透明な侵入者
夜の帳が下りた貴族街は、スラムとは違う種類の静寂に包まれていた。 整備された石畳。等間隔に配置された魔導街灯の青白い光。 そして、行き交う人々が皆、眉をひそめて耳元の『調律器』を気にしている姿。
ここは大気中の魔素濃度が濃い。 一般人にとっては頭痛の種だろうが、魔力を持たない「空っぽ」の俺には、ただの澄んだ夜風でしかない。
俺はツナギのポケットに両手を突っ込み、工具箱を提げて、男爵ガストン・モルドの屋敷の正門へと歩み寄った。
『……聞こえる? グレイ。感度はどう?』
左耳の奥、頭蓋骨に直接響くリリアナの声。 俺は歩きながら、自然な仕草で耳元の調律器を一度だけ人差し指で叩く。 トン。
『OK。正門には二人の衛兵。そして、門柱の間に「身分識別結界」が張られているわ。魔力登録のない人間が通れば、警報が鳴ると同時に電流が走る仕組みよ』
厄介な代物だ。まともな侵入者なら、ここで結界解除のアーティファクトを使うか、壁を乗り越える必要がある。 だが、俺は歩調を緩めない。
「止まれ! 何の用だ!」
門番の兵士が槍を突きつけてきた。 俺はゆっくりと足を止め、卑屈な笑みを浮かべて頭を下げる。 演技の時間だ。
「夜分に失礼いたします。ボイラー設備の緊急点検に参りました。『温水が出ない』との苦情がありまして」
「点検? そんな話は聞いていないぞ」
兵士は疑わしげな目で俺をジロジロと見る。 その視線が、俺の汚れたツナギ、使い古した工具箱、そして――左耳の『調律器』に止まった。
その瞬間、兵士の目から警戒色が少しだけ薄れる。
「調律器をつけている=市民権を持つ魔力保持者」という、この世界の常識。 俺は魔力ゼロだが、ダミーの調律器をつけることで「魔力はあるが、取るに足らない労働者」へと擬態している。
「旦那様はサウナがお好きですから。湯加減が悪いと、我々業者が怒鳴られちまうんでさぁ」
「……ふん、違いない。あの成金男爵は気難しいからな」
兵士は鼻で笑い、俺への興味を失ったように手を振った。
「通れ。裏口へ回れよ」
「へい、ありがとうございます」
俺は一礼して、堂々と門柱の間を通り抜ける。 本来なら電流が走るはずの「身分識別結界」。 だが、何も起きない。 結界は「登録されていない魔力」を弾く。俺のような「魔力が存在しない物体」は、ただの空気として認識され、スルーされる。
最強のセキュリティホールだ。 俺は内心で冷笑しながら、屋敷の敷地内へと足を踏み入れた。
『……通過確認。見事な「透明人間」ぶりね』
リリアナの声に、わずかに興奮が混じっている。
『そのまま直進。噴水の手前で右へ曲がって。……ストップ』
俺は即座に足を止める。 目の前には、美しく手入れされた庭園が広がっているだけだ。罠があるようには見えない。
『あなたの足元、芝生の下に「対侵入者用の地雷魔方陣」が埋まっているわ。踏んだ瞬間に炎が吹き出すタイプよ』
なるほど。物理的な罠なら俺の目でも見抜けるが、魔力の罠はお手上げだ。 俺は調律器を二回叩く。
(解除できるか?)
『解除コードを送る時間は惜しいわ。……そのまま踏んで通って』
何だと? 俺は眉をひそめたが、彼女の声には確信があった。
『その魔方陣の起動条件は「一定以上の魔力を持つ生物の接触」よ。野良猫や鳥が通るたびに爆発しないように設定されている。 ……つまり、今のあなたなら反応しない』
俺は覚悟を決め、見えない地雷原へと足を踏み出した。 一歩。二歩。 背筋が粟立つ感覚があるが、炎は吹き上がらない。 俺という存在は、この世界の防衛システムにとって、やはり「認識外」らしい。
『ふふ、やっぱりね。魔法使いの傲慢さがよく出ているわ。「魔力を持たない人間が侵入できる」なんて可能性、彼らの辞書にはないのよ』
俺は庭園を抜け、屋敷の裏手にある勝手口へとたどり着いた。 古びた鉄の扉。ここがボイラー室への入り口だ。 物理的な鍵がかかっている。 俺は工具箱から細いピックを取り出し、鍵穴に差し込んだ。
カチャリ。 わずか三秒。魔法よりも確実な、物理開錠。
俺は周囲を一度だけ確認し、闇に紛れるようにしてボイラー室へと滑り込んだ。 ムッとする熱気と、機械油の匂い。 ここからが本番だ。




