢様の言うその男が、裏切り者なのか、それとも味方であるが拉致されたのか、それすらもわかりませんが。いずれにせよ、必ず見つけ出します」
「ええ、お願い。いなくなってもうひと月……。いないことに気がついたのはほんの少し前……」
何度も夢に出てくる者が誰なのか、気づくのに時間がかかった。
「そうですね。彼を見つけ出すためにも、お嬢様の記憶を紐解かなければなりません。それでは、そろそろ」
「ええ」
「では、目を閉じて。今日は何か、別の夢が現れるといいのですが」
目を閉じたナツノの額に、ひんやりとした、体温の低い手が触れる。
「見られるわ、きっと」
すーっと、夢の中に落ちていく。路地裏の焼け跡を思い出す。あれを見た後だからか、いつもとは違う夢……記憶が見られるような気がする。
* * *
夢を見ている。いつものように、私は夢の中で、自覚する。この夢は昔の記憶。でも今日は、いつものように、はっきりと過去の記憶だと断言する自信がない。だって、これはいつも見る夢と違っていたから。色とりどりの花々で飾られた庭園。これは私の屋敷の庭。
xxは私を見つけると、まっすぐな姿勢で、こちらに向かってくる。燃えるように赤い頭髪のそいつは、知的そうな眼鏡をかけている。その奥の表情は、やはり黒く塗りつぶされていて見えない。
近づいてくるとそいつは、私よりも20センチ以上は背丈が高い。xxのその姿は、μさんが言っていた容姿が反映されたもの。
ねえ、これはただの夢? それとも私の記憶?
目の前まで来たxxが微笑む。表情は見えないけれど、そう見えた。
「お嬢様、もう元気になりましたか? 昨日は危険な目に合わせてしまって、本当に申し訳ございませんでした」
昨日……を思い出そうとしても思い出せない。きっと、いつものように私は命を狙われて、そしてxxに助けられたのだ。
「いいえ、感謝するわ。あなたは強いのね。今までのボディーガードなんかよりもずっと、ずっと!」
私は、xxのネクタイをつかんで引くと、
「お嬢様?」
xxの顔が近付く。
「明日も明後日も、次の週もその次の週も。一生、私の隣にいて。私を守って。私のナイト」
息遣いが感じられるほどに近づいたその頬に、私はそっと口付けた。
「ほら、次はあなたの番……。って、きゃあああああ! 何やってるの私!」
「ナ、ナツノちゃん!?」
ガバッと起き上がると隣にマドカの顔があった。
「あ、ゆ、夢……。もちろん、そうね」
額を拭うと変な汗がにじんでいた。一条はもういない。それにしてもまったく……。
「何の手がかりにもなってやしない」
夢の内容に愚痴をこぼしながら、唇に指を当てる。私って、ああいうことをする人間だったかしら。
キ、キスするような……! いや、あれは夢よ、きっと! 過去の記憶なんかじゃ……ない! ……はず。
「ナツノちゃーん。ほっぺ真っ赤だよ? 熱?」
「マドカ、黙りなさい」
「し、心配してるだけなのに……」
そこに、ピコン、とナツノのスマホにメールが届く。
「あら、μさんからだわ。……どうしたのかしら?」
「?」
マドカがスマホを覗く。μから届いたメールには、
『困ったことになった』の一文と草原が写った写真が添付されていた。
* * *
さて、ナツノが妄想か過去の記憶か判断のつかないお幸せ(?)な夢を見ている時、μは昨日、事件があった路地裏に来ていた。
腕組みして、人の形をした焦げ跡をじっと見つめる。μの目には、それに重なって、グルグル、グチャグチャした気持ち悪いが見える。ナツノ曰く、これは魔法の痕跡。
見ていると、これ、たくさんの魔法陣が重なり合ったものなんじゃないのか、と気づいた。
一つ一つ、魔法陣をメモ帳に描き移していく。
μには、魔法陣が何なのかわからない。けれど、今のご時世、ネットでの画像検索が発達しているのだ、検索すれば大抵のことは分かる。
描いた魔法陣をスマホで写真を取り、まず一つ、逆さの五芒星にヤギの角を模した画像を検索にかける。
一番上に出てきた検索結果を選び、説明文を目で追いかけ、気になる一節を読み上げる。
「神の敵対者、サタンよ。我を見よ」
なんだか、危な気なセリフだなと思いながら、次々に魔法陣を検索しては、目のひく一節を読み上げていく。
なぜ目を引くのか、それはその一節が魔術的であり、そこに力が宿っているからであり、μの目には、その一文が他の文章よりもはっきりと見えてしまうからである。
最後に扉の形をした魔法陣を検索する。
「ソロモンの大きな鍵……? 主は青銅の扉を壊し、鉄の閂を打ち砕かれた」
視界がぐにゃりと歪む。
「え!?」
μはなんと正しい順番で、魔法陣を描き、正しく呪文を読み上げていたのだ。
「ぎゃあーーーーーー」
描かれた魔法陣、つまりメモ帳に、吸い込まれるように飲み込まれる、近くにあったバイクごと。
気がつくと、地べたに転がっていた。目に映る世界は白く、目が焼ける。眩しい。手でヒサシを作り、起き上がる。太陽がちょうど天頂にある。空には少ない雲もぷかぷか浮かんでいる。あまりにも晴天。カラッとした真夏の空気がそよ風に運ばれる。
見渡す限り、草原。草原。草原。
草原を真っ二つにする茶色い土がむき出しの道路にμがいた。
バイクが地面に倒れていのに気づいて起こす。
「で、ここ……どこ……?」
と、とりあえず……。と、手に握ったままだったスマホで、マップアプリを開く。場所は、さっきまでいた路地裏から動いていない。いや、GPS電波を捉えられていないから、現在地が更新されていないのだ。
「GPSの衛星って地球全部、網羅してるはずなのに」
途方にくれるμは、通信電波も圏外であることに気づき、呆然と立ち尽くす。 無駄と知りつつ、ネットにつながるか試してみる。
『あああああ』と適当に入力して検索にかける。ロード中……。
――――! 予想に反して、検索結果が表示された!
「つながる! なんで!?」
希望の光が灯る。こんなことになったのは、魔法のせいな気がする。ならばナツノだ、と思いつき、ナツノにメールする。
『困ったことになった』
ついでに、状況を知ってもらうために辺りの写真を添付する。
『P市ってそんなに緑があるのね。それで何が困ったの?』
と返ってくる。すぐに返信する。
『いや。なんか気がついたら、ここにいた。どうしたらいい?』
『本当に何があったの? 大丈夫? 人の居そうなところに移動できる?』
心配してくれているのがわかる。
「人が居そうなところ……」
一本道の先に、かなり先、地平線の近くに、建物があるように見える。
『行ってみる』
と短く返し、μはバイクにまたがると、エンジンを始動させて発進させた。
「何がどうなったんだ……わけわからない! 魔法!? 転移みたいな!? 本当に関わるんじゃなかったー!!!」
大声で独り言を叫びながら、バイクを走らせる。
「しかも、こいつのタイヤ、オフロード用じゃないし! もうーー!!」
白い建物が見えてくる、地中海の街並みのような。
「って、本当にどこここ!?」
後でナツノにメールするために、バイクを止めて、写真を撮る。
白い建物が並び立つ街に着くと、バイクから降りて押して歩く。
「え……!?」
異様に長い耳の人、獣の耳と尻尾を携えた人。そもそも見た目が獣な人(?)が二足歩行。街を歩く人々(?)のその姿に、μは開いた口がふさがらない。
茫然自失のまま、パシャりと写真をとり、ナツノにメールする。
『件名:助けて。お願い。意味わからない』
返信が返ってくる。
『コスプレ会場?』
「違うわーーーーーー!!!」
――――叫んだ後、μは再び、途方にくれてしまった。