喝采と銀の杯
「殺せ! 内臓を引きずり出せ!」 「右だ! 逃げるな、臆病者!」
熱狂と殺意が入り混じった轟音が、すり鉢状の巨大な石造りの器を震わせていた。 王都コロシアム。 そこは、魔物と奴隷、あるいは奴隷同士が殺し合う様を、安全圏から眺めて愉しむための巨大な処刑場だ。
俺は、その最上階にある貴賓席に立っていた。 着慣れた執事服ではなく、この闘技場の専属給仕の制服――白のジャケットに黒の蝶ネクタイ――に身を包んで。 左手には銀のトレイ。そこには年代物の赤ワインと、磨き抜かれたグラスが載っている。
『……聞こえる? グレイ』
左耳の調律器から、リリアナの硬い声が響く。 この喧騒だ。普通の人間なら大声で怒鳴らなければ会話もできないだろうが、骨伝導のクリアな音声は、観客の絶叫を切り裂いて脳に届く。
『ターゲット確認。貴賓席の最前列、赤いマントの男よ』
俺は視線を巡らせることなく、トレイの輝きに映り込む景色で確認した。 いた。 金髪を短く刈り込んだ騎士、ジェローム・バルダー。 彼はソファにふんぞり返り、手すりから身を乗り出して、眼下の惨劇を眺めながら下卑た笑い声を上げている。
「見ろよ! あのオーク、腕をもがれてもまだ動いてやがる! 傑作だ!」
隣に座る取り巻きの貴族たちも、追従笑いを浮かべている。 彼らのテーブルには、手つかずの豪華な料理が並んでいた。 俺は呼吸を整える。 ここからは、たった一つのミスも許されない「接客」の時間だ。
『……作戦開始。まずは「種」を撒いて』
俺はトレイを持ち、音もなくカーペットの上を進んだ。 貴賓席の入り口には、重武装の衛兵が立っている。 俺は無表情で会釈し、ワインボトルを掲げて見せる。 衛兵は俺の顔を見ず、左耳の調律器だけを一瞥して顎で通るように促した。
俺はジェロームのテーブルへ近づく。 彼はちょうど、眼下で奴隷の首が飛んだのを見て、手を叩いて喜んでいるところだった。
「失礼いたします、バルダー卿。ご注文のヴィンテージ・ワインをお持ちしました」
俺は声を張り上げず、しかし確実に彼の耳に届く声量で告げた。 ジェロームは不機嫌そうに振り返る。 その目は、俺を人間としては見ていない。「喋る家具」を見る目だ。
「遅いぞ、のろま。……興が削がれる」
「申し訳ございません。澱を沈めるのに時間を要しまして」
俺は恭しく頭を下げ、グラスを彼の前に置く。 ここだ。 俺は右手でボトルを持ち、左手の指の間に隠し持っていた「極小のカプセル」を準備する。 中身はリリアナが調合したミスリルの粉末。 魔力を阻害するが、無味無臭の銀の粉。
「……注げ」
ジェロームが尊大にグラスを指差す。 俺はボトルのコルクを抜き、瓶口をグラスに近づける。 その一瞬。 魔法使いなら「毒探知」の魔法を使う場面だろう。だが、俺は手品師の技術を使う。 ボトルの底を支える左手。その指先からカプセルを弾き、ワインが注がれる瞬間の水流に紛れ込ませる。 カプセルはワインに触れた瞬間に溶解し、中身は赤い液体に溶け込んで消える。
魔法的な干渉はゼロ。 ただの物理的な「指先の早業」。 動体視力に優れた「迅雷」の騎士も、眼下の殺し合いに夢中で、足元の給仕の手元になど関心がない。
「どうぞ」
なみなみと注がれた深紅の液体。その中には、彼の「無敵の鎧」を剥がす鍵が溶けている。 ジェロームはグラスを乱暴に掴み取り、一気に喉へ流し込んだ。
『……摂取確認。種は撒かれたわ』
リリアナの声が震えた。 ジェロームは空になったグラスを俺に突き返す。
「味が薄いな。まあいい、置いていけ」
「かしこまりました」
俺はボトルをテーブルに置き、深く一礼して下がる。 背中に感じる殺気はない。完全に欺いた。
俺はそのまま貴賓席の奥、給仕用の控えスペースへと移動する。 そこは影になっており、ジェロームの背中がよく見える位置だ。 俺は懐から、折りたたんだ布を取り出した。 それを手早く広げ、組み立てる。 愛銃ではない。今回は射程と精度が必要だ。 俺がスラムのガラクタ市で集めた部品で組み上げた、即席のカービン・コンバージョンキット。 そこへ、ホルスターから抜いたM1911をカチャン、と嵌め込む。 ストックを肩に当て、スコープを覗く。
十字のレティクルの中心に、ジェロームの後頭部を捉える。 距離、約20メートル。 外しようがない距離だ。
『配電室へのハッキング完了。……カウントダウン行くわよ』
リリアナの声が、死神の宣告のように響く。
『照明が落ちると同時に、彼の体内のミスリルが魔力循環を阻害する。 防御結界がダウンする時間は、推定3秒。 その間に、終わらせて』
俺は息を吐き、肺の中を空にする。 指をトリガーにかける。 喧騒が最高潮に達する。次の試合が始まる合図だ。
「さあ、次の獲物はなんだ! もっと血を見せろ!」
ジェロームが立ち上がり、両手を広げて叫ぶ。 それが彼の、最後の言葉になる。
『……3、2、1』
俺の視界の中で、リリアナの声と、俺の指の動きがリンクする。
『落ちろ』
フッ、と。 世界から光が消えた。




