森の王様
剣は猪人の胸肉を斬り上げ、頭にまで達した。下顎の肉がぺろんとめくれ上がり、黄色い牙が小さく覗く。黒毛は彼らの言語で何かをわめくと、頭を押さえてその場でのたうちまわった。
猪人たちはコエルジが応戦してくるとは思いも寄らなかったらしくしばしぎょっとしていたが、彼が逃亡を図ろうと駆け出したのを見ると、すぐに自分たちも後を追って丘を駆け上がり始めた。
コエルジは武術を習っていたことなど一度もないが、盗賊だった頃の経験から戦闘に関する心得だけは学んでいる、と自負している。猪人やオークのような力だけが取り柄の魔物はやたらめったらに武器を振り下ろし、斬るというよりも殴るのに近い感覚で攻撃してくる。そのため武器の通る道筋も読みやすく、距離をとってさえいれば恐るるに足らない相手だ、というのは親分の言葉だった。
とにもかくにも、力に差のある相手と至近距離で打ち合うのは危険が過ぎる。まして相手は複数いるのだ。こういう場合には基本距離をとって逃げるのが有効である。
コエルジはただひたすらに走り続けた。夜が明けようとしていた。
「それで。」商人の長はいった。「失った積荷は銀貨の袋だけなのか。」
「ああ、そうだ。」
ルイデンは申し訳ないといった様子で頭を下げた。
森の境界線を抜け、ルシードの街に辿り着いてから早1日。ルイデンは格安で倉庫を借り、中に奴隷たち一行を匿っていた。
「仲間はどうした。ちびのドワーフと男が一人いたはずだが。」
城門の壁に寄り掛かりながら、長がいった。言葉に詰まったが、いうより他なかった。ルイデンは猪人の襲撃にあってからのことを洗いざらい話し尽くした。商人たちはもの珍しそうに話に耳を傾けていたが、護衛のキルギィの名を聞くと、皆一様に顔を見合わせてざわつき始めた。
「ルヒルトリャプスといえば、名のある一族の血統じゃないか。本当に死んだのか?」
「直接見たわけじゃないがな。」
商人たちはしばし話を続けた。蚊帳の外に追い出されたルイデンはぶらりぶらりと街中を散歩していた。あの後ルイデンたちは二人が戻ってくるのを辛抱強く待ち続けたが、これ以上待っていると取引の時間に間に合わなくなってしまう、とのことで出発を強行したのだ。
ルシードを目指す間、彼は奴隷たちの身の上話を聞いてやった。境遇は様々だった。魔物に襲われて壊滅した一個師団の生き残り、没落し夜逃げした貴族、貧困に耐えかね売られた若者_それぞれに人生があった。
しかしルイデンは別段同情を抱くようなことはなかった。
こんな商売をしていればうんざりするほど聞く話であるし、それに何より彼は失った二人の仲間の方に気をとられていた。自分も探しに行くべきではなかったのかと悩み心を痛めたが、もうどうすることもできなかった。きっと二人は欲に目がくらんで、くたばってしまったのだろう。そう思う他になかった。
しばらく時間を潰していると、長に呼ばれた。
件の倉庫の前に向かってみると、驚いたことに仕事を依頼してきた盗賊の頭と幹部数名が集まっていた。ルイデンは流石にぎょっとし、身を強張らせたが、幸いにも彼らは危害を加える気はなさそうだった。
「何か用ですか。」
「銀貨だけで済んでよかったな。」
頭_確か名はハルケルといった_は煉瓦の壁面を弄びながらいった。
「私の持ち金で不足分をお支払しましょうか。」
ルイデンは頭を下げていった。なるべく穏便にことを済ませたいがための行動だったが、ハルケルの言葉は意外なものだった。
「いや、結構だ。取引は滞りなく行う。」
「では……」いいかけて、ルイデンは口をつぐんだ。なぜハルケルたちがわざわざ出向いてきたのか。自分が訊ねなくても、これから彼らによって説明されることは明白であった。
「ルイデンとかいったな。お前、キルギィについて、どう思っている?」ハルケルは口髭をぴくつかせていった。
「キルギィですか、俺たちにとってはただの商売道具、それ以上でも以下でもありません。」
「うむ、運び屋らしい単純な答えだな。」
商人たち、盗賊一味がどっと笑った。ルイデンは何が面白いのかわからなかったが、便宜上笑顔を返しておいた。
「おれはな、ルイデン。彼奴らは根絶やしにされるべきだと思ってる。」
ハルケルの鳶色の瞳が怪しく光った。ルイデンは彼に飲み込まれるかのような錯覚を味わい、たじろいだ。
「魔物のくせに人語を解すような奴はそれなりにいるが、そのほとんどは人間に服従を誓い、労働を引き受けることで生存を保障されている。そんな中であの白山羊は、魔物どもからも神の使いとして崇められる神聖な存在でありながら、いたって半端に人間に力を貸すのだ。いずれ彼奴らはその力を持っておれたち人間に取り入り、支配するつもりだ。今はそのための下準備として仕事を引き受けているのだ。おいルイデン、貴様旧種族というのは知っているか?」
吐き捨てるような物いいだった。ルイデンは剣幕に圧倒されながらもか細い声で答えた。
「いいえ、俺は教養無しなもんで……」
「大天使アルトマリウがこの世に生命の火種を産み落とした。これが世の始まりとされている。神らはその観察役兼見張りとして天に棲むものを送り込んだ。二つの種族は時には争い、交わりながらも別々の道を歩んできた、キルギィはその種の変遷の末に生まれた旧種族最後の末裔なのだ。すなわち彼らは新種族に対して戦争をふっかけるつもりなのだ。万物の霊長たる王位を人間から取り戻すためにな。」
商人たちの間でざわめきが広がっていた。ルイデンは聞いたこともないような単語の羅列に混乱していた。
「つまりこれは全てあなた方が仕組んだことだと?」
「勘がいいな、気に入ったぞ。」ハルケルは大きな咳払いをした。「猪人を雇ったのはおれたちだ。本来ならキルギィだけを攻撃させるはずだったのだが、奴ら物欲に目がくらんだのかお前たち運び屋にまで攻撃を仕掛けたようだな。不運なことだが仕方がない。保護獣を殺すにはこの森がうってつけだったんだ。まあそう恨むな。」
ルイデンは低く笑うハルケルの横顔を茫然と眺めていた。
途端にいいようのない虚無感が押し寄せてきた。じゃあ2人は何のために死んだんだ_
「こいつはもうお払い箱だが、どうする?」
「まあ生かしておいてやれ。仮に件のことを話してとしても鼻で笑われるのがおちだろう。おい、早く立ち去れ。」
ルイデンは突き動かされるままにその場を離れた。何もする気が起きなかった。俺は全てを失ったのだな、と今更になって実感した。城門をくぐって外に出た。どこまでも広がる緑の草原。青い空、ところどころに突き出た岩磐。
コエルジ、オミル、と心の中で呼びかけた。
もう戻ってきてはくれないのか。また3人一緒に冗談をいい合って、馬車で旅をして、そんな日常はもう見れないってのか。そんなの、そんなのあんまりだ。
ルイデンは唇を噛み締め、両の拳を握りしめた。
と、その時だった。
草原が急に暗くなった。何か大きな影が覆い被さってきたのだとわかった。影はその場でしばしホバリングすると、どすんと音を立てて着地した。あわてて飛びのいたルイデンは、全身が真っ赤に染まったその姿に愕然とした。
ルヒルトリャプス、と叫んだ。つもりだったが声が出なかった。ルヒルトリャプスの状態は燦々たるものだった。角は2本とも根元から折れており、耳も片方千切れていた。体中に剣で引き裂いた痕と思われる切り傷が生々しく浮いており、傷口には膿が溜まっているほか蛆が塊になって蠢いていた。また脚は黒く変色しており、うち2本は既に使いものにならないのか引きずられていた。
森からここまで歩いてきたのか、ルイデンは驚愕していた。何たる生命力だろうか。虚ろな瞳はルシードの城門に向けられていた。ああ、あいつはもう長くないな、と思った。ルイデンなど目もくれず、城壁に体当たりを喰らわすルヒルトリャプス。
音を立てて築かれる瓦礫の山。
彼の目的はただ一つ、生き絶える前に人間を一人でも多く殺すこと。それのみだった。
あがる非鳴をよそに、ルイデンは歩き出した。
あの黒い森へ、自分は行くのだ。
振り向いた。
ちょうど、大砲を浴びせられた血みどろのキルギィが白目を剥いて倒れ伏したところだった。




