(2) 長い一日の始まり・下
「あれ、風羽? ヒカリは?」
いきなり声をかけられそちらを向くと、そこでは唄が腕を組んで立っていた。教室を見渡しながら眉を寄せている。
いつもはこんなどうどうと話しかけてこないのに、どうしたのだろうかと思い風羽は唄を見る。
「さぁ? まだ見てないけど。……今日は、来るの遅いね」
ヒカリはいつも大体来るのが早い。風羽や唄よりも早く来て、近くの友達と談話しているのをよく見かける。
だけど、今日は後五分で予鈴が鳴るというのに、ヒカリが来る気配はない。それに、ヒカリは今年に入ってから一回も休んだことは無かったはずだ。
「風邪、ではないわよね。昨日そんな兆候も無かったし……」
唄はそういいながら大きくため息をつくと、ヒカリの机を睨んだ。
「馬鹿は風邪をひかないって言うし、ズル休みかしら」
「明日は大事な日だって言うのに、風邪はやめて欲しいね。……まあ、後で家まで見に行くよ。ヒカリがこなかったらね」
「……そう? 私は忙しいから、お願いするわ」
「ああ」
唄は難しそうな顔をしたが、すぐもとの無表情に戻ると、自分の席に座った。
風羽は軽くため息をつくと前を向いた。
(まったく、ヒカリはどうしたんだ……)
多分唄も気づいているだろう。ヒカリは、昨日一日どこか様子がおかしかった。彼にしては珍しかったので、良く覚えている。
――だが、それよりも。
風羽は今朝から学園内に流れている噂を思い出していた。
なんでも、昨日一時間目の授業の際、数人の生徒が屋上で二人の気配がぶつかり合うのを感じ取ったとか。
(まさか……ヒカリじゃないよな)
若干の不安を伴いつつも、頭を振ることでその不安を取り除き、風羽は机の中から本を取り出すと読み出した。
◇◆◇
電気のついていない部屋の中。
中澤ヒカリはベットに寝転がり、天井を見上げていた。
窓からは生温かい日が差し込んでおり、ヒカリの身体を薄っすらと照らしだしている。
ヒカリの部屋の中は、男子にしては片付いていた。親変わりの姉がいつも部屋の中を掃除してくれているからだろう。
部屋の中に掛かっている時計は、九時過ぎを差している。
はあ、とヒカリの口から大きなため息がもれでていた。
いったい、自分は何をしているんだろうか。
(今年こそは皆勤賞を狙っていたはずなのに、学校を休んで……バカみたいだ)
あーと無意味な声がでる。
ヒカリは枕元に置いてある携帯を開く。
数件のメールが来ていた。学校を無断で休んだからだろう。クラスメイトから「大丈夫か?」などというメールが来ていた。この中にはもちろん唄や風羽からのはない。風羽は自分のことを何とも思っていないからだろうが、唄は携帯自体を持っていないので当たり前だ。
――パチンッ。
携帯を閉じると、それを持ったままヒカリは額に手を当てて目を瞑った。
「唄が、俺なんかを心配するわけがねーよな」
無自覚に呟きが漏れた。
それに驚き、ヒカリは慌てて口を押さえる。
(――――俺は、何を考えていたんだ)
チッと舌打ちをすると、持っていた携帯を頬り投げた。ポスンッと音がして、ベットの上――ヒカリの足元に落ちる。ブーブーと着信を知らせるような音がしたが、ヒカリは気にしない。
「――ったく。俺はどうすりゃいいんだよ」
意味深な言葉を吐けば、ヒカリはゆっくりと夢の世界へ落ちていった。
◇◆◇
昼頃の職員室。
桐野レイカは、自分の机でパソコンの画面と向き合っていた。
だが、不意に水分を欲し、机の上に置いてあるコーヒーに手を伸ばした、その時。
「桐野先生、どうしたんですか? そんな恐い顔をして」
振り向くと、そこにはにこやかに微笑む男性がいた。知的な顔をサラサラな黒髪を隠し眼鏡を掛けているため、一見地味に見えるが、女性のようにも見える線の細い顔立ちをしている為、一部の女子生徒から熱い視線を受けることがあるらしい。
彼の名前は、山崎壱朗。新任にして、『2-A』――唄たちのクラスを任されている。噂では、師匠と呼ばれる人に育てられてきたとか何とか。
良く得体の知れない男だ。
「もしかして、中澤君がきてないのを心配しているんですか?」
「何を言ってるのですか、貴方は? そんなことあるわけありませんよ」
柔和な笑みを浮かべてからかうように言ってくる山崎に、桐野は不機嫌そうに言葉を返す。
山崎はますます笑みを深めると、女性のように優しく微笑んだ。
「やっぱり、心配してるんですね」
「はぁ?」
桐野はムッとしたような表情をする。
「何で、そんなことになるのですか?」
「え、いや、だって……。あ、嫌だなぁ……そんな恐い顔をしないでくださいよー。恐いなぁ」
そう言って、山崎は頬を掻く仕草をする。
「大丈夫ですよ。桐野先生が心配しなくとも、中澤君は、今日はただのサボリだって、先ほど中澤君のお姉さんから連絡がありましたし――それに、来週の月曜日には尻を叩いてでも放り出すと言っていたので、ちゃんと来るでしょう」
「だから、どうしてあたくしが心配しなくてはならないのですか!」
思わず大声を出してしまい、他の職員の視線がいっせいに桐野に集った。その視線はすぐに逸らされたものの、少し小っ恥ずかしさを覚え、桐野は山崎から視線を逸らす。
「……あの子は、あたくしたちの教え子です。教師として、心配するのは当たり前でしょう」
「ははっ。そうですねぇ」
山崎は声を出して笑うと、「では」といて去って行った。
彼の後姿を見て、
(まったく……十歳以上も年下の癖に、言葉だけはいっちょ前なのですから)
ため息をつくと、桐野はパソコンの操作を再開させた。