星砕きの音と、弾丸の請求書
「……3」
リリアナの声が、押し潰されそうな意識の底で響く。 重力が俺の全身を万力のように締め上げている。 血管が軋み、視界の端が赤黒く染まっていく。 俺が持ち上げようとしているのは、わずか1キログラム強の拳銃だ。 だが今は、それがビルの残骸を持ち上げるかのように重い。
「……2」
宰相ベルンハルトが、勝ち誇った顔で剣を振り上げた。 その切っ先は、リリアナの細い首に向けられている。 彼は確信している。 魔力を持たぬ虫ケラたちが、この神の領域の重圧の中で指一本動かせるはずがないと。
その傲慢こそが、あんたの死角だ。
「……1」
俺は歯が砕けるほど食いしばり、全身の筋肉を断裂覚悟で収縮させた。 右腕が、震えながら持ち上がる。 銃口が、宰相の胸元――その手にある懐中時計を捉える。
『……今!』
リリアナの叫びと同時に、俺の指がトリガーを絞りきった。
ドンッ!!!!
重力下での発砲。 通常よりも重い反動が、軋む手首を襲う。 放たれた.45ACP弾は、目に見えない重力の壁を切り裂き、わずかに弾道をおじぎさせながらも、その一点へと吸い込まれた。
カ……ンッ。
乾いた音がした。 ベルンハルトが目を見開く。 彼の手の中で、古代遺物【星落としの時計】のクリスタルガラスに、蜘蛛の巣のような亀裂が走った瞬間だった。
「な……!?」
パリーンッ!!
美しい破砕音と共に、時計が内側から弾け飛んだ。 歯車とバネ、そして圧縮されていた魔力が四散する。
フワッ、と。 世界を縛り付けていた鎖が断ち切られた。
「う、おぉっ!?」
重力の消失。 剣を振り下ろそうと体重をかけていたベルンハルトは、突然支えを失い、無様にたたらを踏んで後ろへひっくり返った。 ドサリ、と宰相の背中が床を打つ。
対して、俺とリリアナは違った。 重圧に耐えるために重心を落とし、地面を掴んでいた俺たちは、重力が消えた瞬間にバネのように弾け起きる。
「チェックメイトだ、閣下」
俺は跳ね起きざまに距離を詰め、仰向けになったベルンハルトの喉元に、熱を帯びた銃口を突きつけた。
「ひっ……!」
ベルンハルトが引きつった声を上げる。 さっきまでの冷酷な支配者の仮面は剥がれ落ち、そこには死を恐れるただの初老の男がいた。
「ば、馬鹿な……。古代遺物の防御フィールドを、物理攻撃で貫いたとでもいうのか……!?」
「物理法則は平等だ。魔法使いだろうが神様だろうが、鉛の玉をぶつければ壊れる」
俺は冷ややかに見下ろした。
「あんたの敗因は一つだ。 俺たちを『無力』だと見下し、俺の銃がただの鉄筒ではなく、『あんたの大事なおもちゃ』を壊せるハンマーだと気づかなかったことだ」
ホールは静まり返っていた。 貴族たちも、近衛騎士たちも、事態を飲み込めずに呆然としている。 国の実権を握っていた最強の宰相が、魔力を持たない男に銃を突きつけられ、泥無様に転がされているのだから。
「……父様」
リリアナがゆっくりと歩み寄る。 彼女は乱れたドレスの裾を払い、かつてないほど冷ややかな瞳で父親を見下ろした。
「殺しはしないわ。……そんな慈悲は与えない」
彼女は、俺が突きつけている銃口を優しく手で制して下げさせた。 そして、代わりに懐から一枚の羊皮紙を取り出し、ベルンハルトの顔に放り投げた。
「これは……?」
「あなたの裏帳簿よ。 横領、人身売買、暗殺教唆、そして禁忌指定された古代遺物の私的流用。……『遺品商会』の情報網を舐めないで」
リリアナはホールにいる貴族たち、そして王に向かって声を張り上げた。
「皆様! これが宰相ベルンハルトの正体です! 彼は国を守るためではなく、私欲のために法を犯し、娘である私さえも使い捨ての駒にした。 ……さあ、彼をどう裁きますか? 国王陛下!」
玉座の上の国王が、青ざめた顔で立ち上がった。 もはや、言い逃れはできない。 これだけの証拠と、衆人環視の中での敗北。 ベルンハルトの権威は、砕け散った時計と共にゴミ屑と化した。
「ええい、者共! ベルンハルトを捕らえよ!!」
国王の叫び声に、近衛騎士たちが我に返り、主を変える早さでベルンハルトを取り押さえる。
「は、離せ! 私は宰相だぞ! この国は私がいないと……!」
「往生際が悪いわよ、父様」
リリアナは連行されていく父親の背中に、別れの言葉を投げつけた。
「冷たい牢獄の中で、一生かけて『計算間違い』の答え合わせをなさい」
***
「……ま、待ってくれ! リリアナ!」
全てが終わったかと思われた時、情けない声が響いた。 王太子アルフレッドだ。 彼は震えながら、玉座の影から這い出してきた。
「わ、私は騙されていたんだ! ベルンハルトに脅されて……そ、そうだ! 婚約破棄は撤回する! リリアナ、君こそが私の真の婚約者だ! だから……」
リリアナは溜息をつき、俺を見た。 その目は「撃っていい?」と語っていたが、俺は首を横に振った。 弾がもったいない。
彼女はアルフレッドに向き直り、にっこりと――背筋が凍るような美しい笑みを向けた。
「殿下。……鏡をご覧になったことは?」
「え?」
「今のあなたは、スラムのドブネズミよりも惨めですわ。 私のパートナーになれるのは、魂の気高い方だけ。……二度と私の前に顔を見せないで」
リリアナは踵を返し、俺の腕を取った。
「行きましょう、グレイ。ここは空気が悪いわ」
「ああ。……帰ったら、追加料金を請求させてもらうぞ。タキシードが台無しだ」
俺たちは静まり返る舞踏会場を背に、王城の出口へと歩き出した。 誰も止める者はいなかった。 恐怖ではない。畏敬の眼差しが、二人の背中に注がれていた。
外に出ると、夜風が心地よかった。 空には二つの月が輝いている。 俺は懐から煙草を取り出し、今度こそ火をつけた。 深く吸い込み、紫煙を吐き出す。
「……終わったな」
「ええ。……長かったわね」
リリアナが夜空を見上げる。 その横顔からは、憑き物が落ちたような透明感があった。
「ねえ、グレイ。これからどうする?」
「さあな。元の遺品屋に戻るだけだ。……もっとも、これだけ派手に暴れちまったら、しばらくは『国一番のトラブルシューター』として依頼が殺到するだろうがな」
「ふふ、そうね」
リリアナは俺の腕に頭をもたれかけた。
「なら、再契約が必要ね。 ……これからも私の『眼』になってくれる? 最高の相棒さん」
俺は苦笑し、愛銃の重みを確かめた。 残弾10発。 まだまだ、この世界で生きていくには十分な数だ。
「断る理由はない。……ただし、紅茶の味だけは改善してもらうぞ」
俺たちは並んで歩き出した。 煌びやかな王城から、薄汚れていて、けれど自由なスラム街へと続く道を。 「鉛の理」を刻み込んだ背中には、もう誰の指図も受けない、本物の自由があった。




