銀貨は踊る
コエルジは崖を滑り降りた。
手足にいくつか擦り傷ができたが、痛みはあまり感じなかった。厭々ながらも後ろに続くオミルを視認し、視線を前に戻す。暗闇の中、薄く緑を帯びた月光に照らされた木々が鬱蒼と立ち並んでいる。
「あてはあるのか?」
「鎖だ。歩けば、引きずられて音が立つ。ルヒルトリャプスが息絶えるまでが刻限だ。」
オミルは黙って、しかめっ面で歩き続けた。
それにしても、とコエルジは思う。
森は広大だ。見渡す限り、方々にうねうねと枝を伸ばす木の幹が連なっている。仄暗い緑色を区切るかのように不規則に曳かれた黒い線、その足元は腰ほどの高さのある茂みや灌木、雑草に覆われている。地表に露出した根には苔がびっしりと生えており、毒々しい色のきのこも垣間見えた。
コエルジは感覚を研ぎ澄まして森の音を聴いた。
木々のざわめき、小さく遠のく小鳥の囀り、何かが枯葉を踏み分ける足音_
「オミル、聴こえたか。近くに何かいる。」
「ああ、あっちだな。」
オミルが指差した先には巨木があり、どうやら足音はその仄かに光を発している洞から聴こえてくるらしかった。コエルジは汗のにじむ手で剣を握り締めた。音を立てぬよう、そっと近づいていく。一歩一歩草木を踏み分ける自分の足音が夜の森に響く。慎重に辺りに目を配りながら、洞までたどり着いた。ぱちぱち、という焚き木の燃える音_そこに人がいることは最早確固たる事実であった。
コエルジは剣を巨木の幹に突き刺すと_重くて仕方がなかった_、オミルと共にぽっかりと空いた洞の中を覗き込んだ。
最初に思ったことといえば、オミルよりも小さい、という正直な感想だった。赤ん坊ほどの背丈しかない彼らは皆一様に先っちょの尖がった帽子を被っており、白い髭をもさもさに伸ばしていた。彼らは狭い洞の中で一かたまりになって暖をとり、何か作業をしている様子だった。コエルジたちに見られていたことに気付くと、年嵩のノームは体に似合わぬ低い、しわがれた声で口を開いた。
「これはこれは、遥々何のご用ですかな。」
一見親切な善精に聞こえなくもないが、ノームはこの小さな体で何百年もの長い時を生きてきたのだ。当然、人間がどんな奴らかってことも承知してるし、どういう風に付き合っていけばよいのかも心得ているはずだ。長と見えるそのノーム_ドリーモールと名乗った_の目が老獪さにぎらりと光ったのを、コエルジは見逃さなかった。
「俺たちは運び屋だ。団からはぐれた子供を探している。男の子だ、袋を担いでいて、それで、首に鎖をつけている。知らないか?」
ノームたちはナイフで木を削る作業をいったん止め、互いに、炎に照らされて朱く光る顔を見合わせた。
「そういえば、」とノームのひとりが思い出したようにいった。「さっきそんな子を見かけたような気がします。道を見失ったのか、ちょうどあの辺りで……」
と、やめんか、とドリーモールが指をさしかけたひとりの骨ばった腕をつかんだ。
「その前に、すこしお二方に伺いたいことがあるのですが、よろしいでしょうかな。」
「ああ。」コエルジはいった。
ノームたちの態度が急によそよそしくなった。コエルジを見つめる目には、明らかに敵意が見てとれたが、オミルに対してはそのような感情は抱いていない様子だった。やはり同族意識というやつが存在しているのだろうか。
「あれを引き起こしたのはあなた方ですかな?」
ドリーモールのいうところの意味はすぐにわかった。
目を凝らすと、木立の向こうにうっすらと沢の水と、飛沫をあげる滝が見てとれた。オミルはばつの悪そうに目を逸らした。
「そうだ。」
「やはりでしたか……」
穏やかで紳士的な物腰は変わらなかったが、ドリーモールは追及の手を緩めなかった。
「……ここらは元来わたしたちの縄張りであったのです。それが今や、西の山からやってきた猪人どもに取って代わられてしまいました。以後わたしたちは追いやられ、食糧も数を減らした中猪人どもの影に怯えながら息を潜めて暮らしておるのです。」
「俺たちのせいだっていうのか?」
「ええ、そうですよ!」ドリーモールは突然激昂したようにいった。「あなた方運び屋のおこぼれを狙って猪人どもが棲み付くようになってから、ここはもうめちゃくちゃです。わたしたち一族も散り散りになり、ある者は猪人に捕えられて街に売られ、またある者は見世物としてむざむざ殺され……そしてあの白山羊です。キルギィは神聖なる神の使いではなかったのですか!それが人間に手を貸し、血みどろになって殺戮など……ああ、それはとても恐ろしいことですよ。倫理というものが音を立てて崩れ始めているのです。あなた方人間も_」
ドリーモールは最後までいえなかった。
コエルジの剣があの黒ずんだ尖がり帽子を深々と刺し貫いていたのだ。ドリーモールは恨みのこもった眼でコエルジを凝視したが、やがてそれも水をかけられた火のようにしゅっと消えた。
「時間がないんだ、ガキはどこへ行ったか、それだけ答えてくれ。そうすりゃ危害は加えない。」
「……いつだって、人間は勝手です。その勝手な都合のためにわたしたちが今までどれだけ苦しめられてきたか。」
「ああ、わかるよ」
それまで口をつぐんでいたオミルが急にいった。
「だがおれたちにもおれたちなりの事情ってものがあるんだ。生きるためのさ。お前たちには力がない。だから強者に蹂躙される、それだけのことさ。ずっと繰り返されてきた節理ってもんさ。」
ノームたちは小声で何やら相談を始めた。コエルジは苛立ちながらまたしても沢の方を見やった。ルヒルトリャプスの声はここ数分ほど聴こえてこない。もしかしたら、という不安が彼の胸にどっと押し寄せてきた。
「何をもたもたと……おい、早くしろ、本気で刺すぞ。」
コエルジは錆びついた剣でノームたちを脅した。途端に彼らは震えあがり、一斉に立ち上がった。
「わかりました、案内しましょう。」ドリーモールがいい、6人のノームたちは洞から地面へと飛び降りた。
ドリーモールは松明を持つと、髭を揺らしながらちょこまかと歩き出した。6人は列になって、針葉樹の林の中へと踏み込んだ。コエルジとオミルも、松明の光を頼りに後に続く。しばらく行ったのち、ドリーモールが声をあげた。
「ああ、あそこであります。仲間がいうには、通りすがりあのあたりで重そうに袋を抱えた少年とすれ違ったそうです。」
「本当だな?」
ノームのひとりはがくがくと頷いた。コエルジはよし、と頷くと銀貨一枚をドリーモールに渡した。6人が協力して銀貨を運び始めた。
「とっとと見つけるぞ、オミル。」
「ああ。」
コエルジとオミルが藪に覆われた地帯を手分けして捜索し始めようとした、まさにその時だった。一条の光が闇を貫き、鋭い音を立てて地面に着地した。コエルジはびくりとして、後方を振り返った。物いわず佇む黒い木。火矢は、どうやらその向こうから飛んできたらしかった。
コエルジはだっと駆け出し、茂みに転がった。
それを待ち構えていたかのように火矢が降り注ぎ、灌木を焼く。驚いたノーム達が悲鳴をあげた。
「走れ、オミル!」
コエルジは火矢の猛攻を掻い潜り、腹ばいになって進んだ。射ってきた相手_恐らく猪人の残党だろうが、今は確認のしようがない。
草木に覆われた地表に、棒のように高く聳えたつ木々、その幹の陰に隠れた。剣の柄を握る手が汗にまみれて震えている。ああ、俺は怖いのだと思った。死ぬのを恐れているのだ。
覗いた。見えた。
シダを踏み分け近付いてくる猪人の群れ、見たところ十匹ほどいた。甲冑で武装しているものもちらほら見られたが、ほとんどは粗末な鎧や麻の服を着ていた。
猪人_サルダカ山部地方を主な分布域とする二足歩行の魔物。体長は成年男性のそれを少し下回るほどで、人間の如く社会集団をつくって狩猟を行うことでも広く知られている。木の根や地下茎を食物とする雑食性で、魔物の中でも非常に高い知能を有する。
コエルジは息を殺しながら後ずさりした。あちらからは背の高い茂みに隠れ見えないはずだ、そう思った。猪人たちはじりじりと歩み寄ってきた。筋骨隆々の逞しい腕に握られた得物、その刃が白く光っていた。
ふいに、空を裂くような金切り声があがった。
さっと視線を走らせると、ノームのひとりが脚を掴まれてぶら下げられ、絶叫しているところだった。帽子がすぽりと抜け落ち、落下した。
それを皮切りにして、次々にノームが捕えられていった。コエルジは丘に向かって匍匐で進みながらも、オミルの姿を目で追った。彼はすばしっこく猪人たちから逃げ回っていた。
「コエルジ、てめえ!」オミルは何かわめいていた。「祟ってやるぞ、祟ってやるからな!」
コエルジは猪人たちの様子を伺っていた。
よく見るとそのほとんどが手負いのようだった。ルヒルトリャプスが死んだことは明確だったが、繰り出せる隊がこれだけということは、猪人たちの部隊もかなりの手傷を負ったのだろう。コエルジは心の中でルヒルトリャプスに感謝した。
オミルが捕まったようだった。
手足をばたばたさせながら怒鳴り散らすドワーフの喉元に、細身のブロードソードが当てられた。
「見捨てるのか、コエルジ!ああわかったよ、ならわかったよ!」
嫌な予感がしたが、刹那それは的中してしまった。
「そこだ、人間はそこにいるぞ!」オミルはコエルジの方を指差して叫んだ。
猪人たちが一斉にこちらを向いた。
武器を振り掲げ、一斉に襲いかかってくる。止むをえまい、コエルジは覚悟し、自分も剣を構えた。
一匹、黒毛の猪人がシャムシールを振り上げて叩くように斬りつけてきた。コエルジは極度の緊張状態における震えで動けずにいたが、幸いにもこの斬撃は大振りだったこともあって、正面の枝をすぱっと切り落とすまでにしか至らなかった。
葉が舞い散った。
コエルジはがむしゃらに剣を振り回して間合いをとった。対峙しているのは計四匹。ほかの者はノームやオミルを抑え込むのに精いっぱいという様子だった。
栗毛の猪人が棒を突き出してきた。
先には火が燃えており松明代わりと思われる。コエルジはばっと身を投げ出してこれをよけると、右手で剣を振り回しながら緩い斜面を登り、元来た道を逃げ帰り始めた。
すぐに追ってくる四匹。
一際体格の大きい猪人の振った片刃の戦斧がコエルジの腕を掠った。赤い線が皮膚に走り、ぱっくりと開いて血が噴き出した。
激痛を堪えながら立ち止まる。
コエルジは黒毛の猪人のがら空きの腹に振りを喰らわせようと、剣を斜めに振り上げた。




