白百合が人間に変身した話
病院はいつも独特の匂いがする。私はこの匂いが苦手だった。病室の片隅に置かれている折り畳み式の椅子は、ずっと座っているとお尻が痛くなってくる。私は何度もお尻を上げて痛みを緩和しようと試みる。
「お前は優しいなぁ」
おじいちゃんがしっとりとそう言った。
「うーん……どうだろうね」
私は苦笑いを一つ作ると、そのまま床に視線を落とした。
優しくなんか、ない。私は怖がりだから、人に優しくしているだけだ。優しい人ではない。私は優しさよりも強さが欲しい。受け皿でいるよりも刃物になりたい。
「そろそろ帰りなさい」
おじいちゃんが小さなデジタル時計を片手にそう言った。窓の外を見ると日が落ちていて、暗くなってきているのが分かった。
「うん。そろそろ帰るよ。それじゃあ、バイバイ」
手提げかばんを手に取ってから、小さく手を振る。おじいちゃんが、骨ばった腕で手を振り返してくれた。それが毎回嬉しくて、私は少し笑顔になる。
「思ったより暗くなってたなぁ……」
外に出ると、きりりとした冷たい空気が私を包んだ。私はコートのポケットに手を入れて歩き出す。川沿いの道は人も少なく、車もあまり通らないので好きだ。こbの場所を考え事をしながら、ゆっくり歩くのが私の日課だ。
今日の授業の事、明日の持ち物の事、するすると記憶の糸をたどる。楽しくないなぁ、学校になんか行きたくはないなぁ。
「危ない!」
メープルシロップみたいな甘い声が聞こえて、私は立ち止まった。私の足元には、一輪の花があった。
花がしゃべったのだ。
「え、えええええ、お、お花が喋った⁉」
私は後ずさりをして、一輪の白百合を凝視した。この季節にお花なんて珍しい。
「踏まれるところだった。ふー危ない。危ない。」
百合がそう言うと、花びらが少し揺れた。
不思議だ。摩訶不思議。私は美しい百合の花に近づいて話しかけた。
「踏みそうになってごめんね」
「仕方ないわよ。こんなこと一回や二回だけじゃないんだから」
返答が帰ってきて、私は肩を上げて驚いた。私、今お花と会話してる。わくわくとどきどきが入り混じった心の中は、とても騒がしい。私はしゃがみ込んで百合をじっと見つめた。
「凄いね。私喋れるお花なんて初めて見たよ」
「花も草もみんな喋るわ。あなたたちが気づいていないだけ」
「へーなるほどー」
私がこくこくと頷くと、白百合がきらきらと光りだした。黄金の光の粒は、息を呑む程に美しくて、私は瞬きさえも忘れて白百合に見とれていた。
白百合は黄金の光を纏いながら、どんどん大きくなっていき、人間の姿に変わった。小学生の女の子位の身長まで伸びると、ふっと光が消えて変身が止まった。
「……凄い、人になっちゃった」
人間に変身した白百合は、柔らかくて可愛らしい顔立ちだった。白い髪の毛は腰まで伸びていて、ふわふわとしていた。その姿は人間の姿をしているのに人間味がない。
私は驚嘆の眼差しで目の前の少女を見つめた。
「よしこれで踏まれることはないわね」
少女は満足気にそう言って頷いた。
「確かにそれならもう踏まれないね」
私はゆっくりと立ち上がった。立ち上がると、今まで少女と同じくらいだった視線の高さに変化が生じる。私は少女を上から見下ろすような形になった。
「お話して、変身して、本当に凄いお花だね」
「そうなのよ。私は本当に凄いお花なんだから」
白百合の少女は嬉しそうに胸を張った。その姿が何だか微笑ましくて、私は心の中が温かくなるのを感じた。
少女とベンチに腰掛けて二人でお菓子を食べた。
「人間と話したのは久しぶりだったわ。楽しかった。ありがとう。」
あたりが真っ暗になった頃、少女がすくっと立ち上がってそう言った。私はもう少し一緒にいたい気持ちを飲み込んで「こちらこそありがとう」と言った。
「あなたはもう帰りなさい」
少女が私の手を引っ張って立ち上がらせる。
「そうだね。そろそろ、帰るよ」
「それじゃあ、さようなら」
「うん。じゃあね」
白百合の少女が色の薄い華奢な腕を優しく振った。私も手を振り返して帰路に就いた。
途中で振り返りたくなる気持ちをぐっと抑えて真っ直ぐ家へ歩を進めた。振り返ると魔法がとけてしまいしまいそうだから。