(9) 彼女
最初は違和感がした。だけど、すぐにそれが侵入者を知らせるものだと気づき、琥珀は慌ててその場を離れると走り出した。まっすぐに白亜のところに向かっていきたいのは山々だったが、侵入されたところが、ちょうどすぐ近くだったので、先にそちらに向かうことにした。
目をつぶって〝気配〟を探る。
どうやら侵入者は二人のようだ。それも、感じたことのある、〝気配〟。
それから、チョコレートのような甘くも苦い――水鶏の〝気配〟と、辛子のようなピリッとした〝気配〟も近くにある。
(遅すぎたか)
琥珀は目を開けると、不機嫌そうに舌打ちをする。
足を止めると、たどり着いた先、そのドアの前に立ちドアを開けようとしたとき。
「――アンタさ、自分の親の仲間の一人、白銀礼亜のこと、知ってんの?」
中から聞こえた水鶏の声に、琥珀は動きを止める。
(白銀白亜……)
その名前には聞き覚えがあった。いや、それはよく知る人物だった。自分が最も慕い、敬愛している、自分を救い出してくれた人の名前。
琥珀は、悲しそうな表情になると、少し昔のことを思い出していた。
その人は、とても綺麗な人だった。
闇夜の公園。頼りない外灯とそれを打ち消すようになおも綺麗に光る月。
その中で、腰ほど前伸びた黒髪を涼しい風になびかせている女性は、優しく微笑んでいた。
行く宛もなく、公園の錆びれたブランコに揺れていた琥珀に手を差し伸べ、女性は――
「ウチにおいで」
と、微笑みかけてくれた。
それは救いだった。
あまりにもうれし過ぎて、思わず涙を流してしまうくらい、救われたことだった。
彼女が微笑むと、いっぱいの向日葵が咲いたかのようにその場が和らぎ、嫌なことを思い出した時や陽性と小さなことで口論になった時も、とても幸せな気持ちになれた。
その時はまだ、今みたいに御簾の裏に自分の身を隠していることもなく、気軽に話せる人だった。
だけど――。
彼女の家で暮らし始めて一週間もしないうちに、それは起こった。
「今日は用事があるから、帰りが遅くなるけれど、ちゃんと眠っておくのよ」
彼女は微笑んでそういうと、夕方に家から出て行った。
きっと、陽性と一緒にいるのだろう。と、勝手に悔しい思いをしていたが、施設での習慣で九時に寝るのが当たり前になっていたものだから、琥珀はその日も床の上に布団を敷いて眠りの世界に落ちていって、次の日六時過ぎに目覚めた――が。
寝室。ベッドの上。いつも、起き上がると、ちょうどベッドの上が見えて、そこで彼女がまだ寝息を立てている。――筈だったのだが……。
この日、彼女はいなかった。
起き上がって、少しの間でも彼女の顔を見ておきたい、と思っていた琥珀だったが、起き上がって、ベッドの上にいるはずの彼女はそこには居らず、琥珀は暫し呆然とした。
すぐに立ち上がり、もしかしたら今日は早起きをして、いやそのままオールして、朝ご飯を作ってくれているのかもしれない、という期待をしてすぐ隣に面している居間に向かったが、窓から朝日が差し込まれている居間は、電気がついていることなく、キッチンで誰かが動いていることもなく、閑散としていて、とても静かだった。
だけどその時は、きっと陽性とそのまま夜を過ごしたのだろう、という悔しい思いで乗り切ることができて、たまにはこういう日もあると自分に言い聞かせることができたものだから、琥珀は居間の電気をつけることもなく、買い置きしてあったパンを無造作に口にいれた。
彼女は、そのまま、夜になっても帰ってくることなく、琥珀は誰もいないことに不安を覚え、忘れるかのようにその日も床についた。
そして、次の日。
それは、突然だった。
居間に設置してある電話が大きく鳴り響いた、お昼時。琥珀は、居間でボーとテレビを見ていたが、その音に一回ビクッと肩を揺らすと、この家の主ではないけれど、自分しかいないから仕方がないと六回目のコールで電話に出た。
聞こえてきたのは、期待していた人とは別の声で、陽性からだった。
「琥珀、か?」
「……なんだよ」
答えることなく、用件だけを聞く。
その時の陽性は、今のように敬語で話すこともなく、普通の口調で、どちらかというと口が悪かった。
「今から迎えに行くから、必要なものだけ持って外に出てなさい」
命令するような口調で嫌気がさしたが、いつもとは違う陽性の静かでどこか悲しそうな雰囲気がする声に、思わず声を詰まらせて、気づいたら電話越しに頷いていた。
そんな様子が見えているわけじゃないだろうに、言葉はそれだけで、すぐに電話は切れてしまった。
受話器を暫し眺め、琥珀は困惑したまま、特に必要なものもないものだから、そのままマンションの外に出て行った。
十分が経ち、車に乗って陽性が現れた。彼は、無言で後部座席を示してきたので、琥珀は助手席の後ろに座った。
陽性に会うと、いつもは反抗心からの悪口を言いまくる琥珀だったが、運転席に座っている彼の横顔が、余りにも曇っていたものだから、琥珀は困惑して黙っていることにした。
着いた場所は、大きな屋敷の前だった。
陽性に促されるまま、始めて見るその屋敷の中に、陽性の後について入って行く。
長い廊下を抜けた先。襖の前。
陽性は数秒襖を開けるのを躊躇ったが、覇気のない悲しそうな瞳で琥珀を一瞥した後、ゆっくりと襖を開け放った。
襖の向こう。そこには、部屋の真ん中から向こう側が御簾で遮られており、その御簾の前に、不機嫌そうな表情の少女が一人いた。彼女は、入ってきた陽性とその後ろの琥珀を少し眺めた後、口を尖らせて顔を背ける。
琥珀は唖然とした。その少女の容姿に、だ。
彼女は、長いピンク色の髪の毛を、馬の尻尾みたいに後ろで無造作にひとくくりにしていた。顔を背けるまでこちらを品定めするかのように見つめてきた瞳は、青に近い紫色をしている。日本ではあまり見かけない、いや、外国でも見かけないだろう、奇天烈な容姿。
だけど琥珀も、彼女と同じで、日本人の顔なのに、生まれつき髪の毛は黄色で瞳は灰色だった。
異能を持つ者で特に強い力を持ったり秘めたりする人は、奇抜な容姿をしていることが多いらしく、実際に琥珀はそうで、きっとこの少女もそうなのだろう。
琥珀は自分と似た雰囲気を持つ少女に興味を持ったが、もう一度こちらを振り返り見てきた少女が、またフンッと鼻を鳴らして御簾の向こうを睨みつけていたものだから、反抗心が芽生えてしまい、口を引き結んだ。
陽性は御簾の前まで行くと、少女と少し距離を置き正座をして座り込んだ。ふりかえり、まだ入り口の前で少女を睨んでいる琥珀に後ろに座るように無言で促してくるので、琥珀は陽性の後ろに座る。
はぁ、というため息が前から聞こえ、陽性は御簾の向こうに声をかけた。
「白亜様」
――――と。
陽性が後から短い説明をしてくれたこと。
それは、白銀礼亜が本当は偽名であり、日常を送る為の名前だということ。
そして、山原白亜が本名であり、この屋敷の主で神にも等しい存在であるということ。
だから、敬愛を込めて、「様」をつけなさい――ということだった……。
昔のことを思い出している間。ドアの向こうでは、いつの間にか話が進んでいた。
「言われなくっても、勿論そのつもりだよ。教えてあげる。二年前、白銀礼亜という人物が、どうなって、今どうしているのかを。教えてあげる」
今、どうしているのか。それは、勿論琥珀も知っていた。
いつも、御簾の向こうでこちらを見守ってくれている。
――トンっという足音がして、隣に陽性が立っていた。彼は眉を悲しげに潜めた後、ドアをガラリと半分開く。
「その話は、そこまでにしていただけますか、水鶏」
陽性が向こう側に声をかける。
「……来たんだ」
「ええ。琥珀が、侵入者が入ってきた、と教えてくれたのですよ。どうやら、結界は間に合わなかったようです」
琥珀は隣で教えてもいないことを教えてくれたと言っている陽性を見上げる。
「それよりも、ですが。水鶏。今の話は、四人の秘密のものです。彼女達の許可もなしに、教えてはなりません」
四人とは、彼女達とはいったい誰のことだろうか。一瞬迷ったが、それは琥珀を含めて陽性と水鶏、それから白亜のことだろうという結論を出す。彼女達は、きっと白亜様と自分のことだろう、と。
「……知ってるけどさぁ。こいつ等だって、無関係じゃないでしょ。あの宝石を狙ってるんだから。だから、教えてあげないと。あの人の二の舞にならないように」
「それもそうですが……」
――あの人の二の舞?
琥珀は、何のことかわからず、困惑した。
それから、唐突にもう一つの疑惑も頭に過る……。
――どうして自分たちは、メロディーの邪魔をして、どうして『虹色のダイヤモンド』を盗んだのか……。
実は琥珀はよく知らなかった。知らないまま、白亜にお願いされて、行動していた。
陽性はチラリとこちらを見て、そして再び向こうを見た。
「ここには、琥珀もいるんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、二人が自分に隠し事をしていることを悟り、琥珀は思わず半分まで開いているドアに手を伸ばし、それを限界まで全部、開いた。
そこにいる面々の顔を見渡し、口を開く。
「どういうことだ。今、話していたことは……。白銀礼亜って、白亜様のことだよな?」
陽性と水鶏はその言葉に琥珀から顔を逸らす。
それが証拠だと、琥珀は確信すると、口をきつく引き結び、気配を殺すことなんか忘れて、殺気をすべて全快するかのごとく、大きな声を出した。
「いったい、どういうことなんだよ!!」