(5) 二十二時
街灯などほとんどない、濃密な濃い影が漂っている、街の片隅。
とある大きな屋敷をヒカリは見上げていた。
「でけぇな」
見たままの感想を述べる。
「へー」と見上げていたが、自分が何のためにここまで来たのかを思いだし、高鳴っている心臓をおとなしくさせるために、一回大きく深呼吸をする。
そして、右手を振り上げると、屋敷の扉を大きくノックした。
ドンッドンッ!
大きな音が辺りに響き渡る。
◇◆◇
「ふわあぁ」
自室。寝間着代わりに浴衣を着ている水鶏が、小さな欠伸をした。
ベッドに腰掛けている彼女は、右手に持っている手鏡を覗きこんでいる。そこには、当たり前だが水鶏の顔が写っていた。鏡に映っている顔は、仏頂面で、少しも笑っていない。口に笑みを浮かべてみる。鏡の中の自分の口にも笑みが刻まれるが、目が笑っていない為に、変に見える。ただ、形だけの笑み――。幼い頃、母や親戚たちから見ら向けられていたような……あの目をした自分が、見返してくる。
なんだか嫌なことを思い出して、水鶏は眉をひそめると、鏡をベッドの上に置いた。
何をするわけでもなく、時計を見る。
(二十二時……。琥珀は、もう寝ているかな。あの子は意外と早寝だし)
幼い頃から施設で育ったらしい彼は、規則正し生活を今でも続けている。二十一時にはねて、六時過ぎに起きる。
幼い頃からの生活は、自分が嫌でも、どうしようもなく自分の体に刻み込まれてしまう。それは水鶏自身も同じで、どうしようもなくそんな自分のことが嫌いだった。
(陽性は……。起きてる、かな。きっと姫様の近くにいるんだろうなぁ。姫様は……。いつ寝るか、寝ないかは、あまり関係ないし)
過去のことを思い出して、嫌な気持ちになってしまい、水鶏は大きくため気をつくと、ゆっくりとベッドに倒れ込んだ。
「最悪。何なの、本当に。どうしてあたしが」
水鶏には、姉がいる。いや、いた、といった方がいいだろうか。水鶏の姉は、陽性と同じ歳で、彼らの同級生だった。ただの同級生。関わりは、それなりだったらしい。
姉はとても気が弱く、人の言葉に従っていることが多い人だった。自分の意思が乏しく、だからこそ、家の為に、母や親戚から言われるがまま、自身の力を使い続けていた。あの時を除いて。
とても優しく、頼りない姉は、だけれども、水鶏にはない特別な力を持っており、それを一族のために使っていた。古くからある、我が一族の為に。
だけど、あの時だ。二年前。二人の男女が、姉の同級生だった女性を連れて、本家の屋敷を訪れてきた。姉の能力を知っていたらしい二人は、姉を訪ねてやってきたのだ。
力を貸して欲しい。あなたの力を。その、神に見初められた力を使って、自分たちの仲間を助けて欲しい――と。
母は、勿論断った。というより、断るしかなかった。二人が頼んだことは、とても許されぬことで、悪魔のするような所業だったのだから。
だけど、姉は、あの気が弱くって頼りない、自分の意思が乏しい、優しい姉は、二人を見て、微笑み、
わかりました。と、言ったのだ。
何事かと近くで見ていた水鶏は、姉のその微笑を、今もまだ忘れてはいない。
「――ん?」
屋敷中に、大きくドアがノックされる音が響いた。
(チャイムがあるのに、なんでノック?)
とは思ったものの、水鶏は玄関先に行こうとして、気づいた。
(こんな時間に、誰?)
とっくに二十二時を過ぎている。大きな音まで立てて、常識がないにもほどがあるだろう。
水鶏は、自室の窓から、外を覗く。そこからは木などが邪魔してあまりよく見えないが、家の前に、誰かが腕を振り上げてドアをノック、というか叩いているのがよく見える。暗がりに目を凝らす。ドアを叩いている誰かは、少し毛先がはねた茶色い髪をして、なぜか学生服に身を包んでいた。
(あれは……)
最近知ったばかりの人物だけど、きっとそうだろう。水鶏は、昨日のことを思い出し、「まさかこんなに早く動くとはね」と呟き、音をたてないように窓を閉めた。
そのまま玄関に出迎えに行こうとして、だけど、ふと思いつき、形だけでもと思い、クローゼットからある服を取り出して、それを着ることにした。
◇◆◇
「はぁ、はぁ。……はあ、こんなにノックしてるのに、なんで誰も出てこないんだ。ま、間違えた、わけはないだろッ」
全力でドアを叩いていたヒカリは、肩で息をしながら、少し不安になり、辺りを見渡した。
(間違えてたら嫌だなぁ。ただの不審者じゃん、俺)
すでに不審者みたいだが、そんなのは気にしないヒカリは、もう一度叩こうと腕を振り上げた。
同時に、玄関の扉が呆気なく開く。
「…………」
「…………」
いきなりのことで、ヒカリは腕を振り上げたまま、固まった。同じく、玄関から出てきた人物も、ヒカリの振り上げている腕を見て、固まる。
「や、やぁ」
親し知り合いに挨拶するかのようにヒカリは言うが、恰好が恰好なだけにみっともなさ過ぎる。
出てきた人物は、ヒカリが振り上げている腕から目を逸らし、目の前にいる男子にしては小さい男子高校生に優しく微笑む。
巫女のような服を着た彼女は、ヒカリが知っている人物とは別人かのように、恭しく頭を下げると、優しい微笑みのまま口を開く。
「お待ちしておりました、中澤ヒカリさん。こんなに夜遅くとは少々意外でしたが、まあ、いいでしょう。よく、いらっしゃいました」
巫女服には少し不釣り合いな、ピンクの髪をツインテールしている彼女は、見間違えたが間違えなく、『風林火山』の水鶏だった。
「え、あ、はい。来てみました」
何言ってるんだ、と思いつつ、つられてヒカリも頭を下げる。
昨日、自分にとんでもないことを教えてくれた彼女は、あの時の怪しい笑みとは違う、優しい微笑みを浮かべたまま、にっこり笑う。
「中へ、どうぞ」
まるで、本当の客人を迎え入れるがためかのように、手で屋敷の中を指示した。ヒカリは促されるまま、中に入っていく。