錆びついたバルブと死の蒸気
ボイラー室は、地獄の釜のような熱気に満ちていた。 うなりを上げる真鍮製のパイプ。壁一面に埋め込まれた巨大な赤色の魔石が、脈打つように明滅し、屋敷全体に熱湯と暖気を送り出している。
俺にとっては、ただの巨大な湯沸かし器だ。 だが、魔力を見る目を持つ者には、ここは複雑怪奇な回路の塊に見えるらしい。
『……ひどい有様ね』
耳元の調律器から、リリアナの呆れたような声が響く。
『魔力供給パイプの継ぎ目から、未処理の魔素が漏れ出しているわ。メンテナンスなんて何年もされていない。 ……これなら、あなたが手を下さなくても、あと半年で爆発していたかもしれないわね』
「半年も待てないな。今日、今すぐ壊れてもらう」
俺は工具箱を開き、大型のモンキーレンチと、腐食液の入った小瓶を取り出した。
『ナビゲートするわ。……正面の太いパイプ。そこにある赤いハンドルが、サウナ室の「加熱用魔石」への魔力供給バルブよ』
俺はバルブに手を掛ける。錆びついて固いが、体重をかけて強引に回す。 ギチチチッ……と嫌な音がして、バルブが「全開」の位置で止まる。
「バルブ全開。これで火力は最大だ」
『OK。次は、その少し下。青い配管についている小さな突起……それが「緊急安全弁」よ。圧力が上がりすぎると、自動で蒸気を逃がす仕組みになっているわ』
「なるほど。邪魔な機能だ」
俺は金属用の強力接着剤を塗り、さらに細い針金で弁を雁字搦めに固定した。 これで、どれだけ圧力が上がろうとも、蒸気の逃げ場はない。 サウナ室の床下にある加熱炉は、今や密閉された爆弾と同じだ。
『仕上げよ。給水タンクのタイマーをいじって。……ガストンが入浴して5分後、加熱した魔石に大量の水が一気に注ぎ込まれるように』
俺は歯車式のタイマーユニットの蓋を開け、ドライバーでカムの爪を折った。 これで水流の制御は効かない。時間が来れば、灼熱の石に滝のような水が降り注ぐ。 物理現象として何が起きるかは、小学生でもわかる理屈だ。 急激な気化膨張。水蒸気爆発。
「……仕込み完了だ。あとはターゲットが入るのを待つだけだが」
その時だった。 ボイラー室の鉄扉の向こうから、重い足音と話し声が聞こえてきた。
「……だから言っただろう! 湯加減がぬるいと旦那様が仰ってるんだ!」
「へい、すぐに確認しますんで……」
見回りの兵士と、屋敷の使用人だ。 ここへ来る。
『グレイ、隠れて! ……いや、間に合わない。入ってくるわ!』
隠れる場所はない。パイプの陰は狭すぎる。 俺は瞬時に判断を切り替えた。 逃げるな。堂々と振る舞え。 俺は工具箱を蹴飛ばしてわざと大きな音を立て、ツナギの袖で顔の汗を拭うフリをした。
ガチャリ、と扉が開く。
「あ? ……誰だお前!」
兵士が剣に手をかける。 俺は、さも「作業に没頭していて驚いた職人」のような顔で振り返り、ペコペコと頭を下げた。
「お、お疲れ様です! 旦那様から『サウナの温度が上がらねぇ!』って苦情がありまして、急遽派遣された業者でさぁ!」
「業者? 今夜呼んだのか?」
「ええ、元請けから叩き起こされましてね……。見てくだせぇ、このボロい配管。錆が詰まって流れが悪くなってやがったんですが、へへっ、今しがた直しましたよ」
俺は親指で圧力計を指差す。 針はすでに危険領域に入りかけ、ピクリとも動かないように俺が細工した位置で止まっている。
「ほう……確かに、熱気が強くなったな」
「へい! これで旦那様もご満足いただけるかと。たっぷりと『熱い』蒸気が出るように調整しておきましたんで!」
俺はニカッと卑屈な笑みを浮かべた。 使用人の男が、安堵したように息を吐く。
「よかった……これでまた怒鳴られずに済む。ご苦労だったな」
「いえいえ、仕事ですから。……では、俺はこれで」
俺は工具箱を抱え、ペコペコと頭を下げながら二人の横をすり抜ける。 兵士は俺の耳元の『調律器』を一瞥し、それ以上何も言わなかった。 「調律器をつけている労働者」を、彼らは風景の一部としてしか認識していない。
ボイラー室を出て、冷たい夜風に当たる。 背中は冷や汗で濡れていたが、表情は崩さない。
『……心臓に悪いわよ、あなたの演技』
リリアナの声に、安堵のため息が混じっていた。
『でも、ナイスフォロー。……ターゲットのガストンが、今ちょうど脱衣所に入ったわ』
「タイミングは完璧だな」
俺は屋敷の裏口から離れ、少し離れた庭園の木陰へと移動した。 ここなら、爆発の影響を受けず、かつ「結果」を確認できる。
俺は懐から煙草を取り出し、口にくわえた。 カウントダウンが始まる。
『ガストン、サウナ室に入室。……ドアを閉めたわ』
密室。 上昇し続ける温度と圧力。 逃げ場のない安全弁。
『3、2、1……給水開始』
その瞬間。 ズドン!!! という重低音が、屋敷の床下から響いた。 地面が揺れ、サウナ室がある一階の窓ガラスが、内側からの衝撃波で粉々に砕け散った。 噴き出した白煙と共に、絶叫すら掻き消すような轟音が夜空を引き裂く。
俺はくわえていた煙草を地面に捨て、靴底で踏み消した。
「……業務完了。撤収する」
魔法障壁も、風の指輪も関係ない。 ただの「熱い蒸気」が、成金男爵の脂ぎった野望ごと、彼を蒸し焼きにしたのだ。 これが、鉛の理ならぬ、蒸気の理だ。




