白い妖精
闇の中、木立の合間を縫って風のように宙を泳ぐ白いキルギィの体がぬめりと光った。コエルジは汗びたしになった額を拭った。魔物の姿はまだ見えない。そそり立つ針葉樹の木々が発すざわめきは、否応なくコエルジの心に焦燥感を湧き上がらせる。
「おい!」コエルジは喉を絞り、声いっぱいに叫んだ。「32区はもう目と鼻の先のはずだ、違うか?」
馬車と距離をとって併走しているキルギィ_名はルヒルトリャプスといった_は妙に落ち着いた癪に障る声でいった。
「獣どもはすぐそこにいる。だが、まだ私が手を下すような場面ではない。しばし待て、様子を伺うのだ人間よ。」
コエルジは小さく舌打ちし、前を走る馬に鞭を当てた。何分、わざわざ所領城門を迂回してけもの道をひた走っているわけだから、当然馬車の状態は燦々たる有様であった。幌はあちこちが破れ、車輪は今にも外れそうだった。
「クソ山羊の野郎め。金で雇われた身のくせによくもぬけぬけと……」
苦々しげにいったのは荷台に座るオミルだった。オミルは心底彼らのことを憎んでいる。それでも高い金を出して彼らの力を借りなければ商売上がったりなのだから、一応対面した時には礼儀正しく振る舞っているものの、一たび離れればこの有様だ。コエルジもキルギィたちの身に余る態度に対しては多少なりとも反感を抱いていたが、オミルほどには憎んでいなかった。
「コエルジ、前だ。おいでなすったぜ。」
ルイデンが慣れた口調でいった。
「ああ。」
コエルジはしなった鞭を一層強く馬の尻に叩きつけた。老いぼれの馬はひひんと声を立てると、速度を上げて木立の側を通り抜けた。途端に前方、木陰に身を潜めていた猪人どもが一斉に顔を出した。彼らの手にはこん棒や槍、弓などのごく原始的な武器が握られている。
「ルヒルトリャプス!」
コエルジは叫んだ。ルヒルトリャプスは六本の脚で木の枝を器用に掴み、馬車の後方ににゅっと首を突き出した。木の根っこを引っこ抜いた時のような耳を劈く鳴き声をあげながら、猪人が弓を射った。ぱひゅん、と空を引く音。矢は馬を僅かにそれ、地面に突き立った。
「汚らわしい獣どもめ。今に喰らい尽くしてやるわ。」ルヒルトリャプスは馬車を追い越した。蝙蝠のように被膜が薄く透けた翼を軽くはためかせ、猪人たちの固まっている木立に突進する。後方にねじ曲がった2本の角が、ちょうど弓に矢をつがえようとしていた黒い猪人に突き立てられた。泥のような血飛沫が辺りに飛び散り、絶命した猪人の悲鳴にも似た絶叫が森に響いた。
「コエルジ、左だ。」
オミルに急かされながら、極度の興奮状態にある馬に鞭を打った。馬は木々をかき分けて走り、沢へ到着した。コエルジは辺りを見回した。どうやらあの滝の上にも猪人たちがいるらしい。コエルジは河原の岩陰に馬車を停めると、荷台のオミルに声をかけた。
「おい、オミル。」
「何だ。」
「見えるか?あそこにちらついてる。いち、に、さん……。」
オミルは目をしばたかせて隠れている猪人たちを見やった。
「だからどうしたってんだ。」
「馬車でちんたら沢を渡ってなんかいたら、格好の的だ。馬車はここで捨てる。」
「何だと?コエルジ、てめえ。自分が何言ってるのかわかってんのか?」
「荷物は歩きで運べばいい。おい、おい。お前らにも手伝って貰うぞ。間違っても変な気を起こすんじゃねえぞ。俺がやらなくても、あの山羊野郎がやる。」
コエルジは荷物と共に幌の中に座り込み、虚ろな視線を床に投げかけている奴隷たちにいった。奴隷たちは小さく頷くと、袋を背負って立ち上がった。
「信じていいのかよ、こいつら。」ルイデンがぼそりといった。
「荷物だけは死守しなくてはならない。俺たちの、生きる糧だ。」コエルジはそういって、自分も穀物の入った袋を担いだ。中身は全て盗品であり、コエルジたちは奴隷も含めてこれらを商人たちに受け渡すため、森の中を移動しているのだ。馬車を失ったのは痛いが、とコエルジはひとりごちた。元々買い替える時期でもあった。それに今回の取引では相当な金が動く。こんなぼろなんかよりももっと乗り心地のいい馬車を四、五台買ってもお釣りが来るくらいの莫大な金が俺たちに渡るのだ。それを考えれば、こんな老いぼれ痛くも痒くもない。
コエルジは今さっき下ってきた坂道に目をやった。ルヒルトリャプスに応戦する猪人たちの群れ、その頭の先っちょの辺りが見え隠れしていた。
「いくぞ。」
コエルジはいった。不安げに辺りを見回す馬を捨て置き、天然の階段を登って、対岸側に出た。猪人とコエルジたちは、傍から見れば水平に並んでいた。
「気付かれてるのかな。」
「いや、わからん。」コエルジはそういい、袂から錆びた長剣を取り出した。鞘を取り払い、腰に留めた。
「お前、剣術なんてやってたのか。」
「いいや、こいつは盗賊の親分から褒美に貰ったもんだ。」コエルジは後ろを振り向いた。自分、オミル、ルイデンの後方から十数人の奴隷たちが脇目も振らずついて来ている。
「奴らには武器を持たせてやらないのかよ。」オミルが馬鹿にしたような口ぶりでいった。
「あれで十分さ。」
オミルは矢をつがえた。ルイデンは小振りの斧を握り締めた。木立の合間に覗く猪人たちの頭。馬車が急に姿を消したことに戸惑っている様子だった。馬鹿め、とコエルジは毒づいた。
「山羊野郎が戻ってきたぜ、コエルジ。」
オミルがいった。振り向くと、体中に返り血を浴びて真っ赤に染まったルヒルトリャプスが川の水を掻き分けながら水面を疾走していた。後方からは雨のように矢が降り注いでおり、既にルヒルトリャプスもはりねずみの如く背に矢を浴びていた。
「人間よ、どこにいる?」
ルヒルトリャプスが血を吐きながらいった。沢の対岸に陣取っていた猪人たちは思わぬ乱入者の存在に慌てふためいていたが、やがて覚悟を決めたのか一斉に崖を飛び降り始めた。
「おい、聞こえているのか。加勢しろ!私だけでは持たん!」
コエルジは悲痛に叫ぶ山羊頭の怪物をじっと見つめた。コエルジ自身もここまで獣たちの数が多いとは聞いていなかった。もしかしたら、俺たちが通るルートを縄張りに、野良猪を集めていたのかもしれない。なかなか侮れない奴らだ。
猪人たちは円になって並び、たくみにルヒルトリャプスを操っていた。攻撃を受けて一方が斃れれば、盲点の後方からめった刺しにする。そののち、すぐに距離をとって次の攻撃に備える_極めて単純な戦法ではあったが、多勢に無勢、短剣の斬撃でその片目を失った血みどろのキルギィは次第に滝へと追い詰められていった。
「汚らわしい豚どもめが。だれが、貴様らなんぞに、斃されるものか。豬肉にしてくれるわ。」
咆哮するルヒルトリャプス。風を受けた翼がはためいた。
「走れ!」
コエルジは命じた。あとに続くオミル、ルイデン。奴隷の一人が擦り切れた声でがなるようにいった。
「あれは見捨てるのですか?」
「そうだ。いざとなったら死ぬのも奴の仕事だ。あっちも承知の上で雇われてる。」
「しかし……。」
「うるせぇ、ぐずぐずするな。」
コエルジは先頭をひた走った。木々の合間を縫って、転びながらも走り続けた。しばらくの間無言で足を動かし続けた。丘の上、木のまばらに生える、沢を見下ろす地帯まで来た時、待っていたかのようにオミルが歓喜にも似た叫び声をあげた。
「おい、おいおいおいおい。すげぇことになってるぞ、見ろよおい。」
オミルの指差す先_血で真っ赤に染まった水面がちらりと垣間見えた。満身創痍のルヒルトリャプスが牙を剥いて近寄ってきた猪人を噛みちぎったところだった。ルヒルトリャプスは既に正気を失っているのか、黄色い目をぎらつかせて狂ったように猪人たちに突進している。
「ルイデン。32区はもう過ぎたか。」
「ん、ああ。ここからは猪人のテリトリー外だ。」
コエルジは辺りを見回した。奴隷たちが疲れきった様子で思い思いに腰をおろしている。
「ひとり足りないな。」
「えっ?」びっくりしたようにルイデンが聞き返した。
「子供がいただろう。銀貨の袋を担いでた奴だ。あいつがいない。」
「ああ、確かにいわれて見れば……。」
ルイデンも納得したようだった。カルの町で買った奴隷の少年が忽然と姿を消していたのだ。コエルジは剣を握り直すと、奴隷たちに近付いた。
「おい。」
奴隷たちはびくりと慄いた。皆顔色が真っ白だった。木陰に座り込んで吐いている者もいた。
「男のガキがいただろう。あいつはどこにいった?」
「そ、それが……」皆を代表してか中年の男が口ごもったようにいった。
「何だ、早くいえ。時間が惜しい。」
男は観念したのか、渋々といった体で口を開いた。
「赤松が生えていたあたりで見失いまして……はぐれてしまったのでしょうか。」
コエルジは全員に問いただしたが、答えはどれも曖昧なものだった。
しばし考えた。銀貨を捨てるべきか、それとも取りに戻るべきか。頭を抱えていた時、微かながらキルギィ特有の甲高いやかんのような鳴き声が聞こえた。コエルジはまた、ちらりと沢の方を見やった。意外にもルヒルトリャプスはまだ生きていた。白い毛並みは生傷と血、泥で汚れ見る影もない。翼も片方は変な方向に折れ曲がっていた。
「オミル。奴はどれくらい持つ?」
「うーん、何ともいえねえな。ただキルギィってのは執念深い。逃げるという選択肢はまず奴の頭にはねえってことだ。死ぬまで踊り続けるぜ。」
オミルはそこまでいってから、げらげらと笑った。
「ルイデン、こいつらが逃げないよう見張っててくれ。」
コエルジはそういい残すと、彼から小斧をかすめ取った。
「おいコエルジ、今度ばかりは正気を疑うぜ。少しくらいいいじゃねえか、死んじまったら元も子もねえんだぜ。」
オミルは飽きれて声もでない、といった様子だった。コエルジは剣を振り、枝を薙ぎ払った。
「……昔俺のご先祖様の時代にな、夜盗に襲われて積荷をおしゃかにされたことがあった。」
オミルと目が合った。この偏屈屋のドワーフが仕事仲間に加わってから、かれこれ一年が経っていた。
「どうなったと思う?」
「知らねえよ、んなの。」
コエルジは大きく息を吸い込んでいった。「全員、吊るされて砂竜のえさになった。一人残らずだ。」
オミルはため息を吐いた。しわくちゃの顔に苦悩の色が浮かんでいる。
「本当に行くのかよ。」
コエルジは答えなかった。
白いキルギィの怨嗟の声が耳に焼きついていた。もう一生忘れられないだろうな、と思った。