SS.在りし日の記憶
「大丈夫か?」
わたしを気遣う初老の男性。わたしは彼が自分の夫であることを知っている。
「はい。大丈夫です。ちょっと暑さにふらついただけです」
わたしの他人行儀な口調にいちいち彼が傷ついた顔をすることももうない。でもあの日、わたしの記憶にある最初の日、目を覚ましたわたしの手を握り、私の名前を嬉しそうに呼んだ彼に対し「どなたですか?」とわたしが答えたときの彼の傷ついた表情は忘れられない。
わたしは、わたしの傍にいてくれる優しい男性のことを思い出したい。彼と積み重ねてきたのであろう時間を取り戻したい。
暑さにやられたわたしの手を引いて、彼は古めかしい喫茶店に入った。
「二人でよく来た店なんだが……覚えてないよな」
寂しそうにつぶやきながら、彼は窓際の席にわたしを座らせた。
注文を取りにきたウェイトレスに彼がなにか交渉しているようだったが、よく聞き取れなかった。
彼女が去ってしばらくして、店内に流れる音楽が変わる。なんだろう? 初めて聴くはずなのにひどく懐かしい。
「この曲、君が好きだった曲だよ。頼んで流してもらったんだ」
やがて、先ほどのウェイトレスがアイスクリームとエスプレッソをわたしの前に置いた。
これにもわたしは見覚えがある。デジャヴ? いや、きっとこれはわたしが経験したこと。
「アイスを一口含んで、すぐにエスプレッソを飲んでごらん? 君の好きだった食べ方だ」
冷たいアイスと熱いエスプレッソが口内で混じりあう絶妙のハーモニーに、奥深くで眠っていた在りし日の記憶が目を覚ます。
「わっ!? どうした? 熱かったのかい?」
心配そうな彼の声。わたしは気づかぬうちに泣いていたらしい。
わたしは彼ににっこりと笑ってみせた。
「ずいぶん白髪がふえたわね。あなた」
Fin.