5.魔法と薙刀 <異世界転移の前日—後編—>
μに案内させて赤髪の元ボディーガードが現れたという路地裏に着いたナツノは、思わずハンカチで口を押さえた。
「何よ、これ」
どこにでもあるような路地裏ではあるが、ここには明らかに異質の空気が漂っている。
路地裏の一角が、真っ黒に焦げているのが目につく。
真っ黒の中、一部が薄い。それが、人の形をしている。
人のような形をした物が、炎を遮ったためにできた模様。
というよりも、この燃えたものは明らかに……。
μがここは危険だ、と喫茶店で言っていたことを思い出す。
「ねえ、μさん、あなた、ここで何を見たの?」
μが目をそらす。
「何も見ていない」
ただ、とμは続ける。
「赤髪の男が、じっとこの辺りを見ていた。私は通りの外からそれを見ていて。気になったからその日の夕方に見に来てみたら、これがあったんだ。これ、どう見たって人が燃やされた跡だろ?」
「でしょうね。その男が、どの方向に行ったかは見てないの?」
「見てない」
「そう」
ナツノは考える。
この焦げ跡。
あのバカがやったのだろうか。人を燃やして殺した……。
必要であれば、そういうこともする人だ、あいつは生粋の魔法使いなんだから。
μがそのヒトガタから目を背けたまま、独り言にようにつぶやく。
「こんな、……赤くて黒くて、グルグルしてグチャグチャして……気持ち悪い………………」
そのつぶやきは、隣にいたナツノの耳にも届く。
「それ、どういう意味? あなた、何が見えているの?」
μの言った、『グルグルして、グチャグチャして』なんてものどこにもない。
いつの間にか、μは焦燥の表情を浮かべていた。
「…………言ったって信じられないと思うけど、私には分かるんだよ。霊感が強いっていうか、霊とか悪魔とか超常的なものが関係しているものがさ」
「μさんは霊が見えるの?」
今まで黙っていたマドカが訊ねる。
「いや、そういうんじゃなくて、……禍々しい色とか模様になって見えるっていうか」
自分自身でも説明しにくいらしい。
そこで、背後の気配に気づいた。
振り向くと、一見、サラリーマン風の男たちが5人。
3人が前に出て、残りの2人は通りへの出口を塞ぐように立っている。
「な、なんだよ、こいつら」
「μちゃん、後ろにいて」
危険だと判断したマドカが、薙刀に巻いた布をシュッと紐解く。
銀色の刃をあらわになる。
マドカはこの5人を敵認識し、槍のように突き出し構える。
手前の男たち3人が薙刀を見て、たじろぐ。
ナツノが一歩出てマドカの隣に立つ。
「私たちに何かご用でも?」
「ずっと病室にいれば、こんなこともしなくて済んだんだが……」
そう言った1人が拳銃を取り出す。
「え、え、え、え、拳銃!?」
μがあとずさる。
「μさん、大丈夫だから、後ろに下がって」
別の男が、拳銃を取り出した男に訊ねる。
「なあ、本当にやらなきゃいけないのか」
「お前は何も知らないのか? あの娘には罪はないが、あれの家は悪魔みたいなものだ。そろそろ根絶しないと生きていけなくなる連中が増えてしまう」
銃身の先に円筒形のものを取り付ける。サイレンサー、銃声を抑える道具だ。
「お、おい。あれ、本物じゃないよな!? 本気でやばそうだぞ」
「大丈夫よ、こんなの日常茶飯事だわ。いつもはあのバカに頼っていたけれど」
「ってことは本物!?」
普通に生きていれば、普通の人はこんなことには巻き込まれない。それはμも例外ではなく、μは後ずさろうとして、尻餅をついてしまう。
「マドカ、あの時みたいに、やれる?」
「うん。大丈夫」
μとは対照的に、ナツノとマドカはいたって冷静。
いずれ話すとして、マドカは以前にも一度だけ、同じような目に遭ったことがある。
あの時と同じように、マドカは武器を構え、そしてナツノは。
「私の家を知っているのですね。それなら、次期当主として、お相手します」
相手が大人だからなのか、なぜか丁寧語になるナツノ。
男が拳銃を構える。
「『ポーン』が『キング』を捉えられるかしら?」
首から下げた指輪を引きちぎるように外すと、素早く薬指にはめ、
「さあ、契約に従い、私を守りなさい――」
突如、噴き上げるように風が起き、指輪の裏に刻まれた模様から、エメラルドの光が溢れ出る。
ナツノにしか視認できない緑の光が鉄壁の結界を創り出す。
パシュパシュ――サイレンサーに殺された銃声が鳴る。
けれど、打ち出された銃弾は、ナツノの1メートル手前で、静止する。
いや、銃弾は1ミリでも先へ進まんと高速で回転し続ける。
けれど、それ以上進ませまいと、銃弾を中心に同心円状に何重もの波紋が広がり、銃弾を押さえつけている。
波紋の色は、やはり輝かしいエメラルドのそれ。
「わあ、きれい……」とμが場違いな感想を漏らす。
「そんなのもので私を殺すなんて、私の鉄壁を超えるのなんて、無理ですよ」
ナツノは片方の手を腰に当て言い捨てる。
マドカが未だ弾頭が潰れていない銃弾をはたき落すと、「やっ」、と一息に拳銃を叩き落とす。
「私の『ナイト』、片付けて」
チェスにおけるナイトはキャスリングしたキングに迫る駒を寄せ付けず、蹴ちらす要の駒。
「いくよ」
足元を狙い、払う。いっぺんに3人が地面にひっくり返る。
アスファルトに転がる直前に、3度、高速の一撃を入れていく。
マドカが動いてから数秒もかからずに、3人の男が地に伏し苦悶の声を上げる。
「おお、マドカちゃん、すごい」
μが感嘆の声を上げる。
マドカの繰り出す薙刀術は実戦でも十分に通用する。
「残り、2人ね。マドカ」
マドカは獲物を狩る鷹のような目で、残った2人に目を向ける。
距離を一気に詰め、高速の薙が2人を襲う。
1人が吹き飛び、
「стена」
ガン、と堅い壁に阻まれる。
「魔法!?」
タン、と後ろに飛んで距離をとる。
「今の、軍事用の? そういうこと。マドカ、一旦引いて」
「う、うん」
隙をつくらないように、相手に目を向けたまま、マドカが素早く、すり足でナツノの隣に戻る。
「早い……。галечник」
地面に転がる小石を浮遊させ、200m/sの速度で撃ち出す。
エメラルドの壁が、小石を阻む。
「通らないですよ。やっぱり、それ、軍用の魔法ですね。高速の詠唱、創生ではなく近くの砂つぶや小石を使う対人用の土魔法」
「詳しいのだな。落ちぶれた元軍人だ」
「あなたみたいな人、うちでも雇っていますから」
「そうか。……多くは語るまい。雇い主の指示に従うのみだ」
男がボクシングのように構える。
「Укрепление、галечник」
拳を強化し、小石の散弾とともに、距離を一気に縮める。
「マドカ、いくわよ。契約に従い剣に力を」
マドカの薙刀にナツノの結界と同じエメラルドの光が風のようにまとわりつく。
「風をまとった私のマドカは、疾いですよ」
浮かべた表情から読み取れるのは信頼。
男の拳が届く前に、風に乗った薙刀の刀身が男の横っ腹を斬りつけた。
「マドカ、殺したの?」
「し、しないよ。峰打だよ」
刀身に布を巻きながらマドカが答える。
「マドカは優しいわね」
『あのバカ』とは大違い。でも、マドカとμの顔を見られている。野放しにするわけにいかない。
家のこともあるし、私が狙われるのはいつものこととして……。
「この人たち、どうしようかしら? 放っておけばまた襲ってくるでしょうし。この人たちのクライアントに情報が伝わるのも嫌ね。そんなことにマドカとμさんを巻き込むのは違うわよね」
いっそ、死んでくれていればよかったのに、などとダークな考えを巡らせる。
「仕方ないわね」
スマホを取り出し、連絡先からボディーガードを一手に束ねる一条を選び、電話をかける。
電話はすぐにつながった。
「一条、ちょっとお願いがあるのだけれど。え、あ、病院を抜け出したことは……まあ、いいじゃない。それより、P市の駅近くの路地裏に5人、転がっているからお願いできるかしら? 詳しい場所は、メールするわ」
電話を終えてメールを打ち出すナツノにμが訊ねる。
「なあ、さっきの、銃弾を止めてたのって、お前がやったんだろ」
「そうね。でもその前に。それと、お前っていうの、やめてくれるかしら。ナツノって呼んで。呼び捨てで構わないから」
「じゃあ、ナツノって呼ばせてもらう。それで、あの緑色の壁みたいなのって、どうなってんだ?」
その言葉にナツノが驚く。
「あなた、見えていたの? ……そう、さっきの『グルグルしてグチャグチャして』っていうのも、そういうこと。あなた、魔法が見えるんだわ」
「マホウ?」
「それに、あの焼け跡からもそれが見えるということは、魔力の残滓も見えるということよ。すごいじゃない。応用すれば、魔力の探索や追跡ができるようになるわ」
「そ、そうなのか。なんか、よくわかってないけれど、じゃあ、さっきの不思議なので、こいつらの記憶どうにかできないのか?」
アスファルトに倒れている男を見下ろす。
「記憶操作? あると思うけど、私にはそういう高度な魔法は使えないわ」
「ぐ………」
ナツノが立ち上がろうとするその男に訊ねる。
「一条が来るまでまだ時間があるわ。それで、あなたたちは、どこの誰かしら?」
男はバッと立ち上がると、スーツの内からわき差しのような短刀を抜き取り、ナツノに向かって素早く突き出す。
小石を投じた水面のように、緑の波紋が立ち上がり、ナイフの刃を押さえ込む。
「まだ、私は指輪をはめているわ。術は起動中よ」
マドカは男に反応していた。薙刀の柄を男に向けて鋭く突き出す。柄が男の鳩尾にめり込んだ。
とほぼ同時に下から上へ顎を強打。
一瞬で呼吸と意識が断ち切られ、男が再びアスファルトに倒れる。
「おー」とやはり感嘆の声を上げるμ。
マドカの薙刀術は、見るものを魅了するほどに美しい。
「何か、縛るものないかしら?」
「こいつらのネクタイでいいんじゃない?」
「そうね。ナイスアイディア」
3人は、地面に転がる男たちの手首と足首をがっちりと結んでいく。
パンパンと手をはたき、
「さあ、ここを離れましょう。あとは一条たちがやってくれるわ」
* * *
μが通りに留めていたバイクを押しながら、ナツノとマドカの後ろを歩く。
「ナツノ、一応確認だけれど、魔法って、いわゆるあの魔法でいいんだよな」
物語の世界に出てくる『魔法』で正解なのか、と尋ねる。
「そうね」
ナツノがそれをあっさりと肯定する。
「マドカちゃんも、知ってたのか?」
「うん。1年前かな。高校1年の時にね。初めて知った時、私も驚いたよ」
「あるんだ……魔法」
目の前で起こった現象。銃弾を止めた魔法。納得するしかない。
何よりも。
「μさんは、あまり驚かないのね」
「私に見えるアレがなんなのかずっと気になっていたんだ。それが、魔法だってわかったから。むしろすっきりしたってとこかな」
「私はそれにびっくりよ。一般人で魔法を視認できるだなんて。μさんは変わっているわね、……いろいろと」
『いろいろ』には、チャットでの変態的発言を含んでいることは言うまでもない。
「μさん」
くるりとナツノが振り返る。人差し指を立て、
「魔法は隠されるべき秘密です。μさん、秘密でね」
最後に、もしバラしたら、一条があなたを消しに行くわ、と付け加える。
「お、おう。大丈夫だ。そこまでバカじゃないから」
すぐに駅前に着く。2人と連絡先を交換し終えたμは、
「じゃあ、私は行くな」
とフルフェイスのヘルメットを被り、バイクにまたがる。
「μちゃん、またねー」
エンジンを始動させると、挨拶代わりに手を上げ、音を立てて去っていった。