7 彼らの逃走に果ては無く
早鐘を打つ心臓。
自分の物とは思えないほど荒い呼吸。
全力疾走を続け、疲労を訴える両足。
それらを全て無視して、早川怜治はひた走る。
――帝国を出て、一息つけるかと思ってみればこれだ。
内心で舌打ちをしながら、それでも足は緩めない。速度を落とせば確実に追いつかれる。事実、背後に迫る足音は着実に距離を縮めてきていた。
アポステルの襲撃を退けて、小国連合の一国サンキルレシアへと入国するべく直近の街へと向かう道すがら。小さな山の中腹。現在の標高は300メートルほどだろうか。
人の手が入っている山道は走りやすいが、それは相手からしても同じ事である。
身体能力ではあちらがわずかに上だ。
五分に満たない追走劇で、それは痛いほどに理解していた。
隣を走る少女の表情はこわばっている。一種の恐怖が混じった顔つきだ。
「なんなの、なんなのよアレっ! しつこいったら無いんだから!」
スライアの言葉に、ちらりと背後を確認する。
そこにあるのは追走者の姿だ。
黒に近い茶の毛皮。隆々たる四肢の筋肉。そして、野太刀を思わせる反り返った双牙。
そう。
レイジとスライアの両名は、今、巨大な猪に追われていた。
●
西方の小山を越える途中、食料を節約するために、野生動物を狩ったのが始まりだった。
重力制御機構の補助をかけた石礫を用いて、ウサギやリスに似た姿の小動物は比較的簡単に狩ることができた。
スライアも肉は好きらしく、率先して捌いていたし、なかなかに喜んで食べていた。
それで調子に乗ったのが良くなかった。
道中で猪を見つけたときは、簡単に仕留められると思っていたのだ。
なにせ金属の鎧を大きくへこませるほどの威力である。少しばかり図体が大きくとも、あれくらいなら殺せるだろうと考えていた。
結論から言えば、それは完全な油断だった。
分厚い毛皮を貫くことはかなわず、立て続けに頭部へと投げた石は片目を潰したものの、殺すには至らず――激怒した猪はこちらを突き殺さんと迫ってきたのである。
それで、この有様というわけだ。
背後には全長四メートルはあろうかという巨大な猪が迫っている。食肉用に設計された筋肥大動物の近縁だろう。見つけたときは食べきれないほどの肉が手に入ると喜んだほどだが、今となってはまったく笑えない。
併走するスライアが、後ろを確認しつつこちらに呼びかけてくる。
「ああもう! だから止めようとしたのに、止めるより先に石を投げつけるなんて! よく言うでしょう、『巨猪は三回殺せ』って!? 熟練の狩人ですら仕損じることがあるくらいなのよ! そうそう簡単に殺せるわけないじゃない!」
「はじめて聞く格言だが、どうやらそいつは正しいらしいな!」
叫び返しつつ、一瞬だけ後ろを見る。
息も荒々しく追いかけてくる猪は、一向に諦める気配が無かった。猪突猛進という言葉の意味を身をもって痛感する。
手負いの獣は下手な人間よりも恐ろしい。
獰猛にぎらつく両目は、まっすぐこちらをにらみ据えていた。
「そうだったわ、この人、言葉も常識も知らないんだった。早く教えておかないと……」
絶望するような声音で独り言を発するスライア。その腕をがしりと掴む。
「――こっちだ!」
目についた獣道へと入り込む。これまでの進行方向からほぼ直角な動きだ。
これで少しは距離を稼げるだろう。そう考えて背後を確認する。
だが、猪は相も変わらぬ速度で追いかけてきていた。それどころか、先ほどよりも彼我の距離は縮まっている。
「おいおい冗談だろ! よく猪は方向転換できないと聞くが、あれは嘘だったのか!?」
『肯定、それは都市伝説の類です。ご覧の通り、実際の猪は他の動物とさほど変わらず方向転換が効きます』
「お前には訊いてない! そもそもどうしてそんな知識が導入されてるんだ!」
『当機は軍用の総合補佐機器です。実用試験前とはいえ、百科事典や一通りのサバイバル知識は初期導入で記憶しています』
「何を話し合ってるのかわからないけれど、このままじゃ追いつかれるわ!」
メルとのやりとりにスライアが割り入る。
「それはわかってる! わかってるが、今は逃げるしか無い!」
獣道を突っ切った先はごく普通の森だ。多少足場が悪いが、構わず逃走を続ける。
物資の入った背嚢が重い。
速度を得るためなら捨てるべきだが、捨ててしまえば野営が難しくなる。直近の街までは距離がある上、逃げる間に現在位置も見失った。道具や食糧を失うのは、猪に襲われるのとは別の意味で命に関わる問題だ。
いっそのこと、アレに立ち向かうべきだろうか。
至近距離で重力制御機構を展開し、脳を直接揺さぶればあるいは――
などと、考えを巡らせていた最中。
唐突に、視界が開けた。
「あ」「わ」
スライアと声が重なる。
直下に広がるのは、一面の緑と、地平線。
少し先には、森に飲まれたビルやドームが見えた。
――崖だ。
そう認識した時には、既に身体が落ちはじめていた。
内臓が浮き上がり、強風が全身を叩く。
「う……おぉ――ッ!?」「ひぃ……やぁぁあぁぁぁ――――――ッ!?」
情けない声を上げながら落ちる。スライアもいつかのように悲鳴を上げていた。
咄嗟にスライアの服を掴み、空中で引き寄せる。
落下速度からしても、このままでは十秒と経たないうちに二人は地面に激突するだろう。当然そうなれば骨の一本や二本では済まない。
身体の自由が効かない状態にありながら、レイジは半ば無理やりに体をひねり、腕を伸ばし――追従する形で落ちてくるメルを掴んだ。
完全接続をしている余裕は無い。座標の予備演算などは言うべくもなかった。
そのまま直下にメルを放り、皮質回路を介して命令をたたき込む。
《メルッ! 重力制御機構、規定出力の三番で放射形成!》
《了解》
短い返答。直後、にわかに風景が歪み直下から風が吹く。
もちろん風というのは錯覚だ。その正体は重力子の偏極による擬似斥力場である。
いささか乱暴なクッションだが、ともあれ落下の速度は緩んだ。
それでも位置エネルギーを殺しきるには至らない。生い茂る木々の枝葉に突っ込み、各所に掻き傷を作りながら落下を続ける。
土の地面が見えた。落ちる先が岩場でなかったことは幸運というほかない。
「く、ぅ――ッ!」
身体をひねりながら転がりこみ、各関節で衝撃を分散させながら地面へと逃がす。余勢が横に回った結果として、そのまま大きく三回転。木の幹に衝突してようやく止まった。
「い、痛……」
背中の痛みに顔をしかめて、大きく息をつく。
今しがた用いたのは、歩行戦車からの緊急脱出時によく使う手だ。最後に練習したのは随分と前だったはずだが、どうしてなかなか身体はしっかりと覚えていたらしい。
見れば、スライアも似たような体勢で地面に転がっていた。
若干涙目になりながらも、怪我は負っていない。その身体に含まれた猫の遺伝子は伊達では無いと言うべきか。先日、山賊を撃退した折に見せたしなやかな動きといい、素の身体能力は下手をすれば自分よりも高いかもしれない。
「……生きてる? ねえレイジ、私、生きてる? 貴方も? 幽霊とかじゃないわよね?」
彼女は呆然とこちらを見ながら、どこかピントのズレた問いを投げる。
「なんとかな。こないだ死にかけたのに比べれば、まだマシだ」
相手の無事を確認して、互いに息をつきあう。
どうも奇妙な構図だなと考えて、レイジは薄く笑んだ。
『――待遇の改善を要求します』
その横で、エネルギーのほとんどを使い尽くしたメルが、地面に半ば埋もれながら抗議の声を発したのだった。
次回更新は9/9 21:00です




