砕け散った硝子の瞳
世界は、いつだって「ひび割れ」だらけだ。
私、リリアナ・フォン・アイスドルフには、物事の構造がおかしいほど鮮明に見えてしまう。 それは生まれつきの呪いのようなギフト――【解析の魔眼】。 建物の強度の不足、魔法結界の綻び、そして帳簿上の数字のズレ。 私の瞳には、それらが赤いノイズとして視界に焼き付く。
だから私は、完璧でなければならなかった。 父である宰相を補佐し、愚かな婚約者である王太子の尻拭いをし、国の行政に空いた穴を必死で埋め続けてきた。 「氷の令嬢」「可愛げのない女」。陰でそう呼ばれていることは知っていたけれど、気にしなかった。 私が支えなければ、この国というシステムは崩壊してしまう。そう信じていたから。
けれど、それは私の傲慢だったらしい。
***
貴族たちの集まるパーティー。 シャンデリアの煌めきと、着飾った貴族たちの嬌声。 その中心で、私は断罪されていた。
「リリアナ! 貴様の悪逆非道にはもう耐えられない! 今この時をもって婚約を破棄する!」
王太子アルフレッドの声がホールに響く。 彼の腕の中には、最近現れた男爵令嬢が震えるふりをして抱きついている。 私は、扇で口元を隠しながら、冷静に彼を見つめた。 ……ああ、見える。 彼がつけている最高級の『調律器』。その向こう側にある魔力の乱れ。 彼は今、興奮と優越感に酔っている。
「悪逆非道、とは何のことでございましょうか」
「白々しい! 聖女ミシャへのいじめだけではない、公爵家の予算を横領し、それを裏社会へ流していただろう!」
どっと、会場がどよめく。 横領? 裏社会? 違う。それは私が数日前に見つけた、アルフレッド殿下の側近たちが関わっている「人身売買」の証拠だ。 私はそれを告発しようとしていた。彼らは、その罪を私になすりつけたのだ。
「証拠はこれだ!」
投げつけられた書類。私の筆跡を精巧に真似た、偽造された帳簿。 私は溜息をつきかけた。
「殿下、その帳簿の魔力インクの波長を確認してください。私の署名の部分だけ、明らかに後から――」
「黙れ!」
怒鳴り声と共に、頬に鋭い痛みが走った。 ぶたれたのだと気づくのに数秒かかった。 床に倒れ込んだ私を見下ろす、かつての婚約者の歪んだ顔。
「お前はいつもそうだ。理屈、理屈、理屈! 可愛げのかけらもない! ミシャを見習ったらどうだ!」
私はゆっくりと視線を巡らせた。 会場にいる父――宰相の方を見る。 父は、私と目が合うと、ふいと顔を背けた。 ……ああ、そうか。 父にとっても、可愛げがなく、優秀すぎて自分の地位を脅かす娘よりも、次の王妃となる聖女に媚びを売るほうが「利益」があるのだ。
私の【魔眼】が、会場中の貴族たちの敵意を赤い警告色として映し出す。 ここには、味方は一人もいない。 私が守ろうとしてきた「法」も「正義」も、彼らの欲望の前では紙切れ同然だった。
***
その日のうちに、私は国外追放を言い渡された。 着の身着のまま、粗末な馬車に乗せられて。
土砂降りの雨だった。 国境へ向かう森の中で、馬車が止まったのは必然だったのかもしれない。 「盗賊だ!」という御者の叫び声。けれど、襲ってきた男たちの剣捌きは、明らかに正規の騎士のものだった。 私の口封じ。これですべてが終わる。
「お嬢様、逃げてください!」
唯一ついてきてくれた老侍女のマーサが、私を庇って立ちはだかった。 鈍い音。噴き出す鮮血。 私に「生きろ」と言い残し、彼女は泥の中に沈んだ。
私は走った。 ドレスの裾が泥にまみれ、森の枝が肌を切り裂くのも構わずに。 雨と涙で視界がぐしゃぐしゃだった。 悔しかった。悲しかった。 けれど、それ以上に――許せなかった。
私が信じた正義を笑った彼らが。 私を利用し、捨てた父が。 私を愛してくれたマーサを殺した理不尽な世界が。
(法では裁けない。正義では勝てない)
森を抜け、眼下に広がる巨大都市の灯りが見えたとき、私は足を止めた。 そこには、きらびやかな王都の光とは違う、どす黒く澱んだスラムの闇が広がっていた。
私は短剣を取り出し、腰まであった自慢の銀髪を、乱暴に切り落とした。 泥を顔に塗り、血でドレスを汚す。 もう、公爵令嬢リリアナは死んだ。
私は【魔眼】を開く。 街の構造、人の流れ、魔力の薄い場所――すべてを解析しろ。 生き延びるために。復讐するために。 私には力がない。だから、「力」を買わなければならない。 どんなに汚れた、忌まわしい「暴力」であっても構わない。
「……待ってなさい」
雨音に紛れて、私は呪詛のように呟いた。
「私のすべてを懸けて、あなたたちを地獄へ叩き落としてやる」
私は泥濘んだ坂道を下り始めた。 光の当たる場所へ戻るためではなく、最も深い闇の底へ。 そこに、私の復讐を叶える「怪物」がいるという噂だけを頼りに。




