硝煙なき世界と、泥だらけの訪問者
この世界に来てから、二十年近い月日が流れた。
最初の数年は酷いものだった。言葉もわからず、スラムのゴミを漁り、ネズミのような生活をした。 だが、俺はすぐにこの世界の「ルール」を理解した。 すべては「魔力」だ。魔力がある者が奪い、ない者が奪われる。単純でわかりやすい構造だ。
そして、俺にはもう一つのルールが見えた。 『魔素ノイズ』と『調律器』だ。 この世界の住人は、大気中の魔力ノイズを防ぐために、常に耳にフィルターをかけている。彼らは一様に、生の聴覚を犠牲にしているのだ。 対して俺は、魔力がないゆえにノイズも聞こえない。 俺だけが、この世界で唯一「完全な聴覚」と「魔力探知に引っかからない肉体」を持っていた。
これは使える。 俺はスラムの裏社会で、運び屋、情報屋、そして――掃除屋として頭角を現した。 魔法使いが気づかない足音で忍び寄り、魔法障壁が反応しないナイフで喉を掻き切る。 いつしか俺は『空白』と呼ばれるようになっていた。 魔法的痕跡を一切残さない、透明な死神として
***
スラム街の最下層。 雨漏りのする建屋。 歪んだ鉄の看板に、汚れた文字で『遺品商会・鴉』と書かれた店がある。 それが俺の表の城だ。
ダンジョンで死んだ冒険者の装備を回収し、洗浄して売り払う。あるいは、孤独死した老人の部屋を片付ける。 誰もやりたがらない「死者の後始末」が、今の俺の表向きの生業だ。
深夜の雨音が、地上から響いてくる。 店の中は、死者から剥ぎ取ったガラクタと、カビの臭いで満ちている。 俺は奥の作業机で、オイルランプの灯りを頼りに日課のメンテナンスを行っていた。
分解されたM1911、コルト・ガバメント。 スプリング、バレル、スライド。一つ一つのパーツを布で拭い、古いオイルを落として新しいオイルを薄く塗る。 この世界には銃が存在しない。当然、メンテナンスキットもない。 俺は似た成分の植物油を精製し、代用していた。
「……ふぅ」
冷たく鈍い光を放つ鉄塊。 この世界に来て二十年、俺は一度もこいつの引き金を引いていない。 理由は単純だ。弾がないからだ。 手元にあるのは、21発の.45ACP弾のみ。 俺にとってこの銃は武器ではない。使いどころを誤れば二度と取り戻せない、最後にして最大の「切り札」だ。
カチャ、カチャリ。 無心でパーツを組み上げていく。 指先が覚えている感触。スライドを引いたときの、ジャキッという重厚な金属音。 その音だけが、薄汚れた遺品屋の親父ではない、かつての暗殺者「グレイ」であることを証明してくれる。
――チリン、チリン。
不意に、ドアに取り付けた錆びたベルが鳴った。 俺の動きは止まらない。流れるような動作でマガジンを装填し、セーフティをかけると、デスクの下のホルスターに銃を隠した。
「……鍵は開いている」
重いドアが軋みながら開き、吹き込んできた風雨と共に、一人の小柄な影が入ってきた。 フードを目深にかぶっているが、濡れたドレスの裾から泥水が滴り、店の床を汚している。 ただの迷い人ではない。死の匂いを濃厚に纏っている。
「買い取りなら明日また来い。今日は店仕舞いだ」
俺は素っ気なく言い捨て、布で手を拭った。 だが、その客は帰ろうとしなかった。ゆっくりとフードを外す。 現れたのは、髪を乱雑に短く切り落とし、顔に泥と血をつけた若い女だった。 貴族の娘か。それも、相当に追い詰められた。
「あなたが『空白』ね。……噂通りの、魔法が通じない掃除屋」
彼女の声は震えていたが、俺を見る目は異様に鋭かった。 その瞳が、赤く明滅している。
「人違いだと言ったら?」
「嘘よ。私の【眼】は誤魔化せない。あなたの耳についているその『調律器』、中身が空っぽじゃない」
ほう、と俺は眉をひそめた。 このダミーの調律器を見抜かれたのは初めてだ。 俺は椅子の背もたれに体を預け、冷ややかに彼女を見返す。
「観察眼はいいようだが、俺はガキの遊びに付き合う気はない。帰れ」
「……遊んでいるように見える?」
彼女は懐から革袋を取り出し、ガラクタだらけのカウンターの上に叩きつけた。 ジャラリ、と重い音がする。袋の口から、宝石や貴金属が溢れ出した。「鴉」が扱う死者の遺品とは違う、本物の輝きだ。家一軒は買える。
「私の全財産よ。私を陥れた豚ども……この国の腐った中枢を、一人残らず始末して」
俺は宝石の山を見ても、表情を変えなかった。 金は魅力的だ。だが、リスクが見合わない。
「断る。相手がデカすぎる」
俺は短く答えた。
「俺は魔法が効かないだけの、ただの人間だ。貴族の屋敷や王城の厳重なセキュリティを、単独で突破するのは不可能だ」
「だから、私がいるのよ」
彼女は食い気味に言った。 その赤い瞳が、俺の背後にある壁――店の入り口付近を睨む。
「……動かないで。あと3秒で、入り口のドアの隙間から『探知の使い魔』が入ってくるわ」
「何?」
俺は耳を澄ませた。雨音以外、何も聞こえない。
「魔力でできたネズミよ。質量がないから、あなたの耳でも聞こえない。……今、入った。右の棚の下を這っている。そのまま直進してくるわ」
俺には見えない。聞こえない。 だが、彼女の視線は虚空を這う「何か」を正確に追っていた。
「私の指示通りにして。……手元のオイル瓶を取って。それを右へ2メートル、床のひび割れに向けて投げて」
俺は一瞬迷ったが、彼女の切迫した声に従った。 オイル瓶を投げる。瓶が割れ、中身が床に広がる。 その瞬間、何もなかったはずの空間でジュッ!という音がして、青白い火花が散った。 断末魔のようなノイズと共に、床に焦げ跡が残る。
「……魔導回路のショート?」
「ええ。使い魔の魔力構成を視て、弱点属性のオイルをぶつけさせたの」
彼女は息をつき、俺を真っ直ぐに見据えた。
「私はリリアナ。生まれつき、魔力の流れや物質の構造を解析する【魔眼】を持っているわ。 ……いい? あなたは『見えない』から魔法使いに探知されない。でも同時に、あなたも魔法を『見る』ことができない。それがあなたの致命的な弱点よ」
彼女はカウンターに身を乗り出した。 その顔は、守られるべき令嬢の顔ではなく、戦場に立つ指揮官の顔だった。
「私の眼があれば、城の魔法結界の死角も、警備兵の巡回ルートの綻びも、ターゲットが隠し持っている護身用アーティファクトの弱点も、すべて手に取るようにわかる。 私は安全圏からあなたに指示を送るわ。あなたが引き金を引くための、最強の『スコープ』になる」
なるほど。 俺は彼女の提案の意味を理解し、背筋に戦慄が走るのを感じた。 「魔力ゼロの実行犯」と「全てを見通す解析者」。 その二つが組めば、この魔導文明において不可能な暗殺など存在しなくなる。
「……俺を鉄砲玉として使う気か?」
「いいえ。私が脳で、あなたが指。私たちは共犯者よ」
リリアナは俺を睨みつける。 命令でも懇願でもない。対等な契約の申し出だ。
「私の人生、私の魂、そして私の【眼】。すべてを対価にするわ。だから、あなたという『暴力』を私に貸して」
俺は数秒の沈黙の後、小さく笑った。 この女はイカれている。だが、悪くないイカれ方だ。
俺はデスクの下から愛銃を取り出した。 ランプの光を受けて、シルバーのスライドが妖しく輝く。 俺はスライドを引き、チャンバーの中の金色の弾丸を彼女に見せた。
「……いいだろう。契約成立だ、ハンドラー」
俺はホルスターを身に着け、立ち上がる。 弾丸は21発。そして、最強の観測手を手に入れた。 ターゲットは貴族か、それとも王族か。 どちらにせよ、魔法で防げない「鉛の理」を教えてやるには、これ以上ない布陣だ。




